現存する三重塔(明治以降)

現存三重塔(明治以降)

現存する三重塔(明治以降)
※近年の新造塔についての全貌を完璧に把握している訳ではない。また、 新造塔の内、
建築として余りにも程度の悪いものは三重塔と称していても、掲載は省略する。(塔もどきのページなどへ掲載)

名称・場所 国指定 画像 備  考
武蔵総持寺
(西新井大師)
 ※三匝堂
. . 明治17年再建。三重塔と分類する向きもあるが、これは塔婆建築ではなく三匝堂である。
外観は三層塔の体裁を採るが、堂形式及び信仰形式は三匝堂(栄螺堂)の形式を採る。
 三匝堂(栄螺堂) の西新井大師を参照
405 大和松尾寺 . 大和松尾寺三重塔・・・明治21年大修理と思われる。(全くの再建・新造ではない。)
406 豊前国分寺 . 豊前国分寺 明治28年再興三重塔が現存する。
近江新善光寺 . (20年前位に取壊・廃絶)
「新善光寺三重塔

関連ページ:宮大工・棟梁高木敏雄師
407 伊賀開化寺 . 伊賀浄瑠璃寺(開化寺・長谷川邸)三重塔
408 岐阜公園 . 図1
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図3
大正天皇御大典記念として大正5年(大正6年)建立。木造塔、意匠は伊藤忠太。
岐阜公園中の山腹下方にあり、写真は非常に撮り難い。近年新しく朱色に塗装されたと思われる。軒の四隅に支柱がある(意味は不明)。九輪は真ん中が膨らむ紡錘形をする。内部は四天柱があり、須弥檀上には弘法大師像が安置と云う 。(これは建立主旨から見て支離滅裂とも思われる)またこの塔はかっての長良橋 (明治24年の濃尾大地震で倒壊)の木材が使われたとも云う。
以下は2003年2月中旬「X」氏撮影画像
 美濃岐阜公園三重塔1      同           2      同           3
  同           4      同          5
 1931年岐阜公園(吉田初三郎)
2007/12/15撮影:
 岐阜公園三重塔1       同         2      同         3      同         4
2008/12/11追加:「O」氏ご提供画像:2008/11/23撮影
 岐阜公園三重塔11       同        12      同        13      同        14
  同         15       同      16:立断面図:心柱は懸垂式とされる。
2012/06/10追加:「Y」氏ご提供画像
 岐阜金華山麓三重塔:絵葉書、大正7年〜昭和7年頃(「Y」氏推定)
409 遠江方広寺 . 11
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現塔婆は大正12年建立山口玄洞氏の寄付で再興。
一辺3.3m。小型であるが、純和様の木造塔である。
第一次世界大戦後の不況を堅実に凌いだ「山口商店」に因み「倒産よけの塔」とも呼ばれると云う。
寺伝では永禄年中(1558-)塔着工するも、中断、宝暦年中(1751-)に竣工。明治14年方広寺大火の時に焼失。
方広寺は臨済宗方広寺派大本山(末寺170ヶ寺)。明治14年の大火で全山ほぼ焼失、建物はほぼ全てその後の再建になる。広大な境内に60数棟の堂宇を備える。
開山は建徳2年(1371)、開山上人は無文元選禅師(後醍醐天皇皇子)、鎮守は奥山半僧坊大権現、鎌倉建長寺半僧坊大権現はここから勧請されると云う。半僧坊は「飯僧」の転訛と云われる。
 遠江方広寺黒門     遠江方広寺山門
 方広寺半僧坊大権現1     方広寺半僧坊大権現2     遠江方広寺本堂
 遠江方広寺大書院     遠江方広寺鐘楼
 遠江方広寺勅使門    遠江方広寺開山堂1    遠江方広寺開山堂2    遠江方広寺開山堂3
410 武蔵法恩寺 . 塔1
塔2
塔3
塔4
塔5
2011/01/05撮影:
昭和2年建立。寺側では昭和7年建立とする。一辺2.65m。RC造。 日蓮上人650年遠忌を記念して建立。一石一字の経石を収めたので「経石塔」と呼ぶ。初重は鐘楼。細部は省略・簡略な塔。
平成22年大改修を行う。
長禄2年(1458)太田道灌が江戸城築城にあたり、丑寅の方(平河村・現在の江戸城平川門付近)に城内鎮護の祈願所として本住院を建立する。開山は本住院日住上人、開基は太田道灌。資高(道灌孫)、本住院を法恩寺と改称する。
 →相模衣笠大明寺
徳川家康の江戸城拡張により、慶長10年神田柳原に移転、さらに谷中清水町に移転した後、元禄8年(1695)幕府の命で現在地に移転。当時は寺中20ヶ院、末寺11ヶ寺を擁する。
関東大震災と今次大戦で焼失。塔のみ戦災は免れる。昭和29年本堂再建。山号は平河山。
 法恩寺山門     法恩寺本堂
現在は○法恩寺門前に○寺中善行院、○寺中陽運院、○寺中千榮院、○寺中法泉院の4院を残す。
◎「江戸名所圖會」天保年間刊 より
  押上法恩寺:・・・花洛本圀寺の触頭江戸三ヶ寺の一員たり・・・
  →京都本圀寺
411 東京都慰霊堂 . 塔1
塔2
塔3
塔4
塔5
塔6
2011/01/05撮影:
昭和5年建立。 一辺10m、高さ44.5m(基壇含む)、塔高は41m。RC造。塔としてはRCであることと各種の省略があり良質とは云えない。基壇部は納骨堂となる。
東京都慰霊堂は昭和5年に関東大震災の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を祀る震災記念堂として創建される。昭和23年より今次大戦中の東京大空襲の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を合祀し、昭和26年に現在の姿となる。
本堂は伊東忠太設計による。講堂には祭壇がある。
2012/04/28追加:
 震災記念堂の全景:絵葉書
412 東本願寺札幌別院北海霊廟 . . 擬製塔婆のページへ移管
413 越中光厳寺 . 図1
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昭和11年建立。RC造。昭和20年の戦災で、本堂・二重門などは焼失したが、三重塔は残 ると云う。一辺4.3mで、木造塔にかなり忠実に造られる。現在はベンガラ色に彩色される。
光厳寺は長禄2年(1458)の開創という。当初は増山城下にあったが、射水郡守山城下に移り、神保氏の保護を受ける。慶長10年前田利長によって富山城下に移され、富山藩初代利次によって菩提寺となる。 寛文年中に現地に4500坪に寺地を与えられる。曹洞宗。
なお明治維新の富山藩の廃仏では、禅宗(曹洞・臨済)での唯一の残存寺院とされる。
414 陸奥法光寺 . 図1
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昭和24年建立。一辺26尺4寸(7.37m)総高3106尺(33m)の木造大型塔。承陽塔と称する。
初重:道元の分骨を安置、2重3重には五百羅漢を安置と云う。
基本的に和様の塔であるが一部唐様を混用する。
心柱は3重で吊り、従って荷重は3重梁に荷(か)け、揺れ防止として初重の梁に「枘を差し込む」構造を採るとされる。
なお以前はこの塔に昇ることが可能であったが、現在は「悪戯」がひどい為、中止しているとのこと。
法光寺は最明寺入道時頼の再興と云う。真偽は不明ながら「出逢坂」「御坊塚」の遺跡を残す。
曹洞宗。名久井岳の山麓にある。
 相輪の残欠が放置される。三重塔の相輪が老朽化し取替が行われ、その折に下に降された旧相輪とも推測されるが、これは全くの想像で実態は不明。
 法光寺相輪・九輪残欠:心柱に木製で九輪を造り、外側を銅板で覆う構造を持つ。
   同   ・伏鉢請花1     同   ・伏鉢請花2
 法光寺三重塔形公衆東司
415 武蔵長徳寺 . 図1
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昭和44年(1969)「開山塔」として建立。以前は境内の片隅に位置していたが、昭和59年現在の本堂の左脇の位置に移築されると云う。木造・素木。 一辺3・5m。細部はやや簡略化される。その他の詳細は不詳。
長徳寺は臨済宗建長寺派、相当の寺院規模を有する。貞治3年(1364)足利基氏の開基、天正19年中興。
江戸期には寺領40石。 図1〜6:2005/08/29撮影
2007/10/20追加:「O」氏撮影画像 :2000/11/05撮影
 武蔵長徳寺三重塔1     武蔵長徳寺三重塔2     武蔵長徳寺三重塔3
 武蔵長徳寺三重塔4     武蔵長徳寺三重塔5
2011/05/03追加:2011/03/12撮影、2011/03/11東日本大震災翌日撮影、「O」氏ご提供画像
 武蔵長徳寺三重塔18:塔には特に震災による損傷は無いと云う。
 武蔵長徳寺三重塔19:軒下化粧板は合板使用と思われる。かなり剥げ落ちる様子が見えるが、特に震災の影響で剥落したと云うことでもないであろう。2005/08撮影の図5・図6で見られるように以前から剥落は見られるからである。 写真を比較すると以前より剥落は進行するも、これは以前の写真から5年ほど経年したことによる劣化の進行であろう。
2013/01/15追加:2013/01/12「O」氏撮影画像:
現在三重塔は改修中である。
「ベニヤの軒天(裏板)が剥離して垂れ下がっているのが余りに相応しくないと思った」のであろうか。
「銅板を剥がし、野地板と野垂木を撤去し、二重垂木とその間の木負、軒先の茅負(裏甲は見えなかった)だけになって」いる。「今までの銅屋根も裏板も酷かったので」(上掲武蔵長徳寺三重塔19図6)改修の結果、外観が刷新されると期待される。
 武蔵長徳寺三重塔20     武蔵長徳寺三重塔21     武蔵長徳寺三重塔22
2013/04/11追加:2013/04/07「O」氏撮影画像:
ほぼ補修は完工の様子と云う。
 武蔵長徳寺三重塔23     武蔵長徳寺三重塔24     武蔵長徳寺三重塔25
2013/04/13「O」氏撮影画像
足場・覆が撤去され、改修は竣工する。「O」氏情報を総合すると、屋根(銅板葺)は葺き替え、軒下化粧板のベニヤは撤去、板材と取替え、壁のコンパネ(台輪上の古壁もコンパネにペンキ塗) も撤去、漆喰壁とする。
さらにおそらくは塔の見栄えの向上の為に勾欄を新設・・といった改修と思われる。
確かに、改修前の状態より数段品格が向上したものと思われる。
 長徳寺三重塔41    長徳寺三重塔42    長徳寺三重塔43    長徳寺三重塔44
 長徳寺三重塔45    長徳寺三重塔46    長徳寺三重塔47    長徳寺三重塔48
 長徳寺三重塔49    長徳寺三重塔50    長徳寺三重塔51    長徳寺三重塔52
 長徳寺三重塔53    長徳寺三重塔54    長徳寺三重塔55    長徳寺三重塔56
 長徳寺三重塔57    長徳寺三重塔58    長徳寺三重塔59    長徳寺三重塔60
 長徳寺三重塔61    長徳寺三重塔62    長徳寺三重塔63    長徳寺三重塔64
 長徳寺三重塔65    長徳寺三重塔66
 長徳寺三重塔勾欄    長徳寺三重塔相輪    長徳寺三重塔水煙等
なお、本改修工事の監督の談によれば、本塔が建立されて4年(3年)後、甲斐恵林寺三重塔が同じ建築業者によって建立されると云う。この意味で、本塔は恵林寺塔の「練習」であったのではないかとも云う。
確かに本塔と恵林寺の外見は酷似する。
416 信濃善光寺 . 遠望
図1
図2
本堂
忠霊殿と称する。要するに靖国神社あるいは護国神社の善光寺版と思われる。
社会的には天皇制専制国家、宗教的には国家神道によって、徴兵され、戦場で落命した市民を忠霊として祭祀するとは、どこまで市民を愚弄するつもりなのであろうか。
忠霊殿は明治39年に創建され、昭和45年に三重塔に改築されたとされる。鉄筋コンクリート製。高さ44.5m、 一辺10.3m、唾棄すべきものであろう。
417 大和朝護孫子寺 . 塔頭玉蔵院三重塔、大和信貴山のページ
418 摂津鏑射寺 . 図1
図2
図3
昭和47年建立。昭和の新造塔であるが、本格的な和様の塔婆建築で ある。
鏑射山のほぼ山頂近くに位置する。兵庫の塔では比較的訪問の容易な場所にある。聖徳太子の開基と伝えるも、幕末の兵火で廃寺となる。昭和35年現住の力で再興され、境内伽藍は今日も整備され続けている 様子である。
「昭和の木造五重塔(7)」吉田実、史迹と美術、65(2) では
山城三明院多宝塔は滋賀県佐藤幸治氏(競輪業界)の寄進による。宮大工安田政一の設計施工。但し安田氏は京都教育委員会大森健二氏の指導を受ける。
一方参議院議員大野木秀次氏から三明院に三重塔寄進の申出があり、同じ宮大工安田氏に施工依頼をし(設計は滋賀大沼義則氏・指導は大森氏)昭和36年から木取り、部品可工が開始された。三明院境内の地割未確定、寄進者の逝去、三明院3世佐竹周海師の急逝などの事情で建立は中止され、加工部材は安田工務店倉庫に保存された。昭和45年鏑射寺の三重塔建立の計画があり、大森氏の周旋で安田工務店の仕掛中部材を購入し、不足の上層部部材は追加加工することで、昭和45年に着手、昭和47年落慶となった。不幸にして安田棟梁は仕掛中部材輸送中の交通事故で半身不随となる。その後の工事の棟梁は人見立一棟梁が勤める。人見棟梁は完成後、安田工務店を退職し、讃岐志度寺五重塔工事に着手する。
419 紀伊青岸渡寺

図1-10は
「O」氏
ご提供 :2007/07/30撮影

. 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
図9
10
昭和47年建立(再興)。鉄筋コンクリート。 但し斗栱は木造である。
一辺12m (基壇の大きさか)、高さは25m。一辺は5.35m。
塔にはエレベータと階段が付設し、拝観料を払えば塔内に入り、三重まで登ることが出来る。
三重に本尊千手観音(飛滝権現本地仏)、二重に阿弥陀如来像(山中鹿介持仏堂本尊であったと云う)、初重に飛瀧権現、不動明王(不動堂本尊であった)を安置する。各重壁面には彩色の金剛諸界仏、観音、不動明王などの壁画を描く。二、三重は展望所を兼ねる。
 ※古の三重塔は 平安末期に建立と推定される。永久5年(1117)の白河上皇の行幸の記録、大治元年(1126)白河法皇、鳥羽上皇、待賢門院の行幸の行幸の記録には、塔の供養、塔を慶賀などの記事がある。
塔のあった場所は今とは違い、近世の絵図(この時三重塔があったのは疑わしい)では本堂の裏手に描かれるので、古の塔はその付近にあったのであろうか。
天正9年(1581)三重塔焼失と云う。
2013/07/08撮影:
 青岸渡寺三重塔11   青岸渡寺三重塔12   青岸渡寺三重塔13   青岸渡寺三重塔14
 青岸渡寺三重塔15   青岸渡寺三重塔16   青岸渡寺三重塔17   青岸渡寺三重塔18
 青岸渡寺三重塔19   青岸渡寺三重塔20   青岸渡寺三重塔21   青岸渡寺三重塔22
 青岸渡寺三重塔23   青岸渡寺三重塔24   青岸渡寺三重塔25   青岸渡寺三重塔26
 青岸渡寺三重塔27
 三重塔安置千手観音坐像:三重に安置、飛滝権現本地仏
 三重塔安置阿弥陀如来立像:二重に安置、尼子家家人山中鹿之助家の持仏堂本尊であったと云う。
 那智大滝1     那智大滝2     那智大滝3     那智大滝4     那智大滝5
○青岸渡寺は西国33か所観音霊場第1番札所。那智山熊野権現如意輪観音堂である。
(熊野十二所権現、熊野十三所権現、那智山権現)
開基は仁徳帝の頃(4世紀)、天竺僧裸形上人による、上人は那智大滝において修行を積み、瀧壷で八寸の観音菩薩を感得し、ここに草庵を営んで安置したのが最初と云う。
明治4年、神仏分離の処置により那智山熊野権現(熊野十三所権現<十二所権現に那智滝宮を加える>)は「熊野那智神社(後、熊野那智大社)」と改称され、那智の大滝 は「別宮飛瀧神社」と改号される。熊野那智権現は「国策神社」となり、多くの寺坊・堂舎が取壊される。但し、那智山熊野権現「如意輪観音堂」は取壊しを免れ、廃堂となる。
 ※那智山熊野権現は盛時、7寺(7寺とは本願所)36坊を算したと云う。
 ※神仏分離の処置の時、如意輪観音堂の仏像仏器などは補陀洛山寺などに遷される。
明治7年、廃堂を天台宗青岸渡寺として再興、以降順次復興する。
2013/07/08撮影:
 青岸渡寺山門1    青岸渡寺山門2
本堂:重文、天正18年(1590)豊臣秀吉の建立、桁行9間・梁間5間、入母屋造、向拝一間、屋根杮葺。
 青岸渡寺観音堂1   青岸渡寺観音堂2   青岸渡寺観音堂3
 青岸渡寺観音堂4   青岸渡寺観音堂5   青岸渡寺観音堂6
 青岸渡寺鐘楼     青岸渡寺如法堂:大黒堂
那智山の組織:社僧が那智山を経営するも、社僧は東座と西座に組織され、各々の執行が統括した。
両座の下には宿老(隠居執行)、講誦、衆徒、滝衆、行人、如法道場役人、穀屋など合わせて200名を越える僧俗が属すると云う。東座執行は潮崎尊勝院で、西座執行は西仙滝院であったが、近世には米良実方院であったと云う。
 青岸渡寺尊勝院1   青岸渡寺尊勝院2   青岸渡寺尊勝院3   青岸渡寺尊勝院4
 青岸渡寺尊勝院5   青岸渡寺尊勝院6   青岸渡寺實方院跡1   青岸渡寺實方院跡2
 青岸渡寺積徳坊跡
宝篋印塔:重文、元亨2年(1322)有銘。
 青岸渡寺宝篋印塔1   青岸渡寺宝篋印塔2
◇「社寺参詣曼荼羅」(目録)大阪市立博物館、1987 より(2010/10/06追加)
那智参詣曼荼羅は23本の図が伝わる。
紀伊闘鶏神社本・紀伊那智大社本・紀伊補陀落山寺本・紀伊正覚寺本・紀伊妙心寺旧蔵本・伊勢西光寺本・伊勢大円寺本・吉備津彦神社旧蔵本(現個人蔵)・備前下笠比丘尼伝来本・備中某家本(個人蔵)・佐渡相川郷土博物館本・佐渡後藤家本・出羽斉藤家本・京都西福寺本・近江西教寺本・国学院大学巻子本・東京二曲屏風本(個人)・讃岐浦の谷薬師庵本・広島王舎城美術宝物館本・奈良個人蔵・エルンベルガー夫人本(仏、あるいは長命寺参詣曼荼羅か)・大建修三本 (神社古図集にあり)
 那智参詣曼荼羅1:紙本着色、152×158cm、備前下笠比丘尼伝来本、江戸中期か
 那智参詣曼荼羅2:紙本着色、152×165cm、紀伊闘鶏神社蔵本、慶長元年の墨書銘あり(但し明治22年の改装時に宝暦3年銘とともに書いたものである。)
 那智参詣曼荼羅3:紙本着色、48×114cm。奈良個人蔵(茶掛幅本)、江戸期か
2017/04/13追加:2017/03/02撮影:和歌山県立博物館展示:複製、江戸前期、正覚寺本
 熊野那智参詣曼荼羅4      熊野那智参詣曼荼羅4文字入
○熊野権現略歴
 熊野権現とは熊野三山(熊野山本宮、熊野山新宮、那智山)の祭神である神々を云う。
そのうち、主祭神である「家津美御子(けつみみこ、本地千手観音)」・「速玉(はやたま、本地薬師如来)」・「牟須美(むすび、本地阿弥陀如来) 」の3神を指す場合、「熊野三所権現」と称し、熊野三所権現以外の神々も含めて熊野12神を指す場合「熊野十二所権現」と称する。
なお、那智山では「瀧宮」(本地千手観音)を加え「熊雄十三所権現」と称する。
社殿は熊野三山(熊野山本宮、熊野山新宮、那智山)にあり、各々十二所権現(那智は十三所権現)を祀る。
 元来、熊野三山は素朴な自然信仰(那智は那智の大滝)であったのであろう。延喜式神名帳では熊野三山の統一性は見られず、那智山はその名を見ない。
しかし平安後期には、本地垂迹説が取り入れられ、熊野三所権現・十二所権現が成立し、さらに鎌倉期初頭には熊野三山が各々相互の祭神(十二所権現)を祀り熊野三山の一体化がなされたと推測される。
 ところで、中世における熊野三山の経済基盤は、熊野山(本宮・新宮)・那智山へ寄進された荘園、熊野御僧供米、造営料国・造営料所などの収入などであり、この財源により三山の経営・造営がなされていた。
しかし中世後期には荘園は侵食され、造営料国などの実効性も失われることとなる。
 こうした中、室町後期には熊野三山でも勧進聖が組織化(本願所と呼ぶ、熊野では庵主と云う)されるが、熊野の本願所は全国でもとりわけ規模が大きかったことで知られる。
 ※この勧進聖の実態は高野山と同様に時宗化していたものといわれる。
 さて、本願の概要であるが、新宮庵主は霊光庵と称し、末社神倉社にはさらに独自の神倉本願が組織されていたと云う。一方、那智庵主は7ヶ寺の大規模な本願所(穀屋とも云う)から構成されていた。
 新宮では、中世末期、新宮庵主として当山方大先達36ヶ寺の一つである叡山末近江飯道寺梅本院から庵主を向える。これは天台宗比叡山の権威を背景にして勢力の拡大を狙ったものであろう。但し飯道寺の庵主は元禄15年(1702)「不如法」により勘当され、飯道寺(梅本院・岩本院など)出身の庵主は途絶えるも、天台僧によって明治維新まで存続する。
 新宮の神倉本願は妙心寺を首座とし、華厳院(金蔵坊)、宝積院、三学院、明王院、宝蔵院、泉養坊、大正院、不動院、泉良院の10の院坊からなる。このうち妙心寺は鎌倉期に法燈国師覚心により確立されたと推測される。法燈国師は臨済宗法燈派の開祖であり、かつ高野聖の一派たる萱堂聖としても知られることから、法燈国師の影響下で妙心寺は勧進活動 の中心の地位を占めるようになったと推測される。また妙心寺は比丘尼たちを統率する寺院であったようである。
 ※妙心寺:明治の神仏分離の処置で神倉社と分離、住持貞宝尼が還俗、桜本を名乗り無住となる。現在は真言宗尼寺として神倉社の管理で存続するようである。神倉社本地愛染明王を祀る。
 那智山には七本願・七ツ穀屋などと呼ばれた次の7ヶ寺の本願所が知られる。
1.天台宗御前庵主(那智本社拝殿向側);管轄は本社(結神・瀧宮・證証・中御前・若一王子)、満山護法社、行者堂、鐘楼堂、閼加井、仁王門、振ヶ瀬橋および二ノ瀬橋など
2.真言宗瀧庵主(如意輪堂東側側面);管轄は滝本の諸堂(千手堂、護摩堂、愛染堂)、飛瀧権現拝殿、地蔵堂、山上不動堂
3.真言宗那智阿弥(如意輪堂側面)管轄は那智山如意輪堂(那智山青岸渡寺)
4.真言宗補陀洛寺(那智浜):管轄は浜宮三所権現社、拝堂、千手堂
5.真言宗妙法山阿弥陀寺(妙法山)管轄は妙法山内諸堂
6.真言宗理性院(御前庵主の傍):管轄は那智本社の内、御前庵主分掌以外(御前拝殿・廊下、禅師宮・児宮以下の八社宮)
7.天台宗大禅院(御前庵主の傍):管轄は如意輪堂(那智阿弥と共同)
現在では、補陀洛寺、妙法山が現存する。
この大規模な庵主が成立・存続した要因としては、那智は西国三十三所1番札所であり、西国札所の隆盛と共に多くの信者・参拝者があったことが挙げられる。
 熊野本宮については幾たびかの熊野川の氾濫により古文書・古記録及び故地が損なわれ、不詳である。
熊野本宮の本願(庵主1ヶ寺)は早くに廃絶していた模様である。
 近世に入り、幕府の宗教統制や紀州藩主徳川頼宣の宗教政策などの影響もあり、社家と本願とは三山の経営を巡り、多くの相論を引き起こす。そのなかで、社家と本願の立場を逆転させたのが、延享の裁許と云われるものであろう。
延享元年(1744)幕府寺社奉行より新宮・那智に宛てて裁許が出される。
これにより、社家と本願の関係が明確化される。一言でいえば、本願は社家に従うべき地位に落とされたということである。
さらに、元禄(1688-)〜享保(1716-)にかけて那智の本願では無住化が進み、延享元年には瀧庵主、大禅院、理性院、阿弥陀寺は無住、補陀洛寺は御前庵主の兼帯となり、新宮神 倉本願では本願を退いた華厳院・宝積院・三学院が宝暦年中(1751-)までに廃寺となると云う事情もあり、急速に本願は衰えを見せる。
時は移り、庵主の実態は修験であったため、明治維新の神仏分離の処置及び修験の禁止の処置で熊野の本願は壊滅する。
○那智山熊野権現
2013/07/08撮影:
 那智山熊野権現横門:門の名称不詳     那智山熊野権現鈴門・瑞垣
 社殿:第1殿〜第4殿   社殿:第1殿〜第3殿   社殿:第3殿〜第5殿
 那智山熊野権現第1殿1   那智山熊野権現第1殿2
 那智山熊野権現第2殿1   那智山熊野権現第2殿2
 那智山熊野権現第6殿1   那智山熊野権現第6殿2   那智山熊野権現第6殿3
 那智山熊野権現第6殿4   那智山熊野権現第6殿5   那智山熊野権現第6殿6
 那智山熊野権現御県彦社1   那智山熊野権現御県彦社2   那智山熊野権現御県彦社3
社殿の配置は以下のようである。
拝殿の背後に鈴門・瑞垣囲まれた区画を造り、左(東)から第一殿(滝宮)、第二殿(証誠殿)、第三殿(中御前)、第四殿(西御前)、第五殿(若宮)が並び、第六殿(八社殿)は右手に位置し、その前方に御県彦社が位置する。
拝殿以外は全て重文、御県彦社を除き嘉永7年(1854)までの建立、御県彦社は慶応3年(1867)の建立と推定される。
第一殿から第五殿までの本殿は熊野造(切妻造妻入正面に庇を付設、四方に椽を廻らせる)屋根檜皮葺、正面蔀。第4殿は主殿のためやや規模が大きい。
第六殿(八社殿)は八間社流造、御県彦社は一間社流造とし、屋根檜皮葺。
420 甲斐恵林寺 . 図1
図2
図3
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図7
図8
四脚門
三門
昭和48年建立。純木造無彩色。 一辺3.42m。屋根銅板葺。初重正面のみ中央間板唐戸、両脇間連子窓、残り3間は白壁、二重・三重も各間全て白壁、組勾欄を付設。組物斗栱は各重とも出組。
斗栱など正規の塔の建築ではなく、その意味でやや浮薄な印象である。基壇はコンクリート製。
初重は位牌堂、基壇を含む半地下は納骨堂の機能を持つ。仏舎利宝塔と称する。
以下写真は◇「O」氏ご提供画像:1991/03/03撮影
 ◇甲斐恵林寺三重塔1甲斐恵林寺三重塔2
元徳2年(1330)夢窓国師の開山、甲斐国守護ニ階堂貞藤(道蘊)邸を禅刹とす、現在は臨済宗妙心寺派、武田信玄墓所。
 ◇甲斐恵林寺四脚門1甲斐恵林寺四脚門2甲斐恵林寺四脚門3・・・四脚門(赤門・重文)
慶長11年(1606)再建(棟札)、徳川家康の再興、唐様を用いる。
 ◇甲斐恵林寺三門(近世初頭の建立)
 ◇甲斐恵林寺開山堂甲斐恵林寺大庫裏・・・いずれも古建築ではない 。
2013/04/26追加:
本塔を建築した業者は4年ほど前に武蔵長徳寺三重塔を建築したと云う。
421 下総東海寺 . 図1
図2
図3
図4
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図7
図8
図9
昭和48年建立。総欅純木造。山城岩船寺塔がモデルとも云う。 一辺2.76m、高さ16m。基本的には和様を用いる。屋根は銅板葺。本尊不動明王。(株)奥谷組施工。
布施弁天。新義真言大塚護持院末。
布施弁天は浅草弁天山(上野寛永寺不忍池弁財天とも云う?)、江ノ島とともに、関東三弁天のひとつと云われる。
多宝塔式鐘楼:文化15年(1818)建立:しかし「塔」ではない。
布施弁天鐘楼1      同      2       同      3
布施弁天本堂、享保2年(1717)の建立。
布施弁天本堂1      同       2
2013/12/23追加:
○「O」氏撮影画像(平成初期から平成10年代の間に撮影と推測)
 下総東海寺三重塔11     下総東海寺三重塔12     下総東海寺三重塔13
 下総東海寺三重塔14     下総東海寺三重塔15
422 武蔵道場寺 . 図1
図2
図3
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図5
図6
図7
図8
図9
10
11
12
昭和49年(1974)落慶。総欅・素木。田辺泰の設計。小島建設施工。
安置仏は香取正彦作の金銅薬師如来像。台座にはスリランカから招来した仏舎利が安置。
一辺4.18m、総高23m余り。大型塔に属する。
純和様の端正な塔で昭和戦後の木造塔の代表とも思われる。
塔周囲には樹木が茂り、全貌を撮るには難しい塔である。

曹洞宗。応安5年(1372)石神井城主豊島景村の養子輝時により豊島山道場寺と改号されたと伝える。
豊嶋氏代々の菩提寺であった。文明9年(1477)豊嶋氏は太田道灌に敗れ、諸堂宇は灰燼に帰す。
近世初頭に再興されると伝える。
現在の本堂は唐招提寺金堂を模すと云う。
練馬区石神井台1-16-7
423 尾張岩屋寺 . 図1
図2
図3
図4
経蔵
昭和48年(1973)建立。RC製。細部は省略。その他は不詳。
寺伝では霊亀元年(715年)元正天皇勅願、行基によって創建と伝える。大同3年(808)弘法大師来山。
文化年間(1804〜18)豪潮により再興、尾張徳川家の祈願所となり、12坊を有する。
昭和24年天台宗から独立、尾張高野山宗を称する。
◎「尾張国知多郡誌」田中重策編輯・山口平之助校訂、明治26年 より
 大悲山岩屋寺:天台宗、野田蜜蔵院末。霊亀元年創建、元正天皇の御願、行基の開基、弘法大師この地に来り護摩を修す。永享9年回禄、後再建。慶長5年九鬼長門守堂宇を焼く。
往古12坊あり。中ノ坊、谷ノ坊、橋ノ坊、南ノ坊、杉ノ坊、北ノ坊、西ノ坊、奥ノ坊、栗ノ坊、一乗坊、梅ノ坊、千光坊と云う。今存するもの中ノ坊、谷ノ坊、橋ノ坊、杉ノ坊の4坊のみ。
◎「尾張名所圖會 巻之6」岩屋寺: 全    図
424 摂津尼崎本興寺 . 昭和48年11月建立。
攝津本興寺
425 大和常念寺 . 画像 昭和49年8月完成。RCと思われる。三重塔と称するも醜悪であろう。
本来は無視すべきであるが、通常三重塔として取り上げられているので、収録する。
納骨堂の機能を持つ。
426 大和法輪寺
(法淋寺)
.

現存三重塔で最古のものであったが、昭和19年落雷によって焼失。現塔婆は昭和50年再興。
大和法輪寺

427 備前西光寺
   :小豆島
. 図1
図2
図3
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図5
図6
図7
図8
図9
10 楼門
昭和50年(1975)建立。 一辺 3.38m。木造丹塗、純和様の様式からなる。屋根本瓦葺、金剛界大日如来安置。 心柱は基壇の礎石上には降りていない。
塔は西光寺裏の丘上にある。西光寺中興400年の記念事業の一環として建立。誓願の塔と称する。地下霊堂は位牌堂とする。
王子山蓮華院と号する。弘安年中(1278-)に鹿島に創建されたという。(鹿島明神の神宮寺であったとの説もある。)一方慶長年中に中興されたともいう。
小豆島88所第58番札所。
 ※小豆島は現在香川県(小豆郡)に属する。
428 尾張明蔵寺 . 図1
図2
図3
図4
図5
図6
昭和51年(1976)建立。欅・白木の本格木造建築。
高さ17m強、一辺3.25m。
野宮山と号する。真宗本派。
429 陸奥東園寺 . 図1
図2
図3
塔本尊
昭和52年(1977)建立。鉄筋コンクリート製。高さ16m。シンガポール華厳精舎釈廣義師より贈られた仏舎利を安置する為に建立される。 三重塔ではあるが、建築としては粗悪。
東薗寺は延宝年中(1673-)頃、蛮渓東廣禅師によって中興と伝える。また近世初頭の曹源によって伽藍が整備されると云う。
慶応3年、塩釜大火により伽藍焼失、法連寺(明治維新で廃寺)護摩堂を受譲、本堂兼庫裏となす。
その後、伽藍を順次復興する。臨済宗妙心寺派。
430 下野長泉寺 . . 昭和53年。木造・素木。高さ13m。「慈光殿」と呼ばれている。( 那須郡小川町)
431 大洗護国寺 . 図1
図2
図3
図4

昭和53年建立。RC造丹塗り。斗栱は三手先に造る。初重に裳階を付ける。高さは20m内外。
(株)奥谷組施工。
略歴:初代住職は井上日召のようである。井上日召は、渡満帰国を繰り返し、やがて故郷群馬に引き篭もり、一種の神秘主義者になると云われる。昭和3年頃より、大洗近くのドンドン山(通称)に小堂を建て、題目に明け暮れ、さらに加持祈祷も行い、 その神秘主義は近隣の評判になっていたとされる。
昭和4年地元の水浜電鉄会社が、宣伝と地元発展を目的(あるいは日本精神の研修道場)として近くの東光台に護国堂を建立。この護国堂に井上日召が迎えられ、これが護国寺の起源と云う。
昭和7年以降、井上日召は血盟団盟主として所謂血盟団事件に関与し、日本が暗黒の道を歩む一つのきっかけとなったことは周知のとおりである。
昭和53年護国寺再建の一環として現三重塔が建立されたと云う。建立には、「昭和維新」と称した諸事件関係者の鎮魂の意味なども込められているのであろうか?。 境内にある井上日召の銅像、昭和維新烈士の墓、あるいはちらりとお見かけした現住の風貌など 、ここには今でも戦前の精神風土が漂っているようである。
◎図1〜4:2004/04/25撮影
2022/12/01追加:
○2022/08/22朝日新聞夕刊記事「水戸学の道 1 護国寺」 より
 元々は立正護国堂が起源であり、護国堂は「勤皇水戸」を高く評価した田中光顕(宮内大臣)が建立した常陽明治記念館の隣に、昭和3年「人材育成の場」として建てられた堂であった。
大陸から帰国した井上日召は日蓮宗僧侶となり、立正護国堂に定住(住職)する。
本寺にて、井上日召は同憂の志を集め、会合を重ね、本寺は血盟団事件、5・15事件を惹起する震源地となる。
住職だった和田日勇は2011年に逝去、「無住」が続き、2022年春に光枝浩生(59)が新住職となる。
 ※光枝浩生はこの護国寺で修行したことがあり、東京都新島長栄寺住職で、供養のため大洗に毎月通うという。
境内には井上日召像、その左には昭和維新烈士の墓(四元義隆らの建立?)がある。
 井上日召像:背後に三重塔が写る。     昭和維新烈士之墓
本堂には昭和維新の事件関係者の遺影が並ぶ。
 護国寺本堂内部
昭和維新は「一君萬民(天皇中心の平等)」をスローガンとした世直しの行動(国家改造運動)であった。その手段は「一人一殺主義」であった。
三重塔:
菱沼五郎(小幡五郎に改名)が建立に奔走。
 ※菱沼五郎:血盟団事件で三井財閥総帥團琢磨を射殺する。無期懲役となるが恩赦で出所、戦後は茨城県議会議長となる。
菱沼は水戸藩の勤皇思想や水戸学(藤田東湖)からの殉国精神に幼少から影響と受けたと述回する。
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年
昭和4年創立、開山は一乗院日謙(1世)、開基は井上日召(2世)、東光山と号す、昭和31年寺号公称。3世は風間円静、4世は武井日進。
○「塔に魅せられて(関東編)」山際得悦、ぎょうせい、平成2年 より
 ※本著の中に「護国寺護持会」発行の「沿革由来」からの転載があるので、以下その一部を再転載する。
「昭和4年国家愛の権化日蓮大聖人の教義宣布と道義を基調とする護国精神の研修道場として創立され、国家の安寧と皇室の御安泰を祈願して今日に至る。」
「発起人としては維新の元勲元宮内大臣田中光顕伯、井上日召、大川周明、荒木貞夫、石原莞爾、頭山満翁等概世憂国の志士多数が参画され、名実共に兼ね備えた護国の聖社として発足した。」

432 甲斐長禅寺 . 甲斐長禅寺五重塔・三重塔
433 山口妙法寺 . . 昭和53年(1978)。コンクリート製の粗雑な塔のようです。総高約20m。
434 山城西芳寺
   (苔寺)
. . 純木造。高さ25m。昭和53年建立。拝観困難。
塔は納経塔であり、信者の写経を納め、本尊は薬師如来である。
○「伸和建設資料集」より:伸和建設の手になる
 山城西芳寺三重塔    山城西芳寺平面図
木造塔、裳階付、心柱が上まで入り各層を組み上げる工法。
2007/11/29追加:三重納経塔と称する。総檜・銅板葺、相輪部8m、総工費2億5000万円。
 山城西芳寺三重塔(竣工時写真)
2022/02/13「X」氏撮影画像:
「X」氏、西芳寺西側山林より境内に接近し、西芳寺塔婆の撮影を行う。その時の画像である。
 山城西芳寺三重塔01    山城西芳寺三重塔02
合わせて、西側からの接近方法をお聞きし、同様の方法で撮影したのが次の画像である。
2022/02/25撮影:
 山城西芳寺三重塔11    山城西芳寺三重塔12    山城西芳寺三重塔13
 山城西芳寺三重塔14    山城西芳寺三重塔15    山城西芳寺三重塔16
 山城西芳寺三重塔17    山城西芳寺三重塔18    山城西芳寺三重塔19
 山城西芳寺三重塔20    山城西芳寺三重塔21    山城西芳寺三重塔22
 山城西芳寺三重塔23    山城西芳寺三重塔24    山城西芳寺三重塔25
 山城西芳寺三重塔26    山城西芳寺三重塔27    山城西芳寺三重塔28
 山城西芳寺三重塔29    山城西芳寺三重塔30    山城西芳寺三重塔31
 山城西芳寺三重塔32    山城西芳寺三重塔33    山城西芳寺三重塔34
 山城西芳寺三重塔35    山城西芳寺三重塔36    山城西芳寺三重塔37
 山城西芳寺三重塔38
洪隠山と号する。臨済宗天龍寺の境外塔頭であったというも、現在は単立。開山は行基、中興開山は夢窓疎石である。
行基開基49院の一院という。おそらく葛野郡大屋村の河原院が該当すると思われる。
 ※「京都府葛野郡史概要」京都府教育會葛野郡部會、大正11年 p8.では
「行基が畿内各処に設けし所謂49院の中、河原院は本郡大屋村にあり(大屋村の地今明かるからず)而して大井院は同じく大井村にありしと。
而してこの両院は共に奈良朝の盛時天平3年に設けられしと傳ふるが故に(行基年譜)、葛野川の大堰はそれ以前に設けられ子と考へざるべかざる。」
という。
 →行基開基49院<23(27)河原院の項>
伝承では、この地には聖徳太子の別荘があり、奈良期に行基が別荘から寺(法相宗西方寺)へと改めたともいう。
さらに、平安初期空海が入山ともいう。
鎌倉期には法然により浄土宗に改宗、親鸞も滞留するという。
暦応2年(1339)室町幕府重臣・松尾明神神官である摂津親秀が再興、夢窓疎石を招いて臨済宗に改宗し、寺号「西芳寺」とする。
 山城西芳寺門前1     山城西芳寺門前2     山城西芳寺門前3
435 周防一の滝寺 . 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7

昭和54年建立 。総高約10m。正規の木造塔。(この地方の大工の手になると云う。近隣の桜地蔵院多宝塔・・昭和58年落慶・・も同一の大工の手になると云う。)軸部は基本的に和様を用いるも、尾垂木は唐様の鎬を入れる。 屋根銅板葺。本尊大日如来、大日如来の扁額を掲げる。
真言宗醍醐派鳥越山一の滝寺(当山派修験)と号する。大正10年富島真海、岩国町錦見に錦見教会を開設、昭和6年現在地に移転、昭和46年不動堂建立、一の滝寺と改号する。
三重塔本尊大日如来
一の滝寺本堂      一の滝寺不動堂
一の滝?:境内に小滝があるが、これが一の滝であるのかどうかは分からない。

436 埼玉青葉園 . 図1
図2
図3
図4
図5
昭和53年(1980)竣工。 総高31m余り。三重塔としては大型塔です。モデルは若狭明通寺三重塔で、設計は安田昭二氏。総檜の伝統様の塔婆です。彩色。 塔は「万霊追悼三重塔」と称する。
2007/11/06追加:「O」氏ご提供画像(1997/12/28撮影)
 埼玉青葉園三重塔1    同        2    同        3    同        4
   同        5    同        6    同        7    同        8
以下Web情報から:
青葉園は昭和29年開園、32年には財団法人として認可された日本で最初の民営公園墓地という。
創園は吉田亀治陸軍大尉で「自己の所有せる雑木林を中心に公園墓地新設を計画」する。
隣接して神明?鳥居・神明造?の神殿が建つも、祭神は山下奉文陸軍大将と云う。(青葉神社?)
牛島満第32軍(沖縄)司令官(陸軍大将)の墓がある。その他、乃木将軍胸像、第32軍有川中将顕彰碑などもある模様である。
437 筑前正行寺 . 塔1
塔2
塔3
山門
本堂
塔4
塔5

昭和55年(1980)建立。コンクリート製。法起寺塔婆がモデルなのであろうか飛鳥期の意匠で造作される。
コンクリートは無彩色のまま。
正行寺は真宗本願寺派、松見山と号す。創建は文祿2年(1593)で天台宗であったと伝える。
寛永元年(1542)明順によって浄土真宗に改宗したと云う。
本堂、三重塔、山門、鐘楼など主要伽藍はコンクリートの打ち放ちで構成される。
 ※塔1〜3、山門、本堂は2011/04/12撮影、塔4、5は2011/04/13撮影

438 武蔵永林寺 . 01
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昭和55年(1980)完成。 棟梁は安田昭二氏。総檜造、屋根銅板葺。高さ20m。
 ※永享4年(1432)建立安芸向上寺塔をほぼ模す。(従って、当然禅宗様の塔である。)
本尊聖観音菩薩。
天文元年(1532)大石定久が滝山城に移るに際し、この地(由木城)に「永麟寺」を創建する。
天文15年(1546)諸堂が完成する。曹洞宗。(八王子市)
 武蔵永林寺伽藍
総門:天文15年創建、宝暦元年(1758)再建。一間薬医門。
 武蔵永林寺総門1     武蔵永林寺総門2
三門:天文15年創建、寛文9年(1669)再建。三間一戸重層門。屋根銅板葺。
 武蔵永林寺三門
本堂:天文15年創建、寛文9年(1669)再建。
 武蔵永林寺本堂1     武蔵永林寺本堂2     武蔵永林寺本堂3
大庫裏:天文15年創建、昭和61年造替、棟梁は安田昭二氏。
 武蔵永林寺大庫裏
鐘楼:天文15年創建、昭和45年再建、再建棟梁は安田昭二氏。
 武蔵永林寺鐘楼
※写真(01〜22及び上に掲載写真)は「O」氏ご提供
2011/02/20撮影:
 武蔵永林寺三重塔31   武蔵永林寺三重塔32   武蔵永林寺三重塔33   武蔵永林寺三重塔34
 武蔵永林寺三重塔35   武蔵永林寺三重塔36   武蔵永林寺三重塔37   武蔵永林寺三重塔38
 武蔵永林寺三重塔39   武蔵永林寺三重塔40   武蔵永林寺三重塔41
 武蔵永林寺総門11
 武蔵永林寺三門11     武蔵永林寺三門12    武蔵永林寺三門13     武蔵永林寺三門14
中雀門:昭和42年横浜東漸寺山門(安永2年1772建立)を移築。天正19年創建、のち焼失、天保11年再建、昭和41年台風倒壊。
 武蔵永林寺中雀門
 武蔵永林寺本堂11     武蔵永林寺本堂12     武蔵永林寺本堂13
439 三河妙厳寺
(豊川稲荷)
. 図1
図2
三重塔は昭和55年(1980)建立。東京の信者の寄進と云う。相当な小型塔であるが、檜造りの本格的な塔婆である。
日本三大稲荷(伏見稲荷社、最上稲荷妙経寺)の一つと称する豊川稲荷として隆盛する。曹洞宗。本尊は千手観音菩薩、境内には鎮守として咤枳尼真天(稲荷)が祀られる。総門、山門、法堂、本殿、奥の院 をはじめ100余棟の建物があると云う。かなりの流行仏と思われる。ただし流行仏の常で伽藍には品格はない。
440 武蔵応善寺 . 画像

図1
図2
図3
図4
図5

昭和55年建立、おそらく素朴な伝統様の木造塔と思われる。(但し構造は不明)
総高約10mという情報あり。銅板葺き。鉄筋コンクリート製の2階建て本堂ビルの屋上に鐘楼などと共に建つ。
應善寺は真宗本願寺派、築地本願寺寺中58ヶ寺の一として江戸初頭に創建されたと思われる。
大正12年関東大震災でおそらく壊滅したものと思われ、それを契機に昭和5年に現地に移転と云う。
画像:「X」氏ご提供
441 大和薬師寺西塔 . 大和薬師寺
442 陸奥輪王寺 . 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
図9
仁王門
昭和56年(1981)建立。鉄筋コンクリート製。 開山五百回大遠忌を記念して建立。総高22.6m。
基本的には和様の意匠ながら、組物は出組を用いる。軒は二重繁垂木。
金剛宝山と号する。曹洞宗。
嘉吉元年(1441)蘭庭明玉禅尼(伊達九代政宗室)の御願により、伊達11代持宗が梁川に創建する。
その後輪王寺は、伊達氏の居城変遷(梁川・西山・米沢・会津・岩出山・仙台))とともに六遷し、現在地には伊達17代政宗の時・慶長7年(1602)に遷る。
明治九年、野火に類焼し、仁王門(八脚門・元禄4年1691)のみを残して、灰燼に帰す。
※図8・9は仏舎利塔:仏舎利塔については概要も不明。
「N」氏ご提供画像:
 陸奥輪王寺三重塔
○「梁川輪王寺跡」は「陸奥梁川八幡龍寳寺」のページ中にあり。
443 福岡浄泉寺 . 塔1
塔2
塔3
塔4
塔5
塔6
塔7
塔8

昭和56年(1981) 。コンクリート製の粗雑な塔と思われる。
浄泉寺:慶長3年(1598)僧正仙(徹門と号す)によって創建される。正仙の俗名は尾張国住古賀尾張介房光と称し、豊臣秀吉の直参であった。朝鮮征伐において立花宗茂の旗下に加わるも、名護屋城にて秀吉の死を知り、出家、一寺を建立し、立花氏より300石を知遇される。真宗大谷派。

444 鹿児島高野寺 . 図1
図2
「X」氏報告:山川町の中心部から比較的近い高台の住宅地にある。寺院は真言宗のようであるが、開創されたのは古くはないと云う。
塔は鉄筋コンクリート製で、外観は木造の本格的なものを模す。屋根銅板葺。

昭和56年建立。
 ●図1、2は「X」氏ご提供画像
2021/04/12撮影:
有海山と号する。高野山真言宗と思われる。
現在は無住、跡取りが一時継いでいたが、その跡取りも遷化して、無住となるという。(聞取り)
 ※鐘楼梵鐘完成記念碑があり、そこには平成7年(1995)完成とあるので、その頃は宗教活動していたものと思われる。
三重塔塔身はRC造、斗栱は木造彩色、勾欄もRC造。
付近での聞取り:
平成元年には寺院は存在した。昭和50年代に寺院が建てられたと聞いている。祈祷寺であった。
なお、
高野寺が立地する山川湾は約5千年前の火山噴火によって形成され、その大きさからカルデラにも分類されるマールである。周囲4km,最深部51mあり、天然の良港となる。
近辺には、池田湖、鰻池、開聞岳など、同時期の火山噴火でできた火山・カルデラ・火口湖・マールが多く見られる。
 高野寺三重塔11    高野寺三重塔12    高野寺三重塔13    高野寺三重塔14
 高野寺三重塔15    高野寺三重塔16    高野寺三重塔17    高野寺三重塔18
 高野寺三重塔19    高野寺三重塔20    高野寺三重塔21    高野寺三重塔22
 高野寺三重塔23    高野寺三重塔24    高野寺三重塔25    高野寺三重塔相輪
 高野寺鐘楼:鐘楼梵鐘完成記念碑があり、平成7年(1995)完成とある。
 高野寺堂宇     高野寺庫裡か
445 大阪円妙寺 . 画像 昭和56年(1981)。RC造。少々粗雑な造である。中寺町にあり。日蓮宗(堺妙國寺末)、宝聚山と号する。
446 摂津杜若寺 . 図1
図2
昭和57年(1982)建立。鉄筋コンクリート製。省略が多く粗雑な塔である。何をもって古いというのか 不明ながら、伊丹で一番古いという墓地の中にポツンと立つ。 この地は有岡であり、三重塔は荒木村重の供養塔と云われる。道路を隔てた寺地は前回訪問時全くの更地であったが、最近鉄筋コンクリートのビル建築の寺院が完成 する。万治3年(1660)の創建といい、かっては杜若(かきつばた)の名所であったという、焼野と称する。浄土宗 。写真1の左中央に新寺院が写る。
2000/10/9撮影:画像
447 鹿児島最福寺 . 図1
図2
和57年完成。高さ15m。RC造。組物などは省略され、手抜きである。
ご覧のように、平面が大きすぎて、相当バランスを欠き、塔婆としての美しさは全く無い。
 ●図1、2は「X]氏ご提供画像
2021/04/12撮影:
烏帽子山と号する。真言系密教の新興宗教と思われるも、実態は不明。
 最福寺三重塔1     最福寺三重塔2     最福寺三重塔3     最福寺三重塔4
 最福寺三重塔5     最福寺三重塔内部1     最福寺三重塔内部2
 大弁財天四恩殿1    大弁財天四恩殿2     最福寺本堂か     最福寺鐘楼
その他、庫裡・客殿・道場などと思われる大型の建物を有する。寄進された多くの石灯篭に刻まれる寄進者名は全国に分布する。これらから判断すれば、かなり隆盛のようである。
448 山口光専寺 . . 昭和58年(1983)建立。詳細不詳。
449 摂津須磨寺 . 図1

図2

昭和59年(1984)建立。1辺4m高さ25m、木造朱塗り、銅板葺き。塔身が細く多少違和感がある。
弘法大師1140年遠忌、須磨寺開創1100年、平敦盛800年遠忌を記念して建立。
旧塔は文禄年中(1592-)の大地震の際に倒壊と云う。
真言宗須磨派大本山と称する。仁和2年(886) 開祖聞鏡上人、光孝天皇の勅命により上野山福祥寺を建立。以降源平の一の谷の合戦を始めとする戦乱・天災で数次の消滅・再建を繰り返す。
慶長7年(1602) 豊臣秀頼により再興され現在の伽藍の基礎が固まる。慶長期には、花巌院、宝生坊、正堂坊、大聖院など15の塔頭があったという。現在は桜壽院・蓮生院・正覚院の3院で 護持する。
2010/10/11追加:「社寺参詣曼荼羅」(目録)大阪市立博物館、1987 より
 摂津須磨寺参詣曼荼羅:須磨寺蔵、紙本着色、159×188cm。
古の三重塔は本堂の向かって右手にあり、現在の塔の位置とは反対位置にあったのであろう。
2006/11/30「Y」氏ご提供
 摂津須磨寺絵図:「明治新撰 播磨名所図絵」中谷良與助(與助と推定、大阪府平民・堺宿屋町住)、大阪工新圖匠館、明治26年 より
この明治中期の刊行圖會に三重塔が描かれるも、寺伝などによれば、塔は文禄年中(1592-)に倒壊とあり、近世初頭から戦後まで三重塔は無かったはずである。明治初期には無かった塔を描画したのは、最盛期の景観を 示す意図があったのであろう。(そういえば、この塔の書き方は現実感に欠けると思われる。)
2001/04/29撮影:図1、図2
2016/06/02撮影:
三重塔は平成26年(2014)塗替。
 須磨寺三重塔11    須磨寺三重塔12    須磨寺三重塔13    須磨寺三重塔14
 須磨寺三重塔15    須磨寺三重塔16    須磨寺三重塔17    須磨寺三重塔18
 須磨寺三重塔19    須磨寺三重塔20    須磨寺三重塔21    須磨寺三重塔22
 須磨寺三重塔23    須磨寺三重塔24    須磨寺三重塔25    須磨寺三重塔26
 須磨寺三重塔27    須磨寺三重塔28    須磨寺三重塔29    須磨寺三重塔30
 須磨寺三重塔31    須磨寺三重塔32    須磨寺三重塔33    須磨寺三重塔34
 須磨寺三重塔35    須磨寺三重塔36
 本尊大日如来坐像1   本尊大日如来坐像2   本尊大日如来坐像3   塔背面釈迦如来坐像
 真言八祖・弘法大師   真言八祖・恵果阿闍梨   真言八祖・龍智菩薩
 須磨寺三重塔相輪
須磨寺現況
 須磨寺境内図
 ストゥーパ
 亜細亜万神殿:平成28年(2016)落慶。
 亜細亜万神殿1   亜細亜万神殿2   亜細亜万神殿3   亜細亜万神殿4
 亜細亜万神殿ストゥーパ1   亜細亜万神殿ストゥーパ2
 正覚院:大正14年失火により焼失、昭和13年に現在地に再建される。
 須磨寺正覚院
 須磨寺仁王門
 一ノ谷鯖大師はもと一ノ谷町に在りしも、平成7年(1995)の阪神・淡路大震災により、全壊。
 鯖大師と石佛は須磨寺に遷される。 →阿波鯖大師
 一ノ谷鯖大師貞照寺
 須磨寺蓮生院1   須磨寺蓮生院2   須磨寺蓮生院3
 須磨寺櫻壽院1   須磨寺櫻壽院2   須磨寺櫻壽院3   須磨寺厄除大師
 本堂:慶長7年(1602)豊臣秀頼の再建。但し内陣の宮殿は応安元年(1368)の建造で重文。
 須磨寺本堂1   須磨寺本堂2   須磨寺本堂3   須磨寺本堂内陣4   須磨寺本堂内陣5
 須磨寺護摩堂   須磨寺大師堂   経木供養所1   経木供養所2
 須磨寺鐘楼     須磨寺写経輪堂
 納経所屋上二重塔
 寺務所・納経所は平成11年春に大改装というから、屋上二重塔はその時の建立であろうか。RC造。
 須磨寺納経所
 納経所屋上二重塔1   納経所屋上二重塔2   納経所屋上二重塔3   納経所屋上二重塔4
 二重塔本尊毘沙門天立像
 須磨寺庫裡   須磨寺本坊1   須磨寺本坊2
 須磨寺書院1   須磨寺書院2   須磨寺書院3   須磨寺書院4
 須磨寺親子地蔵尊   須磨寺敦盛塚(首塚)
 唐門及び奥之院は未見。
2016/06/28追加:
 摂州須磨寺往古伽藍図:神戸市立中央図書館蔵、製作年代不詳 、三重塔は本堂の向かって右手に描かれる。上掲載の須磨寺参詣曼荼羅図と一致する。
450 会津若松会津村 .

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昭和59年(1984) 建立。木造 白木造。総高12.63m。
脇柱は四角の柱を用いるも、それ以外は基本的に正規の塔建築と思われる。三重目のみ2間に造る。
本尊:釈迦如来、材質は会津の杉材とも云う。
画像は「O」氏ご提供:1994/11/20撮影
「O」氏情報:
屋根銅板葺で「 銅板の瓦棒も太く桟鼻(瓦棒の先端)や唐草にも文様が 打ち出されてこの部分は手を掛けている。」しかし「鬼板(銅板の場合、鬼瓦をこう言う)が大きすぎ」バランスを欠く。
会津村は日本式庭園を持つ観光施設のようで、巨大な観音像などがある。図2、4に見えるのが観音像。
2008/01/16追加:「O」氏ご提供画像:1994/11/20撮影
 会津村三重塔1     会津村三重塔2     会津村三重塔3     会津村三重塔4
 会津村三重塔5     会津村三重塔6
2014/04/09撮影:
○法國寺会津別院
会津村には会津慈母観音と称するRC造の巨像(高さ57m)と6万坪と称する日本庭園がある。本村は昭和61年(1986)地元のツルカメ建設(株)の芳賀昇之助が建立する。芳賀昇之助の没後、代表取締役佐野進武が引き継いでいたという。
平成22年横浜の大弘山法國寺が土地・建物および経営権の譲渡を受け、現在は法國寺が管理・運営を行っているようである。
 ※大弘山法國寺とはWeb上のほとんど情報がなく、実態はよく分からない。
○菊まつり用鉄骨五重塔
サイト:デジタルカメラコレクション→「会津若松紅葉観光 2007/10」に「会津村菊まつり」の時の菊で飾られた五重塔写真の掲載がある。
 会津村菊まつり五重塔
以上によれば、菊まつり用の五重塔構造物があるものと思われる。そして、この五重塔構造物は鉄骨製で、少なくとも2007年までは、また菊まつりには使用されていたものと思われる。
写真に写るように今はかなり痛み、まるで廃物のような奇観を呈する。
 会津村五重塔鉄骨1     会津村五重塔鉄骨2     会津村五重塔鉄骨3
 会津村五重塔鉄骨4     会津村五重塔鉄骨5

451 越中国泰寺 . 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
昭和59年(1984)竣工落慶。 起工は昭和56年。木造、素木の本格塔。現在の塔は利生塔を再興と称する。
高さは14.84m(基壇上の高さ)、屋根銅板葺。
二重の切石積基壇上に古風に立ち、純和様を用いた復古調の塔である。
宮大工小川三夫の建立(Webサイト情報、「塔に魅せられて 中部日本篇」)とされる。大川三夫は昭和53年に「鵤工舎」を設立とあるので、小川三夫の初期の頃の施工であろう。
なおこの塔の設計は宮上茂隆(Webページに散見する)と云う。
国泰寺は正安元年(1299)慈雲妙意によって創建、寺伝では北朝光明院が越中安国寺に指定、足利尊氏が伽藍造営と云う。戦国期に焼失、その後現在地に再興される。明治維新後衰微し、京都相国寺に属するも、明治38年分離独立し、現在臨済宗国泰寺派大本山と称する。
○越中国利生塔及び安国寺について:
辻善之助「日本仏教史」では越中の安国寺および利生塔とも不明とする。
全国安国寺会編「安国寺風土記」では国泰寺説と布市興国寺の2説を挙げる。
要するに、現状では越中安国寺及び利生塔に関しては不明もしくは推定の域を出ないということと思われる。
○2012/08/06追加:
・小川三夫施工の高根沢妙顕寺本堂の平成23年東日本大震災により倒壊:
 妙顕寺は法光山と号する。日蓮宗身延末と推定される。
平成10年(1998)本堂竣工、老朽化した本堂の造替を「鵤工舎」(小川三夫の設立)に発注する。工費1億2千万円と云う情報もある。
平成23年の東日本大震災で、本堂柱が全て倒れ、本堂瓦葺屋根がRC造布基礎の上に「平伏」したように見える「異様なさま」で倒壊する。
 妙顕寺本堂倒壊前:倒壊前の適当な写真はWeb上には見当たらず、不鮮明な写真を掲載。
 倒壊妙顕寺本堂1:URL:http://seiryouzan.exblog.jp/d2011-04-19/の写真、ほぼ倒壊した状態と推定。
             完全に布基礎の上に屋根がベッタリと落ちる「異様なさま」で倒壊する。
 倒壊妙顕寺本堂2:撤去作業中の本堂、「東北関東大地震における栃木県建物被害調査」より転載。
 倒壊妙顕寺本堂3:本堂撤去後の布基礎、2011年6月11日「下野新聞動画ニュース」より転載。
 妙顕寺周辺図:GoogleMapより転載、最近の空撮であろう。妙顕寺本堂布基礎のみの異様さが際立つ。
この小川三夫(「鵤工舎」)施工と云うおそらく伝統工法で施工されたと思われる妙顕寺本堂の「異様な」倒壊の原因究明が待たれるところである。
「本堂の真下には地割れが入り」などと云うも、上掲載の「妙顕寺周辺図」に見られるように周囲の破壊状況と比較して、この本堂倒壊の異様さは尋常なものではないと思われる。これほどまでに「見事」に倒壊するとは、「鵤工舎」の「工法」そのものに問題はなかったのであろうかと思わざるを得ない。
452 安芸立正寺   塔1
塔2
塔3
塔4
塔5
塔6
本堂
立正寺は法華宗本門流、竹原市竹原町 →京都本能寺尼崎本興寺
2011/08/31「X」氏情報:建立は昭和50年代か(寺院側では、記憶上でははっきりした年代は不明と云う)
2011/12/10撮影:
早朝であるからであろうか、本堂横の柵門、境内横の駐車場、三重塔裏の柵門全て施錠され、三重塔近くに立入ることが出来ず。従って、遠方より撮影。
一応平面三間等間の正規の塔建築であろう。おそらく木造塔と思われるも未確認。一辺・高さなど不明。屋根銅板葺。軒は二軒平行垂木、組物は二手先と思われる。
塔および寺歴など不詳。
2023/06/19撮影:呉線車窓より撮影
 立正寺三重塔7
453 武蔵本光寺 . 昭和60年完成。木造彩色なし本瓦葺きの小型塔。
 武蔵品川本光寺
454 大和岡寺
 (竜蓋寺)
. 昭和61年建立(再興)
 大和岡寺・龍蓋寺
455 備後松寿寺 . 画1

01
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昭和63年建立。木造塔婆。軸部は和様を基調と「するが、木鼻・尾垂木など一部禅宗様を混用する。
 一辺4.64m、総高17.45m。心柱は初重基底まで降り、懸垂式と云う。黒茶の彩色を施す。本瓦葺。急斜面の狭い敷地に建立のため、かなり無理な立地にある。逓減がほとんどなく、また相輪が短すぎる印象は否めない。
元は明治20年建立という多宝塔模造経堂(二重塔形式と云う)があったが、昭和53年全焼し、その後寺・檀家一体となり、昭和63年に三重塔として再建したものと 云う。地元上田建設の独学施工。釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩、聖観音の四仏と四天王を安置。曹洞宗。
画1:2001/12/28撮影:三原城天主台跡から撮影、但し現在はマンションが建築され、天守台からの撮影は不可能である。
01〜05:2002/08/17撮影
2005/04/09追加:
「日本社寺大観/寺院篇」京都日出新聞社編、昭和8年(1933) より
松寿寺全景:写真中央右に(不鮮明で はあるが)明治20年建立、昭和53年焼失と云う多宝塔模造経堂(二重)と思われる建物が写っている様子がうかがえる。
  ※2022/09/15写真追加:松壽寺全景N:同一写真(あまり替り映えしない)
記事:「曹洞宗、万年山と号す。本堂、庫裏、承陽殿、禅堂、観桜閣、玄関、山門、経堂、鐘楼、薬師堂、鎮守堂などあり。」多宝塔模造経堂とは 詳細不明であるが、記事中の経堂が相当すると思われる。
2012/07/10追加:
貞治(北朝)4年(1365)備後守護細川頼有本町成就寺後方に建仁寺末昌寿寺を創建する。
永正8年(1512)来迎寺があった現在地に移転する。
延宝元年(1674)三原城主浅野忠真、妙正寺建立に伴い禅堂・山門・石垣を改修寄進する。
寛文9年(1669)曹洞宗に改宗。延享2年(1745)境内の松に因み松壽寺と改称する。
 参考:明治40年三原城:東南の海上から撮影と推定、三原城は小早川隆景の築城で浮城と云われる。
 明治40年のこの写真は浮城の面影を残す。(「城下町みはら散策マップ」より転載)
2013/05/18撮影:
備後松寿寺三重塔11   備後松寿寺三重塔12   備後松寿寺三重塔13   備後松寿寺三重塔14
備後松寿寺三重塔15   備後松寿寺三重塔16   備後松寿寺三重塔17   備後松寿寺三重塔18
備後松寿寺三重塔19   備後松寿寺三重塔20   備後松寿寺三重塔21   備後松寿寺三重塔22
備後松寿寺三重塔23   備後松寿寺三重塔24   備後松寿寺三重塔25   備後松寿寺三重塔26
備後松寿寺三重塔27   備後松寿寺三重塔28   備後松寿寺三重塔29   備後松寿寺三重塔30
備後松寿寺三重塔31   備後松寿寺三重塔32
2015/03/21撮影:
 松壽寺三重塔遠望1     松壽寺三重塔遠望2
2019/03/17撮影:
 松寿寺三重塔41     松寿寺三重塔42     松寿寺三重塔43     松寿寺三重塔44
 松寿寺三重塔45
2023/06/19撮影:
松壽寺三重塔遠望3
456 相模泉龍寺 . 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
昭和63年(1988)。高さ15m、木造白木。純和様。
中和山と号し、曹洞宗。天正14年(1586)雪天透瑞の開山。鶴見総持寺→川崎円福寺末。
末寺に
無量山西光寺、延名山常念寺、瑠璃山東光寺、常楽寺、南鶏山円法寺がある。
関東大震災で被災、その後復興。
457 長崎最教寺 . . 昭和63年完成。平戸市。コンクリート構造。曹洞宗勝音院が焼失し、その跡地に真言宗最教寺が創建(開山空盛)されると云う。
458 武蔵春清寺 . 図1
図2
図3
図4

昭和建立(年代不明)。RC造、各重1間に造る。聊か粗雑な塔である。高さ約10m。
大原山と号する。曹洞宗。
寛永年中、幕臣である大原文左衛門春清によつて開創される。
元和元年(1615)柴田勝重(柴田勝家孫)菩提寺として開山する。
三重塔のほか本堂・観音堂・客殿・鐘楼・山門などがある。

459 陸奥勝行院 . 11
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平成元年(1989)竣工。一辺3m、総高14m、木造白木。純和様を用いる。
現地案内板では、昭和63年(1688)竣工、高さ14m、柱間3m(一辺か)、本尊胎蔵界五仏、鎌倉後期の様式、小島建設(株)施行、山本亮治設計、飯山万平工匠(棟梁か)とある。
勝行院は三函山勝行院法海寺と号する。通称は「中の寺」。大同年中徳一の開創と伝える。真言宗。
楼門・本堂・釈迦堂などを具る。
いわき市湯本温泉にある。堂宇は、釈迦堂を除き、多くの堂塔が近年の造営のようであり、潤沢な資金があるものと思われる。
○11〜23は2010/07/03「O」氏撮影画像
○2013/05/07撮影:
陸奥勝行院三重塔31   陸奥勝行院三重塔32   陸奥勝行院三重塔33   陸奥勝行院三重塔34
陸奥勝行院三重塔35   陸奥勝行院三重塔36   陸奥勝行院三重塔37   陸奥勝行院三重塔38
陸奥勝行院三重塔39   陸奥勝行院三重塔40   陸奥勝行院三重塔41   陸奥勝行院三重塔42
陸奥勝行院三重塔43   陸奥勝行院三重塔44   陸奥勝行院三重塔45   陸奥勝行院三重塔46
陸奥勝行院三重塔47   陸奥勝行院三重塔48   陸奥勝行院三重塔49
陸奥勝行院楼門1      陸奥勝行院楼門2      陸奥勝行院楼門3     陸奥勝行院本堂
陸奥勝行院釈迦堂:文化年中(1804-18)再建と云う唯一の古建築
陸奥勝行院鐘楼       勝行院成田不動
460 和泉家原寺 . 和泉家原寺  三重塔は平成元年(1988)建立
464 美濃円鏡寺 . 図1
図2
楼門
平成元年(1989)竣工の新造塔。木造彩色。銅板葺き。弘法大師1150年遠忌で建立。コンクリート製の新造であるが、正規の木造塔婆 と外見上はほぼ同様の精巧な造りである。一辺3.09m。
当寺はこの地方(美濃北方)の名刹で、この地に溶け込んでいるように見える。今なお多くの近世の伽藍を具備する。高野山真言宗。寺伝では弘法大師の創建とし、中世において は16坊を擁する。楼門(重文)は鎌倉期永仁4年(1296)の建立。その他重文仏像3体外の寺宝を有する。
2005/04/0追加:
「日本社寺大観/寺院篇」京都日出新聞社編、昭和8年(1933)より
記事:「本堂、大師堂、勧請堂、楼門、庫裏、稲荷、薬師堂、地蔵堂、経蔵、宝塔、廻廊、鐘楼、赤門などあり。」
「日本に於ける塔の層数と教義との関係」石田茂作、昭和11年より
記事:「円鏡寺宝塔、岐阜本巣郡北方町、永延年、現存」
以上により、三重塔建立前にも宝塔があったと思われるが、それ以上の詳細は不明。
462 阿波瑞巌寺 . 図1
図2
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図7

平成元年建立。平成2年落慶。純和様の正規の木造塔婆と思われる。総高11.3m。小型塔である。
垂木は一重。屋根銅板葺き。施工は大阪金剛組(四天王寺大工)という。
鳳翔山と号する。臨済宗妙心寺派。開山は一鶚禅師。蜂須賀氏の帰依を受け、山林境内20万坪、300石という。勝瑞城下から寺町に再興されたという。
山腹の狭い場所に建ち、写真は撮り難い塔である。
2010/01/19撮影:
 瑞巌寺三重塔21   瑞巌寺三重塔22   瑞巌寺三重塔23   瑞巌寺三重塔24
 瑞巌寺三重塔25   瑞巌寺三重塔26   瑞巌寺三重塔27   瑞巌寺三重塔28
 瑞巌寺三重塔29   瑞巌寺三重塔30   瑞巌寺三重塔31   瑞巌寺三重塔32

462-2 大分県杵築市
みのり村(御法村)三重塔
. . 「X」氏情報では以下のようである。
平成元年(1989)6月竣工、RC造と思われるも、木造塔と見間違える出来栄えである。
外観は大和法起寺三重塔を模す。規模も法起寺塔と同規模か。
-------------------------------------------------
鉄筋コンクリート造 地上3階地下1階建
大分県杵築市大字日野1921番地の15
みのり村は社会福祉法人で、総合福祉ケアサポートセンターつまり福祉施設であるようで、その所有の三重塔であると思われる。
おそらくは地下は納骨堂とも推定される。
2021/01/07「X」氏撮影画像
 みのり村三重塔1     みのり村三重塔2     みのり村三重塔3     みのり村三重塔4
463 駿河府中蓮長寺 . 図1
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図7
図8

平成3年落慶。木造。総高16.85m。各層脇間は花頭窓。舎利安置、塔内畳敷。日蓮宗。
常慶山と号する。松野(三松)蓮永寺(日持上人の開基・貞松山)末で日持上人の法系に連なる。
住職の談では住職自らが山門・水舎・塔婆の大工仕事・彫刻を手がけたとのことであるが、真偽の程は不明。(何れも素人で出来るような仕事とは思われない。)
2004/08/01撮影:
 図1〜図8
 (
図7:三重塔内多宝小塔、 図8:三重塔本尊)
2020/03/07撮影:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
常慶山と号す。松野蓮永寺末、親師法縁。
正保元年(1644))養珠院の発願で、駿府牢獄死者・無縁行路病死者の菩提のため建立される。開基は長嶽院日永。
安政の大地震で倒壊、明治の初めに類焼、蓮永寺より清正公堂を遷して本堂とする。
昭和20年の静岡空襲で焼失、昭和22年旧地三友町から現在地へ移転。
 蓮長寺三重塔11    蓮長寺三重塔12    蓮長寺三重塔13    蓮長寺三重塔14
 蓮長寺三重塔15    蓮長寺三重塔16    蓮長寺三重塔17    蓮長寺三重塔18
 蓮長寺三重塔19    蓮長寺三重塔20    蓮長寺三重塔21    蓮長寺三重塔22
 蓮長寺三重塔23    蓮長寺三重塔24    蓮長寺三重塔相輪
 蓮長寺山容     蓮長寺山門     蓮長寺本堂     蓮長寺本堂扁額
 蓮長寺本堂内部     蓮長寺歴代之墓

464 武蔵中野寶仙寺 . 平成4年(1992) 完成
       →中野宝仙寺
465 武蔵高輪東禅寺
 平成4年竣工。木造彩色。一辺3.9m(柱芯々13尺)、標準的な大きさで、純和様を用いる。
基壇はコンクリート製で半地下式の内部は納骨堂。元宝形造の経蔵があった場所で経蔵は移設したという。
当寺にある宝塔と同じく翠雲堂の設計施工。
臨済宗妙心寺末。慶長14年(1609)飫肥城主伊東祐慶が麻布に建立。寛永19年現地に移転。
幕末には最初の英国公使館として当寺が充てられる。
  →高輪東禅寺宝塔
「X]氏ご提供画像。
 武蔵東禅寺三重塔1     武蔵東禅寺三重塔2
2003/03/26撮影:
この日は閉門されていて、境内に入る事が出来なく、境外からしか撮影出来ず。
 武蔵東禅寺三重塔3     武蔵東禅寺三重塔4     武蔵東禅寺三重塔5
2022/12/26撮影:
 高輪東禅寺三重塔11    高輪東禅寺三重塔12    高輪東禅寺三重塔13    高輪東禅寺三重塔14
 高輪東禅寺三重塔15    高輪東禅寺三重塔16    高輪東禅寺三重塔17    高輪東禅寺三重塔18
 高輪東禅寺三重塔19    高輪東禅寺三重塔相輪
 高輪東禅寺山門:昭和46年建立     高輪東禅寺本堂:昭和8年建立
 東禅寺大玄関・玄関・庫裏:大玄関は幕末か明治初頭の建立、背後は庫裡であろう。
 高輪東禅寺鐘楼;昭和初期の建立
 高輪東禅寺宝物館:平成4年建立であるが、正面玄関部分は江戸後期の旧経蔵の部材を利用するという。
466 土佐青龍寺 . 11
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相輪
平成4年落慶大和龍蓋寺(岡寺)三重塔設計図に基づき制作したと云う。
大工棟梁は土佐井ノ尻南部俊光と云う。
青龍寺は四国三十六番札所。
弘仁年中(810-824)空海によって創建されると伝える。
江戸初期には荒廃していたが、土佐藩2代藩主山内忠義によって正保年中(1644-1648)に再興される。
宝永4年(1707)地震と津波で大きな被害を受けるも、江戸末期に堂宇は再建される。
明治維新前には6ヶ院の寺中を有するという。
現在の山容は次の通り。
山門(仁王門)、本堂、大師堂、恵果堂、鐘楼門、護摩堂、青龍大権現堂、三重塔、多宝塔、聖天堂、弁天堂、薬師堂、白山大権現、奥の院遥拝堂、客殿などの堂塔及び奥の院(独鈷山不動堂)
2014/10/05撮影:
 青龍寺多宝塔/三重塔1     青龍寺多宝塔/三重塔2

 土佐青龍寺恵果堂     土佐青龍寺仁王門1     土佐青龍寺仁王門2
 土佐青龍寺本堂     土佐青龍寺大師堂     青龍寺大師堂/本堂     青龍寺薬師堂/本堂
 青龍寺白山大権現     土佐青龍寺奥之院

なお、多宝塔も建立される。 → 土佐清龍寺多宝塔
467 穴水真和園三重塔 . 画像 平成5年(1993)完成。木造で正式な塔婆であり、かなりの大型塔と思われる。
真和園は宗教施設のようでもあり、遊興施設のようでもあり実態は良く分からない。
画像: 「X」氏ご提供画像、訪問時、門が閉まっていて立入りが出来ず。近所の人の談:「最近は閉まっていることが多い。」
○2016/11/27撮影:
真和園の具体的情報はなし。大仏・三重塔・聖徳太子・弘法大師・・・といい、仏教系の寺院の構えであることは相違ないが、真和園は雑多な仏教信仰を集合させたような教義なのであろうか。 但し宗教法人ではなく、門前には財団法人真和園の石柱を建てる。
三重塔についても具体的情報(法量など)はなし。
実見すれば、かなりの大型塔で、総檜素木造、様式は純和様で統一される。現代の塔としては名作の一つであろう。屋根銅板葺き。
本尊は下品上生印を結ぶ阿弥陀如来坐像。
 真和園三重塔11   真和園三重塔12   真和園三重塔13   真和園三重塔14
 真和園三重塔15   真和園三重塔16   真和園三重塔17   真和園三重塔18
 真和園三重塔19   真和園三重塔20   真和園三重塔21   真和園三重塔22
 真和園三重塔内部1   真和園三重塔内部2   真和園三重塔相輪
 真和園山門    真和園太子堂    真和園大仏    真和園鐘楼    真和園観音堂
468 千葉阿弥陀寺 . 画像 1993年建立。千葉東霊園の阿弥陀寺の墓地の近くにあり、やや離れた場所に阿弥陀寺誉田御坊がある と云う。浄土真宗大谷派。木造・本瓦葺きの正規の塔婆と思われる。
画像: 「X」氏ご提供画像
469 武蔵慶元寺 . 図1
図2
図3
図4
図5
図6
平成5年(1993)建立。総高約16m。木造白木。基本的に和様を用いる。大浦社寺建築社の設計施工 (翠雲堂の設計施工ともいう)。墓地の中に建つ。 間口:9尺、高さ:52尺。
世田谷区喜多見。浄土宗京都地恩院末、本尊阿弥陀如来坐像。
文治2年(1186)江戸太郎重長が父重継の菩提を弔うため、江戸城紅葉山に天台宗岩戸山大沢院東福寺を開山する。室町中期、大田道灌の江戸築城で江戸氏が喜多見に移った時、寺もこの地に移る。天文9年(1540)空誉上人のとき浄土宗に改め、永劫山華林院慶元寺と改号する。寛永13年幕府より10石の朱印を受ける。今なおこの地方の大刹で あり、住宅化が進行する中で、広大な境内を有する。
470 武蔵川崎大楽寺 . 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
平成7年(1995)落慶。初重一辺2.8m、総高14m(相輪4m・塔身9m・基壇1m)。
屋根銅板葺。基壇一辺5.5m。木造檜造、素木、端正な和様を用いる。弥勒菩薩坐像を安置。心柱は一重梁上から建つ。三重は2間。
関東智山派にしては関東智山派らしからぬ装飾の無い塔であるが、塔外観は近江西明寺塔婆をモデル (典拠は失念)とするということのようである。
大楽寺は真言宗智山派、開山などは不明。法印智法(元文6年1741寂)の中興開山という。本尊大日如来。川崎市中原区木月に所在。
図1から図8は2008/04/05撮影(写真は2016/12/10入替)
2016/10/10追加:
◎「O」氏ご提供画像:2016/11/27撮影
「O」氏のコメントは「いつも撮ろうとして撮れなかった、(東京に向かって)新横浜駅ちょい過ぎにある三重塔を、ついにゲット」、珍しい写真と思われるので「お送りする」と。また「あの速度ですと、1枚撮るのが限度です。」と。
 大楽寺三重塔(新幹線より)
新幹線車中より撮影
なお、次のような情報もあり。
「新幹線の車窓から」栗原景、2009 という図書は、東京−新大阪間の山側・海側各々車窓写真を計100枚掲載した図書で、大楽寺三重塔は4番目に掲載されるという。
 ※新幹線で塔婆が至近距離に見られるというのは稀有のことということで、「O」氏といい見ている人は見ているということであろうか。
471 摂津法楽寺 . 図1
図2
図3
平成8年建立。木造本瓦葺き。素朴。塔婆は表門を入り、あたかも古代寺院の伽藍配置のように境内中央に建つ。ただし境内は 少し狭く、撮影には不向きである。また塔婆建立の趣旨などは現在未掌握。
 当寺は真言宗泉涌寺派の大本山あるいは別格本山と称する。寺伝では、治承2年(1178)小松内大臣平重盛の創建とする(院号を小松院と号す)。重盛は熊野参詣の途次に立ち寄り落慶法要を営む。この伽藍は戦国の末まで護持されたとされる。 なお、現在はおそらく近世初頭より「不動明王」が祀られ「田辺の不動」として多くの信仰を集める。市街地にあり、盛んな信仰活動を行っている「祈祷寺」 とも思われる。なお慈雲尊者が得度出家し住持した寺院でもあると云う。
2006/02/18撮影:
 摂津法楽寺三重塔1    摂津法楽寺三重塔2    摂津法楽寺三重塔3    摂津法楽寺三重塔4
 摂津法楽寺三重塔5    摂津法楽寺三重塔6    摂津法楽寺三重塔7    摂津法楽寺三重塔8
2012/04/03追加:2011/08/22付朝日新聞記事 より
塔本尊は大日如来、脇侍は不動明王と愛染明王を配す。
元亀2年(1571)織田信長の兵火で焼失、正徳元年(1711)復興する。昭和53年、京都青蓮院の青不動(国宝)の原画である不動明王図像(重文)が蔵から発見されると云う。
 攝津法楽寺三重塔10     法楽寺三重塔初重内部:中央は本尊大日如来
472 武蔵三学院 . 武蔵三学院・・・・平成8年(1996)建立
473 伊勢子安観音 . 図1
図2
図3
図4
図5
図6
1999年再興塔(寺伝によると創建時三重塔があり、焼失という)。高さ16m、木造銅板葺き。三重目は 平面2間。
伸和建設資料集」より:伸和建設の手になる
三重塔
 平面図 ほぼ完成した時(平成10年9月22日)瞬間最大風速50 m超の台風に遭遇したが、被害は僅少であったと云う。
本尊は金剛界大日如来・文殊菩薩・普賢菩薩。
図6:仁王門斗栱古材
474 常陸村松虚空蔵堂 . 村松虚空蔵堂
475 遠江宗安寺 . 図1
図2
図3
平成11年建立。法量は不詳。純和様の伝統的木造(檜造)建築と推定される。
但しスタイリングは底部に対し軸部がやや高い印象を受ける。屋根銅板葺。当本尊は聖観音と云う。
浜松の株式会社杉浦建築店施工。檀家鈴木六郎氏の寄贈と云う。
 万松山と号す。曹洞宗。創建は不詳であるが、永禄元年(1558)創建とも云われるようである。
江戸初頭にはこの地の代官市野氏の菩提寺であったと云う。
<図1.図2 図3>:2004/02/08「X」氏撮影
2011/12/25撮影:
遠江宗安寺三重塔11   遠江宗安寺三重塔12   遠江宗安寺三重塔13   遠江宗安寺三重塔14
遠江宗安寺三重塔15   遠江宗安寺三重塔16   遠江宗安寺三重塔17   遠江宗安寺三重塔18
遠江宗安寺三重塔19   遠江宗安寺三重塔20   遠江宗安寺三重塔21   遠江宗安寺三重塔22
遠江宗安寺境内:本堂と三重塔      遠江宗安寺遠望;三重塔と本堂屋根が写る。
476 豊後善徳寺 . 塔11
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20
21
22
山門
本堂
平成11年竣工。平成の三重塔/竹尾光寿廟と称する。
RC造。まず竹尾光寿廟と称するかなり大きな納骨堂があり、その納骨堂を基壇にし、その上に建つ。塔は非常に大きな逓減率を持つ姿であるが、RC造とはいえ見た目の木割りが華奢で、組物も一手先を用いバランスを欠く。施工は梅林建設株式会社(大分市) といい、社寺建築を専門とはしない建設会社の施工と思われる。
2003/12/26「X」氏撮影/ご提供画像
 豊後善徳寺三重塔1  豊後善徳寺三重塔2   豊後善徳寺三重塔3  豊後善徳寺三重塔4
2013/10/26追加:
善徳寺は真宗大谷派。
 善徳寺三重塔01:サイト:梅林建設>竹尾光寿廟のページより転載
 善徳寺三重塔02:Google Map より転載
本三重塔は善徳寺から少し離れた小丘上に建ち、丘の南に竹尾観音堂(泉入寺)がある。
◆参考:竹尾観音(竹尾山泉入寺)
大永年中(1521-)もしくは享禄年中(1528-)星野外記介(豊後大友氏の一族臼杵鑑親の家臣)によって建立される。外記介は観音菩薩の加護により白い犬と白い鷺の導きで窮地を切り抜け る。その報恩のため一宇の堂(2体の観音像を安置)と2基の九重石塔を建立する。これが泉入寺の起源である。2体とは白い犬と白い鷺の霊である。
その後観音1体は臼杵の海添に遷され、今は1体のみ祀る。また九重塔一基は洪水で流出すると云う。(臼杵海添に同名の泉入寺があり、関係があるのかも知れない。)
現在の観音堂は享保8年(1724)の建立。境内に室町期のものと推定される九重石塔が残る。
 竹尾観音堂     泉入寺九重石塔1     泉入寺九重石塔2
なお、写真塔11、12の左下に写る堂宇が竹尾観音堂である。
477 相模浄発願寺 . 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
図9
10
11
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13

平成12年(2000)竣工、しかし今も(たまたま)基壇廻りは工事中である。
総高26.63m、屋根高19.43m、相輪7.2m。
木曽桧を主材とした伝統様の本格的な木造塔である。
三重塔は塚越慈徳住職が全国へ托鉢し、寄付を募り、完成させたという。
慶長13年、弾誓上人(尾張の出身)により開山。江戸期には蛍珠院(尾張徳川網誠室・後奈良天皇皇孫・中興の開墓)の墓石、佐竹氏、藤堂氏などの大名の墓石もあるという。往時は東叡山寛永寺学頭淩雲院の末寺として、木食修行の中心であったと云う。
昭和13年の台風による山津波で、伽藍は全て破壊され、跡地は「奥の院」として、復元整備されていると云う。石仏・石塔・石段などが修復されていると云う。
現在地(元地より約10町下)へは昭和42年に移転再興される。
 浄発願寺閻魔堂跡(元地)
 浄発願寺山門跡(元地)

478 近江宝厳寺
(近江竹生島)
. 竹生島宝厳寺
479 出羽海晏寺   図1
図2
図3
図4
図5
図6
平成12年(2000)完成。純和様を用いた本格木造塔。
青森ヒバ材を使用、白木のまま。高さ約27m。
(株)モトタテ施工。
曹洞宗 。
応永元年(1394)湖海理元和尚の開山。
豪商本間家が檀信徒で、経堂、釈迦堂などは本間光丘の寄進とする。
「X」氏ご提供画像
出羽海晏寺三重塔1    同      2    同      3    同      4
480 陸奥恵隆寺
(小金塔)
. 図1
図2

塔1
塔2
塔3
塔4
塔5
塔6
塔7
塔8
塔9
礎1
礎2
礎2
相輪

平成12年落慶。木造・素木の塔。法量などの詳細は不明。古代に存在した小金塔の再営という。
初重は中央間が広い方3間、2重は等間の方3間、3重は方2間、組物は雲形肘木・雲斗を用いる。
 ○画1、2は2008/08/15「X」氏撮影 、塔1〜相輪は2014/04/09撮影
本塔の前身である 小金塔については以下のように説く。
恵隆寺は飛鳥期に高寺山に高寺として創建され、空海によって七堂伽藍が整えられたという。
現境内地は高寺の登山口であり、ここには金色の「小金塔」が建立されていた。
建久元年(1190)源平の合戦により、高寺は敗北し、いわゆる「高寺おろし」により、本寺は高寺山より現在地に下山・移転する。小金塔も平氏により棄却され、本尊大日如来のみ小宇に祀られ、今日まで伝えられる。
○昭和57年(1982)駐車場整備の時、「会津風土記」などに記載される境内にあった小金塔跡から4個の礎石が発見される。この4個の礎石は正方形に配置され発掘されるという。
 陸奥恵隆寺小金塔跡:仁王門に向かって右手に小金塔跡の立看板があり、礎石4個がここから出土という(寺僧の談)、現状は更地でありちじょうには何の痕跡もない。2014/04/09撮影
 ※発掘調査報告などの資料がなく、真偽のほどは不明であろう。
以来再建のための勧募が始まり、以来18年の歳月を経て平成11年起工・平成12年(2000)に落慶する。
設計施工は滝谷建設、大工棟梁は新井田富英という。
古の小金塔跡から発掘された4個の礎石は、塔再建にあたり、再建塔の四隅に配され、塔礎石として転用される。同時に小金塔の本尊として祀られてきた胎蔵界大日如来像を修復し、塔本尊として安置する。
 恵隆寺は金塔山と号す、立木観音と通称する、真言宗豊山派。高寺山36坊の法灯を継ぐといわれ、また中世には心清水八幡宮(塔寺八幡宮)の別当であった。
以下の以下の什宝を有する。
○観音堂(重文。立木観音堂・塔寺観音堂):寺伝では建久年中(1190-98)の創建と云う。
5間×4間、向拝は後補、基本的に和様で造作される。組物は平三斗、中備は撥束を用いる。軒は二重繁垂木、屋根萱葺・寄棟。
(東奥会津塔寺邑金塔山恵隆寺略縁起:「建久元庚戌妨舎退転二及テ堂舎ヲ今ノ地二移シ・・・」)
永禄2年(1559)修理、慶長16年(1611)会津大地震に倒壊、元和3年(1617)再建。
(新編会津風土記:塔寺村:「慶長十八年の地震に堂宇頽顛せしを猪苗代湖中翁島に住し興海と云沙門、此頃柳津村に在しが観音の夢想ありとて蒲生氏に請ひ、別当覚伝と云ものと力を動せ元和三年に再興せり・・・」)
宝暦年中(1751-64)修理、大正五年解体修理。
○木造千手観音立像(重文):観音堂本尊、塔寺の立木観音。像高7.42m、総高8.5m。鎌倉期の作と推定される。
○2014/04/09撮影:
 陸奥恵隆寺仁王門     陸奥恵隆寺観音堂1     陸奥恵隆寺観音堂2
塔寺八幡宮は源頼義・義家が山城石清水八幡宮を当地に勧請という。寛文7年(1667)保科正之は八幡宮の神仏分離を断行し、社僧を廃し仏像仏器を棄却という。現在の社殿は文久3年(1963)の再建である。
いまだに、国家神道の呪縛から一歩も出れない雰囲気の「神社」である。
 陸奥塔寺八幡宮社殿1     陸奥塔寺八幡宮社殿2
現在、観音堂は茅葺屋根の葺買工事中で全容を捉えることができないので、ウィキペディアから恵隆寺観音堂.JPG  を転載する。
 陸奥恵隆寺観音堂3
◆付録
弘安寺(中田観音)
塔寺恵隆寺南方、法用寺北方に中田観音(普門山と号する)がある。
文応元年(1260)に開創され、弘安2年(1279)臨済宗に帰依した地頭により伽藍が整備される。江戸初期曹洞宗に転宗する。
本尊銅造十一面観音立像及び脇侍不動明王、地蔵菩薩(いずれも重文)を有し鎌倉期の作である。
観音堂は慶安年中に再興、さらに宝暦7年(1757)に再建される。
旧観音堂厨子は本尊十一面観音の厨子であったが、慶安期の観音堂再興の時、堂外に出され辨天堂とされたと伝える。本尊と同時期の鎌倉期の製作になり、重文。昭和46、47年解体移築修理を実施し、現在の鞘堂に納められる。
 会津弘安寺仁王門     会津弘安寺本堂1     会津弘安寺本堂2
 弘安寺旧観音堂厨子1   弘安寺旧観音堂厨子2   弘安寺旧観音堂厨子3
 厨子中の本尊弁財天像
481 北海道禅龍寺 . . 詳細不詳、2000年に塔用材納入。
一辺約2mの小形塔、組物はニ手先と云うも伝統様の木造塔と思われる。北海道斜里郡斜里町本町
482 摂津藤井寺 . 図1
図2
図3
図4
図5

平成13年 (2001)竣工
免震装置を4基使用。和様の本格的な木造塔婆。一辺 2.7m、高さ12.68m。白木、屋根銅板葺き。
2017/02/06追加:
図面で法量を再検討する。
一辺2.716m(中央間1067mm、両脇間824.5mm)であり、高さは
地面(基壇下)から露盤下迄の塔身は11.310m、相輪は4.972mであるので、地面(基壇下)からの総高は16.282mとなる。
あるいは
地面(基壇下)から礎石上までは.0.823m(基壇0.4m、亀腹と礎石高0.423m)であるので、上記からそれを引けば、礎石上から露盤下迄の塔身は10.487mとなり、相輪の4.972mを加えれば、礎石上からの総高は15.459mを測る。従って、上に記載の高さ12.68mは何を根拠にしたのかは不明である。
なを、三重目は平面方2間、正面に5段の石階を設ける。

〇 「伸和建設資料集」より:伸和建設の手になる。
三重塔 正面図
〇当寺は城山(地名から城郭もしくは館があったであろう)の小高い丘に立地する。
寺暦について、ご住職は次のように語る。
享保年中、尼崎本興寺日軌(旁の「九」は上に出ないと云う)上人の開基という。
昭和期に日傳上人により中興、また京都本能寺中興(藤井寺24世)日宏上人との関係もあったと云う。
おそらく現在も強固な法華信者を信徒とし、その人たちの助力もあり三重宝塔は成ったものと推測される。
法華宗八品派(日隆門流)。
2002/03/23撮影画像:図1〜図5
2016/02/01追加:
〇 「とよなか歴史・文化財ガイドブック」(豊中市教育委員会)p45「藤井寺(とうせいじ)」の項:
藤井寺はもともと曽根崎お初天神東隣の医師藤井氏の屋敷地にあったが、昭和4年(1929)に現在地に移転してきたという。
2017/02/26追加:
東城山と号する。法華宗(本門流)、尼崎本興寺末と推定される。
本尊:十界の曼荼羅。享保11年(1726)尼崎本興寺日軌上人を開基・開山として開創される。
中興は二十三世・中川日伝上人・檀越は大阪天王寺屋庄兵衛・智春比丘尼(医師・藤井栄斉の妻)
由緒:大阪曽根崎村長池に奇怪な毒蛇が住み、村人や旅人を脅かし悩ます。近隣の剣の腕がたちしかも義に篤い藤井栄斉という漢方医が、長槍を持って仕 留めるも、翌日から高熱を発し七転八到の苦しみ後、逝去する。
栄斉の妻は、栄斉が帰依していた本興寺日軌上人に相談し、池の辺りに一宇を建立し、毒蛇の霊を安んじ、妻も出家し栄斉の霊を弔った云う。
昭和4年(1929)中川日伝上人、曾根崎より豊中福井村(現豊中市城山町)へ一山を移転中興する。
境内地は1500坪。
2017/01/28撮影:
 摂津藤井寺三重塔11     摂津藤井寺三重塔12     摂津藤井寺三重塔13
 摂津藤井寺三重塔14     摂津藤井寺三重塔15     摂津藤井寺三重塔16
 摂津藤井寺三重塔17     摂津藤井寺三重塔18     摂津藤井寺三重塔19
 摂津藤井寺三重塔20     摂津藤井寺三重塔21     摂津藤井寺三重塔22
 摂津藤井寺三重塔23     摂津藤井寺三重塔24     摂津藤井寺三重塔25
 摂津藤井寺三重塔26     摂津藤井寺三重塔27     摂津藤井寺三重塔28
 摂津藤井寺三重塔29     摂津藤井寺三重塔30     摂津藤井寺三重塔相輪
 摂津藤井寺門前     摂津藤井寺門前題目碑
 摂津藤井寺山門     摂津藤井寺山内題目碑1     摂津藤井寺山内題目碑2
 摂津藤井寺諸堂     摂津藤井寺本堂1     摂津藤井寺本堂2
 摂津藤井寺玄関客殿     摂津藤井寺庫裡
 日傳上人など墓碑:中興日傳上人墓碑、24世日宏上人は三重塔願主という。
〇曾根崎村故地
◆「攝州大阪全圖 天保新改」天保8年(1837) にみる藤井寺
 天保8年攝州大阪全圖:本地図は北が下に描かれる。中央やや上の印が藤井寺である。露の天神(お初天神)の南東に位置する。
◆「大阪圖」明治5年 にみる藤井寺
 明治5年大阪圖:右側中央やや下の印が藤井寺である。露の天神(お初天神)の南東に位置する。左側中央やや上には明治7年開設の梅田停留所(現大阪駅)がある。

483 陸奥赤倉山神社 . 陸奥赤倉山三重塔 →当三重塔は近年取壊されたと云う。
484 陸奥妙経寺   図1
図2
図3
図4
図5
三重塔は「蓬迎橖」の扁額を掲げる。
建造年は不明ながら、蓬迎橖(三重鉄塔)は日蓮上人700年遠忌(正当は昭和56年)事業で建立というので、昭和56年前後に建立と推定される。塔は鉄骨製であり、遺憾ながら、塔としては細部をほとんど省略した粗悪な塔であろう。基壇は吹き抜けの鉄骨構造とする。なお、蓬迎橖には当寺最古の火中出現の日蓮上人像、日蓮上人直筆の断簡等の宝物等が格納されるという。
妙経寺は法輪山と号する:黒石市京町字寺町12:本寺は不明。
寺歴については、良く分からない。
情報として次の2つがある。
1)承応元年(1652)弘前本行寺6世日住上人が現在地を拝領、法輪寺を併合し当寺を創建と云う。
法輪寺は浅瀬石城主千徳氏の祈願所として建立と云う。
 →弘前本行寺は陸奥の諸寺中にあり。
2)創立は弘治2年(1556)浅瀬石城主千徳大和守の祈願所として開山、その後浅瀬石城落城後、一時石名坂近江の領五輪台へ移るも、黒石藩の街づくりの際、現在地へ法輪山妙経寺として併合、承応元年(1652)に再興開山。
 ※浅瀬石城は現妙経寺の南東の舌状台地の先端にある。
 ※石名坂は浅瀬石城の北西平地にある。
1)及び2)を総合すれば、
弘治2年(1556)浅瀬石城主千徳氏の祈願所として法輪寺が開山。浅瀬石城落城し、千徳氏は没落する。
承応元年(1652)弘前本行寺6世日住上人が現在地を拝領、法輪寺を併合し、現在地に妙経寺を創建(法輪寺を再興開山)したのであろう。
尤も、明暦2年(1656)弘前藩より津軽信秀が5000石を分知され、黒石に屋敷を構えるというから、黒石藩の街づくりで妙経寺が創建というのは良く分からない。
その後、正徳2年(1712)焼失、延亨元年(1744)焼失、明和3年(1766)地震倒壊を経て、再建される。
日蓮上人650年遠忌(正当は昭和6年)本堂改築。
日蓮上人700年遠忌(正当は昭和56年)蓮仰橖(三重鉄塔)建立、六角堂(浮見堂風番神堂)など建立。
「X」氏ご提供画像:2003/07/31撮影:
 陸奥妙経寺三重塔11     同        12
2008/04/02撮影:図1〜5は三重塔
 陸奥妙経寺本堂
485 武蔵円福寺 . 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
図9
10
11
12
平成14年建立。木造素木造り(総欅材)、木材表面は例えばウレタン樹脂系の透明保護材で保護していると思われる。
寸法などは不明であるが、やや小型塔と思われる。様式は純和様を用いる。均整のとれた姿に仕上がる。
寺の経歴は不明であるが、別の宗旨の寺院を曹洞宗の陽岳宗春が新しく開山、あるいは寛永12年頃同じく曹洞宗の陽岳春和が建立したとも云う。弘化5年(1848)の火災で灰燼に帰す。
三重塔北に薬師堂があり、薬師如来、日光月光菩薩及び12神将を祀る。
清瀬市野塩3-5-1
486 三河寿泉寺
 (寿泉禅寺)
. 図1
図2
図3
図4
図5
図6
平成15年落慶。木造本瓦葺きの、基本的に和様を用いる正規の塔建築である。欅を用いる。
全体的なプロポーションは江戸後期様の印象を呈する。本尊は薬師三尊。
豊橋市瓦町。臨済宗と思われる。寺暦については不詳、以下の情報がある。
延宝8年(1680)、渥美郡大津村(現豊橋市老津町)桂昌寺が河原町に移転、元禄6年(1693)寿千寺(寿泉寺)と改号したとされる。「河原町村開発覚」(延享元年(1744)頃成立と推定):河原町:瓦町
「・・・桂昌寺領12石余・・・」:「旧高旧領取調帳」(明治元年)
「寺領三十五石禅宗関山派開基天暁禅師本寺京都妙心寺長松山太平寺,御朱印二十二石余内十七石寺領右同宗本寺同村太平寺天香山桂昌寺,寺領五石訣呑江山祥雲庵一石,金福山大雲庵一石熊野山安養寺二石医王山多門院六斗聖谷山慈洞庵四斗右太平寺末」:「三河国二葉松」(天明4年)
図1〜3:2003/11/16「X」氏ご提供
図4〜5:2004/2/8「X」氏ご提供
三河寿泉寺三重塔1   同      2   同      3   同      4
  同        5   同      6   同      7   同      8
487 和泉長慶寺 . 長慶寺・海会寺跡  平成16年落慶。新造塔。伝統様式の総檜木造塔と思われ る。
488 尾張浄福寺 . 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8図9
10
平成16年建立。一辺約2.8m、高さ不明。
構造は不明ながら、木造建築(総檜)と思われる。但し地長押は御影石で代替する。
初重正面中央間は桟唐戸、正面以外は盲目連子窓、脇間は塗壁。
小型塔で、そのため脇間は極端に狭く、塗壁とする。(初重中央間128cm、両脇間78cm<芯芯間は73.5cm>を測る。一辺284cm)
基本的に和様の意匠であるが、組物は出組(小型塔の故か)とし、軒は二重繁垂木。屋根は銅板葺。松井建設請負。
浄福寺(名古屋市中川区高畑)は浄土真宗大谷派。
寺地の西に(道路を隔てて)たかばた保育園、浄福寺(旧庫裏などと思われる)、さらにその西に隣接して神明社があり、神明社は不明ながら、これ等は全て浄福寺の境内と考えられる。現在、塔・本堂・庫裏が狭い境内に建 つが(図1)、これは新に購入した土地に新築されたものと推測される。
2007/09/15「X」氏撮影画像:
 尾張浄福寺三重塔1     同        2     同        3
489 武蔵豪徳寺 . 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
7−1
図8
図9
現在三重塔新築工事が進行中。竣工予定は2005/10月。
歴史の足跡」管理人様情報:塔一辺(初重)は4.35m(芯芯間)、高さ22.4m。
心柱は2重目梁より建つ。屋根:銅板葺き。
写真で判断する限り、構造材は檜材。和様3手先の組物、少なくとも三重の化粧垂木は扇垂木を用いると云う。いずれにしろ、伝統様式の木造塔婆と思われる。
写真2、3:ニ重目構造、長押は未だ打たれていない。
写真4:和様3手先組物。写真5:ニ重目桔木。
写真6:三重屋根板、銅板葺きのため5分板を二枚重ね(合計1寸厚)にするようです。
写真7:心柱と桔木、心柱は全く独立し、塔構造とは関係ないことが良く撮れている。
写真7−1:写真7をモノクロ化したもので、心柱は八角に面取され、面取面には信徒一同(寄進者)の芳名、記念文(禅宗曹洞宗)などが墨書されているようです。
写真8:銅板を葺く様子。写真9:銅板の素材。
豪徳寺略伝:文明12年(1480)吉良頼高娘(吉良政忠伯母)弘徳院のために世田谷城内に創建され、弘徳院と号したのが創建と伝える。天正18年世田谷城落城の時焼失。
寛永10年(1633)彦根藩主井伊直孝がこの地を下屋敷に拝領、寺を再興。
万治2年(1659)直孝が没し、その法号にちなみ豪徳寺と改号す。爾来豪徳寺は井伊家菩提寺として伽藍が整備される。曹洞宗。
2005/09/23「X」氏ご提供
現在も工事中と思われるが、ほぼ外観は完成と推定される。初重はシートに覆われ不明。おそらく内装中と思われる。予定では落慶は2006年4月とされる。
二層の中備に猫の彫刻がある(当寺は猫寺という)。
設計施工:杉山工務店。
武蔵豪徳寺三重塔1     同        2
2006/03/17追加:
ほぼ完成と思われるが、初重にはビニールシートの覆があり、まだ内装の工事中と思われる。
また塔周囲の付帯工事も進行中であるが、いずれにせよ完工は間近と思われる。
武蔵豪徳寺三重塔1    同        2    同        3    同        4
  同        5    同        6    同        7    同        8
  同        9    同       10    同       11
なお八角宝塔がある。納骨堂、昭和11年建立、RC、高さ約14m、径10.91m。
    同   八角宝塔
2006/05/14三重塔落慶。
武蔵豪徳寺三重塔1    同        2    同        3    同        4
  同        5    同        6    同        7    同        8
  同        9    同       10    同       11    同       12
  同       13    同       14    同       15    同       16
  同      本尊
490 尾張光円寺 . 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
図9
平成19年建立、(内部構造は不明ながら)伝統様の正規の木造建築と思われる。
規模は不明であるが、中型から大型に属する塔と思われる。
側柱は欅で、柱以外の用材は檜を用いる。全て素木のまま。印象的には各重の逓減が小さく、また相輪も短く(現状の倍近くは欲しい)鈍重感は否めない。
本尊;阿弥陀如来を祀ると云う。
光圓寺(中川区富田町万場)は臥龍山と号す。元は天台宗医王山瑠璃光院薬師寺と号するも、嘉禄元年(1225)一向宗(現大谷派)に転宗すると云う。
2008/02/10「X」氏撮影画像:
 尾張光圓寺三重塔1     同         2
. 御厨前田免の三重塔 . 図1
図2
長崎県松浦市御厨町前田免
建築年代不詳、詳細不詳、建造主は山口法雲師。(光明院と云う寺院が付近にある?)
木造本瓦葺と思われる。軸部・軒廻も正規の塔建築と思われるも不明。
2009/04/10「X」氏情報:組物は出組、両脇間は塗壁・板壁にするなど多少簡略化されている。寺院境内ではなく、ほぼ単独で塔は建つ。ここには「願掛霊場」と称する石碑が建つ。
491 上野大雄院 . 三重塔図1
図2
図3
図4
図5
2009/02/01「O」氏ご提供画像:三重塔図1〜図5及び下の写真
平成20年(2008)完工。大型木造塔(法量は不明)。施工:清水建設、銅板屋根葺施工:久保板金工業(株)
軸部・木鼻・斗栱などは珍しくほぼ完全な唐様を用いる。
(但し、外装は木造であることは確かと思われるも、内部構造は情報がなく不明)。
屋根:銅板葺。基壇:古典的な壇上積基壇。中央間:各重とも上部に透を入れた桟唐戸、両脇間:初重及びニ重は花頭窓 、三重目は丸窓。軒下:初重及びニ重はニ軒平行垂木、三重目はニ軒扇垂。
サンキョー創業者毒島氏の寄進と云う。(近年本堂等の新造も成就と推定される。)なお、塔の総工費は約10億円とも云われる。曹洞宗。桐生市広沢町3丁目。
 上野大雄院遠望:茶臼山(293m)を背に北面して寺院はある。
 大雄院三重塔二重
 大雄院三重塔三重1:唐様意匠が良く見て取れる。
 大雄院三重塔三重2:塔の丸窓(唐様)は珍しい意匠で、桟は一切入れない。
 大雄院三重塔屋根:軒付け(と云うようである)は二重(下7段・上5段)となる。風鐸を吊るす。
写真左上は勾欄逆蓮、勾欄は典型的な唐様で、架木は蕨手(と云うのであろうか)を用いる。
 大雄院三重塔相輪:避雷針は導線を頂部から相輪の間を通し、路盤の中から本体に引き込むと云う。
2009/02/21:「X」氏ご提供画像
 上野大雄院三重塔11     同        12     同        13
2011/09/18撮影
大雄院は天正11年(1583)の創建、山門は楼門で寛保3年(1743)の建立、門内四方に四天王を安置する。
上野大雄院三重塔21   上野大雄院三重塔22   上野大雄院三重塔23   上野大雄院三重塔24
上野大雄院三重塔25   上野大雄院三重塔26   上野大雄院三重塔27   上野大雄院三重塔28
上野大雄院三重塔29   上野大雄院三重塔30   上野大雄院三重塔31   上野大雄院三重塔32
上野大雄院三重塔33   上野大雄院三重塔34   上野大雄院三重塔35   上野大雄院三重塔36
上野大雄院三重塔37   上野大雄院三重塔38   上野大雄院三重塔39   上野大雄院三重塔40
上野大雄院三重塔41   上野大雄院三重塔42   上野大雄院三重塔43   上野大雄院三重塔44
上野大雄院三重塔45   上野大雄院三重塔46   上野大雄院三重塔47
上野大雄院俯瞰       上野大雄院山門
492 三河随念寺 . 11
12
13
平成23年(2011)完工予定。総檜造、純和様を用いる。総高16.7m、一辺5.4mの基壇(写真ではコンクリートと思われる)上に建つ。初重屋根一辺は約7m。
工費2億5000万円、大工は豊田市在住の宮大工。平成16年着工、平成22年にほぼ外装が完成、内装等は平成23年完了予定。(以上報道発表) なお屋根は銅板葺(人工緑青銅板)。
随念寺:岡崎市門前町、浄土宗、仏現山と号する。永禄5年(1562)徳川家康(松平三河第9代)が創建する。
松平三河第7代世良田次郎三郎源清康(松平清康)の荼毘所・墓所である。
元和年中(1615-1624)徳川秀忠、山門・本堂を大改修する。
○画像11〜13; 「X」氏2010/09/26撮影画像
○2011/12/24追加:
 三河随念寺三重塔21    三河随念寺三重塔22    三河随念寺三重塔23    
 三河随念寺三重塔24    三河随念寺三重塔25    三河随念寺三重塔26
 三河随念寺三重塔27    三河随念寺三重塔28    三河随念寺三重塔29
 三河随念寺三重塔30    三河随念寺三重塔31    三河随念寺三重塔32
 三河随念寺三重塔33    三河随念寺三重塔34    三河随念寺三重塔35
 三河随念寺三重塔36    三河随念寺三重塔37    三河随念寺三重塔38
 三河随念寺三重塔39    三河随念寺三重塔40    三河随念寺三重塔41
 三河随念寺三重塔42    三河随念寺三重塔43    三河随念寺三重塔44
 三河随念寺三重塔45    三河随念寺三重塔46
 三河随念寺山門     三河随念寺楼門     三河随念寺玄関庫裏      三河随念寺本堂
493 下総舟橋金蔵寺 . . 2018/03/16追加:
瀧不動と通称する。山号は御瀧山。
木造三重塔が竣工する。落慶は2018/04/25の予定。(平成30年)
三重塔は和様を基調とした木造素木の塔と思われる。詳細は不明。
 下総瀧不動三重塔01:2018年2月27日付東京新聞より転載
 下総瀧不動三重塔02:サイト:MyFuna.net より
494 豊岡播磨屋本店 . . 2013/08/30追加
(有)播磨社寺工務店のサイトに以下の工事予定が掲載される。
「播磨屋本店三重塔婆新築工事(木工事・建具工事):竣工時期は未定」
豊岡播磨屋本店に三重塔が建立されるようであるが、詳細については全く情報がない。
現在、工務店の方で塔模型が製作中と思われる。
なお、播磨社寺工務店は圓教寺、斑鳩寺、朝光寺、若狭明通寺、随願寺、但馬妙見、播磨清水寺、中山寺、播磨鶴林寺、奥山寺、播磨浄土寺、如意寺、酒見寺、播磨蓮花寺、福祥寺(須磨寺)、東光寺、伽耶院などの指定文化財建築を含む多くの工事に携わる。
○2018/03/11「X」氏撮影画像
スメラギの三重塔と称するという。そして本三重塔は播磨斑鳩寺三重塔をモデルとするという。
「この塔には、心柱の相輪部分と4隅の柱脚にはめた割れ止めのタガ以外、金属の補強は一切なく、伝統構法そのものです。もちろん柱脚は石の上に乗っているだけの石場建てです。」というように、指定文化財以外では唯一の伝統工法に基づいた新造塔という。
 播磨屋三重塔竣工11     播磨屋三重塔竣工12
○2018/03/16追加:
(有)播磨社寺工務店に播磨屋三重塔の工事写真の掲載がある。その工事写真を抽出、転載する。
 播磨屋三重塔椽組立     播磨屋三重塔椽完工1     播磨屋三重塔椽完工2
 播磨屋三重塔初重柱組    播磨屋三重塔初重軸部    播磨屋三重塔初重天井1
 播磨屋三重塔初重天井2   播磨屋三重塔初重天井3   播磨屋三重塔初重天井4
 三重塔初重尾垂木・組物    三重塔初重桔木・二重柱組
 三重塔初重屋根工事     三重塔三重屋根工事1     三重塔三重屋根工事2
 播磨屋三重塔相輪部芯柱   播磨屋三重塔相輪取付
 播磨屋三重塔初重蟇股     播磨屋三重塔初重茅負     播磨屋三重塔初重尾垂木
 播磨屋三重塔初重組物     播磨屋三重塔三重組物1    播磨屋三重塔三重組物2
 素屋根解体・三重組物      三重塔素屋根解体完了1    三重塔素屋根解体完了2
 三重塔素屋根解体完了3     播磨屋三重塔竣工1      播磨屋三重塔竣工2
 播磨屋三重塔院竣工1     播磨屋三重塔院竣工2     播磨屋三重塔院竣工3
 播磨屋三重塔院竣工4     播磨屋三重塔院竣工5
2018/06/02撮影:
現地の「建立趣意書」には次のように記す。
 皇(スメラギ)三重塔(アマテラス再来誓願皇三重塔)と称する。
皇祖アマテラスは古の日本人を教導し、理想の王道国(和の国)の礎を築いたとされる存在である。
しかしながら、アマテラス以来、理想の天皇は出現せず、日本人は日本神代の精神を忘れ、頽廃の極みに達せようとしている。
そんな中、一筋の光明が見える。それは「次代天皇たる徳仁皇太子が人間的覚醒を果たし、再来のアマテラスすなわち救世主に大変身される可能性が極めて高い」ということである。
この「皇三重塔は、そんなアマテラス再来を誓願し、併せてその救世主の大聖業を末永く顕彰するべく建立」されるのである。
 ※驚くべき思考であるが、今の世にも、このような荒唐無稽な「国家神道」を信ずるものがいるのである。
 播磨屋三重塔竣工61     播磨屋三重塔竣工62     播磨屋三重塔竣工63
 播磨屋三重塔竣工64     播磨屋三重塔竣工65     播磨屋三重塔竣工66
 播磨屋三重塔竣工67     播磨屋三重塔竣工68     播磨屋三重塔竣工69
 播磨屋三重塔竣工70     播磨屋三重塔竣工71     播磨屋三重塔竣工72
 播磨屋三重塔竣工73     播磨屋三重塔竣工74     播磨屋三重塔竣工75
 播磨屋三重塔竣工76     播磨屋三重塔竣工77     播磨屋三重塔竣工78
 播磨屋三重塔竣工79     播磨屋三重塔竣工80     播磨屋三重塔竣工81
 播磨屋三重塔竣工82     播磨屋三重塔竣工83     播磨屋三重塔竣工84
 播磨屋三重塔竣工85     播磨屋三重塔竣工86     播磨屋三重塔竣工87
 播磨屋三重塔竣工88     播磨屋三重塔竣工89     播磨屋三重塔竣工90
 播磨屋三重塔竣工91
495 陸奥三春法蔵寺三重塔初重 初重 (福島県三春町)初重のみであるが、残欠でも放置でもないので、三重塔のページに掲載する。
建築年代不明(平成の後半と思われる)、単層の永代供養塔(納骨堂)として建立される、しかし施工会社が将来的に三重塔にも増改築できるようにと設計するという。
写真の印象は、確かに、木造(と思われる)の和様の塔婆建築で、柱や斗栱及び柱間の造作など、塔婆初重そのものであろう。屋根銅板葺。
三春法蔵寺は鎌倉期遊行二祖他阿真教の開山、時衆の道場として法灯を継ぐ。
江戸幕府の宗教統制に服するまでの寺歴は不明である。
天明5年(1785)類焼、文化4年(1807)全焼、本堂は復興されず、近年まで仮本堂のままであった。
○写真:初重は「X」氏2019/03/21撮影
496 三原佐木島
産格寺三重塔

参考:
佐木島磨崖和霊石地蔵
    建築年代不詳(聞取りでは昭和35年〜45年/1960年代の建築というも不確実)。
前代未聞なことに、平面三角形(おそらく正三角形)の特異な塔である。
構造は平面三角、木造三重塔、屋根本瓦葺き。基壇は高いコンクリート製でその上に建つ。
柱は丸柱、三重とも等間の三間、初重正面中央間のみ扉で、それ以外の初重の2面、二重・三重の全ての柱間は壁である。柱間は長押で繋ぐ。軒は二軒、何れも平行垂木とする。
組物は平三斗、隅は出三斗を使用。各重に組勾欄を設置。
相輪は型どおりのものを載せる。
佐木島産格寺:
本寺については、Web上全く情報がない。辛うじて、Googleマップで、その写真が確認できるだけである。
そこで、産格寺付近で年配の婦人に聞取りを行う。この方は数十年、産格寺付近にお住まいという。
 <50〜60年前に法○先生(不明)というお方が寺院を建立、建立の頃には三重塔もあったと思う。
今は法○先生も跡を継いだ奥様も逝去され、現在は無住です。
ですが、お寺そのものは三原(市)の信者が時々訪れて、維持管理している。
佐木島には信者は全くいない。
私の両親はお寺さんと近所付き合いはあったが、私はお付き合いしたことは全くない。
という訳で、由来や宗旨は存じていない。ただ雑多な神仏を祀っているようです。>
なお、現地で確認すると、産格寺に掲げられる表札には「瀬野法昇」とあり、聞取り中の「法○先生」とは「法昇先生」と判断できる。
以上から、産格寺は伝統仏教の寺院ではなく、戦後に「瀬野法昇」が立ち上げた仏教系新興宗教の拠点であろうと推測できる。
三重塔も不確かではあるが、昭和35〜45年(1960年代)くらいに建立されたのであろうと思われる。
寺院自体は無住であるが、信者の方が管理しているようで、荒れ果てている感じではない。
2022/07/30撮影:
 佐木島産格寺空撮:GoogleMapより、中央に平面三角三重塔の三角屋根が写る。
 産格寺三重塔11    産格寺三重塔12    産格寺三重塔13    産格寺三重塔14
 産格寺三重塔15    産格寺三重塔16    産格寺三重塔17    産格寺三重塔18
 産格寺三重塔19    産格寺三重塔20    産格寺三重塔21    産格寺三重塔22
 産格寺三重塔23    産格寺三重塔24    産格寺三重塔25    産格寺三重塔26
 産格寺三重塔27    産格寺三重塔28    産格寺三重塔29    産格寺三重塔30
 産格寺三重塔31    産格寺三重塔32    産格寺三重塔33    産格寺三重塔34
 産格寺三重塔35    産格寺三重塔36
 産格寺三重塔相輪1    産格寺三重塔相輪2
 佐木島産格寺1     佐木島産格寺2     佐木島産格寺本堂か    産格寺玄関客殿か
 産格寺瀬野法昇立像か    瀬野法昇立像?横石碑
参考:
佐木島磨崖和霊石地蔵
以下に、現地説明板及び各種Webサイトの情報を総合する。
 佐木島向田野浦(向田港フェリー乗り場)の波打際にある。
高さ約2.7m、幅約4.7mの巨岩(花崗岩)に半肉彫の地蔵菩薩坐像(像高95cm)を彫る。
右手に錫杖を持ち、左手に宝珠をのせる。満潮時には、像の肩のあたりまで海中に没する。
正安2年(1300)散位平朝臣茂盛が大願主となり幹縁道俗(かんえんどうぞく、幹縁は勧縁か、)70余人を集めて行った。仏師は念心である。
 ※勧縁は有縁の人に勧めて、浄財を寄付せしめること。道俗は僧侶・俗人の意か。仏師はこの場合石工。
地蔵尊右に、地蔵本願経の偈「現在未来天人衆、吾今慇懃付属汝、以大神通方便□、勿令堕在諸悪□」を四行に刻む。
 ※現在未来の天界・人界の衆よ、われ今ねんごろに汝に付属し、大神通(だいじんづう)の方便を以てすくわん。諸々の悪趣に(人々)をおとしむるなかれ]
この偈の右に「釈尊円寂二千二百五十一歳、干時正安二年(1300)庚子九月日、大願主散位平朝臣茂盛、幹縁道俗都合七十余人、仏師念心」とある。
 ※この碑文は現地にて、別の石に別刻(移刻)され、石碑が2基ある。(下に・・・・・)
さらに、地蔵像左に「東西南北各於一町、□□□□殺生禁断」の文字があるというも、剥落し、よく分からない。
なお、和霊という名称の謂れであるが、伊予和霊神社の信仰の影響を受けて、和霊石(割石)地蔵と呼ぶようになったという。
また、毎年、7月の終わりの土曜日の潮がひいた夕方から地元民が参集し法要が行われ、夜店なども出る行事が行われる。
 ※奇しくも、訪問日の7月30日は7月最後の土曜日であった。
仏師念心:
念心銘の石像物はこの地蔵尊以外に次の2基がある。
伊予大三島大明神宝篋印塔<東塔>(重文) →伊予三島大明神
備後米山寺小早川氏廟所宝篋印塔(重文)
2022/07/30撮影;
 磨崖和霊石地蔵11    磨崖和霊石地蔵12    磨崖和霊石地蔵13
 磨崖和霊石地蔵14    磨崖和霊石地蔵15    磨崖和霊石地蔵16
 磨崖和霊石地蔵17
 磨崖和霊石地蔵右刻文
 和霊石地蔵長足五輪塔・別刻碑:長足五輪塔は、はっきり判読できないが「奉供養地蔵尊五百二十回向」(「二十回向」の判読には確信はない)とすれば、文政3年(1820)にこの碑が建立されたのであろう。向かって左は別刻碑
 和霊石地蔵別刻碑    和霊石地蔵別刻碑その2
 満潮時和霊石地蔵:現地説明板より転載
 和霊石地蔵法要1    和霊石地蔵法要2    和霊石地蔵法要3
 和霊石地蔵法要4    和霊石地蔵法要5
 和霊石地蔵・その他の地蔵:少なくとも14体の地蔵が確認できる。向かって右は佐木島四国88所48番十一面観音である。
 佐木島四国88所53番:瀬戸内の殆どの島に四国88所が設けられているが、佐木島にも島を一周する四国88所札所が設けられている。53番阿弥陀如来。
参考)
○「米山寺宝篋印塔」のページでは次のように云う。
米山寺(べいさんじ)(広島県三原市沼田東町納所460)
 嘉禎元年(1235)、小早川茂平により不断念仏堂が建立され、小早川氏の菩提寺となる。
米山寺宝篋印塔(重要文化財、鎌倉時代後期 元応元年 1319年、花崗岩、高さ 223.4cm)
塔身、正面に「元応元年(1319)未己十一月日、一結衆敬白、大工念心」の刻銘がある。
この石塔は、小早川家の墓塔ではなく、供養塔として造られる。
497 陸奥楢葉廣徳院     法樹山高齋寺廣徳院と号する。真言宗智山派。
三重塔が2023年竣工、京都奥谷組の施工。
高さ・平面一辺長などは不明。おそらく標準的な大きさと推定する。
和様で統一された素木木造塔である。屋根本瓦葺。
廣徳院:説明板より(要約):
久安6年(1151)藤原清衡息女徳姫が磐城則道へ嫁し、当地の霊気を感得し、一寺を建立する。
開基は鏡意。
戦国期の兵乱で烏有に帰す。
江戸期に至り、磐城平藩主の外護を受け、再興、寺領30石を受く。
安政3年野火により類焼する。戦後、順次堂宇を再建す。
2024/04/29「X」氏撮影画像:
 楢葉廣徳院三重塔1     楢葉廣徳院三重塔2
YouTube:「福島県楢葉町法樹山廣徳院齋寺(広徳院) 三重塔 紅葉バージョン」より転載
 楢葉廣徳院三重塔3     楢葉廣徳院三重塔4
 楢葉廣徳院三重塔5     楢葉廣徳院三重塔6
. 池上本門寺再興清正公堂 . . 池上本門寺再興清正公堂
. 武蔵清林寺
(建築中)
. 図1
図2

画1
画2
画3
画4
画5

日本の木造建築の技を次世代に伝える主旨で、四半世紀前に塔建立を発願したと云う。モデルは
大和法輪寺(飛鳥様式の木造三重塔)とされる。しかし、四半世紀の時間が経過した現在の進捗状況は、まだ二重目の後半の工程にさしかかっているといった状況と思われる。このままのペースであれば、もう四半世紀の時間が必要とも思われる。
施工主はこのペースでいいのだという考えで、「木材の一本一本は、木挽き職人によって手引き鋸で引いております。昨年も数ヶ月間、大鋸(おが)という大きな鋸で木挽きを行ってもらいました。樹齢千五百年の丸太ともなれば1ヶ月も要します。職人さんたちのゆっくりとした仕事ぶりはとてもリズミカルです。まるで悠久の時の流れを楽しんでいるかのようです。」と云う。
棟梁西岡常一師の指導ということであったが、近年棟梁が交替したと思われる。
文京区向丘2-35-3、清林寺は浄土宗。
図1−2: 「X」氏ご提供画像
現存三重塔(明治以降)

※近年の新造塔についての全貌を完璧に把握している訳ではない。また、 新造塔の内、
建築として余りにも程度の悪いものは三重塔と称していても、掲載は省略する。(塔もどきのページなどへ掲載)
注:三重塔の部で連番318の次に318-1(近江金剛輪寺)を採番。404(武蔵西新井大師)は欠。

2006年以前作成:2023/04/12更新:ホームページ日本の塔婆


 

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