★陸奥應仏寺(寺下観音)概要
海潮山應物寺は、現在、寺下観音堂(糠部33観音巡礼第一番札所)、仁王門、鐘楼(梵鐘)、舎利塔(茸石)、線刻不動明王像(伝津要玄梁刻)、潮山神社、
山中には、五楷堂(五重塔)跡、常燈明堂、津要屋敷跡、津要玄梁墓碑などを残す。
五重塔(五層堂)は大正2年暴風雨により倒壊、そのまま腐朽に委かせ現存せず。
しかし塔跡・礎石(土台石)は遺存する。
またこの塔は超小型の塔婆で、倒壊前までは日本最小の屋外木造五重塔と云われたと云う。
(最小の規模であったのはその通りであるが、正規の塔建築とは多少違った構造を持った塔であった。)
應物寺五重塔遺構遺物として、現地に塔跡の遺構、常燈明堂前に青銅製相輪、常燈明堂内に塔本尊石造五智如来坐像が残る。
さらに山下の集落野沢の野沢彦六氏邸の熊野権現堂内に、五重塔ニ層彫板十六羅漢(4点)・五重塔三層十三仏(2〜3点)・雲図文様横板(1点)・
五重塔初層花鳥(1点)・四層九曜ニ十八宿(1点)・塔修理棟札(数点)・心柱残欠・鰐口などを残す。
2008/04/23追加:應物寺概要図
この概要図に誤謬があれば、ご教示ください。
○應物寺観音堂跡(現潮山神社):明治の神仏分離(明治4年)で潮山神社と捏造される(海潮山の山号から潮山神社と称する)。
※守西上人(八戸天聖寺隠居)の記録(「奥州南部糠部巡礼次第」寛保3年1743)では「5間四方の東向の堂」とある。
○應物寺鐘楼跡:
観音堂跡手前に高まりを残す。現鐘楼は川の対岸の寺下観音堂のある台地にある。
○寺下観音仁王門 仁王門仁王像1 仁王門仁王像2
○寺下観音堂:明治の神仏分離で
應物寺は廃寺、観音像は桑原家菩提寺八戸妙の伝昌寺に遷す
。
明治7年桑原家が現在地に現在の観音堂を再興、観音像を遷座する。
そのため、寺下観音・潮山神社は現在も桑原家管理と云う。※常燈明堂・五重塔跡地は野沢彦六氏所有。
桑原家とは不明ながら、以下の記録がある。
正徳2年(1712)の桑原三十郎の記録では「・・拙者先祖は代々天台宗にて六坊迄有之候只今社領も無之右之儀茂勤兼俗別当・・・・・」とある。
また聊か時代が古すぎて真偽は疑わしいが、
仁治3年(1242)の記録(堂宇の焼失の記録)の署名では「別当桑原普門院治清」とある。
推測するに、明治の神仏分離で別当桑原氏(既に俗別当であった)が、潮山神社の神官となり現在もその管理に与るものと思われる。(推測)
また、應物寺については、この地の数Km西の集落(平、鷹ノ巣、新田、沼に囲まれた地点)に再興されているようであるが、この應物寺んも経緯は不明。
(昭和25年現在の堂宇が建立される?)
○寺下観音梵鐘1 寺下観音梵鐘2:
仁治3年(1242)一山焼失、寛元4年(1243)江山和尚が再興、この時に江山は「應物寺頽廃の記」を著し、脇侍毘沙門天像胎内に納めると云う。正徳5年(1715)津要が観音堂・毘沙門天像から「應物寺頽廃の記」を発見し、その記録を刻んだ梵鐘を鋳造すると云う。
※梵鐘は「享保年中八戸藩主南部広信が寄進」とされる。
現在この「巻物」(「應物寺頽廃の記」)は失われ、梵鐘にその記録が残る。
(梵鐘は戦時供出されたが、奇跡的に残存し、戦後返納されたとも云う。)
○仏舎利塔(茸石):
○寺下川お瀧:写真右の石塔が仏舎利塔(茸石):写真手前にお篭堂の礎石が残る。
○線刻不動明王像(伝津要玄梁刻):年紀は不明、寺下川麓にある。
○津要屋敷跡:(近代の削平でないとすれば)明らかに屋敷跡と思われる平坦地を残す。(未発掘に付き遺構の検出は未だと云う。)
○津要玄梁墓:小祠の右に自然石の墓碑がある。
「延享2年(1745)乙丑 前永平祇陀先住石橋玄梁大和尚禅師 大閏12月25日」と刻印する。
この年は津要が建立した五重塔の落慶の年で、落慶供養会を修したその年の12月に入寂する。
○常 燈 明 堂:向かって右の堂に五重塔本尊五智如来(石像)を安置する。今もこの堂に「お篭」する信仰が残ると云う。
享保15年(1730)津要が建立する。
以上は、階上町教育委員会ご担当者様の解説による。
以下は主として、「寺下燈明薹址及五重塔址」 に基づく。
(「史蹟名勝天然記念物調査報告 2輯」青森県史蹟名勝天然記念物調査会編、青森県庁学務兵事課,大正13−14 所収)
野沢氏所蔵・應物寺五重塔など遺物の拝見に際しては、野沢家ご当主および階上町教育委員会ご担当者様に格段の配慮を賜る。
○野沢彦六氏邸の収納庫
野沢彦六氏邸熊野権現:邸宅内に熊野権現を祀る。この写真の小堂の内部は壇と板敷(御座敷)に分かれる。
壇には熊野権現の小祠を祀り、板敷の一画に應物寺遺物が納められている。小堂の前には鳥居を構える。
写真の「月山・湯殿山・羽黒山・岩手山・鳥海山」の石碑は外部から持ち込み設置したものと云う。
★陸奥應物寺五重塔
◎陸奥應物寺五重塔写真1
(推定:「奥州南部糠部三十三カ所観音霊場めぐり」滝尻善英、デーリー東北新聞社、2003)より転載
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○陸奥應仏寺五重塔1:左図拡大図
享保年中(1716-)僧津梁が燈明薹とともに五重塔を勧化、建立。
燈明薹の東方一渓路を隔てた袖山(標高約150尺<45m>)にあり、地積30坪、昔は少しき土堤を繞らすという。
堂は南面する。一辺7尺(2.12m)四方、総高推定55尺(16.7m)、縁の出は2尺3寸(70cm)で勾欄を付設する。相輪高は7尺3寸(2.21m)。<後述>
全体における一種の組入合子式ともいうべきものにして、各階壁板面に諸種の文様を彫刻する、即ち一階には花鳥、二階は十六羅漢、三階は十三仏、四階九曜ニ十八宿、五階は日月の盈虚を欄間とともに刻する。
また階下門戸の左右に宝相華を刻す。
この壁板は全て欅材を用いるが、後年の修理部分は栗材を用いる。
本尊は石造五智如来と知れる。
※現在は常燈明堂内に安置(現存)する。
※「角川日本地名大辞典 青森」より
元文5年(1740)五重塔建立発願、延享元年(1744)竣工(「寛政5年(1793)五重宝塔修復勧化帳」)、延享2年8月落慶(「八戸藩勘定書日記」)
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◎陸奥應物寺五重塔写真2
(五重塔写真は八戸町小井川潤次郎氏所蔵):「史蹟名勝天然記念物調査報告 2輯」より転載
陸奥應物寺五重塔2:
上掲載とほぼ同一の写真と思われる。同一のネガなのかどうかは微妙で良く分からない。少なくともアングルは同一と思われる。
五重塔の塔骸及び写真によれば、各階の柱尺は比較的高い、またこれを区画する屋根が婉曲に流れるのを却け、単直にして短く、反りを有しない様式を採用する。
組物は普通「組入ニ重もしくは三重とし、又は三斗蟇股を使用するもの多き部分を、大胆に単なる彫板を斜面して貼布したる」様式であった。
※写真によると一応各重は方3間の建築とは思われるも、「一種の組入合子式」とでもいうべき建築様式であったとされ、組物は斗組を採用せず、「彫板を斜めに組入れた」(彫板を斜面して貼布したる)ような様式であった
とされる。つまりは正規の塔建築ではない部分が多かったと思われる。造形も相輪が太く短く、また各重の柱尺が高く、屋根の出は短く、殆ど反りを持たない造りであったようです。
しかし一方では各重の柱間・欄間・蟇股などは多くの江戸関東風彫刻で装飾されていたようです。
さらに、一辺の寸法や総高がおそらく屋外塔建築として成り立つギリギリの寸法であることを考え合わせると、塔を建築するという意識より、工芸品としての塔を作成する意識が極めて強かったものと
も推測される。
2008/04/23追加:
塔の大きさ(総高)について
上記の「寺下燈明薹址及五重塔址」(「史蹟名勝天然記念物調査報告 2輯」)では、総高推定55尺とするが、
「寺下の五階の橖(木偏に堂の字)の特異性」及び「寺下の五階の橖(木偏に堂の字)」何れも金子善兵衛著によれば
初重の平面は6尺5寸(約2m)四方、塔身の高さは約32尺(9.7m)、相輪の高さが7尺位(2.1m)であり、従って総高は約39尺(11.8m)と推定されるとする。
※但し、塔身の寸法の根拠は両者とも不明である。(相輪は現存のため7尺あるいは7尺2寸は動かない。)
2008/04/23追加:
「寺下の五階の橖(木偏に堂の字)の特異性」金子善兵衛(昭和29年8月「八戸郷土研究会月報」所収)
及び「寺下の五階の橖(木偏に堂の字)」金子善兵衛 によると:
一階:縁を廻す、はっきりしないが主柱には逆蓮頭を付けると思われる、桁には十二支を彫刻した蟇股が装飾的に付けられていた、斗栱のついていた形跡も写真で見られる。簷は二重繁垂木
(倒壊した遺物で確認)。
ニ階:倒壊後のニ重は跡形のないように毀れていたので最も良く分からない。ただ簷は二重扇垂木であったことは判明、写真では出三斗を組んでいたように見える。
縁は刎勾欄であった可能性が高い。
三階・四階・五階は同じ構造であった。簷は垂木を使用しない、長押(頭貫)の上から板を簷先まで斜上に張り上げ柱から支柱を出して之を支えていた。勾欄は逆蓮頭勾欄であったと思われる。
◎陸奥應物寺五重塔写真2
【青森県階上町教育委員会様ご提供】
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○陸奥應物寺五重塔3:左図拡大図 ※中学校などの遠足もしくは何かの学校行事での写真とも思われるも、撮影時期等々など一切不明。
この写真で以下が判明する。
初重:
廻縁を廻らすも、縁は縁束でさえる構造ではなく、斗栱で支持する構造と思われる。
勾欄は逆蓮頭ではなくて、擬宝珠勾欄であることが判明。斗栱は不明瞭で判別できない。
中央間には板扉が取り付けられていたものと思われる。両脇間の壁には絵模様らしきものが見える。
屋根は急勾配・軒出は浅く、材質は檜皮葺もしくは茅葺の類と思われる。
ニ重:
勾欄は刎勾欄と断定可能。
各間の壁は板壁で絵模様があるとも思われる。
斗栱は「出三斗」であるとも見える。
三・四・五重:
確かに、同一の構造と思われる。「長押(頭貫)の上から板を簷先まで斜上に張り上げ
柱から支柱を出して之を支えていた」構造のように見える。
三重目の勾欄は逆蓮頭ではなくて、擬宝珠勾欄と思われる。
その他は不鮮明。 |
2008/04/23追加:
◆應仏寺五重塔略歴
この項の記述は
「寺下の五階の橖(木偏に堂の字)」金子善兵衛、昭和22(23?)年9月24日の稿 (「あのなっす叢書W『建築考塔』」昭和41年 所収)
による。
写真は野沢彦六(屋号)氏蔵の遺物を撮影。
・五重塔の完成は延享元年(1744)、落成供養は延享2年とされる。(「八戸藩勘定書日記」)
次の棟札(と思われる)の記録が引用される。
※この棟札が現存するのか失われたのか所在不明なのか記録のみ存在するのか等については不明。
奉建立五階之橖(木偏に堂の字)一宇当国太守公御武運長久并御家中国民老若安全長久祈處
△△津要玄梁大和尚
対泉院七代
△△ △山大和尚
延享乙丑歳(延享2年)8月3日
仕手棟梁 関原甚十郎 藤原△△
大工棟梁 青木市郎兵衛 藤原東郷
鍛治棟梁 小笠原善吉 藤原吉次
・寛政5〜6年にかけて塔の修理が行われる。
以下が「勧化帳」(不詳)にあると云う。
寛政5年(1793)大工甚六が塔修理を願い出る。
「私親甚十郎其砌津要和尚の御手付と罷成寺下へ引越候て前後7ケ年相是に千辛万苦仕り造立供養の年より今年まで己に49年に相成甚だ零落殆ど大破に及びんとす於茲亡父の志を継ぎ宝塔並に常燈明堂再復修補の願心相企候え共貧窮の私自身に及び難く・・・」
早速塔修理にとりかかるも、難渋する。
難渋の様子は以下のようであった。
棟札代りの板に、以下のように記録されると云う。(この「板」の存在は不詳)
「寛政6年6月 五重の塔修繕行悩む
寛政5年10月願書・・・12月8日まで毎日勧化・・・12月9日・・・木場木相取付・・・寛政6年寅の2月21日迄木場木相けずり仕事その間は権化に相廻り・・・・・6月25日迄に屋根ふき相すみ候・・・次には縁側ころらん細工仕候え・・・・
寛政6年寅の6月書之・・・
願主 関原甚六 藤原保寿 若松屋保太郎 野沢彦六」
の「書付」があると云う。
寛政6年に修理が終了したことは現存棟札で知れる。
(表)
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(裏)
|
寛政6年棟札
寛政6年棟札1(表):左図拡大図
奉再興五階之橖(木偏に堂の字)一宇当国太守公御武運長久
并御家中国民老若安全長久祈處
導師大慈十五世曹水大和尚
?導師対泉九(十)世玄明大和尚
別当 野沢彦六
願主 関原甚六
若松屋安太郎
・・・・・
寛政6年棟札1(裏):左図拡大図
奉再興関原甚六 藤原保寿
大工棟梁青木市兵衛 藤原??
鍛治棟梁小笠原権兵衛 藤原吉蔵
時寛政六甲寅年九月廿七日
・・・・・
※年号は左肩にある。 |
さらに、やや不鮮明ながらほぼ同一のもう一枚の寛政6年再興棟札も存在する。
※なぜ寛政6年棟札(内容はほぼ同一)が2枚存在するのかは不明。
(表)
|
(裏)
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寛政6年棟札
寛政6年棟札2(表):左図拡大図
奉再興五階之橖(木偏に堂の字)一宇当国太守公御武運長久
并御家中国民老若安全長久祈處
導師大慈十五世曹水大和尚
?導師対泉九(十)世玄明大和尚
別当 野沢彦六
願主 関原甚六
若松屋安太郎
・・・・・
寛政6年棟札2(裏):左図拡大図
奉再興関原甚六 藤原保寿
大工棟梁青木市兵衛 藤原??
鍛治棟梁小笠原権兵衛 藤原吉蔵
時寛政六甲寅年九月廿七日
・・・・・
※年号は上とは逆に右肩にある。(やや不鮮明) |
・天保15年(1844)8月:塔の勧化修繕
・弘化4年(1847)再度修繕:塔柱基根の継手の上方の墨書:
棟梁 青木床之助 同 源次郎 屋根屋 青木庄之助 卯八
弘化4年丁未7月2日此継手
※この時には心柱の根本を取替るとされる。
・またこの時(弘化4年)本尊五智如来が奉安される。
(表)
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(裏)
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弘化4年棟札
弘化4年棟札(表):左図拡大図
奉再興五層宝塔一宇奉安五如来等尊像伏願降伏一切大魔最勝成就攸
導師大慈十七世宣隆大和尚
願主別当野沢村
彦六敬白
弘化4年棟札(裏):左図拡大図
維時弘化4丁未歳9月晦日入仏供養
世話方松館安太郎
大工棟梁青木源之助棟薫
仕手棟梁青木源次郎一盛
仕手脇棟梁服部和吉
・・・その他 連匠、屋根葺、木挽の氏名多数 |
さらにもう1枚の棟札の保存がある。
しかしこの棟札はほとんどの墨書が消滅し、判読がほぼ不能。
但し、(表)に「之橖(木偏に堂の字)一宇当国」などが判読でき、五重塔の棟札と推定される。(年紀は不明)
◎年号不明應物寺塔棟札:
年号不明應物寺塔棟札(表) 年号不明應物寺塔棟札(裏)
◆應物寺五重塔の倒壊
大正2年8月22日暴風雨のためにこの層塔は倒壊する。
「今は唯北方に尖先を向けて横たわり、刻々朽頽の命運に曝露せられつつある塔の残骸と当時の礎石とを見るのみ。」
※以上の文面により、大正2年塔の倒壊後、塔はほぼ倒壊の状態のままで打ち捨てられ、腐朽に任され、大正末年頃にもその朽頽した塔の残骸が横たわっていたと知れる。
また
野沢彦六(屋号)氏の回想談あるいは金子善兵衛氏の論述(「寺下の五階の?(木偏に堂の字)」など)でも、かなりの長期間雨雪に曝されて横たわっていた様子がうかがえる。
(幸いにして、その間、野沢彦六氏<と推測>により、塔遺物の幾つかは取り上げ保存される。)
2008/04/23追加
★應物寺五重塔跡
・「寺下の五階の橖(木偏に堂)の特異性」金子善兵衛(昭和29年8月「八戸郷土研究会月報」所収)
「礎石は普通であれば柱の下に夫々1つ1つ置くのであるが、・・・花崗岩の大きい自然石を何個か寄せ集めてそれを適当に敷えて塔の低部一ぱいにして礎石兼基壇として使用したのであった。そしてその中央部に心礎を差し込む穴をあけて、それを通して土中深く心柱を立てる構造であった。」
・「寺下の五階の橖(木偏に堂の字)」金子善兵衛では
「基壇は約方9尺(2.72m)、高さ1尺位(30cm)、花崗岩の大石を並列して組成、別に塔の礎石は置かなかった。
この基壇の中央には径1尺5寸(45cm)ばかりの円い穴を開けている。心礎の差込穴で、舎利の安置は不明。
基壇の南面には上部を削平した自然石を幾つか置く。」
※以上のように、五重塔跡には(小規模塔の故と思われるが)礎石兼用の基壇が残る。
基壇に使用する石の個数は不明、また中央の心礎穴も不明。階上町では整備を図る予定と云う。(上層には堆積物がある。)
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○應物寺五重塔跡
陸奥應物寺五重塔跡1;
正面(南)に3箇の花崗岩を並べる、この基壇の一辺は約2.9m(実測)を測る。
同 2:左図拡大図
同 3:
正面には数個の平坦な(礎石・基壇と同じような)石が置かれ、
正面石畳の役割と思われる。
同 4
同 5:礎石・基壇石
同 6:礎石・基壇石 |
★應物寺五重塔遺物
五重塔の相輪と壁板数枚は野沢彦六氏(階上村字野沢・燈明薹址6坪、五重塔址30坪所有)が保管する。
※「角川日本地名大辞典 青森」より
「塔に使用された延享2年銘の蟇股、壁板(津要の彫刻)、相輪部が現存」
この項の図版は「寺下燈明薹址及五重塔址」より転載、写真は野沢彦六氏蔵遺物を撮影
○應物寺五重塔相輪
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○陸奥應物寺相輪
陸奥應物寺相輪実測図:左図拡大図
相輪高さは7尺3寸(2.21m)、青銅製。中段で相輪を継ぐ(分離可能)。
但し水煙はなく、多宝塔相輪に似せる相輪を用いる。 |
2008/04/23追加:
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相輪は常燈明堂前に置かれる(放置か)。
應仏寺五重塔相輪1
同 2:背後の堂が常燈明堂
同 3
同 4
同 5:左図拡大図
※上掲の陸奥應物寺相輪実測図にはある火炎・宝珠が現状では欠けている。
「寺下の五階の橖(木偏に堂の字)」金子善兵衛 では
露盤(卍と法輪の浮文様)・覆鉢・四辯の請花・九輪・八辯の請花・水煙(貧弱な)・宝珠を挙げる」とある。
以上及び相輪図から判断すると、貧弱な火炎様な水煙と宝珠はいつの間にか失われたものと思われる。 |
2008/04/23追加:
○五重塔本尊石造五智如来坐像
常燈明堂内に塔本尊五智如来が安置される。
※今も信仰を集めるようで、現在でも「お篭」をする人がいると云う。
堂内には五智如来以外に多くの仏像(石像)が集められ、生花などで美しく飾られる。(下記の写真を参照)
應物寺塔本尊五智如来1 同 2 同 3 同 4 同 5
○五重塔ニ層彫板十六羅漢
現在、以下の4枚が野沢彦六氏の蔵に保存される。
塔ニ層の壁板で残存する彫板十六羅漢像、各々横1尺6寸(48cm)、縦1尺8寸(55cm)、裏面には注文がある。
●第一 <注文腐食して詳らかならず>
◇賓度羅跋囉惰闍と思われる
●第十四 <注文腐食して詳らかならず>
◇伐那婆斯尊者
●第十五 阿氏多尊者 住在鷲峰山中 玄梁(中気左筆彫)・・・玄梁は中風を病み、左手で彫刻する。
◇阿氏多尊者
●第十六 注茶半託迦尊者 住在持軸山中
玄梁左筆 彫刻玄梁
◇注茶半託迦尊者
※なお、3間四面にどのように彫板十六羅漢像を配置したのかは不明。
参考:十六羅漢
1)賓度羅跋囉惰闍(びんどらばらだーじゃ Pindolabharadrāja)/西瞿陀尼州に住<跋羅駄闍 ばらだしゃ>
2)迦諾迦伐蹉(かなかばっさ Kanakavatsa)
3)迦諾迦跋釐堕闍(かなかばりだじゃ Kanakabharadrāja)
4)蘇頻陀(すびんだ Subinda)
5)諾距羅(なこら Nakula)
6)跋陀羅(ばだら Bhadra)
7)迦哩迦(かりか Kālika)
8)伐闍羅弗多羅(ばじゃらぶたら Vajraputra)
9)戎博迦(じゅばか Jīvaka)
10)半託迦(はんたか Panthaka)
11)囉怙羅(らごら Rāhula)
12)那伽犀那(ながせな Nāgasena)
13)因掲陀(いんがだ Ańgaja)
14)伐那婆斯(ばなばす Vanavāsin)/可住山山中に住
15)阿氏多(あじた Ajita)/鷲峯山山中に住
16)注荼半諾迦(ちゅだはんたか Cūdapanthaka)/持軸山山中に住 |
○五重塔三層十三仏
山上に於いて、更に塔中より十三仏(三階)の残板と雲図文様の横板を覓(もと)めて拓写する。
※拓写図にある十三仏の1体は野沢彦六氏蔵、もう1体は現在野沢氏の蔵には存在しない。さらに別の1体の板が保存される。
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拓写図
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拓写図
塔三層十三仏の1:尊名不詳
:左図拡大図現在、この「板彫十三仏」は野沢氏蔵には存在しない。
※野沢邸の会話の中で、野沢氏が教育委員会担当者に「博物館(それに類する施設)に貸し出している『板』は戻ってきましたか?」などの話があり、これから類推すれば、この「板」は貸し出たままでまだ野沢邸に返却されていないなどのことが想定される。
参考:十三佛
不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿閃如来(「閃」は代用)、大日如来、虚空蔵菩薩 |
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拓写図
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拓写図
塔三層十三仏の2:尊名不詳
:左図拡大図 |
塔三層十三仏2(表):
下図拡大図
塔三層十三仏2(裏):
腐朽が甚だしく、注文の判読はほぼ不能 |
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塔三層十三仏3(表):左図拡大図
十三仏の1躯と思われる。
但し尊名は不詳※(裏)面の写真撮影は未実施。 |
○五重塔初層花鳥
「一階には花鳥を刻する」
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初層花鳥の1(表):左図拡大図
図柄は「花長」と思われるも確証はない。※(裏)面の写真撮影は未実施。 |
○五重塔四層九曜ニ十八宿
「四階九曜ニ十八宿を刻する。」
○五重塔雲図文様横板 軒下はいわゆる「板軒」であったようで、その部材が残る。
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拓写図
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拓写図
雲図文様横板:
左図拡大図
この文様は「羅漢」の文字を埋め込んでいるとされる。 |
○五重塔蟇股
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欄間に掲げた十二支の文様も10枚残存する。
※おそらく蟇股と思われる。
(1尺2寸4分×3寸×厚さ6分5厘、38×9×2cm) 陸奥應物寺蟇股実測図:左図拡大図 |
「寺下の五階の橖(木偏に堂の字)」金子善兵衛、昭和22(23?)年9月24日の稿 では
、以下のように云う。
「蟇股の彫刻は十二支で各担当した方角に付けられていた。この蟇股は野沢氏が保管しているが、その裏面には墨書がある。」
<裏面の墨書は以下の通り>
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子
三拾九才
大工△△
延享
うし
三月吉日
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丑
北加巳
東一と北三との間
うし
筑前船頭
△△△△
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寅
筑前船頭
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辰
東加巳
かと
南一と東三との間
たつ
三之丞
孫
△△
△△ |
巳
南加巳
一ニの間
△
△△
|
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午
弐拾六才
南加巳
ニ三ノ間
中
大工△△
延享弐
△△ |
未
弐拾六才
南加巳
南三と西一との間
大工△△△
延享弐
三月吉日
|
申
大工△△△
延享弐
三月吉日
|
亥
北加巳
一ニの間
△
△△
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以上のように諸資料では野沢氏が保管とあり、文様の筆写画や墨書の記録から、9〜10枚の蟇股が存在したと推定される。
しかし、現状では野沢氏の蔵には存在せず、野沢氏本人も存在しないと云う。
蟇股の存在は確認できないが、何かの事情で失われたものか、あるいは例えば調査などで貸し出され、そのまま返却されない状態のままであることなどが考えられる。
○五重塔心柱(部分)
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○應物寺五重塔心柱
應物寺五重塔心柱1:左図拡大図
形状から、腐食した心柱を継いだ基根の継手の下方と思われるも確証はなし。
應物寺五重塔心柱2:殆ど消滅しているが、墨書がある。但し内容はほぼ判読不能。
この墨書については、下に掲載する「塔柱基根の継手の上方の墨書」とも思われるも、
見たところ、この墨書は下に示す内容とは一致しないと思われる。
※塔柱基根の継手の上方の墨書
弘化4年(1847)再度修繕: (この時には心柱の根本を取替るとされる。)
塔柱基根の継手の上方には以下の墨書があるとされる。
棟梁 青木床之助 同 源次郎 屋根屋 青木庄之助 卯八
弘化4年丁未7月2日此継手
一貫ニ付
白米 一斗三升 栗 一斗五六升 小麦 ニ斗五升位 大麦 四斗位
小豆 五斗三升 大豆 五斗三升 酒一升ニ付代百六十四文
大工作料入細工ニシテ上銭 |
○伝五重塔鰐口
★海潮山応物寺概要
「八戸聞見録」(旧筑後梁川藩士渡邊村男・明治14年著作):
(概要)縁起では聖武天皇御宇、行基の創建と云い、海潮山應物寺と号する。
大同年中に中興、鳥羽天皇御宇、慶雲なる者が再建。降って文明年中雲江遺業を興隆せり。
享保年中(1716-)、津梁という沙門之を再興せり。今は全く其寺なし。ただ寺蹟と津梁の墓標あるのみ。
麓に観音堂あり。その堂に應物寺の額面あり。
津梁、この寺を住持せしより山上は五層の堂と燈明薹を設けたり。五層の堂は参詣人の目を喜ばせんが為にし、燈明薹は海客通船の迷難を救はんが為なり。その後南部公相当の扶持をこの寺に与へ点灯の料となす・・
「向鶴」(中里忠香著、明治23年)、「糠部五郡小史」(太田弘三著)も同様の伝承を載せる。
「八戸祠探」(寺下観音堂伝譚)、「神社秘要集」には應物寺の縁起の引用がある(と思われる)が、これもほぼ同文である。
(※但し引用された應物寺縁起なるものは訛誤極めて多く、流暢に解読すること能ずという。)
津梁なる法師はまた津要・信行・玄梁とも称する。仏像等の彫名は多く玄梁と刻する。
但しその生国・閲歴・学統などは盛岡祇陀寺の隠居僧と云う以外全く不明。
※「角川日本地名大辞典 青森」より
江戸初期から観音堂は糠部33観音の一番札所として信仰を集めた。観音堂(本尊正観音)は5間四方。
往時の堂地は現在地の西・寺下川左岸に位置した。
明治4年神仏分離で、観音堂は取壊され、潮山神社と換骨奪胎される。
観音像は妙村伝昌寺へ遷されるも、明治7年現在地へ再建される。
※上述の塔に用いた拓写あるいは石製線刻不動明王像以外にも、玄梁作と伝える以下のような仏像が知られる。
○十王院(湊町)地蔵菩薩像:胎内に津要玄梁の墨書があると云う。
○伝昌寺(妙字東)六地蔵菩薩像:1体に「津要彫」とあると云う。
○小田(こだ)毘沙門堂・毘沙門天像:
この像の製作年代は不詳、享保3年(1845)津要玄梁が補修との墨書が台板に残ると云う。
小田毘沙門堂は小田山徳城寺と号する、明治の神仏分離で小田八幡宮と強制改号される。小田仁王門現存。
○野沢氏蔵観音像(下の項にあり)
○大館新井田館八幡の八幡像
○野沢氏蔵観音立像:津要玄梁作
◆津要玄梁建立の燈明薹
いわゆる階上嶽の前巒(みね)山館前と称する前端にある。海抜は約200尺(60m)の位置にある。
享保年中建立の堂は、宝暦8年(1758)大破し、再建願いが別当より提出(「八戸藩史稿」)され、再興を見ると思われる。
今、近年新建に係る一堂を存する。堂の高さ1丈2尺、中に一箇の木製角行灯、外に五重塔中に安置したりし五智如来の石像を収蔵。
木製角行灯は即ち昔灯用たりしものなり。
※この堂宇は現存する。五重塔安置石造五智如来はこの堂に安置される。
○常 燈 明 堂:既に上に掲載
○木製角行灯1 ○木製角行灯2:野沢氏蔵、常燈明堂にあったものと云う。
○常燈明堂棟札(表):奉再造 大日女貴 月夜見尊 常燈明堂 :野沢氏蔵
○常燈明堂棟札(裏):弘化四丁未年九月晦日 神官大宮司中居但馬正藤原泰通 世話人松館安太郎 別当野沢村彦六
大工棟梁青木源之助 ・・・その他仕手棟梁、木挽などの名前があがる。 :野沢氏蔵
※弘化4年の常燈明堂が再造される。
○燈明堂扁額:燈明堂新築 大正2年 ・・・・ :野沢氏蔵
※燈明堂は大正2年新築と思われ、この堂宇が現存すると思われる。
★階上町庁舎模型五重塔
階上町庁舎に「階上岳日向山五重の塔」と称する木造五重塔模型がある。
名称から見て(日向山山上に常燈明堂・山腹に應物寺五重塔があった)、應物寺五重塔を偲ぶ模型と思われる。
但し、その形は法隆寺五重塔をモデルにした模型と思われる。
階上日向山五重塔1 同 2
同 3
同 4
2007/08/28作成:2008/04/23更新:ホームページ、日本の塔婆
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