★立善廃寺塔心礎:隆禅寺心礎
現在この心礎は隆禅寺境内の大日堂堂内にあり、通常は拝見することはできない。
また大日堂の前には簡素な礼堂(大日堂を内陣とすると外陣に相当する)が設けられ、さらにこの2棟の繋ぎとして「相の間
」があり、大日堂内を窺うことも困難である。
※隆禅寺談(2003年談):この堂は「心経組」(講と思われる)が管理をなす、毎月18日に礼堂にて「心経組」の講が行われ、この時には大日堂向背下の祭壇で礼拝が行われるという。<時間は10:00から16:00とのこと>隆禅寺といえども、そのとき以外は堂内に立ち入ることは出来ないと云う。
※心礎の見学については、現在(2009年)では、毎月18日の講の時だけではなく、数日前に予約を願い出れば、都合のつく範囲で、便宜を図っていただける場合があるとのことである。
大日堂内の床下には心礎が置かれ、その心礎上に木製(と思われる)丹塗りの五重小塔<実見すると円形二重小塔>を安置。
なお堂本尊は金剛界大日如来と云う。
隆禅寺大日堂1
大日堂礼堂
大日堂礼堂繋ぎ
大日堂
2 大日堂祭壇
※大日堂は隆禅寺境内之図に描かれる。
○立善廃寺心礎
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立善廃寺心礎(左図拡大):「阿南市史 第1巻」から転載 心礎の上に、枘孔が見えるように刳り貫いた台石が置かれ、
その上に五重小塔(実見すると円形二重小塔)が載せられる。 心礎は砂岩製。大きさは1.68×1.29×0.63mで、
中央には径35cm・深14cmの円孔を穿つ。(「阿南市史」)
「幻の塔を求めて西東」:手書き資料:
170×140×50(見える高さ)cm、円孔は径36cm深さ13cmと記載。
この心礎の出土地点の伝承は無いと云う。 |
○隆禅寺大日堂円形二重小塔
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○2009/10/18「X」氏撮影
隆禅寺大日堂円形二重小塔1
同
宝塔形小塔2:左図拡大図大日堂内心礎上に写真のような円形二重小塔が置かれる。
製作年代不詳、大きさも不詳。
二重塔であるが下重・上重とも平面を円形に造る。
「宝塔」形式の一重塔ではなく二重塔の形式であろう。 |
2010/01/19撮影画像:
隆禅寺大日堂内部床:心礎は堂中央に置かれ、床板は張らず、土の上に心礎を据え、その周囲には表面を削平した大石を据える。
推定大日堂本尊:堂内奥の壁中央に金剛界大日如来(小像)が安置される。大日堂本尊と思われる。
大日堂正面扉:相の間から大日堂正面扉を撮影
★立善廃寺概要
立地は全くの平地(沖積地)であり、現隆禅寺の北側一帯には「東(トウ)の一」「大門」「立善廃寺経塚もしくは大日様」と
呼ばれる塚状の高まり、「イシン坊」の地名を残す。(「西ノ坊」の地名も残る?)
「立善廃寺経塚もしくは大日様」から経塚関連の遺物の出土の記録はなく、むしろ周辺から瓦が出土し、何らかの堂塔の基壇の可能性が高いとされる。
現状塚上は夏草が茂り、通常の服装では足を踏み入れることは困難である。(2003年夏)
土壇上の表面はやや荒れ、特に地表には遺物・遺跡は無いと思われる。冬場には踏み入れは特に問題は無い。(2010年1月)
塚は方形ではなくて円形に近いと思われ、また堂塔の基壇にしては少し高さが高いように思われる。
「隆禅寺縁起」「隆禅寺縁起別記」(いずれも宝永7年)「大野寺縁起」(明治10年)では天智天皇の創建とする。
「縁起」については隆禅寺境内之図下部に記載
がある。
現隆禅寺から県立阿南工業高校周辺の水田から多くの古瓦が出土、瓦からの判断によれば、創建は白鳳期で奈良期にも維持され、平安期に衰退したとされる。
★隆禅寺概要
金栗山瑞雲院と号する。高野山真言宗、本尊愛染明王。
現時点では廃立善寺との関係は明確ではないが、現寺は京都東寺長範大僧正が嘉保2年(1095)再興と云う。
天正13年蜂須賀家政が復興。院号は家政の戒名に拠るとされる。
隆禅寺遠望
現隆禅寺を北方から遠望。白壁の長さからも分かるように今も広い境内を保持する。
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隆禅寺遠望1
(手前水田が伽藍想定地付近)
隆禅寺遠望2
(左図拡大)
隆禅寺方丈
(本堂機能を持つ)
隆禅寺本堂跡
(明治18年焼失というも未だ再建に至らず) |
★隆禅寺多宝小塔
参考文献:
「阿南市史 第1巻」阿南市史編さん委員会/編、阿南市教育委員会事務局、1987
「徳島県埋蔵文化財センター調査報告書 第17集:立善寺跡遺跡」徳島県 埋蔵文化財センター/編、1997
2006年以前作成:2010/01/28更新:ホームページ、日本の塔婆
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