現存する五重塔:江戸規以前 |
現存する五重塔:江戸期以前
名称・場所 | 国指定 | 画像 | 備 考 | ||||
501 | 大和法隆寺 | 国宝 |
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大和法隆寺五重塔 | |||
502 | 大和室生寺 | 国宝 |
図1 図2 図3 図4 図5 図6 図7 図8 図9 10 11 12 13 14 |
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平安初期(延暦年間<781−805>頃か)造立。高さ16m余、一辺2.48m。屋外五重塔では最小。 近年台風で大破・解体修理。 ○2000/5/24朝日新聞記事:1998年9月台風7号によって半壊した塔の修復が終了。 屋根の現状は桧皮葺(厚さ20cm)であるが、創建時から明和5年(1768)の大修理まで、板葺であったと云う。 ○<2000/7/7朝日新聞HPから・・http://www.asahi.com/paper/special.html#asahicom> 奈良・室生寺五重塔、台風被害の修復終わる。 台風7号(1998/9)で半壊。2000/7/7修復工事が終了。檜皮(屋根)葺替。柱・壁再塗装(朱色の土とベンガラを混ぜたものと黄土などを使用)。修復費用は約1億4000万円。 ○金 堂1 金 堂2(平安初期・国宝・5間×4間・1間の外陣・江戸期)、 灌頂堂1 灌頂堂2 灌頂堂3(本堂・鎌倉・国宝・5間×5間)、 弥勒堂1 弥勒堂2(鎌倉・重文・3間×3間)、御影堂(鎌倉・重文・3間×3間)などの建築を残す また本尊釈迦如来立像(平安初期・国宝)、本堂十一面観音立像(平安初期・鎌倉)、本堂板壁帝釈天曼荼羅図(平安初期。国宝)、弥勒堂客仏釈迦如来坐像(平安初期・国宝)をはじめその他多くの優れた仏像 も残す。 ○2004/11/06撮影:図1〜14 ○2006/02/11追加: 「奈良イベントガイドブック:2005-2006Winter」奈良県観光連盟、パンフレット表紙写真 大和室生寺五重塔 ○2007/02/12「大和の古塔」 基壇一辺18尺2寸、高さ3尺2寸 初重全3間8尺2寸、中央間2尺9寸、両脇間2尺6寸5分 二重全3間7尺3寸5分、中央間2尺5寸5分、両脇間2尺4寸 三重全3間6尺3寸、中央間2尺2寸、両脇間2尺5分 四重全3間5尺6寸、中央間1尺9寸、両脇間1尺8寸5分 五重全3間4尺8寸5分、中央間1尺7寸5分、両脇間1尺5寸5分 相輪長15尺3寸5分、全高53尺4寸 ○2007/02/18追加「日本建築史基礎資料集成・塔婆T」 「宀一山年分度奏状」では室生寺は興福寺賢mが創建と云う。賢mは多度神宮寺に三重塔を建てており、室生においても龍穴神の神宮寺を建立したことも大いに考えられるであろう。 「宀一秘話」では天長元年(824)空海が再興したとする。中世以降室生寺は真言化し、元禄16年興福寺一乗院から江戸護国寺の末寺となる。 五重塔の建立年代については確たる史料がないが、様式や傍証から、9世紀初の建立と推定される。 室生寺五重塔断面図 室生寺五重塔礎石配置図 ○2008/08/23追加: 「特別保護建造物及国宝帖」内務省宗教局編、東京:審美書院、明43年 より 室生寺五重塔311 室生寺立面図312 室生寺立断面図313 「日本之名勝」瀬川光行編、東京:史伝編纂所、明治33年 より 室生寺五重塔314 ○2009/07/25追加:出典亡失 室生寺五重塔315 ○2011/07/24追加 室生寺五重塔相輪は水煙がなく、その代わりに宝瓶と宝蓋を載せる。九輪の上に宝瓶を架し、その上に宝蓋を架す。この類例は出土遺物ではあるが、出雲来美廃寺東塔に唯一知られるだけである。 |
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503 | 山城醍醐寺 | 国宝 | → | 五重塔:天歴6年(931)落慶供養。平安期の五重塔で今日に伝えられる貴重な遺構である。 山城醍醐寺五重塔/上醍醐寺/下醍醐寺 平安期の塔婆/醍醐寺 醍醐寺子院/栢杜遺跡 |
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504 | 山城海住山寺 【国宝】 ○五重塔は建保2年(1214)の建立。(慈心上人の建立)鎌倉期の代表とするには小型であるが、鎌倉期の唯一現存する五重塔遺構として、貴重である。また五重塔として、心柱が初重の梁から建つ初例とされる。 一辺2.74m、総高17.7m。 初重総間9尺3分5厘、中央間3尺2寸8分5厘、両脇間2尺8寸7分5厘 二重総間8尺4寸4分5厘、中央間3尺8分5厘、両脇間2尺6寸8分 三重総間7尺9寸1分、中央間2尺8寸9分、両脇間2尺5寸1分 四重総間7尺3寸1分、中央間2尺5寸5分、両脇間2尺3寸8分 五重総間6尺6寸6分、中央間2尺4寸9分、両脇間2尺8分5厘 組物は珍しく、各重尾垂木付の二手先である。通常塔の組物は三手先を定例とする。 2000/12/03撮影: 五重塔2000-1 五重塔2000-2 五重塔2000-3 五重塔2000-4 2005/04/17撮影: 五重塔2005-11 五重塔2005-12 五重塔2005-13 五重塔2005-14 五重塔2005-15 五重塔2005-16 五重塔2005-17 五重塔2005-18 五重塔2005-19 五重塔2005-10 五重塔2005-11 五重塔2005-12 五重塔2005-13 五重塔2005-14 五重塔2005-15 五重塔2005-16 五重塔2005-17 ○都名所圖繪 より 都名所圖會・海修山寺1 同 海修山寺2(海修山寺と表す) 2007/02/18追加: 〇「日本建築史基礎資料集成・塔婆T」 より 天平7年聖武天皇の勅願で良弁が開山と伝える。保延3年(1136)回碌に帰す。(史実かどうかは不明) 承元元年(1207)、笠置寺の興福寺解脱上人(良慶)が入寺し復興する。 建保2年頃五重塔が完成したとされる。(塔「仏舎利安置状」の年紀による) 室町末期には11間本堂、老宿坊、文殊堂、釈迦堂、如法経堂、五重塔、蓮華寺、春日、天神、大門、湯屋、食堂があったと伝える。明治維新で興福寺から離れ、小野随心院に属し、明治23年智積院に属す。 昭和36〜38年の五重塔解体修理で、1層に吹放しの裳階を復元し旧態に復する。 元仁2年(1225)「海住山上人御房十三年追善願文写」には「加以繕飾塔婆増加階」とあり、裳階が追加される。 長禄3年(1459)・寛正4年(1463)塔修理、 慶長12年までに裳階撤去が行われ、慶長12年塔大修理、明暦3年(1657)塔修理、 寛文2年(1662)・寛文6年・寛文11年の数次の大修理、寛政3年(1791)修理、嘉永6年(1853)修理。 明治16年軒支柱挿入、昭和36〜38年解体修理、初重吹放しの裳階を復旧する。 海住山寺修理前全図 海住山寺五重塔立面図 海住山寺五重塔断面図 2007/09/10追加: ○「笠置山及附近写真帖」田中市之助編、東京:東陽堂、明42年 より 海住山寺五重塔:解体修理前の写真であり、従って初重には裳階が無い。 2022/03/30追加: ○「海住山寺の美術」海住山寺編集、平成25年(2103) より 海住山寺修理前全図2:解体修理前 2008/07/21追加: ○朝日新聞掲載記事 より 海住山寺五重塔内部: 2009/02/03追加: ○「幕末明治 京都名所案内」 より 海住山絵圖 2011/03/31追加 ○「四百年前社寺建物取調書」明治15年社寺調査 より 海住山寺見取図 海住山寺五重塔絵図 2012/04/03追加: ○「京都山城 宇治茶の郷 通信」Vol1.18(2011/09) より 海住山寺五重塔12 2014/09/02追加: ○2014/05/14付朝日新聞夕刊「京ものがたり」 より 海住山寺空撮 2017/11/12撮影: 〇海住山寺五重塔全容: 海住山寺五重塔11 海住山寺五重塔12 海住山寺五重塔13 海住山寺五重塔14 海住山寺五重塔15 海住山寺五重塔16 海住山寺五重塔17 〇海住山寺五重塔細部: 海住山寺五重塔18 海住山寺五重塔19 海住山寺五重塔20 海住山寺五重塔21 海住山寺五重塔22 海住山寺五重塔23 海住山寺五重塔24 海住山寺五重塔25 海住山寺五重塔26 海住山寺五重塔27 海住山寺五重塔28 海住山寺五重塔29 海住山寺五重塔30 海住山寺五重塔31 海住山寺五重塔32 海住山寺五重塔33 海住山寺五重塔34 海住山寺五重塔35 海住山寺五重塔36 海住山寺五重塔37 海住山寺五重塔風鐸 海住山寺五重塔相輪 〇五重塔初重内部 海住山寺五重塔初重内部 なお、管見ながら、五重塔内部に関する文献の概要を次に記す。 ◇「日本の美術 bV7塔」石田茂作編集、昭和47年 より 初重には四天柱を取り込んで仏壇を造り阿弥陀如来を安置し、四面扉に梵天・帝釈・沙迦羅竜王・阿難・法涌・常啼・玄奘三蔵・閻魔大王を描く。 ◇「日本の塔総観 近畿地方編増補版」中西亨、昭和48年 より 内部は四天柱内を厨子とする。大日如来を安置し、天井は格天井で一面に絵画が描かれるが鎌倉期の当初のものである。 ◇「日本塔総鑑」中西亨、昭和53年 より 現在本尊は阿弥陀如来坐像であるが、もとは大日如来と伝えるし、更に当初は舎利が本尊であったらしい。 内陣と本尊:s49.2.12写 とある。「日本塔総鑑」より転載。 ◇「塔をゆく第1巻五重塔」國見辰雄、2000 より 初層内部は単に四天柱を建てる構造であり、四面には板扉を設け、内部には建立当初の壁画が残され、厨子のように作り上げている。後鳥羽院下賜の仏舎利2粒を含む7粒が収められている。(加茂町教委から送られた「加茂町史」の複写に基づくものと思われる。) ◇「仏塔巡礼 西国遍」長谷川周、2000年: 初僧内部は・・心柱がなく、四天柱内を厨子にして、阿弥陀如来坐像を本尊として安置する。 ◇「国宝五重塔」小田原敏之、2013 より (初層内部は)四天柱に腰長押を回し、扉を吊り込んで厨子とする。明治の頃は大日如来が安置されるも、今は仏舎利と四天王が安置される。 ◇「海住山寺の美術」海住山寺編集、平成25年 より 初重内部には四天柱が建ち、床を高く張り、四天柱には四方とも扉が設けられて厨子のように造られ、ここに仏舎利が奉安されていた。板扉内側には僧形四体と八部衆四体が、柱や長押、無目には極彩色で様々な宝相華文様や牡丹唐草が描かれ、鎌倉前期の仏画や彩色が良く残る。東西の扉に八部衆が描かれるのは本尊としての仏舎利を護持させるためで、塔は東西を軸として建立されたと考えられる。 なお、本著には次の関連資料が載る。 【五重塔】: 五重塔初重内部 柱・長押・壁面等装飾 【僧貞慶仏舎利安置状】: 僧貞慶仏舎利安置状:承元2年(1208)河内交野新御堂の導師をつとめた貞慶は後鳥羽院から舎利2粒を賜る。その2粒の内、色の濁ったものは東寺のものであり、澄んだものは招提寺のものであるが、山城海住山寺に安置奉る。なお御使長房とは院に仕える藤原長房で、後に貞慶の後継となる覚真こと藤原長房である。 【僧覚真仏舎利安置状】: 僧覚真仏舎利安置状:建保2年(1214)二月三日、海住山寺五重宝塔に先師貞慶の供養のため仏舎利七粒を安置。その内の2粒は貞慶伝来の2粒(後鳥羽院下賜の2粒で1粒は東寺、もう1粒は唐招提寺)であり、それに5粒を加えたものである。五重塔初重には四天柱を利用して空間が造られ、ここに7粒の仏舎利が安置されたものと思われる。 【海住山寺縁起】紙本着色、寛文4年(1664)奥書: 海住山寺縁起〔下巻第四段〕:慈心上人覚真、仏舎利を当山五重塔に安置し、貞慶の一周忌に供養す。 〇海住山寺その他の伽藍・文化財 2005/04/17撮影: 文殊堂(鎌倉・重文) 文殊堂蟇股 2017/11/12撮影: 海住山寺町石1:寛文9年年紀 海住山寺町石2:室町期という。 海住山寺大門 海住山寺山門(中門)1 海住山寺山門(中門)2 海住山寺本堂1 海住山寺本堂2 海住山寺本堂3 海住山寺文殊堂1 海住山寺文殊堂2 海住山寺文殊堂3 海住山寺文殊堂4 海住山寺文殊堂細部1 海住山寺文殊堂細部2 海住山寺文殊堂細部3 海住山寺文殊堂細部4 海住山寺文殊堂細部5 海住山寺文殊堂蟇股1 海住山寺文殊堂蟇股2 海住山寺文殊堂蟇股3 海住山寺鐘楼 海住山寺三社:向かって左から稲荷明神、八幡大菩薩、春日権現であろう。 海住山寺現本坊門 海住山寺現本坊 海住山寺現本坊紅葉1 海住山寺現本坊紅葉2 海住山寺現本坊庭園1 海住山寺現本坊庭園2 海住山寺鎌倉期五輪塔 薬師堂及び奥之院は未見 〇解脱上人貞慶・慈心上人覚真 解脱上人・慈心上人供養塔 承元2年(1208)笠置寺解脱坊貞慶、海住山寺に入り、復興に取り組む。 建暦3年(1213)解脱上人自坊老宿坊で遷化、後を継いだのが慈心房覚真(後鳥羽院の院司藤原長房)である。覚真は貞慶の釈迦信仰を受けて仏舎利を納める五重塔を建立し、貞慶の一周忌に仏舎利を塔内に納める。 2020/07/28撮影:
海住山寺文殊堂5 海住山寺文殊堂6 海住山寺文殊堂7 海住山寺三社2 ◆海住山寺宝珠台 2022/03/30追加: ○「海住山寺の美術」海住山寺編集、平成25年 より 能作生塔納置の水晶珠を安置するのに相応しいものである。 高さ61.7cm、巾106.7cm。鎌倉期14世紀。数材の板を両面から剥ぎ合わせ山形をつくり、白土下地を施し彩色を加える。それを黒漆の台に嵌める。宝珠台の一面は山上に石清水八幡宮の社殿を配し、全体で男山の様子をかたどっている。その反面は聖徳太子の勝鬘経講賛の場面が表わせられている。 岩清水八幡宮と聖徳太子信仰は南都西大寺叡尊と戒律修行の寺としてされた海住山寺との接点から、本品の製作背景をうかがうことができよう。 ※岩清水八幡宮多宝塔(琴塔)、西谷大塔については、写真でははっきりしないが、造作されているようである。 ※2022年本品は京都府文化財に指定される。 海住山寺宝珠台1:水晶珠を載せた状態 海住山寺宝珠台2:石清水八幡宮 海住山寺宝珠台3:聖徳太子勝鬘経講賛 2022/03/30追加: ○「南山城の古寺巡礼」京都国立博物館、2014 より 海住山寺宝珠台4:石清水八幡宮 海住山寺宝珠台5:聖徳太子勝鬘経講賛 ○「貞慶上人と石清水八幡宮の丈六阿弥陀像」杉崎貴英(帝塚山大学教授)、年月不明 次のように論及する。 <なお海住山寺に伝わる「宝珠台」(南北朝時代)の表面には、石清水八幡宮の社頭図が描かれている。制作の前提状況について、叡尊(1201〜90)が八幡宮で宝珠法をおこなったことが挙げられているが、貞慶上人と石清水との脈絡に関しても暗示的に思える。> |
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505 | 備後明王院 【国宝】 ◆五重塔:貞和4年(1348)一文勧進の小資を積んで造立されたという(伏鉢の刻銘)。 元和7年(1621)修理、元文4年(1739)8年間大修理、宝暦8〜10年(〜1760)と天明6年(1786)に修理、その後も小修理が行われたとされる。さらに明治16年修理、昭和24年屋根修理、昭和34〜37年解体修理。 初重総間14尺4寸、総高93尺9寸5分(28.5m)、 本堂が唐様を積極的に採用し唐様のプロポーションや細部を持ちさらに大仏様を巧みに取り入れた建築であるのに対し、そういった要素は無く純和様を用いる。心柱は初重天井梁から建つ。 ◆本堂(国宝、元応3年・1311):典型的な折衷様を採用した密教本堂建築として知られる。 なお門前の芦田川下の草戸千軒遺跡は常福寺の門前町として発達した中世の町の遺跡と云う。 2000/12/26撮影: 明王院五重塔 明王院五重塔・塔3 2002/08/17撮影: 明王院五重塔1 明王院五重塔2 明王院五重塔3 明王院五重塔4 明王院五重塔5 明王院五重塔6 明王院五重塔7 明王院五重塔8 明王院五重塔・本堂 明王院本堂1 明王院本堂2 ○2016/01/01撮影:
○「日本建築史基礎資料集成・塔婆T」: 大同2年(807)弘法大師創建と伝える西光院理智院常福寺が前身と云う。 本尊十一面観音(重文)は平安前期とされる故にこの頃までには創建されていたものと思われる。 近世初頭から水野氏の福山入府にかけて、大門再興、十王堂建立、天満宮、愛宕権現、稲荷社、護摩堂、鐘楼などが建立される。 承応4年(1655)から明暦2年(1656)の間に常福寺は明王院と合併し、中道山円光寺明王院と号するという。 但し明王院についての沿革は不詳、常福寺の寺号は他に移されるというも不明。 明王院五重塔立面・断面図 2014/01/25追加: ◇岡山「A」氏(岡山模型店DAN)2013/09/10撮影画像:ご提供 塔婆・本堂・鐘楼・書院等 備後明王院本堂 庫裏・玄関・中門・書院・大門 ◇五重塔内部:2013/12/21五重塔初重内部が22年ぶりに公開されたと云う。 心柱は初重梁から建つ。初重には須弥壇が置かれ、来迎壁を設ける。 須弥壇には木造大日如来坐像、木造不動明王坐像、木造愛染明王坐像を安置し、四天柱や天井には極彩色で仏画、装飾模様が描かれる。次回公開は2024年公開予定と云う。 備後明王院五重塔内部1 備後明王院五重塔内部2:いずれも新聞報道写真 2015/02/24追加: ○「朝日百科・国宝と歴史の旅 8 塔」朝日新聞社、2000 より 初重に心柱は通らず、現在は金剛界大日如来と不動明王/愛染明王を安置するが、当初は大日如来だけが祀られる。 四天柱に36体の尊像が描かれ、大日如来と合わせると金剛界37尊が揃う。 五重塔初重内部3 2016/01/01撮影:明王院現況 本堂: 明王院本堂20 明王院本堂21 明王院本堂22 明王院本堂23 明王院本堂24 明王院本堂25 明王院本堂26 明王院本堂27 明王院本堂28 明王院本堂29 諸伽藍: 明王院上壇伽藍全景 明王院庫裡・山門・書院・護摩堂:書院の北側にあり、宝形造の堂である。 明王院庫裡・山門・書院 明王院五重塔・本堂 ※護摩堂(市文):寛永16年(1639)に、水野勝成が建立、常福寺と合併時に移建されたものと思われる。元禄7年(1694)大修理。 十王堂(閻魔堂):慶長年中に再興され、さらに享保11年(1726)再建。 明王院十王堂1 明王院十王堂2 明王院十王堂内部 山門(県文):慶長19年(1614)再建(棟札)。 明王院山門 書院(県文): 江戸初期に水野勝成により再建されたものと伝える。入母屋造・本瓦葺。建物の平面を田の字に四つの部屋があり、四周を広縁と廊下で取り囲む。明暦2年(1656) 徳川家光の位牌堂に転用されるも、昭和38年解体修理時に元の姿に復元する。玄関屋根は向唐破風を用いる。 明王院書院1 明王院書院2 明王院書院3 明王院書院4 庫裡(県文) 江戸初期に水野勝成により再建されたものと伝える。玄関式台に明王院五重塔を模したと思われる五重小塔を置く。昭和38年解体修理。 明王院庫裡1 明王院庫裡2 鐘楼(市文):正保4年(1647)水野宗休(勝成の号)の寄進による(棟札)。梵鐘は明暦3年(1657)福山三代藩主水野勝貞の寄進。 明王院鐘楼 長屋:建築年代や用途などは不明であるが、江戸後期には寺子屋として使われたという。江戸期(後期)の建物であろう。 明王院長屋1 明王院長屋2 2022/12/08追加: ○【ドローン空撮・明王院】橋本事務所、2017/05/23撮影 より 明王院五重塔空撮11 明王院五重塔空撮12 明王院五重塔空撮13 明王院五重塔空撮14 明王院五重塔空撮15 明王院五重塔空撮16 明王院五重塔空撮17 明王院五重塔空撮18 明王院五重塔空撮19 明王院五重塔空撮20 明王院五重塔空撮21 |
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506 | 出羽羽黒大権現 | 国宝 | 応安5年(1372)もしくは正和5年(1316)再建塔。 出羽羽黒大権現 |
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507 | 安芸巌島 | 重文 |
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応永14年(1407)諸人(ほとんど女性)の勧進によって建立される。 安芸厳島五重塔・多宝塔 |
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508 | 大和興福寺 | 国宝 | 応永33年(1426)棟上、この塔が現在に伝わる。 大和興福寺 |
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509 | 山城法観寺 | 重文 | 永亨12年(1440)足利義教再建塔。八坂の塔と俗称する。山城利生塔である。 山城法観寺 |
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510 | 周防瑠璃光寺 【国宝】 嘉吉2年(1442)建立塔。一辺5.11m、高さ31.2m。全般に和様の手法で統一される。 心柱は1階から立ち上がる。(写真24:塔床下心柱 ) 初重全3間16尺8寸2分、中央間6尺5寸4分、両脇間5尺1寸4分 二重全3間14尺8寸2分、中央間5尺7寸、両脇間4尺5寸6分 三重全3間13尺9寸1分、中央間5尺、両脇間4尺4寸5分5厘 四重全3間12尺1寸9分、中央間4尺4寸5分、両脇間3尺8寸7分 五重全3間11尺4寸5分5厘、中央間4尺1寸8分5厘、両脇間3尺6寸3分5厘 塔は大内義弘の菩提寺である香積寺の遺構であり、弟大内盛見が義弘の菩提を弔うため塔の建立を計画したという(相輪伏鉢刻銘)。 塔は嘉吉2年(1442)の建立とされる (巻斗墨書)。 慶長9年(1604)萩築城の折、毛利輝元は当寺を解体し、萩に、四本松邸として搬出したが、五重塔は反対運動もあり、残置される。 ※五重塔残置は町民が筵旗を押し立て、町奉行に嘆願するという。 万治4年(1661)、貞享2年(1985)、享保2年(1717)、寛延2年、安永6年(1777)各々修理。 大正4〜5年解体修理、昭和27年屋根葺替。 ○瑠璃光寺は陶弘房の菩提を弔うため仁保氏(弘房の妻)が建立した安養寺(文明3年1471、吉敷郡仁保村)を前身とする。 明応元年(1492)拡大の為寺地を替え、瑠璃光寺と号した。当時は曹洞宗薩摩石屋門派の巨刹として隆盛を誇った。 元禄3年(1690)瑠璃光寺は仁保の地から、香積寺跡に移転し、残置された香積寺五重塔を引き継ぎ、現在は瑠璃光寺塔婆と称される。 長門、筑前、肥前、肥後に末寺173ケ寺があったと云う。 ○X氏ご提供2001・09月撮影: 瑠璃光寺五重塔01 2002/8/16撮影 瑠璃光寺五重塔11 瑠璃光寺五重塔12 瑠璃光寺五重塔13 瑠璃光寺五重塔14 瑠璃光寺五重塔15 瑠璃光寺五重塔16 瑠璃光寺五重塔17 瑠璃光寺五重塔18 瑠璃光寺五重塔19 瑠璃光寺五重塔20 瑠璃光寺五重塔21 瑠璃光寺五重塔22 瑠璃光寺五重塔23 瑠璃光寺五重塔24 五重塔立面図 五重塔初重平面圖:何れも、:国宝瑠璃光寺構造図 より 内部は四天王柱を囲み、禅宗様円形須弥壇を付設。塔婆での円形須弥壇の現存例はこの塔婆だけと云う。(仏堂でも数例しかないと云う。) 2022/11/24撮影: 但し、夜間撮影である。 瑠璃光寺五重塔31 瑠璃光寺五重塔32 瑠璃光寺五重塔33 瑠璃光寺五重塔34 瑠璃光寺五重塔35 瑠璃光寺五重塔36 瑠璃光寺五重塔37 瑠璃光寺五重塔38 2022/11/25撮影: 2015/02/24追加: ○「朝日百科・国宝と歴史の旅 8 塔」朝日新聞社、2000 より 内部の須弥壇は円形である。現在んぼ本尊は阿弥陀如来であるが、江戸期には大日如来であった。大日は禅宗伽藍の通例である。円形須弥壇と大日とは密教の影響であろうか。 五重塔初重内部 2022/11/25撮影:資料館展示 瑠璃光寺五重塔内部2 2007/03/03追加: ○「日本建築史基礎資料集成・塔婆T」 より 瑠璃光寺五重塔立面図 2011/01/30追加: ○「JR西日本リーフレット:2011年キャンペーン」より 転載 瑠璃光寺五重塔・雪景色 2023/02/12追加: ○山口市観光情報サイト・西の京やまぐち>【公式】国宝瑠璃光寺五重塔(動画) より 瑠璃光寺五重塔空撮1 瑠璃光寺五重塔空撮2 瑠璃光寺五重塔空撮3 瑠璃光寺五重塔空撮4 瑠璃光寺五重塔空撮5 ◆瑠璃光寺資料館 全国各地の五重塔模型が直近の建立塔婆も含めて、67基(推定)の陳列がある。 北九州の江口義博氏の製作・寄贈 と云う。(但し模型は木造ではなくて、新建材?であることが惜しまれる。・・・この項は留保) 瑠璃光寺の明治以降の写真や各地の塔の写真などと、木製の塔模型として、瑠璃光寺、大和法隆寺、興福寺の五重塔模型も展示されている。 2023/02/15追加: ○瑠璃光寺資料館 ルーフレット より 九州江口氏作成の1/100スケールの塔の模型55基、瑠璃光寺1/15の模型、全国40基の五重塔の写真パネルの塔関係のほか、五重塔残置の山口町民の嘆願書:写し(瑠璃光寺蔵)、斗:年紀の入った墨書がある・上記の「巻斗墨書」か、正法眼蔵写本(県文)、瑠璃光寺開山〜3世の肖像画3幅(県文)その他多くの文化財も展示される。 周防瑠璃光寺資料館 資料館展示瑠璃光寺塔模型 資料館展示法隆寺塔模型 資料館展示興福寺塔模型 2022/11/25撮影: 資料館展示瑠璃光寺塔模型1 資料館展示瑠璃光寺塔模型2 資料館展示瑠璃光寺鐸舌 資料館展示五重塔模型2 資料館展示五重塔模型3 資料館展示五重塔模型4 資料館展示五重塔模型5 資料館展示五重塔模型6 資料館展示五重塔模型7 ◆周防仁保瑠璃光寺跡(旧瑠璃光寺跡住職墓碑) 2023/02/13追加: ○仁保村瑠璃光寺跡 より 仁保には瑠璃光寺跡が残り、そこには移転前の瑠璃光寺住職の墓碑が残る。 また、ここには五重小塔があるが、これは正規の建築ではなく、簡易的な造作のものと思われる。勿論、この地に五重塔があったという意味では無いとも思われる。 室町時代(※)、応仁の乱で大内氏に従軍戦死した陶弘房の夫人が、仁保東園(※※)に安養寺を建立してその菩提を弔った。 その後安養寺は瑠璃光寺と改称され、1492年土井の地に移転再建され、1690年に現在の山口市香山町に移されるまで、約200年間この地にあった。 (※)室町:文明3年(1471) (※※)仁保東園:山口市仁保下郷東園か。 開山から20世までの住職の墓がある。 在所(土井) (※※※)土井:山口市仁保下郷、34.20073970428041, 131.55336911847434 ○旧瑠璃光寺跡/山口県山口市仁保下郷 より転載 仁保瑠璃光寺跡1:住職墓碑と五重小塔 仁保瑠璃光寺跡2 ○GoogleMap より転載 Google瑠璃光寺跡1 Google瑠璃光寺跡2:何れも五重小塔 瑠璃光寺とは直接の関係はないが、大内氏・毛利氏のつまりは山口の歴史形成に深く関係する寺院として、近隣に位置する洞春寺を掲載する。 2023/02/22追加: ◆山口洞春寺(国清寺→常栄寺→洞春寺) 関係寺院の創建。 まず、應永11年(1404)国清寺が、大内氏第26代盛見により、この地(今の洞春寺の地)に創建され、後盛見の菩提寺となる。 次いで、永禄6年(1563)常栄寺が、毛利元就によって、嫡男隆元の菩提の為、安芸高田に創建される。 さらに、元亀3年(1572)洞春寺が、毛利輝元によって、毛利元就の菩提寺として、安芸高田に創建される。 常栄寺・洞春寺の防長への移転。 毛利氏は関ヶ原の戦いで敗れ、広島から防長二州へ移封、それに伴い洞春寺と常栄寺も移転する。 この地(国清寺の地・今の洞春寺の地)には常栄寺が移り国清寺を合寺し、常栄寺となる。 一方、洞春寺は長門萩へと移る。 幕末の常栄寺・洞春寺の変遷。 文久3年(1863)この地にあった常栄寺は宮野の現在地へ移転する。 明治4年(1871)萩から洞春寺が、この地に移転し、現在に至る。 改めて洞春寺の変遷。 安芸高田から長門萩へ、萩から現在地への洞春寺の移転は次のようである。 毛利氏の居城が広島移転とともに、寺も広島に移転する。 防長二国に移封された後は寺も広島から山口に再転する。 山口ではしばらくは香積寺(上掲)を牌所としていたが、慶長11年(1606)萩城内へ移る。 幕末、藩庁が山口に移ると大通院(下掲)を接収し、洞春寺とするが、この頃寺号を開山の別号である万年寺と改める。 明治4年(1871)現在地に移り、明治32年旧号洞春寺に復する。 改めて、常栄寺については、拙ページ:周防松崎天神五重塔雛型 の項で纏めているので、そちらを参照。 国清寺関係の遺物として、室町中期の建立とされる山門【重文】、及び一切経蔵の中心礎石、そして国清寺は大内盛見の菩提寺であったので、盛見の墓所がある。。 なお、観音堂【重文】は、大正4年、山口の滝にあった観音寺(大通院)本堂を移建したものである。 2022/11/25撮影: 洞春寺(旧国清寺)山門:【重文】 形式は四脚門、切妻造、屋根は檜皮葺。建立年代は不明であるが、室町中期に国清寺の山門として建立されたものと考えらる。 昭和61〜62年解体修理、2020年保存修理が実施される。 旧国清寺・洞春寺山門1 旧国清寺・洞春寺山門2 旧国清寺・洞春寺山門3 旧国清寺・洞春寺山門4 洞春寺(旧観音寺)観音堂:【重文】 堂は、大正4年、朽廃が著しかったが、洞春寺境内に移建される。 堂は永享2年(1430)建立(「厨子裏の板銘」)、桁行3間、梁間3間、一重裳階附入母屋造、屋根銅板葺(修理前杮葺)。 基本的に禅宗様建築であり、柱には粽、窓は華頭窓、扉は桟唐戸を用いる。 床は禅風の四半敷瓦。須弥壇は禅宗様であるが、束の間に格狭間が入る。蹴込板には色彩を施した蓮の彫刻がある。厨子は岩屋造であり、当初のものと思われる。なお、下層の軒が板軒であること、上層の垂木が大まばら垂木であるのは特異である。 なお、観音寺は永享2年(1430)大内持盛(大内義弘の子)が吉敷郡上宇野令村滝に建立し、持盛が豊前国篠崎で戦死した後、菩提寺とされる。 観音寺は後に勝音寺と改号し、さらに毛利氏の時代になってからは大通院と改号する。 幕末には衰微し、本堂一宇(観音堂)だけとなる。 旧観音寺・洞春寺観音堂1 旧観音寺・洞春寺観音堂2 旧観音寺・洞春寺観音堂3:堂内部 旧観音寺・洞春寺観音堂4 旧観音寺・洞春寺観音堂5 旧観音寺・洞春寺観音堂6 礎石は昭和15年この地を開墾している時に発見される。 一切経蔵の中心礎石 発見場所が古くから経蔵跡と呼ばれていたことや、昭和4年近江園城寺の経蔵の天井裏板から発見された墨書から、この経蔵の輪蔵の礎石であると考えられる。 法量:幅192cm、奥行145cm、高さ43cm 材質:安山岩・自然石 「中央が深く盃状に削られ、穴の端から中央部に向けてY字形に溝が刻まれている。」との解説があるが、「Y字形に溝」ということが写真では不明である。 旧国清寺経蔵【重文】は慶長7年(1602)関ヶ原の敗戦の後、毛利輝元が近江園城寺(三井寺)に移築し、現存する。 →近江三井寺(園城寺)>園城寺経蔵を参照 但し、不注意で国清寺経蔵中心礎石は未見となり、写真はなし。他サイトから転載する。 旧国清寺輪蔵中心礎石1:山口市のサイトから転載 旧国清寺輪蔵中心礎石2:山口市旅行記(ブログ)から転載 洞春寺伽藍 周防洞春寺中門 周防洞春寺本堂 周防洞春寺庫裏 周防洞春寺鐘楼門:江戸中期 周防洞春寺玄関 |
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511 | 池上本門寺 | 重文 | 慶長12年(1607)<慶長13年>正心院日幸尼(将軍秀忠乳母)の発願で建立される。 池上本門寺 |
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512 | 能登妙成寺 | 重文 | 元和4年(1618)建立。 能登妙成寺 |
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513 | 中山法華経寺 | 重文 | 元和8年(1622)本阿弥光室の願(両親の菩提のため)により、前田利光の寄進により建立される。 中山法華経寺 |
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514 | 山城御室仁和寺 | 重文 |
画像 図1 図2 図3 図4 図5 11 12 13 14 15 16 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 |
寛永14年(1637)建立。高さ32.7m、
一辺5.91m、基本的に復古調の意匠を採る。 徳川家光の寄進により建立される。初重正面扁額は梵字「アーク」(胎蔵界大日如来)である。 心柱は心礎から立つ。初重には四天柱が建ち、心柱の廻りには胎蔵界五仏を安置する。塔は、古式の様式を受け継ぎ、壇上積基壇上に建ち、椽は設けない。屋根本瓦葺。 ○2007/05/23追加:御室仁和寺塔:明治初期撮影と推定される。 ○2010/05/28追加:「身延山五重塔の復元」文化財建造物保存技術協会、身延山久遠寺、2009.3 より 仁和寺五重塔断面図 ○2007/12/14追加:「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より 御室五重塔心礎 ○画像:仁和寺発行リーフレット(1970〜80年代か)より ○図1〜5:2001/02/10撮影 ○11〜16:2002/03/23撮影 ○21〜40:2012/12/25撮影 ○2017/01/11追加: 絵葉書:s_minaga蔵:通信欄の罫線が3分の1であり、かつ「きかは便郵」とあるので、明治40年4月〜大正7年(1918)3月までのものであろう。 御室仁和寺五重塔絵葉書 2019/06/03撮影: ○三村威左男個展「京都国宝建造物・近畿新築五重塔」2019/5/20〜6/21、NTT西日本・三条コラボレーションプラザ より 御室仁和寺ペン画 なお、三村氏には「日本の五重塔総覧」文芸社、2005 の著作がある。 ○2020/04/21追加: 2020/04/12朝日新聞より転載 御室櫻と仁和寺五重塔:見ごろを迎えた御室櫻に浮かぶ仁和寺五重塔 ------------------------------- ○大内山と号する。真言宗御室派大本山。 たびたびの戦火で焼失を繰り返し、現在の主要伽藍は桃山・江戸期の再建であるが、広大な空間(境内)に多数の堂塔を配置し、今なお、諸大門・金堂・塔婆等の配置は古代 の大寺の雰囲気を漂わせる。 ○仁和2年(886)光孝天皇の勅願として起工。(三代実録) 仁和4年宇多天皇により落慶供養。(一代要記、日本紀略、帝王編年記)導師は真然。(仁和寺堂院記) 昌泰2年(899)宇多天皇出家、仁和寺第一世となる。(日本紀略・仁和寺御伝) 法皇は寺内に法務の在所としての室(むろ)を設ける。(仁和寺御伝)御室の語源と云う。 平安期から鎌倉期の院家・子院は以下が知られる。 「仁和寺諸堂記」:72の院家寺院の創建・沿革があり、「仁和寺諸院家記」(諸本あり):76〜106の院家が挙げられていると云う。即ち 円融寺・円教寺・円乗寺・円宗寺(四円寺)・遍照寺※・小松寺・池上寺・神応寺・蓮花寺※・香隆寺・紫金台寺・円楽寺・青蓮寺・我覚寺・円堂院・観音院・北(喜多)院・花蔵院・転輪院・法金剛院※・仏母院・大教院・無量寿院・大聖院・蓮花心院・蓮花光院・勝功徳院・光明寿院・成就院・教王院・宝浄院・宝蓮院・練行院・上乗院・浄光院・心蓮院・慈尊院・相承院・菩提院・尊勝院・西方院・理智院・相応院・南勝院・厳浄院・浄定院・皆明院・護持院・花厳院・往生院・常楽院※・光明院・真乗院・五智院・恵命院・浄菩提院・真光院・宝持院・律乗院・自性院・金剛幢院・摩尼(手偏あり)珠院・尊寿院※・理証院・律定院・池房などがある。※は現存。 「遠所別院」には、禅林寺(永観堂)・忍辱山(円成寺)・嘉祥寺・西寺・法勝院・開田院・金剛院があり、仁和寺直末には、摂津安曇寺・山城法皇寺・摂津箕面寺があり、末寺には、備中吉備津宮・土佐金剛頂寺・和泉槇尾寺・讃岐八嶋寺など全国に50余の末寺があると云う。「仁和寺諸院家記」 2015/03/24追加: 「根来寺を解く」中川委紀子、朝日新聞出版、2014 より ※仁和寺は王家を出自とする僧が多く入寺した。それ故、仁和寺は古代では高野山の上位寺院であった。 また高野山大伝法院開祖覚鑁は基本的に仁和寺僧(仁和寺にて伝法灌頂を受ける)である。 ※仁和寺が高野山の上位寺院であることと覚鑁の出自が仁和寺であるため、高野山大伝法院代々座主は 第30世成助(元徳3年/13330補任)ころまで、おおむね御室仁和寺系統から任じられる。 →紀州根来寺 元永2年(1119)大火、堂宇のほとんどが焼亡。(百錬抄、中右記、長秋記) 応仁の乱で一山壊滅。 寛永11年(1634)第21世覚深法親王が再興を幕府に出願、徳川家光により再興される。 金堂として紫宸殿、御影堂として清涼殿が移築、五重塔も復興される。 慶応3年(1867)、第30世純仁法親王が還俗、小松宮彰仁親王となり、門跡は断絶する。 【真言の法脈】 広沢流:仁和寺を中心に益信・宇多法皇・寛空・寛朝(広沢遍照寺に住す)と継承する法流を云う。 小野流:醍醐寺を中心にした聖宝・観賢・仁海の法流をいい、仁海が小野曼荼羅寺で完成させた。 この二つを併せて真言事相の野沢二流と云う。のち各六流に分れ、野沢根本一二流とも云う。 野沢根本十二流: 広沢流、仁和寺御流、西院流、保寿院流、華蔵院、忍辱山流と 小野流、三宝院流、理性院流、金剛王院流(左三流は醍醐三流)、安祥寺流、勧修寺流、随心院流(左三流は小野三流) ○「よみがえる平安京」:仁和寺模型 仁和寺・円教寺模型:左-仁和寺、右-円教寺 、仁和寺南院 ○2014/08/15追加; 「撮影鑑 二」明治14年調製 より 明治初頭仁和寺五重塔:明治14年もしくはその直前の撮影であろう。 ○2005/12/28撮影: 御室仁和寺遠望:JR山陰線花園駅より ○御室仁和寺伽藍 仁和寺仁王門1 仁和寺仁王門2 仁和寺仁王門3:重文、寛永年中(1624-44)建立、意匠は和様。 仁和寺中門1 仁和寺中門2 仁和寺中門3 仁和寺中門4 :重文、寛永年中(1624-44)建立。 仁和寺金堂1 仁和寺金堂2 仁和寺金堂3 仁和寺金堂4 :国宝、慶長13年(1613)建立の御所・紫宸殿を寛永年中に移建改築したものである。 屋根は本瓦葺に変更するなど仏堂に改造されるも、宮殿建築の雰囲気を良く残す。 仁和寺鐘楼1 仁和寺鐘楼2 仁和寺鐘楼3:重文、寛永21年(1644)建立。 仁和寺経蔵1 仁和寺経蔵2 仁和寺経蔵3:重文、寛永年中(1641-45)建立、意匠は唐様。 仁和寺観音堂1 仁和寺観音堂2 仁和寺観音堂3 :重文、寛永年中(1641-45)建立、意匠は唐様。 仁和寺御影堂中門:重文、寛永年中(1641-45)建立。 仁和寺御影堂:重文、寛永年中(1641-45)建立、御所・清涼殿の用材を用いて建築と云う。 九所明神社殿1 九所明神社殿2 九所明神社殿3 九所明神本殿1 九所明神本殿2:一間社流造、杮葺 九所明神右殿1 九所明神右殿2 九所明神右殿3:四間社流見世棚造、杮葺 九所明神左殿1 九所明神左殿2 九所明神左殿3:四間社流見世棚造、杮葺 :重文、寛永年中(1641-45)建立、 八幡、加茂、山王、天神、稲荷、松尾、平野、小比叡、大原野の9神を祀る。 以上のほかに、重文建築として本坊表門(写真なし)、遼廓亭(茶室)、飛濤亭(茶室)・・何れも寛永の造営・・がある。 また、建造物の外に絵画、仏像、工芸品、経典・書籍・典籍などの分野で多くの国宝重文を有する。 |
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515 | 武蔵東叡山寛永寺 | 重文 |
寛永16年(1839)に焼失。同年、土井利勝が直ちに再興寄進。 東叡山寛永寺 |
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516 | 山城教王護国寺 (東寺) |
国宝 | 塔は寛永(1641)〜正保(1644)の再建塔。 山城教王護国寺 |
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517 | 陸奥大円寺 (最勝院) |
重文 | 寛文8年(1668)竣工。 陸奥弘前大円寺(最勝院) |
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518 | 駿河富士大石寺 | 重文 | . | 寛延2年(1749)建立。 富士大石寺 |
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519 | 尾張興正寺 | 重文 |
塔1 塔2 塔3 塔4 塔5 塔6 塔7 |
文化5年(1808)建立。
塔は典型的な江戸後期の姿で、塔身は細く、また極端に相輪が塔身に比べて短かい。一辺4m高さ30m。和様を用いる。塔は縁を設けず、基壇上に建つ。内部には金剛界四仏を安置。 元禄元年(1688)高野山天瑞円照が尾張徳川2代光友の帰依を得て創建。広大な境内にいまなお数十棟の建物を有する。東山は遍照院、西山は普門院と号する。西山は仁王門・五重塔・本堂が一直線に並ぶ伽藍配置を採る。 ○2001/01/13撮影:図1、2 ○2003/08/20撮影:塔1〜7 ○尾張名所図会 巻之5より 記事: 真言律宗。和泉大鳥山神鳳寺派。五重塔に関する記事はなし。 尾張名所図絵(全図) ※開山天瑞和尚は畿内各地で修行し、和泉の大鳥山では真政和尚から戒律を学んだとされる。 ○「猿猴庵日記」に見る西山: 文政8年3月19日:「八事山にて弘法大師1000年忌取越法会、21日を終りとして、7日の間、読経。21日大施餓鬼ねり有。此の日、ねりの行列は、先年、塔の供養の時に同し。・・・・」 尾張八事山法要:「猿猴庵日記」尾張藩士高力種信(1756-1831)の日記 ○2007/06/22追加 八事山五重塔:明治期の撮影:「写真に見る明治の名古屋」 より ○2009/12/09追加 八事山五重塔古写真1:Pagoda at Nagoya. 、Japan : country, court, and people 、Newton, J. C. Calhoun 八事山五重塔古写真2:「名古屋名所図絵」鬼頭幸七編、名古屋いとう呉服店、大正2年 より ○2013/07/13追加: 白雪に立てる八事五重塔:吉田初三郎画:絵葉書 ○2008/06/06撮影: 尾張興正寺 五重塔11 同 12 同 13 同 14 同 15 同 16 同 17 同 18 同 19 ○2008/02/21追加:平成19年多宝塔(RC造)が建立される。 ○2017/01/11追加:s_minaga蔵 絵葉書:通信欄の罫線が3分の1:明治40年4月〜大正7年(1918)3月までのもの、かつ「きかは便郵」とあるので、明治33年(1900)〜昭和8年(1933)2月までのもの、即ち明治40年4月〜大正7年(1918)3月までのものであろう。 尾張八事山五重塔 |
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520 | 下野日光東照宮 | 重文 | 文化14年(1817)再建塔。 日光山・本宮(四本竜寺)・輪王寺・中禅寺(中宮祠) |
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521 | 備中国分寺 | 重文 | 弘化元年(1844)頃完成。 備中国分寺五重塔・国分寺跡 |
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522 | 佐渡阿仏房妙宣寺 | 重文 | 文政8年(1825)完工。 佐渡法華宗諸山」中「妙宣寺」の項 |
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