◆足摺岬:金剛福寺はこの足摺岬の付根に位置する。
◆土佐足摺岬1:上拡大図
◆土佐足摺岬2:上図拡大図
★足摺山(蹉跎山)古図;山号は蹉跎山(あしずりさんと訓む)と号する。
2013/08/15追加:
○「四国遍礼霊場記」(原本は元禄2年「内閣文庫本」寂本原著7巻7冊、東京国立博物館本/元禄2年刊の複製) より
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蹉跎山圖:左図拡大図
記事:・・・本堂の左には塔がある。本尊は大日如来で、清和天皇の追福菩提を祈るために多田満仲が造営したものと伝わる。堂の右の十三重石塔は前国主忠義公が建てたものである。その他、愛染堂、薬師堂、役行者堂が軒を接して建つ。鎮守の熊野権現、天神の社もある。堂の前には仁王門、鐘楼があり・・・・ |
2013/08/09追加:
○「四国遍路道中雑誌」松浦武四郎(「松浦武四郎紀行集. 中」1975 所収)
※「幕末の探検家松浦武四郎と一畳敷」よりでは、「四国遍路道中雑誌」弘化元年(1844)上梓、天保7年(1836)武四郎19歳の頃に四国を巡ると思われる。
◎足摺山全図
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足摺山全図:左図拡大図
記事:御橋渡て茶所、茶店。・・仁王門を入而鐘楼堂。・・池有「弁天社」上に「水鉢」并而「宝塔」等いずれも古きものなり。・・「蹉跎山金剛福寺」・・・・境内に「多宝塔」并而「愛染堂」次に「清水権現」向而「宝庫」并而「足推権現」并而「四社権現」其ほか末社多し。下に「大師堂」并而「護摩堂」等有。過ぎて本坊有。 |
本図には本堂横に多宝塔が描かれ、記事にも多宝塔の存在がある。
従って、少なくとも、天保7年までは、建立年代が何時かは不明ながら、多宝塔があったと知れる。
そして恐らくはこの多宝塔は明治維新前後に退転し、明治13年に現在の多宝塔が再建(あるいは大修理)されたのであろう。
★足摺山金剛福寺多宝塔
明治13年再建。一辺5m高さ17m。
本寺は源氏の信仰が篤く、多宝塔は源満仲が清和天皇の菩提のため寄進と伝える。またその子頼光は諸堂を整備すると云う。
足摺山多宝塔0:「日本の霊場」(別冊週刊読売)読売新聞社、昭和51年 より
※2014/11/25追加:
饅頭型は板張り、相輪は相当に痛んでいる様子である。この相輪は現在多宝塔脇に建立されている九輪宝塔であろう。
2012/05/01追加:絵葉書
足摺山多宝塔:高さ60尺(18.18m)とある。
撮影年代不明。
※2014/11/25追加:
相輪の様子は判然としない。饅頭型は板張りであるが、上重の円形椽・勾欄・椽下の組物も板張りされ、異様な軸部である。
上に掲載の足摺山多宝塔0あるいは下に掲載の昭和40年金剛福寺多宝塔のような椽・勾欄・椽下勾欄が写る写真との
撮影時期の前後関係は不明である。
2014/11/25追加:
○「日本の塔総観 中」中西亨:
「多宝塔は明治13年の再建というも、古い江戸期の部分を残すと推定される。」
※中西氏の見解は現存多宝塔は近世末期に荒れ果てるも退転した訳ではなく、明治13年には再建に近い大改修が行われたと推定するということであろう。それゆえ、部分的には「古塔」の部材などが残るという見解であるということであろう。
昭和40年金剛福寺多宝塔:昭和40年8月6日撮影
饅頭型は板張、なお足場が組まれるが、何の工事なのか、さらに工事開始なのか終了なのかは不明。あるいはこの工事は屋根の修理なのであろうか。
またこの写真には現在多宝塔脇に建立されている九輪宝塔は写らない。即ち写真に写る相輪は現在の多宝塔脇に建立されている九輪宝塔であろう。
○土佐清水市有形文化財「金剛福寺の多宝塔」のページ
以下のようにある。
「高さ19m14cm、塔間口3間4面、明治11年6月起工、仝13年11月上棟式落慶
大工棟梁:幡多郡清松村大浜住市 川安太郎。」
→この段は棟札かあるいは何らかの記録が残っているものと思われる。
「清和天皇御菩提のため源朝臣多田満仲当山に多宝塔を建立、後深草天皇の建長5年葵丑3月、阿闍梨慶全重ねて三重塔を営造建立、
貞亨三丙寅年9月18日、大守豊昌公当院宥岸時代において本堂併に多宝塔再興。」
→この段は「金剛福寺所蔵の縁起書」に記載される(土佐清水市教育委員会)という。
そして以下のようなことが知れる。
源多田満仲(長徳3年<997>逝去)多宝塔を建立。
建長5年(1253)阿闍梨慶全が(重ねて)三重塔を建立。
※慶全;南仏上人の別名とも云う。
重ねてとは多宝塔は退転したが、重ねて(再び)三重塔として再建という意味であろうか。
あるいは多宝塔に重ねて(多宝塔と重複して)建立という意味なのであろうか、この場合は多宝塔及び三重塔が並立することになる。
いずれにしろ中世には三重塔が建立されたものと思われる。
いつしか、三重塔・多宝塔は退転したのであろう、貞享3年(1686)に多宝塔・本堂が再建される。
以上を総合すれば、多宝塔は平安後期に多田満仲によって創建され、江戸前期貞享3年(1686)に再建される。
江戸期の境内古図に見える多宝塔は貞享3年(1686)再建された多宝塔であろう。
○2014/11/15撮影:
◆多宝塔内部構造及び本尊
金剛福寺多宝塔内部1 金剛福寺多宝塔内部2
※内部構造:内部には8本の柱が立ち、それを繋ぐ貫や壁は円形をなす。真言大塔形式の塔は別にして、平面3間の多宝塔では殆ど例を見ない構造であるという。
本尊は大日如来。
★九輪宝塔
多宝塔前に九輪宝塔がある。この九輪宝塔は応安8年(1375)銘といい、かっての層塔の相輪と云う。
以上の他には全く情報がなく、以下のように推測するしかない。
この相輪の形態は多宝塔のもので、恐らくは明治維新前後に退転したと思われる多宝塔のものと推定するのが妥当であろう。
この九輪宝塔に応安8年銘があるといい、明治維新前後に多宝塔が退転したとすれば、かつこの九輪が退転した塔のものとすれば、退転した塔は相当の古塔であったと推測される。
2014/11/25追加:
○「週間四国八十八ヶ所遍路の旅」講談社、2005.3 より
多宝塔は源頼光公と清和天皇の供養のために建立されたものだが、その後の台風や潮害のため破損し、平成の大修理で現在地に移築された。
○現地説明板:
次のよういう。
「應安8年銘の九輪宝塔は毎年のように襲う台風、潮害の為破損甚だしく平成大修理にあたりこの地に建立せるものなり。」
○平成7年修理札
金剛福寺多宝塔内部3:
修理札は多宝塔内部に置かれる。(写真右端は修理札拡大写真)
修理札には「奉建立多宝塔屋根大修理・・・ 平成7年・・・」とある。
※上に掲載のやや古い写真や「平成の大修理で現在地へ九輪宝塔が建立されて云々」の記事や多宝塔内部にある平成7年年紀の修理札などから、平成の大修理とは平成7年の屋根大修理のことであり、この修理の時に破損した相輪を下ろし、現地に九輪宝塔として再建したものと推測が可能である。
○2014/11/15撮影:
★金剛福寺現況
2014/11/15撮影:
鎌倉後期(建長から弘安期)南仏上人法門を振興し伽藍悉く旧に復せり。これを中興開山と称せり。後年上人は中村香山寺に住する。
※なお阿闍梨慶全は南仏上人の別名ともいう。
※中村香山寺は塔婆参考中の「旧中村市香山寺公園
」の項を参照。
三重塔展望台
山内氏入国により寺領100石を寄付せられ、寛文4年寺堂を再興す。
明治維新後寺道一時大いに頽廃す。
○「南路志 第89」では以下の堂塔の整備が記録される。
本堂、多宝塔、愛染堂、薬師堂、行者堂、弁財天、夷堂、鐘楼堂、仁王門、荒神堂、法納所、閼伽井、大師堂、護摩堂、持仏堂、宝蔵、庫裡、御成門、大門、その他小詞など
○寛永2年「奉加一書」では
脇寺9ヶ寺:賀法坊(無住)、泉蔵坊(無住)、上林坊/十輪坊(退転)、蜜蔵坊、隆蔵坊(蜜蔵坊兼帯)、西之坊(無住)、蓮華院(蜜蔵坊兼帯)、岩本坊
金剛福寺仁王門1 金剛福寺仁王門2 金剛福寺本堂1 金剛福寺本堂2
金剛福寺弁財天 金剛福寺愛染堂
大師堂権現堂行者堂 金剛福寺行者堂 鎮守権現堂 金剛福寺大師堂
金剛福寺鐘楼 金剛福寺護摩堂 金剛福寺客殿庫裏1 金剛福寺客殿庫裏2
和泉式部逆修塔:宝篋印塔;和泉式部の頭髪を納めたと伝える。高さ165cmで鎌倉期という。
銅製宝塔が近年建立される。
金剛福寺銅製宝塔:平成26年建立、高さは1m内外であろう。
2013/08/09作成:2014/11/25更新:ホームページ、日本の塔婆
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