★浄土寺多宝塔
元徳元年(1329)再興、一辺6.6m、高さ20.5m。
多宝塔では下野鑁阿寺多宝塔に次ぐ規模とされる。
多分に当時の時代背景を反映し、純粋な和様建築ではなく、細部では多くの新様式が取り入れられる。
○2007/03/06「日本建築史基礎資料集成 十二 塔婆U」:
多宝塔には以下の修理履歴がある。
明応4年(1495)、文禄年中(1592-96)屋根葺替、元禄元年(1688)九輪改鋳・屋根葺替、享保17年(1732)、元文5年(1740)、
文化8年(1811)、弘化元年(1844)各種補修など。
昭和10年解体修理。
下重総間21尺8寸、中央間8尺3寸2分、両脇間6尺7寸4分、組物二手先 上重軸部径10尺5寸、総高67尺6寸7分。
浄土寺多宝塔立面図
2000/12/26撮影:
浄土寺多宝塔1 浄土寺多宝塔2:浄土寺伽藍
2001/12/28撮影:
浄土寺多宝塔10 浄土寺多宝塔11 浄土寺多宝塔12 浄土寺多宝塔13
浄土寺多宝塔14 浄土寺多宝塔15 浄土寺多宝塔16
2007/01/19撮影:
備後浄土寺多宝塔1 備後浄土寺多宝塔2 備後浄土寺多宝塔3 備後浄土寺多宝塔4
備後浄土寺多宝塔5 備後浄土寺多宝塔6 備後浄土寺多宝塔7 備後浄土寺多宝塔8
2015/03/21撮影:
2022/07/31撮影: 浄土寺伽藍遠望 浄土寺多宝塔・遠望
2017/01/13追加:
○s_minaga蔵絵葉書:通信欄の罫線が3分の1であり、かつ「きかは便郵」とあるので、明治40年4月〜大正7年(1918)3月
間の発行であろう。
尾道浄土寺多宝塔絵葉書:上重には軒の垂下を押える支柱を建てる。昭和10年の解体修理でこの支柱は撤去されたものと思われる。
なお、次の多宝塔模型が知られる。
一つは山内の子安堂内に置かれる。詳細は不詳。下に掲載
また、新尾道駅に浄土寺多宝塔及び本堂の模型の展示がある。(Web情報)
★浄土寺五重塔/利生塔
永仁6年(1298)塔が既に存在したことが知られる。
即ち「定証起請文」では次のように云う。
「五重宝塔1基 空輪金銅、瓦葺 本尊四方仏 仏壇荘厳 壇四維柱図37尊 平軸図八大龍王像 四面扉図八天像 四方壁画真言八大祖師影像」
※「定証起請文」は嘉元4年(1306)定証が浄土寺伽藍を再建した時の自筆起請文である。定証は高野山に属するも、西大寺叡尊弟子。
正中2年(1325)に塔など灰燼に帰す。
暦応元年(1338)浄土寺住持心源は浄土寺に利生塔建立の申請を為す。
暦応2年、浄土寺五重塔修造の院宣が下され、足利尊氏・直義は備後利生塔として浄土寺五重塔を修造する。
塔は貞和3年(1347)再興される。
塔の場所は筒湯小学校(2000年に廃校)といい、現在も浄土寺の北西に接して校舎や運動場が残る。
明応3年(1494)勧進により、塔修復なる。
正保年中(1644頃)五重塔猟人の失火によって焼失。但し仏舎利は焼失を免れるという。
(近世初頭まで利生塔は存在する。)
★備後浄土寺概要
○聖徳太子浄土寺建立と云う。<「荘厳浄土寺縁由実録」(元文4年/1739)>
○定証浄土寺再興。
上に掲載の「定証起請文」(嘉元4年1306、定証は浄土寺再興の律僧、西大寺叡尊弟子)は次のように云う。
定証、永仁6年(1298)西国に赴き、浄土寺に移住。この時、本堂・五重塔・多宝塔・地蔵堂・鐘楼があったという。
定証は律の道場として、金堂(3間四面)、食堂(5間ニ面)、僧坊(12間)、厨舎(7間)を造営する。
「多宝塔1基 本尊金剛界大日金泥像 後壁両界曼荼羅 天蓋羅網仏壇荘厳大略本堂如
壇四維柱図37尊 四方保立図八大龍王像 四面扉図羅刹女像 四方壁画十六羅漢像」
しかしそれらは、正中2年(1325)伽藍悉く焼失す。
直ちに、尾道商人の発願で、再興される。
嘉暦2年(1327)本堂再興(現存)、元徳元年(1329)多宝塔再興(現存)、貞和元年(1345)阿弥陀堂再興(現存)。
山門も阿弥陀堂と同一時期の建築と推定。
2010/07/17撮影:
備後浄土寺遠望:平成20年1月より露滴庵・方丈・庫裏及び客殿・宝庫・唐門・山門(全て重文)が5ヵ年計画で大修理に入り、覆屋が写る。
◆現存建造物
◇浄土寺諸堂寺配置図:PDF文書「第2章 尾道市の維持及び向上すべき歴史的風致」より原図を転載
○浄土寺伽藍
○本堂(国宝):元徳元年(1329)再建、5間×5間(14m×14m)、入母屋造、本瓦葺き。鎌倉期から続く仏教復興の気運を象徴する折衷様の代表的建築である。
○阿弥陀堂(重文):貞和元年(1345)再建
○山門(重文):南北朝期再建、
浄土寺山門1 浄土寺山門2 浄土寺山門3 浄土寺山門4 浄土寺山門5 浄土寺山門6
○裏門(重文):鎌倉期
浄土寺裏門1 浄土寺裏門2 浄土寺裏門3
○客殿(重文):正徳2年(1712)建立、○客殿<入り口>(重文):鎌倉期、○庫裏(重文):享保4年(1719)建立
玄関・庫裡・客殿1 玄関・庫裡・客殿2
○唐門(重文):正徳2年(1712)建立、○方丈(重文):元禄3年(1690)再建
浄土寺唐門・方丈1 浄土寺唐門・方丈2 浄土寺唐門1 浄土寺唐門2
○露滴庵(重文):安土桃山期(伝伏見城より移建と伝える)
未見
○宝庫(重文):宝暦9年(1759)
未見
また石造物には以下がある。いずれも重文。
納経塔;室町前期、宝篋印塔:鎌倉期、宝篋印塔(伝尊氏塔):南北朝期
○子安堂
浄土寺子安堂1 浄土寺子安堂2
○護摩堂
浄土寺護摩堂1:写真右端の石階を上れば、高野・丹生大明神である。
浄土寺護摩堂2
○地蔵堂
浄土寺地蔵堂1 浄土寺地蔵堂2 地蔵堂・護摩堂屋根
○開山堂
浄土寺開山堂
○浄土寺鐘楼
その他、経蔵、文殊堂、高野・丹生大明神などを有する。いずれも未見。
★浄土寺多宝塔模型
詳細は不詳、子安堂内に安置する。
浄土寺多宝塔模型1 浄土寺多宝塔模型2 浄土寺多宝塔模型3 浄土寺多宝塔模型4
浄土寺多宝塔模型5 浄土寺多宝塔模型6 浄土寺多宝塔模型7
○尾道水道渡船
尾道−向島間には現在4本の渡船があり、約5分間隔での運行が行われている。
※駅前渡船の2杯の船は、浄土寺多宝塔をイメージした船ものであろう。
駅前渡船・渡船
参考:
○備後因島白滝山観音堂
本ページの浄土寺とは無関係であるが、因島白滝山山頂に観音堂があり、そこに多数の石仏と石造宝塔がある。
因島は村上水軍の根拠地の一つでもあり、また特異な宗教世界がある。
標高226メートルの白滝山は、もともと修験者の修行の場であった。 (法道上人の開山ともいう。)
永禄12年(1569)因島村上水軍6代当主、村上新蔵人吉充が布刈瀬戸(現在の因島大橋のある瀬戸)の見張り所として観音堂を建立したと伝える。
文政10年(1827)重井の豪商柏原伝六(1780〜1828)が、神道・儒教・仏教に加え、当時禁制の切支丹の教義も加え「一観教」を開き、白滝山上に清浄世界を顕そうと、五百羅漢石像を弟子柏原林蔵や尾道の石工たちとともに彫造する。そして3年後の文政13年(1830)完成する。
しかし伝六は、その造仏の途中、一揆を怖れる広島藩により文政11年(1828)毒殺されるという。 あるいは、次のようにも云う。
文政5年(1822)に重井村の柏原伝六が42歳の時発心して白滝山の観音堂に籠り、儒仏神と邪蘇の四教を融合した新宗教を興し、その教祖となる。
伝六は観音堂一観と号し46歳のときから釈迦三尊像と五百羅漢の彫造に着手し、白滝山頂に石仏の並ぶ観音浄土を現出させる。
その結果、村人たちは競ってこの一観教に入信し、一観夫妻の石仏まで彫られたから広島藩庁は驚愕し、これを邪教として伝六を捕縛、伝六は文政11年(1828)3月15日、広島で牢死する。石仏は全部で700余体もあり、中には十字架を手にしたマリア観音像(未見)もあるから、藩庁はこれを危険視したのであろう。
※白滝山あるいは一観教の切支丹については カテゴリ:隠れキリシタン碑重井町:
マニアックな隠れキリシタンアイテム〜白滝山五百羅漢 が詳しい。
手元の白滝山案内のルーフレットには「十字架観音像」の写真があるが、切支丹の特徴が表されているのはどうかは良く分からない。
現在、仁王門から山頂(227m)まで大小約700体の石像仏群が並ぶ。 白滝山山頂案内図
白滝山仁王門:仁王門については未見につき、ウキペディアから転載。
※仁王像・仁王門については次のようにいう。 天保5年(1834)八幡宮、善興寺へ仁王像建立。(寄進者 村上十兵衛、柏原林蔵)
安政6年(1859)白滝山観音堂再建。
明治元年(1868)神仏分離令により八幡宮仁王像、白滝山中腹へ移転。 明治4年(1871)白滝山観音堂、善興寺奥院となる。
明治42年(1909)白滝山に仁王門落慶。 仁王像製作は尾道の石工太兵衛。なお、太兵衛は山上、観音堂広場の多宝塔の作者でもある。 2022/07/31撮影:
白滝山山門 白滝山観音堂1 白滝山観音堂2 白滝山観音堂3
白滝山鐘楼1 白滝山鐘楼2
石造多宝塔は高さ6mの自然石の基壇上に立つが、その自然石基壇には数体の石仏が彫られる。
白滝山石造多寶塔1 白滝山石造多寶塔2 白滝山石造多寶塔3
白滝山上石仏群:手前の大きな石仏は伝六像
白滝山伝六夫婦像:中央が伝六像、一観像とある。 白滝山釋迦三尊像 白滝山西国33所霊場
白滝山日本大小神祇
白滝山ゴリラ岩 白滝山ウサギ岩 白滝山カエル岩
生口橋1 生口橋2:尾道市街地から備後向島・備後因島・備後生口島を渡るとその先の島は既に伊予大三島島である。
2006年以前作成:2022/12/15更新:ホームページ、日本の塔婆
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