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三 匝 堂 ・ 栄 螺 堂 |
★三匝堂(栄螺堂)
| 参考・参照: 当ページは、サイト:日本すきま漫遊記>「さざえ堂とは?」 から多くを得る。<深謝> |
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三匝堂・栄螺堂 |
建 立 時 期 |
状 況 |
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| 武蔵本所羅漢寺 東京都墨田区 |
安永9年(1780) | 安政2年(1855)地震損壊、明治8年取壊 | ||||
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| 下野能持院 栃木県茂木町 |
天明5年(1785) | 明治4年台風倒壊、あるいは大正年中老朽化・腐朽とも云う。(写真と概観図が残存とも云う。) | ||||
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現存 武蔵成身院 埼玉県児玉町 |
天明5年(1785)頃建立 | 明治21年(あるいは明治20年)焼失、明治44年再建 | ||||
平等山と号す、足利持氏開基、禅密兼学元昭上人開山。 天明3年(1783)浅間山の大噴火で多くの犠牲者を出す。成身院元映上人は、この菩提のため百体観音堂を建立。 百体観音堂は高さ約20m。外観は二層堂、内部は三層の回廊造りで右回りに三匝する。一層は秩父34観音、二層は坂東33観音、三層は西国33観音を祀る。三層中央に本尊白衣観音を祀る。 2009/06/25撮影: 成身院百体観音堂31 同 32 同 33 同 34 同 35 2009/06/25は管理人不在?で、内部拝観は叶わず。 なお境内北側すぐに移設された東小平中山遺跡塔礎石(東小平中山廃寺塔礎石)がある。 |
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| 武蔵浅草寺梅園院 東京都台東区 |
寛政11年(1799) | 完成直後に取壊 | ||||
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2008/01/08追加: 完成直後に取壊とは次のような経緯とされる。 ○「浅草寺子院梅園院地蔵堂(さざえ堂)の建設と破却」光井渉(学術講演梗概集、1989所収) より 梅園院地蔵堂の記録の初見は以下と云う。 ・「御用記」寛政10年(1798)正月19日の条: 「有来り之堂四間四方ニ弐間之拝殿、弐間ニ六間之御供所都合六間ニ御座候処、此度六間四方之土蔵造り一宇ニ造替修復仕度奉存候、」 以上によれば、従来の三棟の建築(4面四方地蔵堂、4×2間拝殿、2×6間御供所)を6間四面の地蔵堂に造替する願書が提出され、その建築が計画されたと知れる。 その計画された新しい地蔵堂の概要は以下のようであった。 ・「公私日並記」寛永10年7月24日の条: 「惣土蔵造ニ御座候故六間四方ニ準シ惣高地形石面より棟端迄三丈六尺ニ相成申候」 ・「御用日記」寛政11年5月28日の条: 「此度再建奉願候地蔵堂一宇不残土蔵作りニ仕、二階ニ子育仁王尊安置仕、三階ニハ別堂に御座候聖観音安置仕候・・・拙地蔵堂之儀者四方不残厚壁ニ而明り窓付、筋金入候而有触候土蔵之作事ニ御座候」 ・「公私日並記」寛政11年6月7日の条: 「寺社奉行所 覚 一、梁 三間 一、桁行 弐間宛 但つぎつぎ 右拙寺地蔵堂六間四方之所本建方は三間四方、四方ニ九尺ツ々しころ葺 一、百観音 弐尺壱寸より弐尺八寸迄但台座共 右御尋ニ付奉申上候、以上」 以上によると地蔵堂は六間四方が「本建方」で本尊地蔵尊を安置、周囲には幅9尺の庇を廻らし、その部分は2階3階があり、各々仁王尊・聖観音が安置、その他百観音(西国・坂東・秩父の観音写し)も安置される構造であった。外観は土蔵造りで、「明り窓」のみがある・・・。 以上のような地蔵堂の全容が明らかになるにつれて、実際と願書との内容が相違するなどと、梅園院は役者から叱責されるなど問題が顕在化してくる。 しかし、工事は進行し、寛政11年4月27日には「5月15日には入仏供養」の段取りとなる。 この頃には堂宇の造り即ち梅園院地蔵堂と本所羅漢寺三匝堂との相似が問題となり、寺社奉行の糾弾に種々弁明するも、遂に寺社奉行は5月15日の「入仏供養」を差し止め、地蔵堂門前は封鎖される処置を採るに至る。 そもそも、寺社奉行は「元禄年中書付」により、浅草寺に対し、坊舎の作事については自主的な作事を保証していた。 しかるに、寺社奉行は「右之造り方元形ニ無之俗ニさゝゐ堂と唱ヘ候三階ニ而百観音等追々安置」の様子であり、「元禄年中書付」で認めた自坊・坊舎の作事でないと判断し、その結果、上記の処置に出る。 更に寺社奉行は寛文8年(1668)の寺社建築に関する規制(「梁行京間三間を限へし・・・・」)違反をも糾弾してくる態度に出る。 寛政11年6月24日寺社奉行のもとで図面の吟味が実施される。 同年11月21日寺社奉行松平周防守は、以下を裁定する。 「三階之堂者常之堂とハ違ひ候間、御奉行所江願出御差図を請可申処、無其儀目立候堂を建立候壇不行届儀ニ付、常体之堂ニ建直可旨被仰渡候・・・」 この裁定により、梅園院地蔵堂の取壊しが確定し、同年8月26日に地蔵堂は一度も公開されることなく破却される。 建築された地蔵堂は中央に吹き抜けを持つ三層堂であり、百体観音の安置をも考えると、その構造の実態は安永9年(1780)の羅漢寺三匝堂と瓜二つである。要するに、浅草寺は自寺に与えられた「作事」自由の自坊・坊舎とは似つかない「三匝堂」を「無届」で「作事」し、寺社奉行の「取締」(幕府の寺社取締)に抵触したということであろう。 註:「公私日並記」:別当代記録(元文5年以降、別当は東叡山門跡兼帯・浅草寺には別当代が本坊伝法院に常駐) 註:「御用記」:浅草寺役者の日記(役者は衆徒12院からニ名を互選・浅草寺の実権を握る) 註:「元禄年中書付」:「自坊並境内坊舎作事之事、是又前々通不及届間可被申付候・・・」 |
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| 現存 上野曹源寺 群馬県太田市 |
寛政5年(1793) | |||||
| 「羅漢寺三匝堂考」より: 曹源寺三匝堂内部 「O」氏1995/11/19撮影:2008/01/08追加
内部は常時公開と思われる。 |
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現存 (重文) 陸奥正宗寺 福島県会津若松市 |
寛政8年(1796) | 正宗寺は明治の神仏分離で廃寺。 | ||||
「O」氏ご提供:2000/10/16撮影
:2008/01/08追加
高さ16.5m、六角三層堂、内部は二重螺旋構造の斜路が続き、右回りに上る斜路と左回りに下りる斜路が別々に存在する。
2014/04/20追加修正: |
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| 現存 常陸長禅寺 茨城県取手市 |
享和元年(1801) あるいは 宝暦13年(1763) |
宝暦13年(1763)再建及び享和元年(1801)再営の2枚の棟札が残存、3階縁高欄の親柱擬宝珠に寛政12年(1800)の刻銘がある。 | ||||
※内部は年1度
(4月18日)の公開と云う。しかし状況によっては、午後のある時間で公開打ち切りということも有り得ると云う。(公開時期などは念のため、自己確認が望ましい。) |
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上野妙音寺 群馬県桐生市 |
江戸後期 安永7年(1778) |
天保13年(1842)火災焼失 | ||||
| 平等山と号す。本尊:不動明王。高野山真言宗。 開基などは不詳。 安永7年(1778)観音堂(百体観音堂・三匝堂)建立。 寛政年中(1789-1801)百体観音堂)、庫裡を焼失、百体観音堂はその後再建される。 天保13年(1842)再度再建百体観音堂から出火、百体観音堂・本堂・庫裏などを焼失、百体観音堂は再興されず、本堂は長い間仮本堂のままであった。 昭和3年本堂再建。 |
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| 現存 陸奥長勝寺蘭庭院 青森県弘前市 |
天保10年(1839) | 通称六角堂(但し実際は八角堂と思われる) | ||||
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現存 武蔵西新井大師 (総持寺) 東京都足立区 |
天保11年(1840) | 明治17年再建 | ||||
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明治17年再建。三重塔と分類する向きもあるが、これは塔婆建築ではなく三匝堂である。 ○「江戸東京の庶民信仰」長沢利明著 平成8年 三弥井書店刊 より抜粋。 これは「三匝堂」と呼ばれる仏堂形式の一つで、堂内部の三層の階段を栄螺に見立てたもの。別名栄螺(さざえ)堂と呼ばれる。堂内には札所の本尊像等がずらり並んで安置され、参拝者は階段の昇降で、拝することが出来る。 江戸本所の羅漢寺(黄檗宗)の栄螺堂が最初とされ、関東地方以北に広まった。 現存するものは少なく、都内では唯一のものとされる。 一層:88体の大師像と本尊、二層:13仏、三層:五智如来と二十五菩薩が安置。地下には四国88ヶ所の霊砂が収められている。天保年間に江戸・伊勢屋彦衛門が四国遍路を行い、霊場に砂を集め、88体の大師像を祀ったのが始まり といい、明治期に堂が荒廃、再建されたのが、現在の栄螺堂と云う。 ○「Y」氏ご提供画像: 武蔵西新井大師三重塔 ○2008/01/17追加: 「O」氏ご提供画像:2005/04/24撮影:
2011/11/06追加:2011/10/29撮影: |
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| 武蔵観音院 埼玉県小鹿野町 |
江戸末期 | 明治26年焼失。 焼失前本堂(三匝堂)の図面が残存する。(本堂納経所?) 三間四方の三階建、高さ4丈6尺(13.9m)というようである。 鷲窟山観音院と号し、秩父三十一番札所。 「観音霊験記」(錦絵)歌川広重、江戸期末があり、本堂の絵が残る。 観音霊験記・観音院 |
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| 越後竜照寺 新潟県新潟市 |
明治8年 | 焼失(時期不明)、本堂は三階建ての建物であったと伝える。 | ||||
| 常陸大栄寺 茨城県結城市 |
不詳 | 退転(理由・時期不詳) | ||||
| 理性院大師堂天如塔 | 明治42年(1909) | 長崎県島原市:現存する。 高さ約11m。宝輪を含む総高は約15mほどという。 構造は二重螺旋階段をい有する栄螺堂である。明治42年竣工。 |
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| 理性院大師堂は僧・広田言証が建立したものである。 広田師は嘉永5年(1852)岡山県に出生、40歳にして四国遍路の旅に出、僧侶となる。その後雲仙普賢岳で修行し、明治28年(1895)島原の地に理性院大師堂を建立する。 明治39年インドを目指し托鉢の旅に出立する。 途中、香港、ハノイ、サイゴン、バンコク、シンガポール、ビルマなどを巡るが、乞食に等しい坊主を支えたのは島原・天草出身の「からゆきさん」であったという。そして広田師の旅は、現地で亡くなった「からゆきさん」の施餓鬼供養を修しながらの旅でもあった。 明治42年インドから島原に帰朝した広田師は、ラングーンの僧侶から贈られた釈迦如来を安置するためと異国の地で果てた「からゆきさん」の菩提を弔うため、「天如塔」の建立を発願し、それを 実現する。これが現存する天如塔である。 なを、 天如塔の周りには286本の石製玉垣があるが、そこには海外からの多くの寄進者の氏名が刻まれるという。 (「島原のからゆきさん」倉橋正直、共栄書房) 近年、この「天如塔」は腐朽し崩壊の危機にあったが、2013年「修復委員会」が発足し、募金活動などがなされ、2014年修復される。 壁の外研は水色と白を基調に彩色され、軒下や向拝は白木のままの仕上げのようである。 ○サイト;珍寺大道場>天如塔のページに修復前の天如塔の写真がある。(転載) 修復前天如塔1 修復前天如塔2 修復前天如塔3 |
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東京大正大学 鴨台観音堂 |
平成25年 | 東京都豊島区 すがも鴨台観音堂(通称:鴨台さざえ堂) 平成25年竣工、佛教文化施設という。巣鴨大正大学内に建立。拝観は自由。 構造は八角三匝堂。おそらくは会津若松正宗寺三匝堂をモデルとするも、正宗寺三匝堂は平面六角であるが、こちらは平面八角である。 設計施工:株式会社大林組、安置聖観自在菩薩;松久宗琳佛所製作。 なお大正大学は天台宗大学、真言宗豊山大学、浄土宗(宗教大学)を起源とする。 |
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★「写し巡礼地」(ミニチュア霊場) 2026/03/17追加: ○2026年2月19日日本経済新聞掲載「各地の『ミニ巡礼地』を巡る」近藤隆二郎(元滋賀県立大学教授) より 日本全国(静かな山あいや、都会の古寺の裏庭)には苔むした小さな石仏が一定の規則をもって並んでいる光景がある。 これらは、四国88所など広大な巡礼札所を凝縮して再現した場所である。 これは「写し巡礼地」「ミニチュア霊場」と呼ぶのに相応しい。 これら「写し巡礼地」は四国88所なら数か月かかる道のりを数日、一日、数時間、数分で経験できる装置なのである。 そしてこの「写し巡礼地」の多くは江戸後期から昭和初期に作られた比較的新しい「巡礼地」である。 ※「写し巡礼地」は様々な意味付けが可能であろう、本家であろうと「写し巡礼地」であろうと、そこを巡る人々には様々な訴えかけがあるだろう。いわば「心のいやし」のような作用もあるだろう。 ※この「写し巡礼地」は全国津々浦々にある、しかし残念ながら、現代においては「全国津々浦々」で忘れられた存在に化しているのも事実であろう。 ○「雑感」 ※上記記事に触発されて、以下、若干の「雑感」を掲載する。 全国各地の寺院・土地を巡っていると、全国ではおそらく数え切れない数の「写し巡礼地」あるように感じる。 その規模は記事のいうように、小さければ数十分、数時間、大きくても数日で廻れる規模であろうと思われる。 そして、全国各所・國ごと・郡ごと・村々・集落・寺院裏山・境内地内ごとに見られる「写し巡礼地」のその多くは「江戸後期から昭和初期に作られた」というのも、石仏や案内石碑に彫られた「年紀」などが雄弁に物語っていると実感する。 では、江戸後期から昭和初期に作られ、繁栄した背景は何なのだろうかと思案する。 江戸後期とは、一言で云えば、徳川幕府の統治する封建制が行き詰まり、商品経済もある程度発達し、被支配者層である農民・町民の経済的余裕が一定程度生まれ、知的レベルも上がり、被支配者層が物質的にも精神的にも自立し始めた時代であろう。 しかしながら、戦のない太平の時代にも拘わらず黒船や倒幕運動など世情の不安は増し、自立しつつあった被支配者層はどこに精神の安定を求めていったのであろうか。 それは倒幕運動や打ちこわしや一揆などの政治活動であったかもしれない。宗教や娯楽などであったかもしれない。 徳川の幕藩体制は瓦解し、明治維新が成就する。明治維新はある種の市民革命であったかのような評価もあるが、被支配者層が本当の意味で自立したとは到底云えないような「権力移動」でしかなかったのでないかと思う。 以上のような時代背景に内在する不安・葛藤の一つの「出口」して、数え切れない程の「写し巡礼(地)」を生み出したのでないかと思う。 もちろん、以上のような漠然とした時代背景だけでなく、パンデミックや飢饉や地震や噴火などの発生も、当時の科学的知見の限界から、当時の人々の救いの一つの形として「写し巡礼地」が流行した理由の一つであったと思う。 要するに、江戸後期には、被支配者層の人々には反逆するエネルギーが蓄積されつつあったのだろうと推察する。 その「地下水脈」としての反逆するエネルギー(マグマ)は、一つには「写し巡礼地」の開設に向かったのではないだろうか。 その暴発は例えば天保8年の大塩平八郎の乱や各所で頻発する「一揆」であったのかも知れない。 それだけではない。 「世直し」を唱えた「伊勢詣り」も民衆(被支配者層)を熱狂させた。 讃岐の金毘羅詣りも江戸後期には流行した。 金毘羅詣りについでに云えば、備前の瑜伽山(実態は蓮台寺という寺院)と讃岐の金毘羅さん(実態は松尾寺という寺院)の両詣りが基本とされ、片詣り(どちらか一方のみの参詣)は御利益がないとされた。(もちろん片詣りがNGとは、多分に寺院の経営戦略なのであろうが・・) 上方から陸路で由加山に詣り、多分下津井から多度津あたりに渡海し金毘羅へとは、伊勢詣りと同様娯楽の側面もあったであろう。自立しつつあった人々は娯楽も求めたのであろう。 信仰であろうとも娯楽であろうとも、寺社巡礼は徳川幕府という封建制の行き詰まり、つまりは被支配者層の自立という現象の当然の帰結であったということだろうと思う。 江戸では浅間信仰(富士山信仰)が流行し、各町にはミニチュア富士山が作られ、実際の富士山登山(信仰・信仰+娯楽・信仰にかこつけた娯楽)と合わせて、一般町民が参詣したという。 金光京・天理教・黒住教などのいわゆる教派神道(大本教も含む)がほぼ幕末に開教されたのも、教義に「世直し」があるといわれる点も、同じ現象ではないかと思う。 では、江戸後期から爆発的に流行した「写し巡礼地」・伊勢詣り・金毘羅詣り・富士浅間信仰・庚申さん・牛神(馬頭観音)・地神・牛頭天王さん・聖地や本山参拝・法華経信仰などを爆発させ、支えた経済的基盤は何だろうか。 それは「講」(伊勢講、金毘羅講、富士講、題目講、・・・や左記に付随した女人講・・・)という、信仰・相互扶助・娯楽などの目的で結成された被支配者層の人々による結社であろう。 幕藩体制という閉塞の中で、徐々に自立していった被支配者層は「講」を立ち上げてゆく。 幕藩体制という封建制の中での束縛からのすこしでも良いから、自由を求める方策であったのだろう。 人々は少しづつ資金を出しあい、積み立て、資金が溜まれば、代表者をたてて、西国33所や四国88所などの巡礼・富士や立山や白山や羽黒山などの各地の修験の山々の登山参拝・伊勢・金毘羅・本願寺・七面山などに代表者を送り出し参拝(代参)させた。残った者(講中)はお土産や御利益を楽しみに待ち、次の代参の順番を待つ。 今はすっかり廃れたが、ほぼ全国に見られる庚申さんについては、これは庚申(青面金剛)の信仰にかこつけて、60日ごとの庚申の日の夜、講中の人々が集い、徹夜で飲み食いする信仰(実態は娯楽の色が濃い)であったようです。 以上とは性格を異にするが、 市中で流行ったのは「頼母子講」で、これは信仰とは関係なく、蓄積した資金を融通する「互助会」組織(講)であった。 以上の様々な講が村中で、部落内で、組織され、こうした「講」が自立した被支配者層(庶民)の巡礼などの活動を支える経済的基盤であったと考えられる。 これらのことをもっと普遍化すれば、これらは何を意味するのか。 実は明治維新という政治革命を成就させたエネルギーと同じものと思う。 明治維新とは、抽象的にいえば、「写し巡礼地」の開創や伊勢詣りや金毘羅詣りなどと同じ、被支配者層に蓄積したマグマ(自立するエネルギー)の爆発といった見方も出来るのだろうと思う。 ◎具体的な「写し巡礼地」として<備中旧玉島市街地の「写し巡礼地」>を取り上げる。 参照を請う。 2007/11/03作成:2026/03/17更新:ホームページ、日本の塔婆 |