摂 津 四 天 王 寺 五 重 塔

摂津四天王寺五重塔

摂津四天王寺五重塔概要

推古天皇元年(593)創建。(初代)
承和3年(836)雷火により破損。その後再興(2代目)。
天徳4年(960)承和再興塔焼失。その後再興(3代目)。
天正4年(1576)織田信長の軍の放火により焼失。
慶長5年(1600)豊臣秀吉大和額安寺塔移建再建(4代目、文禄3年着手)。
 ※2003/8/22追加:「昭和の木造五重塔(追加編)」吉田実(史迹と美術 69(3)、1993.03 所収)
 「文禄3年(1594)秀吉四天王寺再興に着手、五重塔は大和額安寺(熊凝精舎)五重塔の移建を企図、秀吉没後秀頼代の慶長5年(1600)額 安寺塔が移建される。額安寺は天正8年の信長検地で寺領没収され、秀吉には戦乱の荒廃で僅かに残った五重塔の供出という条件で寺領1町を与えられたという。この塔は鎌倉以前の古塔であったと推定される 。」
  → 大和額安寺
慶長19年(1614)大阪冬の陣で五重塔焼失。徳川秀忠元和9年(1623)再興(5代目)。
 ※2003/8/22追加:「昭和の木造五重塔(追加編)」吉田実(史迹と美術 69(3)、1993.03 所収)
 「元和再興塔模型とされる小塔が四天王寺に残存する。(四天王寺大工金剛伝右衛門作と伝える)
金剛家伝来『五重塔構造規模記録』によると
2丈5尺四方、堂3間、屋根瓦葺、軒廻り惣裏板、極彩色丸柱大枓肘木造り、大輪長押、腰長押、地覆長押、四方石縁、・・・縁高さ3尺3寸、軒高1丈6尺5寸、軒より露盤まで9丈2尺、惣合14丈7尺(44.5m)。江戸関東風と思われる。」

亨和元年(1801)元和再興塔雷火で焼失。文化9年(1812)再興・落慶(6代目)。
昭和9年文化再興塔室戸台風で倒壊。ただちに再建(昭和15年、7代目)。
 ※2020/02/16:これまで拙ページでは、7代目塔婆を昭和16年再興として標記してきたが、落慶は昭和15年であるので、昭和16年再興塔という表記を昭和15年再興塔として標記を訂正する。
昭和20年、昭和15年再興塔空襲で焼失。
昭和34年再建(鉄筋コンクリート・耐震構造、8代目)

再興塔 一辺 総高 塔身長 相輪長 基壇 屋根
元和再興塔 25尺(7.6m) 147尺(44.5m) 92尺 55尺 四方石椽、塗立石外廻り 瓦葺
文化再興塔 24.5尺(7.4m) 155尺(47.8m) 117尺 38尺 壇上積基壇高:3尺 瓦葺
昭和15年再興塔 . 137.7尺(41.7m) 97.7尺 40尺 二重基壇高:6.7尺 瓦葺
昭和34年再興塔 7.5m 122.27尺(37m)
基壇を含めば39m
81.68尺 40.59尺 二重基壇高:7.2尺 瓦葺

中世の四天王寺五重塔:3代目塔婆

2003/10/17追加:
絵伝は正安元年(1299)鎌倉後期の成立というから、天徳4年(960)に焼失塔が再興された3代目塔婆の姿なのであろう。
 □一遍上人絵伝(巻2)
 □一遍上人絵伝(巻8)
 □一遍上人絵伝(巻9)・・・いずれも中世の姿を描画したもの。


慶長5年(1600)4代目塔再興

2013/08/04追加:
○「四天王寺の慶長再建について」木村 展子(「美術史論集 (9)」2009-02 所収) より
 ◇四天王寺創建は飛鳥期で、五重塔・金堂・中門が建立され、奈良期に講堂と回廊が建立されたと出土瓦より判明する。
承和3年(836)雷火で塔が破損、
天徳4年(980)火災で伽藍全焼、
康安元年(1361)地震で金堂が倒壊
嘉吉三年(1443)太子殿・御影堂・回廊・三昧堂・鎮守社などが焼失、
応仁・文明の乱で、大内氏の軍勢によって放火される。
天正4年(1576)大坂石山本願寺と織田信長との石山合戦で伽藍焼亡、
その後、豊臣秀吉・秀頼によって再建、
慶長19年(1614)大坂冬の陣で灰燼に帰す。
元和9年(1632)徳川秀忠により伽藍再興、
享和元年(1801)雷火で五重塔、金堂をはじめ主要な堂字焼失、
文化10年(1813)大坂白銀町町人淡路屋太郎兵衛が中心となって広く勧進し伽藍の再興なる。
昭和9年室戸台風により五重塔と中門が倒壊、金堂は大破、
昭和15年五重塔・中門・東西回廊が落慶、
昭和20年大阪大空襲により五重塔・金堂・講堂・太子堂などが焼失、
昭和25年からの第一期事業で、太子殿・英霊堂・北鐘堂・南鐘堂・東西楽舎などが落慶、
昭和31年からの第二期事業で、五重塔・金堂・講堂・中門・東西回廊などが再建、第三期事業で聖霊院全体が復興する。
 ◇天正の焼亡と豊臣秀吉の再建着手
天正4年(1576)織田信長は石山本願寺と合戦し、四天王寺の伽藍に放火、寺領を没収と伝える。
「天王寺誌」では「織田信長放火伽藍、開所寺領」、「秋野家譜」では 「織田信長公放火于伽藍、没収寺領」と記す。
一方、「義演准后日記」(醍醐寺三宝院の義演の日記)慶長4年11月15日の条では「前年一向衆信長卿度々及合戦、于時為一向衆不残一宇焼払了」と記す。
 ※義演は信長ではなく本願寺側の放火と記す。
この時の再興史料として、いくつかの秀吉の朱印状やその他の文書が四天王寺に残るが、再興伽藍の様子は「四天王寺造営目録」が残る。
「四天王寺造営目録」(四天王寺蔵)
 天王寺惣寺中
 千          木のかみ
 一、金たう いま一ちうあけ申度候
 二五百   但二けんま
 一、かうたう 五けん七けん きのかみ
 二五百
 一、御太子たう 一のかみ
 二五百    二けんま はりま
 一、六したう 六けん七けん
 千          同
 一、志きたう 三けん七けん
 
三千 五千石
 一、たう 三けん四はう もく

 千         一のかみ
 一、二わうもん 五けん二けん
 千
 一、南大もん 五けん はりま

 一、西もん
 ・・・・・・

 千
 一、まんたういん 五けん々 きのかみ
 五百
 一、しゆろ   もく
 千
 一、くもんしたう   一のかみ

  ※「四天王寺造営目録」は年紀不明、金堂・講堂・太子堂・六時堂・食堂・五重塔・仁王門・南大門・西門・万塔院・鐘楼・求聞持堂の
  12棟について、再建に必要な費用(石高)と担当奉行について記す。
  ※金堂・講堂・万塔院の奉行「きのかみ」は、青木近重、浅野長政あるいは青木一矩、「もく」は石田正澄(石田三成の兄)、
  「はりま」は小出秀政、「一のかみ」は片桐且元である。
  ※金堂の条にある「いま一ちうあけ申度候」という意味は、その当時すでに単層で建立されていた金堂を重層に変更するということで
  あろうと推測される。であるから、金堂は1000石の造営費で済むと考えられたのであろう。
この時の五重塔と額安寺塔(ぬかたへの塔)との関係は以下の朱印状が残る。
「豊臣秀吉朱印状」(四天王寺蔵)
 平群郡ぬかたへの/塔被為取候然者/当国之人足家並/申付石田木工申次第/罷出ぬかたへより/天王寺迄一帰持届/
 即石田木工頭二可相/渡候也
  七月十日 (朱印)
    和州 代官給人中

なお、大和興福寺寺中多聞院の「多聞院日記」の四月四日の条では、天正17年(1589)「天王寺五重塔関白殿ノ北政所ヨリ可有建立トテ、法隆寺ノ塔ノ指図写二天王寺ヨリ番匠来云々」とあると云う。
つまり、五重塔は法隆寺塔を参考に新造するつもりであったと分かる。
一方、「四天王寺造営目録」で記す五重塔の費用が、5000石と突出し、これを額田部から移建するための費用と考えるには高額すぎ、これは新築費用とみるべきである。
額田部額安寺からの塔の移建は、その後秀頼の時代になってから実現しており、塔は移建ではなく新築される予定だったのである。
 ◇豊臣秀頼の四天王寺再興
慶長3年(1598)豊臣秀吉逝去、嫡子豊臣秀頼は秀吉の遺業の継承として秀吉が着手していた寺社の再興を引き続いて行う。
四天王寺の再興事業も秀頼に受け継がれ、慶長5年(1600)落慶供養が執り行われる。
 ◇堂字の規模などに関する文献・絵画資料
以下がある。
古代:「大同縁起」(804)<「太子伝古今目録抄」に引用される>、「四天王寺縁起根本本」 (寛弘4年/1007頃、国宝、四天王寺蔵)、
中世:「一遍聖絵」(正安元年/1299 十二巻 国宝 清浄光寺・歓喜光寺蔵)、
近世:慶長再建時には「四天王寺造営目録」、
元和再建時には「天王寺御建立堂宮詣道具改渡帳」(元和9年1623、四冊、四天王寺蔵)、「愚子見記」(十七世紀後期)、「摂津名所図会」、「四天王寺元和再興絵図」(一幅、四天王寺蔵)、「摂津国四天王寺図」(三幅、四天王寺蔵)、
文化再建時には「堂社井寺院 新吉建物間数書」(一冊、四天王寺蔵)、「四天王寺諸堂間数書」(一冊、四天王寺蔵)、写真などがある。


徳川秀忠元和再興塔:五代目塔婆:亨和元年(1801)焼失
 

徳川秀忠再興塔:左図拡大図

「摂津名所圖會」寛政8−10年(1796-1798)刊(部分図)
記事:「五重宝塔(金堂の南にあり。もとこの宝塔は和州額田部村額安寺にあり。一説、同国黒田勝楽寺ともいふ。
慶長中再営の時、台命によつて引き移すところなり。層毎に雲水の彫物あり。ゆえに世に雲水塔といふ。
釈迦画像、四天王木像、八祖画像安置す。」

「摂津名所圖會」(全図)

「摂津名所圖會」では圖繪で描く五重宝塔は
大和額安寺塔婆の移建であるかのような書き方である。
しかし圖繪の成立年から本宝塔は秀忠元和再興塔
と判断できる。

2004/02/01追加:
四天王寺元和再興塔模型(右図拡大)
<四天王寺蔵、写真は「四天王寺図録 伽藍編」から転載>

2003/8/22追加 :「昭和の木造五重塔(追加編)」吉田実 より
元和再興塔模型とされる小塔が四天王寺に残存する。
大工は四天王寺大工金剛伝右衛門作と伝える。

昭和10年の撮影とされる。
戦後の混乱で展示が出来ないほど破損が進み、現在は倉庫に収納していると云う。

2004/02/01「四天王寺図録 伽藍編」より:
この模型の作者は金剛傳右衛門と伝えられる。
 (ゆえに元和再興塔模型と思われる。)
金剛家所蔵文書では元和再興塔の法量は以下とする。
 2丈5尺四方、堂3間、屋根瓦葺、軒廻り惣裏板、
 極彩色丸柱大枓肘木造り、台輪長押、腰長押、地覆長押、
 四方石椽、塗立石外廻り、葛石扣キ土、椽高サ3尺3寸、
 軒高サ1丈6尺5寸、軒より露盤迄9丈2尺、
 惣高14丈7尺
 ※総高44.5m、一辺7.6m。


紀州往還見取絵図(寛政年中(1789-1801)編修)に見る四天王寺
 

紀州往還見取絵図:下図拡大図

※絵図の編集年と若干辻褄が合わないが、
おそらく享和元年の焼失後の荒廃した四天王寺伽藍絵図と思われる。

この大火では五智光院ほかわずか8棟のみが残る。

2003/10/4追加:
 四天王寺屏風絵(「古寺をゆく 24 四天王寺」から転載)・・部分図
  ※この屏風の年代は<江戸期>とあるが、不詳につき、いつの時代の五重塔かは不明。

2020/02/16追加:
新撰増補堂社仏閣絵入諸大名御屋敷新校正大坂大絵図
  内容年代:元禄4年(1691)
 新撰増補堂社仏閣絵入諸大名御屋敷新校正大坂大絵図
元禄4年の繪圖というから、元和再興五重塔の建つ繪圖であろう。
南大門のさらに南に庚申堂(奥之院)が、西北(図に向かって左上)に勝鬘院(多宝塔)が描かれる。


文化9年再興塔:六代目塔婆:昭和9年倒壊

2003/8/22追加 :「昭和の木造五重塔(追加編)」吉田実 より
 文化10年(1813)の再興とする。(相輪宝珠の刻印による)
 五重塔20分1の立面図(金剛広目是氏図の署名あり)が残されている。
 主要寸法は
 壇上積基壇高:3尺、基壇上塔身高:117尺、相輪長:38尺、基壇上塔総高:155尺(47.8m)、初重巾:24.5尺
 組物は元和塔の雲水造りが採用された。
 文化再興塔は昭和9年の室戸台風で倒壊する。
 この日午前8時瞬間最大風速60mに煽られて中門が倒壊し、
 揺れていた五重塔は10数分後二重目から折れ腰砕けになって金堂側に倒壊する。

2020/02/24追加:
日下部金兵衛撮影

 摂津市天王寺伽藍
      左図拡大図

明治初頭の撮影と推定される。
軒下の細部などが分かる極めて鮮明な写真である。



2014/08/08追加;
「四天王寺圖録 伽藍編」天沼俊一、四天王寺、昭和11年 より
 明治初年四天王寺南門前:杉浦文楽堂所蔵、明治初年とは明治初頭のことで、明治5年と伝わる写真である。
写る石燈籠は一対であり正面「奉献照夜燈」、側面に安永5年の年紀があり、現在は中門前に移される。南門前の電車道は大正12年竣工。
 明治初年四天王寺西門前:茶店の看板は「でんがく上さけ」とある。写る宝篋印塔は安政4年の年紀で原位置に現存するが建物の陰になっている。また「ぽんぽん石」(鼓石)も写る。なお、鼓石は今、「大日本佛法最初四天王寺」の石碑が建てられ、影が薄くなっている。

明治初頭の塔婆:下図拡大図

五重塔 ・金堂:上記の原図:原図拡大図

明治初頭の四天王寺:下図拡大図

2022/07/03追加:
○「別冊 歴史読本 古写真にみる幕末・明治」新人物往来社、昭和62年 より
横山松三郎撮影文化再興五重塔
 横山松三郎撮影文化再興五重塔
明治5年撮影と思われる。下に掲載のように、横山松三郎は明治5年壬申検査に同行している。その時の撮影であろう。
横山松三郎
天保9年(1838)〜明治17年(1884)、択捉島で生誕し、47歳で逝去。
幕末・明治初頭には写真術を取得していた。
明治5年(1872)5月から10月まで、町田久成、蜷川式胤らが伊勢・名古屋・奈良・京都の古社寺・華族・正倉院の宝物を調査した『壬申検査』に同行する。

2003/10/04追加:
明治20年後半〜30年前半撮影(「古寺をゆく 24 四天王寺」から転載)
 摂津四天王寺伽藍:下図拡大図:文化再興塔
  

2007/08/30追加:
「日本之名勝」瀬川光行編、東京:史伝編纂所、明治33年 より
 文化再興五重塔133

2007/08/30追加:
「近畿名所」高木秀太郎、神戸:関西写真製版印刷、明36年 より
 文化再興五重塔131   文化再興五重塔132

2006/12/16追加:
「敷島美観」小泉墨城編、東京 帝国地史編纂所、明治38年10月 より
 四天王寺(M38年本 「敷島美観」):文化再興塔

「浪花名勝」明治43年 より
 文化再興五重塔135

2007/08/30追加:
「日本名勝旧蹟産業写真帖」西田繁造編、横浜:西田耕雲堂、明治45年 より
 文化再興五重塔134

2007/04/27追加:JIT(日本画像行脚)様より
「日本写真帖」明治45年、ともゑ商会 より
  文化再興四天王寺2:少なくとも明治45年以前の撮影

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2009/07/25追加:
「日本,土地及び日本人の描写/Japan : Skizzen von Land und Leuten : mit besonderer Berucksichtigung kommerzieller verhaltnisse」
 エクスナー/Exner, A. H.」 より
  文化再興五重塔137
「極東,すなわち近代日本と東洋,におけるアメリカ合衆国/The United States in the Far East, or, Modern Japan and the Orient」
 ハバード/Hubbard, Richard B. より
  文化再興五重塔138
「日本での生活と冒険(日本滞在記)/Life and adventure in Japan」クラーク/Clark, Edward Warren, b. 1849  より
  文化再興五重塔139
「日下部金兵衛」撮影:明治初頭
  文化再興五重塔金堂140
「国もとへの手紙:9カ月間のアメリカ,日本,中国,海峡植民地,セイロン,インド,エジプト,聖地などの旅行 第2巻:日本/Letters written home : during a nine months tour in America, Japan, China, Straits Settlements, Ceylon, India, Egypt, the Holy Land etc. vol. 2: Japan
 ベーカー(ベイカー)/Baker, Fred
  文化再興五重塔141

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2008/12/31追加:
「大阪府写真帖」大正3年 より
 文化再興五重塔136

大正期の塔婆
  

2007/04/27追加:JIT(日本画像行脚)様より
「四天王寺図録」? より
  大正6年の四天王寺五重塔大修理状況:但し、写真の典拠、文化再興五重塔修理写真ということの真偽など検討を要する。

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撮影時期不明(文化9年再興塔)

撮影時期不詳

撮影時期不詳

2005/12/03追加:撮影時期不詳
「写真集 明治大正昭和 大阪 上巻」 岡本良一編、国書刊行会、1985.11
「写真集 明治大正昭和 大阪 下巻」 島田   清編、国書刊行会、1986.1  より

文化再興五重塔:下図拡大図

四天王寺景観:下図拡大図 :文化再興塔

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2007/04/27追加:JIT(日本画像行脚)様より

「日本地理風俗体系」9近畿地方(下)、新光社、昭和6年 より
  文化再興四天王寺:左図拡大図

○「四天王寺圖録 伽藍編」天沼俊一、四天王寺、昭和11年 より

2014/08/08追加:
昭和8年四天王寺伽藍:被災直前の四天王寺伽藍である。左図は部分図である。

2004/02/01追加:
 四天王寺文化再興伽藍: 部分図:昭和8年撮影:左図拡大図



2014/08/08追加:
罹災前四天王寺五重塔:撮影時期の明示はないが、罹災直前の昭和8年頃の撮影と思われる。左図は同一の写真である。

 四天王寺文化再興五重塔:左図拡大図:上図と同一の写真である。

2005/12/03追加:
「日本建築史図録・桃山江戸」天沼俊一、星野書店、昭和12年 より
 
四天王寺五重塔:天沼俊一所有写真と思われる。
  左記の「四天王寺図録 伽藍編」:四天王寺文化再興五重塔:
  と同一の写真であろう。

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2006/10/18追加:絵葉書:文化再興塔

本人s_minaga蔵・絵葉書
 四天王寺文化再興塔1:左図拡大図
 四天王寺文化再興塔2

2012/04/28追加:
何れも絵葉書
 (大阪名所)四天王寺・五重塔
 四天王寺四重門と五重塔:上掲「写真集 明治大正昭和 大阪」 国書刊行会 の写真と同一
 大阪四天王寺

2017/01/09追加:s_minaga蔵
本絵葉書の形式は通信欄の罫線が3分の1であり、また「きかは便郵」とあるので、明治40年4月〜大正7年(1918)3月までのはがきであると分かる。
さらに、本はがきは使用済で、1銭5厘の菊切手が貼ってあり、45.3.1の消印がある。
これは明治45年の使用であり、従って本はがきの製作は明治40年4月〜明治45年の間であろう。
 四天王寺文化再興塔3


 ■
文化再興金堂:昭和9年の台風では五重塔倒壊で屋根を葉損、北側に傾く。直ちに復興するも、空襲で焼失。

 ■聖徳太子殿:前殿を聖霊殿、後殿を宝殿と称する。 昭和20年空襲で焼失。

 ■鐘    楼:明治39年建立、高さ12間8間四方、鐘は高2丈6尺・周囲5丈4尺・口径1丈6尺・重量42000貫と言う。
  ともに最大の規模であった。 昭和20年空襲で焼失。

 ■義経鎧掛の松:西大門の内側北にあったが枯れ死。五重塔は姿から文化再興塔と思われる。

 ■六 時 堂:桁行13間梁間9間(但しこれは実寸の表記)、元和再興堂で、現存する。

 ■鳥居・西大門・五重塔:塔は文化再興塔と思われる。

2014/09/02追加:
「大阪春秋 43号(特集:聖徳太子と四天王寺)」大阪春秋社、昭和60年 より
○攝津國四天王寺圖
 攝津國四天王寺圖;四天王寺蔵、年代不詳であるが、江戸期しかも後期のものと推定される。
○佛法最初四天王寺伽籃略圖
 佛法最初四天王寺伽籃略圖:明治34年印刷
本図の北西隅に乾門があり、その南に門があり、西ノ門と注記されるがこれは中之門の誤りであろう。
明治期の四天王寺西側の様子については以下の情報がある。
 江戸期の四天王寺の四周は、火除地として、幅50間から80間竹藪に取り囲まれていたという。
明治前期の四天王寺西側・中之門外は、旧熊野街道筋から約100mの間、両側が土堤であり、一帯の松並木であったという。
そして、中之門の南方には小さな池があり、亀遊島弁天が祀られていた。
明治30年頃、火除地としての竹藪を、四天王寺北西から西門の鳥居前まで、切り開き道を造り、椎寺町と称したという。
四天王寺西北には今も乾門(明けず門)が現存する。その中は墓地で正面に元三大師堂がある。その元三大師堂参道北側に戦後まで椎寺薬師堂があったという。
椎寺薬師堂はこの付近に椎の大木があり、弘仁年中伝教大師がその木で薬師如来を刻み、本尊としたと伝える。
椎寺薬師堂は元和年中に再建され、文化8年(1811)に 六時堂として移建される。元和再建時は方5間堂であったが、文化8年の移建の時、桁行7間に改造し、前面の1間を吹放ちとする。亨和元年(1801)の火災及び昭和20年の空襲にも焼失を免れる。
 なお、文化8年椎寺薬師堂は六時堂として移建されるが、椎寺薬師堂は昭和20年の戦災で焼失した万燈院跡に移建され、戦後まで椎寺薬師堂はあったというから、文化8年の移建後、椎寺薬師堂は再度建立されたものと思われる。再建護の薬師堂の位置が元三大師堂参道北側であったということであろう。(現在の万燈院は椎寺薬師堂であったという。)

2020/02/16追加:
〇「四天王寺の建造物」竹原吉助(「佛教藝術」Vol.56:特集・四天王寺、毎日新聞社、昭和40年 所収)
 六時堂
寺誌(元禄頃)には「六時堂 堂は食堂之前に在、弘仁7年建立、六時勤行勤云々」とあるのが初出である。
六時堂も度々被災し、現在の建物は、元和年中に造営された建物が享和元年の雷火におよって焼失したので、寺内の北西隅にあった椎寺の薬師堂を移築し、一部改造して仮堂にしたものである。
薬師堂を六時堂に移築したことについては、「四天王寺焼失堂社再建並仮建焼残候堂引移之箇所」天保11年7月にある。
大意は
六時堂が享和元年に焼失、仮堂を建てるも破損しその上狭い、しかし再建には多額の費用を要する。一方椎寺薬師堂は大破しているが、柱などは大丈夫であるから、これを六時堂に移建し桁行を左右に3間広げ、修理を加える。
一方、薬師堂については、文化8年、六時堂へ引移の後、仮堂を建てる。なお、六時堂が再建された際には、再び旧に引直す予定である。
天保13年と推定される「寺社並寺院類新古建物間数書 寅7月」では
 一、六時堂
   桁行 京間 13間5尺7寸 梁行 京間 9間1寸8寸/但二手先造、屋根瓦葺、丹塗、元和9年建立
 一、享和4年焼失に付
   仮堂 桁行 京間 11間2尺 梁行 京間 8間/但出組三手先造、丹塗、屋根瓦葺
 一、文化8未年10月椎寺薬師堂当分引移
   但在間数に而は法要の節、御手狭差支少々にあらず、桁行3間4尺5寸相増修復相加たし旨願い奉る、引直申候
とある。
これが、現在の六時堂である。


2019/11/23追加:
文化再興塔に関する文献
文化再興塔に関する文献には次がある。
 ※本文献については、朝日放送テレビの木戸崇之氏より取材の協力要請があり、その過程で木戸氏より教示を受けたものである。
これらは国立国会図書館のWebで公開(○印文献)されている。
 ※これらの文献から判明することを要約すれば、次のようなこといえる。
 A)明治の始め頃から五重塔には一般人が上れたようである。
 明治維新後の廃仏で四天王寺も困窮し、多くの寺宝が売却されたというので、少しでも収入を得るための措置であったのかも知れない。
 B)心柱は江戸期の流行?であった、吊り下げ法式であった。
 C)軒は垂木を使わず、いわゆる「板軒」の構造であった。
  (参考)
  板軒の構造を持つ塔婆の遺存はごく少数である。
  著名なのは、下総成田山(新勝寺)三重塔であろう。
            成田山三重塔初重見上     新勝寺三重塔二重見上図     成田山三重塔三重見上
  その他は小塔ではあるが、屋外に立つ陸奥普門寺三重小塔の二重目がある。
  すでに退転した塔では、詳細は不明であるが、陸奥應物寺五重塔がある。板軒の部材が遺存する。(雲図文様横板2
   因みに、應物寺五重塔は倒壊前までは日本最小の屋外木造五重塔と云われたと云う超小型塔婆である。
  残念ながら、大正2年暴風雨により倒壊、そのまま腐朽に委かせ現存はしない。
  つまり、現在風のよる倒壊した塔婆としては、應物寺五重塔・本四天王寺文化再興五重塔の2例が知られるが、その内の一つである。

○「京阪名所図絵」野村芳国、明治18年 より
 大阪四天王寺之風景:全図     大阪四天王寺之風景:部分図
 ※明治18年には既に各重に参詣人が塔に登っている繪圖が描かれる。
 勿論、繪圖であり写真ではないので、確実性にはやや欠けるも、すでに明治初期には塔に一般人が登れるようになっていたものと思われる。

○「四天王寺由緒沿革記」大久保好、明治26年 より
 「五重塔:
 ・・・塔の基礎三間五尺四方、高二十四間三尺あり、毎層雲水形を彫り垂木は象頭を刻めり、塔内釋迦畫像及び四天王の木像を安置す、これが層上に登る恰も雲形に出て天外に在るの想日あり、瞰したすれば精神悚然寒からざるに肌に粟し、四望すれば巨観に名ある大阪城も弾丸よりも尚小に、廣大に誇れる大阪市街も蝸蘆より尚狭し、・・・風景佳絶又妙絶なり」
 ※記述から、明治26年には一般人が塔に登れたものと推定される。
 ※根拠は不明であるが、塔の基礎(初重一辺か)3間5尺=23尺、高さ(総高か)は24間7尺=147尺とあり、本ページに示す「五重塔法量」と比較すべし。
 ※軒は板軒であるような記述がある。

○「京阪名所案内」白土幸力、明治37年6月 より
 「・・・・有名なる五重塔は其(金堂)南に在りて、釋釈尊以下諸佛の像を安置せり、塔上に登って、千里の目を極むれば、大阪大都は申すに及ばず、摂河泉の風光一眸の中に落つ、・・・」
 ※既に、一般人が登階できたと思われる。

○「四天王寺と大阪」生田南水、明治43年3月 より
 五重塔:
 仁王門の正北にあり三間五尺四方にして高さ二十四間三尺五層の上に登りて眺望することを得べし和州額田寺の古式にして層毎に垂木を用ひず雲水の彫刻を施せり故に世に雲水塔と称す塔の中心には巨大の柱木を頂上より吊り下げて安定の平準を取れり・・・・内部には釋迦の畫像及び八祖畫像四天王木像等を安ず。」
 ※既に、一般人が登階できたと想起される。
 ※軒は雲水の彫刻を施した「板軒」とし、これは大和額田寺の古式とするが、額田寺の古式か踏襲するかどうかは、検討を要する。
 ※塔の法量は「四天王寺由緒沿革記」を踏襲すると思われる。

○「最近の大阪市及其附近」大久保透、明治44年9月
「・・・・有名なる五重塔は其(金堂)南に在りて、釋釈尊以下諸佛の像を安置せり、塔上に登って、千里の目を極むれば、大阪大都は申すに及ばず、摂河泉の風光一眸の中に落つ、・・・」
 ※これも、既に一般人が登階できたと想起される。

○「大阪府写真帖」大阪府、大正3年 より
 四天王寺五重塔:文化再興塔、全図
 四天王寺五重塔:文化再興塔、部分図:左図拡大図

 ※写真5重目四隅下左右には、おそらく金網が張られていたのであろうか、
 その金網の四隅のワイヤーが写る。
 ※容易に塔内に入れる為であろうか、初重中央間の扉は取り外されているか
 あるいは開扉されているように見える。

      
○「大阪四天王寺案内誌」大正12年 より
 大阪四天王寺畫:当時の四天王寺境内図である。
「垂木のない五重塔:
 此の塔は珍しいことには垂木を一本も用ゐずに造り上げてゐる。俗に雲水の塔と称するのもその部分に雲と水を巧みに彫刻されてゐるからであらう。・・・・・四天王寺塔は徳川期をよく代表するもので屋蓋急で軒先の短いのは全く古代のものと異にしてゐる。・・・・・
高さは十四丈七尺であるから天平創建の東大寺塔の半分にの足らぬものである。塔の中心柱を四面となし釋迦や大日如来の佛畫を以ってしたるは天平式を示してゐるが實は中心柱の手法は徳川式であつて、即ち巨大の木材を頂上より釣り下げてゐる。而してその柱は土中の井の中に這入ってゐるのである。これは建築上最も新保した手法によって之に依て塔の安定を保ってゐる。
現在塔の上層五重塔(目であろう)迄一般の人に登らせてゐるが投身を防ぐ為に特に金網が張られている。」
 ※塔五重目には投身防止の金網が張られる。
 ※軒は板軒であった。
 ※心柱は吊り下げ式であり、それは初重を貫き、「土中の井の中」に這入るという。これについては、文化再興の心礎が「井」の上にあり、果たしてその通りであるのかどうかは良く分からない。何れにしろ、吊上げ式のため、心柱は心礎と非接触であったと思われる。
  → 下に掲載の四天王寺塔心礎の項を参照
 ※高さは十四丈七尺=約24間であり、ほぼ前出の文献の高さと同じである。

2020/02/16追加:
◇「四天王寺と美術」内藤藤一郎、昭和10年6月 より
 倒壊前の四天王寺伽藍
 四天王寺五重塔:昭和9年9月21日倒壊
五重目にはっきりと金網を保持したワイヤーがはっきりと写る。

2020/12/08追加:
「江戸参府紀行」シーボルト、文政9年(1826)
勝尾氏より、次の情報を頂いたので、ご紹介をする。
 ※勝尾氏:下に掲載の「昭和9年の文化再興五重塔倒壊の原因」の項にて紹介をしている。
-----------------------------------------------------
既に、江戸後期には一般人(外国人)が四天王寺五重塔に登った記録がある。
それはジーボルトであり、その著「江戸参府紀行」(東洋文庫版)の
文政9年(1826)6月10日 の条では以下のように記す。
(前略)
 我々はそれから天王寺に行く。最古の寺院の一つで非常に古い時代の神社のような建築様式である。
この寺には全部木で造った巨大な塔が建っている。ドクトル・ビュルガーと私は77の階段が通じている塔の五階までのぼった。
この建造物は、中央に建っている船の大きいマストのような非常に太い円柱(心柱という)によってしっかりと支えられているようである。
私は塔全体の高さを120フィートと見積もった。塔の上はすばらしく遠望がきき、平坦な土地を見渡すとちょうど人間がうごめいているのが見えた。一部はこの寺に参る町の人々、他は取入れに忙しい農村の人々であった。
(後略)
江戸後期(つまりは文化再興後の間もなく)には寺院関係者や営繕関係者以外の一般人といってもジーボルトは外国人の高官であったが、五重塔には一般人が容易に立ち入れるようになってはいたように推測される。
但し、以上の文面だけでは、五重塔への立入・登楼が日常的・観光事業的に実施されていたのかどうかは分からない。
しかし、もし、立入・登楼が日常的・観光事業的に実施されていたならば、常識的に考えられているように、明治36年の大阪内国勧業博覧会が決定され、四天王寺として五重塔の有料公開をこの協賛として実施したという説は覆り、江戸後期には、一般登楼者の便宜のため、桔木の取り外しなどの五重塔の改造が行われた可能性が高いであろう。
そうではなく、塔には通常営繕用の梯子は設置されていたであろうから、ジーボルトなどは、この営繕用の梯子で登ったというのであれば、江戸後期には一般人を広く塔に登らせていたいうことにはならないであろう。
いずれにせよ、シーボルトの記述だけでは、いずれとも決めかねる。
 ※ジーボルト::フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
 ※シーボルトは塔の高さを120フィートと見積もったということであるので、これは塔身の高さとすれば、かなり正確なものと云える。
因みに、120フィートは約121尺・20.1間:36.6mであり、文化再興塔の塔身は117尺と伝える。

2019/11/23追加:
四天王寺空撮古写真(新聞)
2019/11/12日付け「朝日新聞 夕刊」 にて四天王寺関連の記事が掲載される。
タイトル:<四天王寺の「空撮」 あの人のおかげ>
 山尾信義氏(流山市)から「ニッポン写真遺産」(朝日新聞社のアルバム・古写真デジタル化サービス)に、大正期、空撮したかのような四天王寺境内写真が寄せられる。
本記事には山尾信義氏寄贈写真が掲載される。
 ※山尾信義氏寄贈写真概要
 これは上述の「 大阪四天王寺畫」(「大阪四天王寺案内誌」)の部分図であるが、
 図中赤の四角で囲った範囲が山尾信義氏寄贈写真に写る範囲である。
 ※写真は 大阪四天王寺畫(「大阪四天王寺案内誌」大正12年 所収)に見える、五重塔から西大門・土塀・付属棟門、輪蔵(宝形造・南半分が写る)、参道石畳、参道を挟み輪蔵に相対する入母屋造(名称は分からない)の小宇などを俯瞰した構図である。
 では、ドローンがない時代、この写真はどこから撮影されたのか。それは五重塔しかない。
また、その当時五重塔に容易に上がれたのか。
四天王寺関係者は五重塔は遅くとも大阪で内国博覧会が開かれた明治36年(1903)には参詣者が上れるようになっていたという。
 ※それを示す文献は上述のように多く存在する。
つまり、山尾信義氏寄贈写真は容易に上れた五重塔から、西大門・輪蔵の俯瞰写真を撮ったのである。
なお、因みに現在の西大門は昭和37年(1962)松下幸之助の寄進で再建を果たすという。

2020/02/24追加:
山城法観寺五重塔(八坂塔)の状況:
 Wikipedia(法観寺)には「古い写真を見ると、最上層に金網が張っており、拝観者が最上層まで登れたことがわかる。 」との記載がある。
攝津四天王寺五重塔(文化再興塔)と同じような処置が採られ、今も公開日には二重目まで登ることができる。
※公開日は不定期であるが、現在も、公開日には初重に入り、二重目まで登ることができる。
 参考:日下部金兵衛撮影八坂塔:オランダの歴史写真の保存を行っている“Spaarnestad Photo”所蔵写真:Wikipediaより転載。

2019/11/23追加:
四天王寺空撮古写真(テレビ)
朝日放送テレビ「キャスト」にて四天王寺関連の放映がなされる。
日時:2019/11/20、午後6時50分頃
タイトル:<空から撮影された大阪の寺>
 タイトルの<空から撮影された大阪の寺>として、大正時代の四天王寺俯瞰写真、山尾信義氏提供(2019/11/12日付け「朝日新聞 夕刊」に掲載された写真)が放映される。撮られたのは「西大門(現・極楽門)、輪蔵など」である。
参道には「和傘をさした人々が写る」といい、いかにも大正期の風俗であろう。
 ※放映写真は上の項の写真と同じもので、上の掲載の山尾信義氏寄贈写真概要のイメージである。
ではこの写真はどこから撮られたのであろうか。
それは五重塔からでしか有り得ない。
しかし、それは可能だったのであろうか。
明治39年大阪勧業博覧会が四天王公園を中心に開かれる。それを俯瞰できるように、少なくともこの頃までには五重塔に上れるようになっていた。
それを示すように、五重塔五重目には転落防止の金網が張られるなどの弊害もあった。
さらに、数多くの文献資料も残される。
また、「四天王寺文化再興塔1」(s_minaga蔵・文化再興塔)には、五重目の椽に人影が写っているが、これも五重塔に上がれたことの一つの証拠であろう。
 ところで、この五重塔であるが、昭和9年9月21日室戸台風で倒壊する。
通常、五重塔が大風で倒壊した例は稀有であるが、なぜ倒壊したのかの理由は諸説ある。
1.倒壊写真などから見て、竜巻ではないか。
2.ダウンバーストが発生したのではないか。
3.シロアリに蝕まれていたのではないか。
4.広い道路が風の通り道になったのではないか
5.人為的な要因があったのではないか
 (人を登らせる為に桔木が切られていた云々を暗に示す・・・下に掲載の宮大工・山尾新三郎のメモを参照)
などがあり、現段階では確定するに至らない。

2020/02/16追加:
〇「笙の風 出口常順の生涯」出口善子、東方出版、2018 より
「帯」には「五重塔を二度再建した僧」とあり、まさにその通りで、昭和9年に倒壊した塔婆を昭和15年に、また昭和20年焼失した塔婆を昭和43年に、二度に渡り再建した僧侶であったのだ。
 昭和9年9月21日
室戸台風が襲来する。今日と違って、天気予報など、無い。
昭和10年創刊された寺報「四天王寺」には
 五重塔、仁王門全壊、金堂の一部倒壊の航空写真(大阪朝日新聞社寄贈)を掲載し、
「今回倒壊せる五重塔は文化10年の再興にして、四間四寸法、高百五十二尺の五重建築なり、軒裏を垂木を用いず雲と水の彫刻を用ふるが故に雲水の塔と云ふ。屋根は瓦葺きにして、丹、胡粉、黄土、漆等を以って極彩色を施せり。昭和9年9月21日午前8時15分大台風のため倒壊」
とある。
 五重塔は外観は五層だが、内部は各層に二重ない三重に階段が掛けられていて、全部で十二重になっている。
大人四人ががりでもとても持ちきれない賽銭箱が火を噴きながらトロッコのように西回廊まで走っていった。
午前8寺頃、轟然たる音を立てて重層の庬大な中門が塔に向かって倒れ、辺りは真っ暗になる。
南側の門が倒れたために、塔は台風に直面した。
午前8時15分、塔は忽然と姿を消し、あとは黒煙がもうもうと金堂に吹き付けているばかりであった。
 伽藍の倒壊惨状:大阪朝日新聞社寄贈
この台風で四天王寺は五重塔・中門が倒壊、金堂その他の堂宇も損傷する大被害を受ける。
貫主はただちに復興予算百万円を計上、洋行帰りの出口常順に営繕課長を命じ、伽藍復興の責任者とする。
雑誌「四天王寺」も創刊され、再建の資金を募るべく、伽藍の惨状を訴えることとなる。
当時の世情は次のようであった。
同年、日本はワシントン条約を破棄、翌年美濃部達吉の「天皇機関説事件」が勃発、軍部専横の兆しが顕著になりつつあった。
新興宗教界では、天理教は国家神道の圧力で教義を変容させ、昭和13年には大本教には解散命令が出され、昭和14年にはひとのみち教団に不敬罪容疑で結社禁止が出される。


昭和9年五重塔倒壊

文化再興塔は昭和9年の室戸台風で倒壊する。
この日午前8時瞬間最大風速60mに煽られて中門が倒壊し、揺れていた五重塔は10数分後二重目から折れ腰砕けになって金堂側に倒壊。

倒壊状況については「五重塔の風災害」嶋田健司ほか、:日本風工学会誌,第96号,pp.7-20,2003.7 所収 参照。
  ※この論文「五重塔の風災害 Wind Damage to Five-Storied Pagodas」(PDF版)を受贈・所持。(サイズ:2715KB/配布可能)

昭和9年の罹災:
 四天王寺文化再興塔倒壊1(画像は大阪府立図書館蔵) :2012/04/28画像入替
 四天王寺文化再興塔倒壊2(画像は大阪府立図書館蔵)

2004/02/01追加;
「四天王寺図録 伽藍編」 より
 四天王寺室戸台風被害空撮(昭和9年9月21日撮影)
 四天王寺室戸台風倒壊相輪(昭和9年9月21日撮影)
 四天王寺室戸台風倒壊現場(昭和9年9月21日撮影)

2008/05/21追加:
昭和9年の文化再興五重塔倒壊の原因

昭和9年の倒壊の直接の原因は上記のように「室戸台風の風圧」によるものとされる。
しかし、その蔭には「人為的要因」も潜んでいたと思われる以下の資料がある。
 ※この資料は宮大工の末裔と云う勝尾氏から提供を受く。

勝尾氏ご提供資料
 ※勝尾氏の祖父・父とも宮大工と云う。
 ※祖父は「山尾新三郎」氏であり、氏は東京中野哲学堂の設計者また片瀬龍口寺五重塔・池上本門寺に関与、日光陽明門修理とも云う。
  また祖父・父とも皇居(東京)の工事にも関わっていたらしいと云う。
 ※勝尾氏の父が亡くなられ、「父の残した若干のメモが「見つかり」、そこには四天王寺などに関する記録もあったと云う。

勝尾氏の父のメモ(勝尾氏ご提供資料):
 「天王寺の事を書いたついでに父が昭和の始め頃、天王寺へ行った。郷里へ行った歸りかと思ふ。
 天王寺で今の様に高い建物やタワーは無い。五重塔など高い建造物、寺で五重塔を開放して見物させたらしい。
 上層へ上がるに都合良くするため、はね木等の一部を取りのぞいたと私は思ふ。
 父は歸って来て大変怒っていた。あんなことをして今に塔を倒してしまうぞ。
 昭和十二年頃の風速六十mでついに倒れた。
 塔の中は、一層ごとにはね木が扇の骨のやうに放射線に有り、人の上下する事は出来にくいが、屋根瓦等の小さな直しことの爲、
 人一人やっと通る位の口は有るが、それでは見物人は上がれないから・・・・悪い方に父の予言が當った。

 塔の話のついでに片瀬の五重塔の話。・・・・・(中略)・・・・・。父より聞いた。」
   
※原文のまま掲載、但し明らかな誤字は訂正。
   ※文中の父とは勝尾氏の祖父「山尾新三郎」氏であり、私とは勝尾氏の父を示す。

即ち
五重塔の一般開放の都合により、桔木の一部が取除かれた。
一般的に云って層塔の構造では軸部の役割は勿論、塔建築の特徴である極めて出の深い屋根の荷重を支える斗栱の役割は重要であろう。
さらに、近世の層塔ではその出の深い屋根の荷重のバランスを取りまた支持するために桔木は極めて重要な役割を果たすという。
その桔木を一部とは云え取り払うということは、宮大工の眼から見ると、多重でありかつ極めて重い屋根重量の支持バランスを失うことであると「直感」でき、「歸って来て大変怒っていた。あんなことをして今に塔を倒してしまうぞ。」と云う「怒り」と「 予感」の言葉になったものと思われる。

事実、昭和9年に「桔木を一部取除いて」いた五重塔は「宮大工」の「直感」の通り、倒壊した。
 (メモ中には昭和12年頃とあるも、これは記憶違いで、昭和9年のことであろう。)
では、桔木の一部取除きなどがなければ、文化再興五重塔は風圧に耐えて、倒壊しなかったのであろうか。これは全く分からない。
倒壊しなかったかのも知れないが、それでも倒壊したかもしれない。しかし、倒壊に至らなかった可能性も十分あると思われる。
基本的に、塔は様々な構造材を組み合わせ、地震や強風にも耐えられる構造で造られている。
それなのに一部といえども、桔木を取除くなどをすれば、今に塔は倒れるであろうというものであった。
以上の意味で、職人の「直感」のとおり、塔は人為的な行為によって倒れるべくして倒れたと云うべきなのかも知れない。

 参考:上記(中略)した片瀬龍口寺五重塔に関するメモ内容→相模片瀬龍口寺を参照

2009/07/10追加:
昭和9年の文化再興五重塔倒壊の原因‐その2
  --人づてに以下を仄聞する。--
・竹中大工道具館でセミナー「五重塔が倒れないのは本当か」(関大准教授西澤英和)が過日あった。
その中で四天王寺塔婆の倒壊原因について以下の言及があったと云う。
倒壊原因は次の三点が考えられる。
1)初層の柱が白アリと腐食でボロボロになっていた。
2)屋根が本瓦葺きではなく、銅板葺きで軽量であった。
3)四天王寺門前の道路が、市街地改造で伽藍に対し45度に向いた形となり、台風による強風が建物に対してより強くかかった。
 (風洞試験では、45度で受けた風はもっとも強くなり、かつ塔が風を受けると、上層は塔に対し揚力を、下層には押しつける力がかかる。)
 1)については真偽の程を現在確認するすべがない。
 2)屋根銅板葺とは伝聞なので、「屋根銅板葺」との言の真偽は不明であるが、
 写真や諸資料から屋根本瓦葺と疑っても見なかったが、屋根は銅板葺であったのであろうか?
 →「笙の風 出口常順の生涯」出口善子(下に掲載)に依れば、
昭和10年創刊された寺報「四天王寺」では「瓦葺き」と書いている。従って、銅板葺きとは怪しい見解と思われる。

2020/02/16追加:
○「塔婆漫筆」四天王寺建築技師・吉村孝義(雑誌「四天王寺 第2巻第10号」五重塔再建地鎭大法會特輯號、昭和11年 所収) より
 四天王寺五重塔は今度昭和9年の風水害による倒壊で、實に六度目の復旧工事に着手するに至る。
扨、今回六度目の再興にあたりその倒壊の原因は何であったのであろうか、それを考えるに、信仰的立場から云えば、その原因は古来四天王寺として尤も重要神聖なるべき塔婆を、例えどんな理由があるからにもせよ賽者をその上層に昇らせていたという誠に感服出来ない事實に對しての天の制裁(佛罰?)を被ったものと考えたい。
 他方これをもっと理論的、実際的な方向より探求するならば、凡そ次のような一般的の諸原因を列挙することができるであろう。
即ち
1.経済上の不備
 イ、材料の粗悪
 ロ、手間の倹約
2.設計上の欠陥
 イ、安定性の乏しい外観
 ロ、内部昇降可能による構造上の弱点
 ハ、雲水造による構造上の弱点
 ニ、仕口継手等に対する考慮の不足
であろう。
 まず第一に経済上の不備とは資金が潤沢でなかった事を意味する。復興に際して募財に多大の困難が伴ったことは、淡路屋太郎兵衛の苦闘によって普く知られている。
例えば、主材たる木材に於いて多種多様の材種を混用したことは、何より資金難を象徴しており、このことが構造上の弱点となったことは否めない。
それは、次のような材種であった。
 柱 :心柱は杉、四天柱は欅、其の他の柱は殆ど檜
 野物:殆ど松
 彫刻:檜、欅、櫻、桂、松など
ついで、手間の節約とは「仕事の粗悪」ということで、これも経済上の原因に依ることは論を待たない。
 第2項の設計上の欠陥とは、まず第一に全体として安定の乏しい外観を有していたことは勿論であるが、内部を昇降させたが為、相当空間を必要とする関係から、十分の材料を縦横に緊結するという点において大なる不備を招じたことは間違いない。
 ※本稿では、桔木を人為的に取り除いた可能性については、触れていないが、桔木を取り除いた可能性を強く示唆するものと思われる。
 ※桔木を取り除いたという宮大工の直観については、上に掲載の「宮大工・山尾新三郎のメモ」を参照
また雲水造によって垂木を用いず、軒の荷重を過大に桔木に負わせたことは構造上の甚だしい問題を含むものである。
さらに仕口・継手も仔細に検討すれば、以上のような欠陥から材料を痛めつけている訳で、枘が折れたり材が裂けたりしていて、直接破壊の原因となっている。
 次に塔の外観の不安定ということについて検証する。
  ※実はこの検証で再興塔(雲水造)の安定性についての評価は比較論ではあるが、一定の評価をされる。
ここに1枚の図面がある。
これは、金剛家の蔵する五重塔図で、左右に塔婆の外観が描かれているものであるが、左手和様塔婆、右手雲水造と二様に描かれ、且左下に権大工職金剛廣目是氏圖之と墨書銘がある。是氏は文政10年3月没というから、この圖は文化塔の計画図であることは明らかであろう。
そして、この左右二様の設計図の内、雲水造が選ばれて実現したものと推測される。
 さて、この二圖を比較して見る。
まず気がつくことは、両者とも相輪の長さが塔高に対して、ほぼ同じ割合をもっており、その割合は大略4分の1であることである。
次いで、塔の高さに対する初重の間口の割合を計算すると、左手和様塔婆の総高÷初重間口は6.6、塔身÷初重間口は5.0であり、一方右手雲水塔の総高÷初重間口は6.3、塔身÷初重間口は4.7と計算される。当然、上層もこれに準じている。
  ※総高は相輪を含み、塔身は相輪を含まない高さ、初重間口とは初重一辺のこと。
 つまり、和様塔(計画のみ)の安定性は雲水造(再興塔)のそれに劣るということである。再興された塔(雲水造)は計画塔(和様塔)より安定した塔婆であったということである。
 つまり、あれほど不安定として悪評を受けた塔は実はより安定した形で再興されたという事実は大いに買ってやらねばならないということである。
上述の数字は時代の古い塔婆ほど少なく、時代を降るに従って増大することは衆知のことである。 


昭和15年再興塔:七代目塔婆:昭和20年焼失

この再興塔がほぼ竣工し、素屋根・足代が除去され姿を現したのは昭和15年4月(落慶も昭和15年)であった。
しかし、この塔は僅か5年の後の昭和20年3月に空襲により炎上する。わずか、5年弱でこの再興塔は地上から姿を消す。
従って、アジア侵略戦争の敗戦期という時代背景もあり、この再興塔の写真は多くはないと思われる。
2005/12/03追加:撮影時期不詳
「写真集 明治大正昭和 大阪 上巻」 岡本良一編、国書刊行会、1985.11
「写真集 明治大正昭和 大阪 下巻」 島田   清編、国書刊行会、1986.1  より

昭和15年再興塔:左図拡大図

昭和15年再興塔落慶

 

昭和15年再興塔

2010/10/26追加:
新聞報道写真
 ◆昭和15年再興塔地鎮祭:昭和11年10月13日:新聞写真

 ◆昭和15年再興塔心柱木曳式:昭和12年4月12日:新聞写真

2017/01/25追加:
○「四天王寺 第4巻5号」昭和13年(1838.05) より
 五重塔簀屋根建設中:昭和13年4月8日撮影:右奥の堂は金堂である。
この写真に亜鉛鍍金鉄板が屋根として架設され、周囲に簀(すのこ)が張られると完成である。
丸太は大小約3000本、亜鉛鍍金鉄波板700枚使用という。

2014/08/08
○「四天王寺圖録 復興編」天沼俊一、四天王寺、昭和17年 より
 昭和15年再興塔素屋根1:昭和14年12月15日撮影
 昭和15年再興塔素屋根2:昭和15年04月07日撮影      昭和15年再興塔素屋根3:昭和15年04月09日撮影
 昭和15年再興塔足代:昭和15年04月11日撮影

昭和15年再興塔1:昭和15年04月20日撮影
昭和15年再興塔2:昭和15年04月15日撮影
昭和15年再興塔3:昭和15年04月20日撮影
昭和15年再興塔4:昭和15年04月15日撮影
昭和15年再興塔5:昭和15年04月15日撮影:左図拡大図
昭和15年再興塔初重
昭和15年再興塔2重3重

 昭和15年再興塔相輪     昭和15年再興塔相輪詳細図

 昭和15年再興塔立面図2     昭和15年再興塔三面図2
  次項に掲載の立断面図は「四天王寺圖録 復興編」に掲載されるこの立断面図の転載であることは間違いない。

2003/8/22追加:「昭和の木造五重塔(追加編)」吉田実 より
<四天王寺蔵、「昭和の木造五重塔(追加編)」吉田実から転載>
  昭和15年再興塔立面図     昭和15年再興塔断面図
昭和15年再興塔は天沼俊一博士の設計による。塔基礎の発掘で、地上の文化再興塔心礎から、文化再興時埋納の仏舎利を発見、さらに地下11尺で創建時の心礎を発見、仏舎利の存置は無かった。
主要寸法は二重基壇高:6.7尺、塔身高97.7尺、相輪長:40尺、総高:137.7尺(41.7m)以下略・・・
基壇は文化再興時の礎石はそのまま保存し、その上に新塔の礎石を設置したため二重基壇とする。
空襲当日の四天王寺の概要の記述が当論文にあり。

2012/06/06追加:「Y」氏ご提供画像
絵葉書:
 四天王寺再建五重宝塔図
昭和15年再興塔である。何れにしても昭和15年前後の絵葉書であろう。

2017/07/29追加:
絵葉書:
 昭和15年再興塔10:四天王寺事務局発行 、s_minaga蔵
昭和15年前後の発行であろう。戦時中であり、物資の不足が深刻化していたのであろうか、粗悪なとても堅紙とは思えないペラペラの紙に印刷された絵葉書である。よって絵葉書には皺が寄っている代物である。

2020/02/16追加:
雑誌「四天王寺 第2巻第10号」五重塔再建地鎭大法會特輯號、昭和11年 表紙
 四天王寺再建五重寶塔圖:昭和15年再興塔図

2020/02/16追加:
〇「笙の風 出口常順の生涯」出口善子、東方出版、2018 より
「帯」には「五重塔を二度再建した僧」とあり、まさにその通りで、昭和9年に倒壊した塔婆を昭和15年に、また昭和20年焼失した塔婆を昭和43年に、二度に渡り再建した僧侶であったのだ。
 昭和15年5月昭和新五重宝塔は竣工し、5日間の落慶法会が行われる。昭和9年の倒壊から足掛け7年の歳月を費やす。
法要の式次第は次の通りである。
 5月22日:宝塔入仏開眼供養、入仏開眼舎利供養修法
 5月23日:鎮護国家大祈祷会、四天王合行秘法厳修
 5月24日:聖徳太子1350年御遠忌大法要
 5月25日:紀元2600年奉賛大法要
 5月26日:事変関係戦没英霊追悼大法会、など
いささか、宝塔の落慶法要に似合わない法要が執行される。上にも触れたように、この頃、日本は軍事侵略国家であり、天皇教が強制されていたのである。
再び、繰り返そう、
昭和10年、美濃部達吉の「天皇機関説事件」が勃発、言論・信仰の自由が奪われ、同12年には盧溝橋事件が勃発し、中国へ侵攻、宮中に大本営を設置。
同13年、国家総動員法が制定、経済が統制され、思想を含むあらゆるものが圧迫される。
同14年、ノモンハン事件で日本軍は大敗。しかし、それで日本は引き返す理性を持ち合わせなかった。
以上のような、不穏な時代背景の中で、五重塔の再建は進められたのである。
再建は用材にも事欠いたため、五重塔再建を軍国主義に潰されない大義名分が必要であったのである。
再建にあたり、用材の確保もそうであるが、色々な制約が現れる。
塔の屋根は銅板で葺かれ、これは五重塔では最初の試みという。しかし、2、3年の内に銅の使用が禁止される。
昭和11年10月五重塔の木造による再建が許可、用材の確保に奔走、その内日中戦争も拡大、国家総動員が叫ばれ、各種の統制が行われ、實のところ「塔」などの「不急なもの」の再建が危ぶまれる情勢となる。
昭和13年金属の売却と献納を提唱される。その中で四天王寺大梵鐘の献納という噂が生ずる。しかし、この梵鐘については献納の意思なしとして献納を打破する。
続いて、九輪の銅が統制にかかりそうという噂が出て、許可不許可が議論される。しかしこれも許可される。但し、古い九輪(昭和9年倒壊五重塔の九輪であろう)は身代わりとして献納される。
最後に避雷針で議論が起る。これも、最終的に心柱に銅線を通して差支えなしとなる。
 昭和15年再興五重塔
昭和20年3月大阪最初の大空襲で、四天王寺中心伽藍(中門・五重塔・金堂)を含む一画が烏有に帰す。
火災は辛うじて亀の池で止まり、そこから北側に立つ六時堂・食堂本坊、丸池より北に位置していた各院(中之院は焼失)が焼け残っただけである。
戦後すぐに、バラックの仮北鐘堂・仮南鐘堂を造って回向、食堂を移築して仮金堂とし、大釣鐘堂を平和祈念堂として改築する。
昭和25年ジェーン台風が襲来し、平和祈念堂の仮奉安殿屋根が飛び、仮大師堂・仮南鐘堂・仮金堂までもが倒壊する。


昭和20年五重塔炎上:空襲

2003/10/4追加:
 焼失する昭和15年再興塔(「古寺をゆく 24 四天王寺」から転載)・・・昭和20年焼失

2014/08/08追加:
大阪市総務局行政部公文書館のページより転載
 ◆四天王寺五重塔炎上
左写真と同一ネガの写真と思われる。
また
ブログ「その8・・四天王寺西門の風景」に以下の目撃談がある。
四天王寺七代目五重塔炎上を目撃
 余談ですが、昭和20年の3月の空襲で五重の塔が炎上、倒壊するシーンを偶然、目撃しました。当時6才でしたが、未だにそのシーンが脳の隅っこ記憶されています。夜中だったので、塔の各層から吹き出す炎によって五重塔の輪郭がシルエットになって浮かび(映画なら絵になる場面でありますが)まもなく下のほうが折れてドドドと崩れ落ちたのでありました。
塔から家まで約300m、こんなに迫力ある火事シーンを見たのはこのときだけです。・・と(以下略)

◆残存基壇

2005/04/29追加:
昭和15年再興五重塔残存基壇
 四天王寺五重塔残存基壇:(昭和20年撮影):塔焼失後、焼跡に残存する塔基壇

2014/08/08追加:
「古寺再現」藤島亥治郎、学生社、昭和42年 より
 四天王寺の廃墟:毎日新聞社蔵


昭和34年再興塔:8代目塔婆

2003/8/22追加:
四天王寺塼塔
「昭和の木造五重塔(追加編)」吉田実 より
 終戦前に寺院復興は先ず塔からとの考えで、五重塔跡に不燃塼塔形式の塔の建立が企画され、20年9月に立柱式があり、焼け跡の瓦を集めて塼塔の工事は進んだ(昭和21年の工事写真があり)が、昭和22年天沼博士の逝去とともに 塼塔の塔建設は中断・中止される。

昭和34年再興塔

2014/08/08追加:
「古寺再現」藤島亥治郎、学生社、昭和42年 より
 昭和戦後再建四天王寺

鉄筋コンクリート・耐震構造。
外観は飛鳥復古調で本格的構造であるが、内部は螺旋階段で最上階まで昇ることが可能。 ※しかし、この構造については、大いに疑問があるところである。

主要法量:二重基壇高;7.2尺、塔身高81.68尺、相輪長;40.59尺、
塔総高122.27尺(37m)。

2003/9/28撮影:
攝津四天王寺五重塔1
攝津四天王寺五重塔2:(左図拡大図)
攝津四天王寺五重塔3
攝津四天王寺五重塔4
攝津四天王寺五重塔5
攝津四天王寺五重塔6
攝津四天王寺五重塔7
攝津四天王寺五重塔8
攝津四天王寺五重塔9
攝津四天王寺五重塔10
攝津四天王寺五重塔11

2000/10/9撮影:
攝津四天王寺五重塔2
攝津四天王寺五重塔3

2008/12/12撮影:
 攝津四天王寺五重塔21    四天王寺五重塔22    四天王寺五重塔23    四天王寺五重塔24    四天王寺五重塔25

 攝津四天王寺舎利塔1      四天王寺舎利塔2: 舎利塔は五重塔五重目に安置

2020/01/03撮影:
攝津四天王寺五重塔111
攝津四天王寺五重塔112
攝津四天王寺五重塔113
攝津四天王寺五重塔114
攝津四天王寺五重塔115:左図拡大図
攝津四天王寺五重塔116
攝津四天王寺五重塔117
攝津四天王寺五重塔118
攝津四天王寺五重塔119
攝津四天王寺五重塔120
攝津四天王寺五重塔121
攝津四天王寺五重塔122
攝津四天王寺五重塔123
攝津四天王寺五重塔124
攝津四天王寺五重塔125
攝津四天王寺五重塔126
攝津四天王寺五重塔127
攝津四天王寺五重塔128
攝津四天王寺五重塔129
攝津四天王寺五重塔130
攝津四天王寺五重塔131
攝津四天王寺五重塔132
攝津四天王寺五重塔133
攝津四天王寺五重塔134
攝津四天王寺五重塔135
攝津四天王寺五重塔136
攝津四天王寺五重塔137     攝津四天王寺五重塔相輪
四天王寺舎利:
 攝津四天王寺舎利塔3     攝津四天王寺舎利塔4     攝津四天王寺舎利塔5


四天王寺現伽藍

2019/05/09「X」氏撮影


あべのハルカス展望台より
 四天王寺伽藍俯瞰:左図拡大図
望遠レンズ(250mm) を使用、四天王寺拝観時間外のため、廻廊内には人は写らない。

2013/07/27撮影:
近鉄京都駅設置阿倍野ハルカス模型 より(四天王寺部分):但し学術的な模型ではない。
 四天王寺模型(あべのハルカス)1    四天王寺模型(あべのハルカス)2

2003/10/04追加:
 四天王寺俯瞰(「古寺をゆく 24 四天王寺」から転載)

2020/02/16追加:
〇「笙の風 出口常順の生涯」出口善子、東方出版、2018 より
「帯」には「五重塔を二度再建した僧」とあり、まさにその通りで、昭和9年に倒壊した塔婆を昭和15年に、また昭和20年焼失した塔婆を昭和43年に、二度に渡り再建した僧侶であったのだ。
 四天王寺の復興は概ね3期に分類される。
第1期は、英霊堂(昭和23年、旧大釣鐘堂を改築)、北鐘堂(昭和24年竣工)、南鐘堂(昭和30年竣工)、聖霊院(太子殿)前殿(昭和29年落慶)、亀井殿(昭和30年落慶)、東西樂屋(昭和31年竣工)
第2期は中心伽藍の再建であるが、大きな障害が立ち塞がる。
第1は五重塔を始めとする諸堂の建築は既に木造では建築許可は不可となっていた。RCなどでなければならなくなっていた。
加えて、戦後のどさくさに紛れて境内の東大門から西大門に4車線道路を計画していた市議会の画策を阻止し、寺域を守るべき方策として講じた寺域の史跡指定が、今度は伽藍再興が史跡破壊と抵触することとなる。国の文化財保護委員会が主要伽藍の再建の許可に難色を示すこととなる。
 しかし、様々な折衝の結果、次のような要綱で伽藍再建の合意を得る。
再建は現状蹟の上に再建すること、鉄筋造とすること、様式は太子時代とすること・・以下略・・。
工事着工に先立ち、3ヶ年の発掘調査が実施される。
これは大規模な学術調査であり、その結果、本伽藍は大要において創建当時の礎石の位置をよく残すことが明らかになり、その創建当時の礎石の位置に再建すれば、創建時の規模は正しく踏襲されることとなり、それに従い設計される。
また出土遺物により、創建時の細部まである程度復原されることも判明する。鴟尾・瓦当・風鐸等である。
但し、建築基準法により従来の木造は不可能であり、やむを得ずRCにより、木造の形を再現したのである。これらは大林組と金剛組の施工により実現した。
第2期工事は昭和31年から昭和41年に及ぶ。
昭和32五重塔地固式。
昭和38年四天王寺復興記念大法要が行われる。
五重塔・金堂・講堂・回廊・極楽門(西太遠)・仁王門・元三大師堂を再建、六時堂・英霊堂を修復す。
この間、伽藍以外に、四天王寺女学校を四天王寺女子大・同短大に改組、四天王寺病院を総合病院に拡充、悲田院の新築、徳養ホームの設置などに取り組む。
第3期として、聖霊殿奥殿などを再建する。
元来、聖霊殿(太子殿)は聖霊殿・用明殿・東照宮があったが、戦災で焼失し、僅かに東照宮唐門だけだ残っていたのである。
昭和54年聖霊殿が竣工し、聖徳太子奥殿落慶及び四天王寺伽藍復興記念大法要を10日間執行する。

2020/01/03撮影:
 四天王寺境内11     四天王寺境内12     四天王寺境内13     四天王寺境内14     四天王寺境内15
 四天王寺境内16     四天王寺境内17     四天王寺境内18     四天王寺境内19     四天王寺境内20
 四天王寺境内21     四天王寺境内22     四天王寺塔金堂講堂(2008/12/12撮影)

 四天王寺南大門1     四天王寺南大門2     四天王寺中門1     四天王寺中門2     四天王寺中門3
 四天王寺東大門1     四天王寺東大門2
西鳥居:重文、永仁2年(1294)木造を石造に改める。
 四天王寺西鳥居1     四天王寺西鳥居2     四天王寺西大門1     四天王寺西大門2
 四天王寺金堂1       四天王寺金堂2       四天王寺金堂(2008/12/12撮影)
 四天王寺講堂       四天王寺東重門       四天王寺西重門

 四天王寺唐門     四天王寺太子井戸屋形1     四天王寺太子井戸屋形2
 聖霊院(太子殿)寅之門・前殿    聖霊院(太子殿)前殿    聖霊院(太子殿)前殿・奥殿    聖霊院(太子殿)奥殿・猫の門
六時堂:重文、元和9年(1623)再建、椎寺薬師堂を文化8年(1811)現在地に移建、7間×5間入母屋造、本瓦葺、本尊薬師如来、比叡山根本中堂を模すという。
六時堂には薬師如来坐像と四天王像を祀る。六時堂は椎寺薬師堂(現在の大江小学校の地)を移築したものである。
石舞台:重文、文化5年の再建と思われる。
 六時堂・石舞台(2003/09/28撮影)
 四天王寺六時堂・石舞台     四天王寺元三大師堂1     四天王寺元三大師堂2(左図いずれも2008/12/12撮影)
 四天王寺六時堂11     四天王寺六時堂12     四天王寺六時堂13     四天王寺六時堂14
 四天王寺六時堂15     四天王寺六時堂16     四天王寺六時堂17     四天王寺六時堂18
 四天王寺六時堂19     四天王寺六時堂20     四天王寺食堂跡

 四天王寺南鐘堂
用明殿:元和9年(1623)の「四天王寺諸道具改渡帳」では「用明社・用明天皇」御身躰六躰と記され、「攝津名所圖繪」の天皇宮には用明天皇以下六躰を祀るとある。江戸期には東照宮となり、明治維新後は用明殿として祭神が復活し、改号される。さらに明治期に幣殿や拝殿が備えられ、大規模となる。昭和20年の大空襲で焼失する。今般聖徳太子1400遠忌で再興される。
 四天王寺用明殿:2019年竣工
 四天王寺番匠堂      四天王寺牛王堂1     四天王寺牛王堂2:石神堂
 四天王寺亀井堂1     四天王寺亀井堂2     四天王寺亀井堂3     四天王寺大辨才天1     四天王寺大辨才天2
 四天王寺大鼓楼      四天王寺北鐘堂
 四天王寺英霊堂1     四天王寺英霊堂2     四天王寺大黒堂
元三大師堂:重文、元和9年(1623)再建、方3間、寄棟造、本瓦葺。
 元三大師堂1     元三大師堂2     元三大師堂3     元三大師堂4(左図:いずれも2003/09/28撮影)
 元三大師堂11     元三大師堂12     元三大師堂13     元三大師堂14
 四天王寺乾門:すぐ南にある中之門は未見
 四天王寺融通地蔵     四天王寺見真堂1     四天王寺見真堂2     四天王寺布袋堂
 四天王寺納骨堂      四天王寺阿弥陀堂      四天王寺萬燈院
石槽:(現地説明板 より)元は四天王寺西大門の西南外に手水鉢として使われていたが、元来境内のどこにあったかは分からない。
製作年代は不明であるが、おそらく鎌倉期に遡るものと思われる。本石槽の頭部に装飾があるが、これは近江勝華寺の弘長3年(1263)銘の積層に似ている。縦1.99m、横1.19m。高さ3.86m、深さ0.58mの大きさである。
 四天王寺石槽1     四天王寺石槽2     四天王寺石槽3
 四天王寺鳥居部品:不詳
本坊西通用門:重文、元和9年(1623)再建、四脚門、旧椎寺薬師堂四脚門を移建する。・・・・・未見
本坊方丈:重文、元和9年(1623)再建、桁行7間、梁間5間、入母屋造、本瓦葺。
五智光院(灌頂堂):重文、元和9年(1623)再建、桁行7間、梁間3間、3間向拝付設、入母屋造、本瓦葺。再建当時は西大門の南にあったが、明治34年現在地へ移築される。
湯屋方丈:重文、元和9年の再建、天海が四天王寺執務の際に在住、再建時は六時堂裏にあったが、明治33年移築という。
 四天王寺本坊唐門     四天王寺本坊南門     四天王寺本坊冠木門     四天王寺本坊玄関
 本坊湯屋方丈1     本坊湯屋方丈2     本坊湯屋方丈3     本坊客殿1     本坊客殿2
 四天王寺本坊1     四天王寺本坊2
 四天王寺荒陵稲荷:正面は稲荷大明神、左は荼枳尼天、境内には数か所に稲荷大明神と荼枳尼天が祀られていたが、明治の神仏分離と今次大戦の空襲で廃絶、唯一残ったのがこの東北隅の稲荷社で、ここに廃絶した稲荷と荼枳尼天を合祀する。
 本坊庭園弁財天:宇賀神を祀る。     本坊庭園1     本坊庭園2     本坊庭園3
 五智光院1     五智光院2     五智光院3     五智光院4
 寺中静専院1     寺中静専院2      寺中静専院3
 寺中吉祥院1     寺中吉祥院2
  寺中にはそのほか東光院、中之院が現存するが、未見。
 奥之院庚申堂山門     奥之院庚申堂1     奥之院庚申堂2     奥之院庚申堂三猿堂     奥之院庚申堂庫裡

 ※椎寺については、上に掲載の図であるが、
○攝津國四天王寺圖
 攝津國四天王寺圖;四天王寺蔵、年代不詳であるが、江戸期しかも後期のものと推定される。
○佛法最初四天王寺伽籃略圖
 佛法最初四天王寺伽籃略圖:明治34年印刷
  に描かれ、その位置が確認できる。

2021/01/19追加:
◎聖徳太子1400回忌法要
本年(2021年)は、各種メディアによれば、聖徳太子1400回忌という。
四天王寺には太子1300回忌の時に描かれた絵が残るという。
それは1300年紀法要のとき、五重塔・金堂・講堂が1本の結縁綱で結ばれた様が描かれるものである。
太子1300回忌聖霊会舞楽:四天王寺蔵、1本の結縁綱が描かれる。
因みに、前回の1300回忌は大正10年(1921)である。
本年の1400回忌にも、聖霊殿奥殿の太子49歳摂政像から、聖霊殿前殿の太子16歳孝養像や五重塔、六時堂などを五色の結縁綱で結合した企画が実現したという。
勿論、太子1400回忌法要は大和法隆寺河内叡福寺などでも盛大に執行されている。


2004/02/01追加、2014/08/08追加修正:「四天王寺図録 伽藍編」 より
四天王寺塔心礎

昭和9年塔の倒壊の後、塔跡の発掘調査が行われる。
その調査報告及び図版(写真)は「四天王寺図録 伽藍編」に詳細に収録される。
 (本項で特に断りのない場合は「四天王寺図録 伽藍編」からの転載)

左図は「塔心基礎下方の構造」
       :「古寺再現」藤島亥治郎 より転載

 罹災後19日目塔基壇:壇上の木標は横死者通善菩提供養塔婆である。

1)文化再興心礎/礎石
一番上にあるつまり基壇上にある礎石は文化再興時の心礎/四天柱礎である。
●心礎の大きさは方約4尺、高さ約2尺で、中央に舎利孔を有する。

 文化再興心礎・舎利孔及容器:舎利孔と舎利容器が写る。
 文化再興仏舎利及容器:文化再興心礎舎利孔に奉安、框座は2段で敷茄子があり、蓮華座の上に中を剥った壷形水晶器の中に舎利が籠納される。水晶には宝蓋を被せ、その上に露盤・宝珠がある。舎利は6個ある。水晶以外は銅製である。
なお舎利は銅板で囲まれるが、その銅板に墨書があり文化の年号が読み取れるという。
 文化再興心礎の発掘:金堂屋根から撮影、中央が文化再興塔心礎、四辺には四天柱礎が写り、心礎下には下に記述の井戸形石を囲む石の一部が写る。
2004/02/01追加:
 文化再興心礎・四天柱礎1(写真の曲尺は2尺60cm)
四辺に写るのは四天柱礎であり、心礎下には井戸形石を囲む石の一部が写る。
 文化再興心礎・四天柱礎2(四天柱礎上の曲尺は2尺);四天柱礎の円穴は柱穴と思われ、また写真右の半裁された造出のある礎石は文化再興以前の古い礎石と推定される。

 

 

2)井戸形石(円壔石):元和以前の再興心礎かともいうが、これは疑問であろう。
文化再興心礎の下には井戸形石があり、これは元和以前の再興時の心礎なのであろうか。
 ※しかし以下に記述するようにこの井戸型石の構造は心礎とするにはあまりに異形であり、元和以前の再興心礎とは考えられない。
 おそらくは、文化再興時に心礎下に設けた「千体佛」や「木彫佛」を収納するために設けた円形石筒であろう。
 ただ、円形石筒であるとしても、手の込んだ細工であり、なぜこのような複雑な石造物に収納したのかは分からない。
 また「千体佛」や「木彫佛」がどのような目的で祭祀され、ここに収納されたのかは分からない。

まず、井戸形石の構造は以下のようである。
 ※立面形状は上に掲載図の「塔心基礎下方の構造」中「再興心礎?」と表示した部分である。
井戸形石は2石から成り、2石の各々の石の上部はほぼ半円壔を造り、下部は不正形ではあるがほぼ方形のままで内側を半円壔に穿った石を合わせたものである。2石を合わせて、円形の円壔をなすものである。円壔底にはほぼ長方形の形状で表面を削平した石を置き、底とする。
 ※この円壔の中には「千体佛」や「木彫佛」が置かれていたのは上記で示したとおりである。
井戸形石の大きさの記述はないが、円壔形の穴は径約2尺7寸、深さ約2尺1寸という。
そして、この2石を合わせた井戸形石の上部の周囲には4石からなる縁石が置かれる。この椽石の上部はきれいに削平され、側面の一辺は井戸形石の上部の円壔に合致するように四半円壔を穿つものである。
即ち、中心に2石を合わせた井戸形石を置き、井戸形石の底には底石を置き、上部の円壔の周囲には4石の四半円壔とをきれいに合わせ、しかも2石からなる井戸形石よりもう一段上のレベルに4石の上削平面を合わせ、4石を設置した構造である。そのため、上部を一見した限りでは、上部を平らに削平した2段式の心礎のような形状に見える。
次の2点は文化再興心礎を除去後、四天柱礎を撤去する様子である。
 文化再興心礎下の井戸形石0:文化再興心礎を除去し、四天柱礎の除去に取り掛かる写真である。
 文化再興心礎下の井戸形石00:四天柱礎をすべて除去し終えた写真である。
 次の2点の写真は井戸形石の上にあった文化再興心礎を除去した後の写真である。
 文化再興心礎下の井戸形石1     文化再興心礎下の井戸形石2
 次の2点の写真は井戸形石の上にあった文化再興心礎及び心礎四辺の四天柱礎を除去した後の写真である。
 文化再興心礎下の井戸形石3     文化再興心礎下の井戸形石4(写真の曲尺はいずれも2尺)
井戸形石(円壔)周囲の4石からなる縁石を助教した後の井戸形石の写真である。
 4個の縁石除去後井戸形石1     4個の縁石除去後井戸形石2     4個の縁石除去後井戸形石3
 井戸形石の底石
 
次いで、円壔の中には素焼の仏体(千体仏)が充満し、素焼仏体の下の底部には少量の木彫仏があった。この遺物は鎮壇具とは思われず、その性格はよく分からない。 なお、この遺物は文化再興時のものと推定されるという。
 井戸形石に充満する千仏体;素焼の仏体は台座、胴、首の三部より成る。後光も備える。写真に写るのは台座部分で、三つの部分を別々に納めたためである。
 井戸形石の底部(木彫仏);素焼の仏体に下には、木彫仏が納められる。但し殆どは腐朽していたという。
 素焼の千体仏:これは釈迦如来である。首・胴・台座は別の型で作り、首・胴は粘土の乾かないうちに差し込み焼いたものと思われる。光背支柱は銅片である。
 木造薬師如来立像:一木造である。背面には戒名の墨書があるという。

3)粘土製円筒で囲った穴
井戸形石の下には粘土製円筒で囲った穴がある。
この穴の深さは判然とはしないが、文化再興心礎の上端から、創建時心礎の上端までは11尺9寸5分あるというから、文化再興心礎の高さ約2尺、井戸形石の深さ約2尺1寸、及び井戸形石と文化再興心礎間の隙間5寸(法量は不明であるが仮に5寸とする)とを控除すると、この穴の深さはおよそ7尺3寸5分ほどと推定される。
この穴は図「塔心基礎下方の構造」で示すように、下にいくほど径が大きくなる。つまり心柱を心礎上に建て、下にいくほど厚い木材を添木としたものと推定できる。この穴は地下式心礎の土中部分の心柱の痕跡なのである。

4)創建時心礎
穴の下・地表約3.1mのところに創建時のものと推定される心礎が発見される。
 摂津四天王寺創建心礎1
  (土を洗い落とすと写真の9個の石があり、その石の間からは金環が出土したという、写真の曲尺は1尺)
 摂津四天王寺創建心礎2
  (写真の曲尺は3尺、環状溝の径は約3尺6寸109cm、溝はごく浅く、木炭粉を入れて撮影したもの。)
 地下心礎上発見の金環

補足)文化再興塔相輪
露盤は鉄の鋳物、その他は青銅製である。
 文化再興塔水煙・刹管・宝珠     文化再興塔請華・九輪・宝鐸

◆「日本の木造塔跡」では四天王寺五重塔心礎について次のように述べる。
文化再興塔心礎の大きさは方1.2m×60cm。
さらにその下に二段孔のある心礎があり、中に小仏像が一杯詰まっていた。
(つまり「四天王寺図録 伽藍編」でいう井戸形石は(別の)再興時の心礎とする。)
地下3.62mに原初の心礎が在る。径1.5mで上面に径109cmの細く粗い溝状の柱座がある。
舎利孔はなかったが、金環が2個が発見された。なお栗石9個は柱を囲んでいたものと思われる。  


攝津四天王寺相輪橖

2012/08//20追加:「日本仏塔の研究 図版篇.」石田茂作、講談社、昭和45年 より
 攝津四天王寺相輪橖:未見、所在場所未確認

2015/07/18追加:GoogleStreetView より
相輪橖は東大門を入り参道を西に進み、すぐ北側に位置する。相輪橖のさらに北には本坊が位置する。
 四天王寺相輪橖2     四天王寺相輪橖3

2020/01/03撮影:
 攝津四天王寺相輪橖11     攝津四天王寺相輪橖12     攝津四天王寺相輪橖13     攝津四天王寺相輪橖14
 攝津四天王寺相輪橖15     攝津四天王寺相輪橖16     攝津四天王寺相輪橖17 


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