伊 賀 ・ 大 和 の 日 蓮 宗 諸 寺

伊賀・大和の日蓮宗諸寺

伊賀の諸寺

伊賀上野法運寺(小田法運結社):伊賀市小田町

小田法運結社とも称する。(結社と山号寺号との関係は良く分からない。)
妙啓山と号する。本寺は不明。
この地は明治の神仏分離の処置で廃寺となった平井天神宮別当浄瑠璃寺の跡という。
法運寺も他所からこの地に移転ともいうも、不詳。
伊賀上野開化寺の西隣に位置する。
 →伊賀浄瑠璃寺/伊賀開化寺/長谷川邸三重塔
2024/05/24追加:
◎「開化寺誌」に以下の史料が所収されている。
○「伊水温故」菊岡如玄・編、貞享4年(1687) では
   妙啓山法運寺   西小田村平井ノ北
 法華宗 院号ハ圓珠院  上埜上行寺ノ下    とある。
                  ※上埜上行寺ノ下とは上野上行寺(↓)末という意であろう。
○「宗國史」藤堂高文・編、寛延4年(1751) では
 東小田村  77戸 353口
 西小田村 203戸 899口  東西小田村を合わせて祠:鎮守三座 牛頭
                           寺:称念寺 福寿院 蔵坊 浄瑠璃寺 法運寺    とある。
○「三国地誌」藤堂元甫・編、宝暦13年(1762) では
 法運寺 妙啓山圓珠院      とのみある。
以上であるが
江戸初期から中期にかけて、小田村に法華宗妙啓山法運寺の存在は確認できるが、開創の時・開山・開基などは一切分からない。
  -----------------
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 及び ○「日蓮宗大図鑑」昭和62年 の両著とも「法運寺」「小田法運結社」の記載はなし。
但し、
○サイト:日蓮宗>寺院巡り>日蓮宗全寺院マップ では
 小田法運結社 〒518-0825 三重県伊賀市小田町1094
とあり、これは現在”法運寺”のある場所である。 この事から、法運寺は寺号を失い、小田法運結社という名称で日蓮宗一致派の結社として存続していると推定される。
○法運寺の情報はほぼないが、辛うじて、次の記事がある。
ブログ:入交家について(2014年)
 ※入交家は伊賀市上野相生町に武家屋敷として現存する。
 慶長5年(1600)関ヶ原合戦破れた長曾我部家の旧臣の入交家3兄弟(惣右衛門、太郎右衛門、助左衛門)藤堂高虎に召し抱えられる。
その後3兄弟は、それぞれに居宅が与えられ、寛永7年の記録では、惣右衛門は200石、残り二人は160石とある。
3兄弟の内、太郎右衛門の3代目重兵衛重克の弟勘平成富は、重克の養子となるも、宝永年中に藩主高睦の命によって、勘平成富は別家(入交勘平家)する。
当初、入交勘平家の屋敷は、四ツ辻の北東(上野忍町)に構えるも、寛永年間に三之町辻(現在地)へ移る。この地は、商人の町と武士の町の境界線にあたる地域である。
入交勘平家菩提寺は、小田町平井の日蓮宗法運寺であったが、近年、本寺の上行寺(寺町)に移る。
 ※上記の意は、入交勘平家は小田町平井日蓮宗法運寺檀家であったが近年寺町上行寺に菩提寺を変更した、という意であろう。
2000/05/13撮影:
 法運寺本堂
2002/10/13撮影:
写真の向かって左が法運寺、墓地を挟み右は開化寺(三重塔がある)。
現在の法運寺の位置に浄瑠璃寺があったという。
 法運寺全景

伊賀上野上行寺

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
長榮山と号す。四条妙顕寺末、勇師法縁。
開山安立院日秀、開基檀越藤堂高虎。
天正16年(1588)紀伊粉河に創立。開基檀越の移封とともに天正19年今治に移り、元和3年(1617)現在地に移転する。
以降藤堂家の菩提寺となり、寺領100石を寄せられる。
○越前府中妙国寺<越前府中の諸寺中>の寺歴 より
越前府中妙国寺開山である日東は、文明3年(1471)行化の旅に出、伊賀上野に上行寺を建立、丹波にて遷化 という。
しかし、上記の上野上行寺の寺歴と照らして全く時代が合わず、日東が伊賀上野に上行寺を建立という事績は不明である。
20234/05/24追加:
末寺に
●小田村の妙啓山法雲寺(↑)があったと思われる。


大和の諸寺

2017/09/07追加:
明治六年中「大和国各郡寺院調表ノ件」:奈良県庁文書・庶務課 より(この項現在作成中)

 明治6年奈良町寺院調表・日蓮宗:明治6年の寺院調表中にある奈良町の法華宗寺院部分である。
奈良奥子守町 清心庵、    奈良北向町  常徳寺、    奈良奥子守町 妙法寺、    奈良上清水町 頭塔寺、    奈良小川町  啓運寺
奈良油阪町  蓮長寺、    奈良奥子守町 妙栄寺、    奈良林小路町 妙善寺、    奈良西在家町 本照寺、    奈良下三条町 本妙寺
の10ヶ寺が調査・書上げられる。
 以上を、整理すると次の通りである。
10ヶ寺の内廃寺と推測されるのは、上清水町頭塔寺、西在家町本照寺、林小路町妙善寺、奥子守町清心庵・妙法寺・妙栄寺の6ヶ寺である。

町名 寺号 明治6年調表の本末・無住区分 現  状
上清水町 頭塔寺 常徳寺末 無住 廃寺
西在家町 本照寺 京都本能寺・尼崎本興寺両末寺 無住 西在家町の町自体の所在が不明、西新在家町は存在するも、当該町には現存せず。明治6年以降消息不明、廃寺か。
油阪町 蓮長寺 六条本圀寺末
現存
林小路町 妙善寺 四条妙顕寺末 無住 林小路町には現存せず。明治26年肥前彼杵郡功徳山妙善寺に寺号を移すという。実質は廃寺。
明治20年頃までは、無住であるが、林小路町に存在したことが諸記録により、知れる。
北向町 常徳寺 京都頂妙寺末
現存
下三条町 本妙寺 京都本能寺・尼崎本興寺両末寺
現存する。戦前は法華宗本門流(八品派)に属するも、現在は本門佛立宗に属する。
小川町 啓運寺 京都妙覚寺末 無住 現存
奥子守町 清心庵 四条妙顕寺末 無住 奥子守町に現存せず、明治6年以降消息不明、廃寺か。
奥子守町 妙法寺 四条妙顕寺末
奥子守町には現存せず。明治20年頃までの記録には残るが、その後まもなく、廃寺か。
奥子守町 妙栄寺 京都妙覚寺末 無住 奥子守町には現存せず。明治20年頃までの記録には残るが、その後まもなく、廃寺か。あるいは、明治10年の文書に廃寺に伴う処分の起案書が残るので、その頃廃寺か。

2017/09/09追加:
■古地図には以下のものがある。
○奈良明細全圖 : 完
 奈良明細全圖 : 完:部分図、明治23年発行、本図には林小路町妙善寺・奥子守町妙法寺の記載がある。
○實地踏測 奈良市街全図
 實地踏測 奈良市街全図:部分図、大正6年印刷、大正7年発行、本図には奥子守町妙法寺の記載があるので、大正期まで妙法寺は存続したものと推定される。一方妙善寺の記載はないので、この頃までには退転したのかも知れない。
○奈良名勝案内圖
 奈良名勝案内圖:昭和16年印刷・発行、本図に妙法寺は記載されるので、戦前まで存続したものと推定される。

2017/09/09追加:
■公文書関係に以下のものがある。
○明治10年(1877)「省寮進達書類 庶務課」奈良県庁文書
「奈良奥子守町日蓮宗妙栄寺ノ廃寺ニ伴フ跡地及建物ノ処分方ノ内務省ヘノ伺ニ付起案」
○明治11年(1878)「添上郡 社寺境内外区別下調帳」庶務課地理掛、奈良県庁文書
「奥子守町妙法寺境内反別取調書」
「奥子守町妙栄寺境内反別取調書」
「林小路町妙善寺境内反別取調書」
が存在する。妙栄寺は
○明治14年(1881)「社寺境内外区画取調書 添上郡」奈良県庁文書
「奥子守町妙法寺除地区画明細書」
「奥子守町妙栄寺除地区画取調書」
「下三条町本妙寺旧除地区画取調書」
「林小路町妙善寺除地区画取調書」
○明治20年(1887)「社寺宝物古文書目録 添上郡」奈良県庁文書
「添上郡奈良下三条町本妙寺」
「添上郡奈良林小路町妙善寺」
「添上郡奈良奥子守町妙栄寺」
「添上郡奈良奥子守町妙法寺」
以上の古文書の残存状態から、明治10年頃妙栄寺は廃寺となったと推定される。しかし、廃寺となるも、建物・什宝などは依然として、存在していたものと推定される。
明治26年に寺号を移したという妙善寺、現在消息が不明である妙法寺も存続していたものと推定される。
しかし、本照寺・清心庵は記録がなく、明治6年以降廃寺退転していたものと推定される。
○昭和17年(1943)起「寺院登記嘱託一件書綴込 聖地顕揚課」良県庁文書:寺院の登記嘱託書類綴
には、奥子守町妙法寺の登記嘱託書類が存在し、妙法寺は昭和17までは存続していたものと推定される。

大和奈良高畑感徳寺

2016/09/15撮影:
妙教山と号する。本寺は不明。
白石行者祈祷根本道場と称するも白石行者とは不明。
門内に題目碑が1基あるが、為/大善院日正霊位とあり、明治44年2月16日・・の年紀を刻むので、おそらく明治44年寂した大善院日正上人が開基であろう。
 高畑感徳寺山門     山内題目碑     感徳寺本堂/庫裡     高畑感徳寺全容
2016/09/25追加:
〇KG氏情報:
明治14年4月24日創立、創立者は「白石行者」こと辻村長次郎である。遺憾ながら、創立当時の呼称は不明である。
 ※寡聞にして、「白石行者」(辻村長次郎)の具体的事績は不明。
二世日法代に蓮長寺布教所妙法感徳結社となる。
三世辻村行勝代に感徳教会、そして同じく三世代の昭和49年年10月24日に妙教山感徳寺と寺号公称する。
従って、奈良油坂蓮長寺の末寺(旧末寺)ということになる。
2017/09/07追加:
「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
辻村長次郎(3世に祖父、大善院殿一乗感徳日正)が一念発起唱題により妻の蘇生を得、山辺郡白石を中心に布教、白石行者の呼称を得る。
創建はその蘇生の日、明治14年とする。

大和奈良頭塔寺:廃寺

山号は不詳、大和奈良常徳寺末。(常徳寺は下の項にあり。)
奈良常徳寺住職談:
 「頭塔寺もかっては末寺であった。今は廃寺である。頭塔寺廃寺にあたり、什宝は当寺に遷すが、頭塔には今に墓を2基残す。何とかしたいが、常徳寺も衰微し、如何ともし難い状況である。」
○「史跡頭塔発掘調査報告」
頭塔寺については殆ど情報がないが、「史跡頭塔発掘調査報告」奈良国立文化財研究所、2001 では近世の頭塔の様子として付随的にかなり詳細に述べられる。よって、本書を要約する。
 中世の頭塔は興福寺大乗院領となり、18世紀初頭の時点では、 興福寺賢聖院の管理下にあった。
  (なお、興福寺賢聖院は菩提院大御堂の南側に立地する。)
と ころが、享保15年(1730)頭塔は奥福寺賢聖院から日蓮宗常徳寺に譲渡され、頭塔は「頭塔寺」と称され常徳寺末寺となり、明治維新まで存続する。しかし、明治初頭の廃仏の時代の流れ、あるいは明治維新の上地令で、頭塔は国有地となるといった変革で、頭塔寺は廃寺となる。その後、大正11年(1922)頭塔は史跡指定され、以降奈良県の管理となる。

頭塔上層塔身の西南隅部は、築土を削って造成した平坦面が、近代に盛土をして斜面を形成したとはいえ、現在も残る。近世、この平坦面には小宇があり、この小宇は明治初頭にいつしか撤去されたのであるが、この小宇こそが、頭塔寺の堂舎であったのであろうか。
「奈良坊目拙解 巻7」享保20年(1735)では「頭塔今在艸室一宇于坂ノ上。興福寺賢聖院支配地也云々」とりあり、艸室とは西南隅部にあったという小宇のことであろう。
 頭塔の東南部の平坦面の南端近く、 古くからの見学者用通路の北側で江戸時代の墓を検出する。
現在、頭塔南面には7基の五輪塔が立つが、その地輪に記された銘文によれば、そのうちの3基は、欠名(没年も欠失)、英誠(享保7年/1722没)、秀英(元文元年/1736没)という三人の賢聖院僧の墓塔である。
繰り返すが、享保15年(1730)に頭塔は賢聖院(当時の院主は秀英)から日蓮宗常徳寺に譲渡され、その末寺となる。そして頭塔寺と称され、このときの常徳寺僧日実が開基となるという。
この日実の墓石が頭塔南面に残る。また、第277次調査出土の石碑は、「南無妙法蓮華経」とみられる刻銘からすれば、日蓮宗常徳寺に関わるものと推定される。
 頭塔古図: 本図について、「史跡頭塔発掘調査報告」は「頭塔山ノ石仏」佐藤小吉(「奈良県史蹟勝地調査会報告書』第3回、1916 所収)より転載といい、向かって左は江戸期の繪圖(「高畑村之内/頭塔山之圖」)、右は明治13年(「頭塔山平面圖」)と解説する。
江戸期の古図には「奈良坊目拙解 巻7」でいう艸堂は見当たらないが、明治13年の図には艸堂は描かれる。
また両図とも東から日実墓と7個の五輪塔が描かれる。さらに江戸期の古図には東南に門と思われる建物が描かれる。
しかし、以上の2古図だけでは頭塔寺の実体は良く分からない。本堂とか庫裡とかの建物は無かったのであろうかそれとも艸堂が本堂兼庫裡だったのであろうか。
 石碑石塔類位置図
  2017/09/09追加:
  ○「頭塔寺取調書」奈良県立図書情報館蔵 (藤田文庫文献資料) より
  作成:大正8年(1919)10月、宮内省(作成・差出人)
   頭塔寺取調書繪圖:上に掲載の「史跡頭塔発掘調査報告」の頭塔山之圖の原本と思われる。
  上記以上のことは分からない。
  写真に写る付箋には「此ノ五輪塔数基ハ興福寺塔中賢聖院僧侶ノ石塔ニシテ男爵今園(國映)ハコノ後裔」とある。
2017/08/20追加:
○「頭塔山ノ石仏」佐藤小吉 (「奈良県史蹟勝地調査会報告書』第3回、大正5年/1916 所収) より
上に掲載の頭塔古図(「高畑村之内/頭塔山之圖」と「頭塔山平面圖」の2表)の掲載がある。
この圖中の「高畑村之内/頭塔山之圖」には五輪塔が頂に描かれ、「この五輪塔は即ち玄ムの頭塔なるへきも、徳川時代の建立なるへきは、其側の石標に」次の文字あるにより明らかなり」という。
 (表)南無妙法蓮華経 賜紫僧正玄ム御頭塔
 (裏)皇帝天長武将地久経王廣布萬民快楽/感得開基日實聖誌
 (右)自天平十八丙戌至寛保三癸亥一千歳建吊之也
 (左)従賢聖院主法眼秀英学士永代于常徳寺譲賜也
  ※この石標は現在は艸堂跡付近に移建されている。下の掲載の「◇玄ム千歳記念石碑」の項を参照。
即ち寛保3年に、ここに頭塔寺を建設し、常徳寺末寺と定められしことは、以上の碑文(玄ム千歳記念石碑)
及び頭塔寺開基日實聖人の碑文<石碑石塔類位置図中の(2)南面東より二つ目の墓石(日實墓石)の碑文>にて明らかである。
 ・・・・・・・
「因みに云ふ、南方丁の下に、今五輪塔数基ありて、興福寺塔中賢聖院僧侶の石塔たり、賢聖院の後は、即今の男爵今園家にして東京府に貫す。寛保3年までは、此の地賢聖院の支配なりしを同年之を常徳寺に譲与せし結果、僧日實茲に頭塔寺を建て、常徳寺の末寺と定めきたりしを、維新の際公収め、官有となり、賢聖院の墓地のみ今国家の所有として残されるなるべし。
古図は明治13年1月当時戸長の取調書なり。」
 参考:賢聖院は菩提院大御堂の南に位置していた。→春日興福寺境内図/興福寺部分図、賢聖院については興福寺中にあり。
2015/12/25追加:
○「奈良公園史, [本編]」奈良公園史編集委員会、1982/3 より
 奈良町繪圖・部分図
奈良町繪圖は天理図書館蔵、「奈良公園史 本編」に掲載される図は興福寺及び東大寺を中心とした部分図である。
向かって左上端は眉間寺(多宝塔あり)、左中央付近は興福寺堂塔・北に一乗院門跡・南に大乗院門跡・周囲には子院群が囲み、一乗院門跡東に勧学院(多宝塔あり)があり、左下に元興寺(五重塔あり、極楽院・小塔院)がある。さらに元興寺東方・中央下に頭塔寺が描かれる。
図中央上部は東大寺伽藍及び周囲には子院が配置、東大寺南大門の南東に四恩院がある。
〇2016/09/15撮影:
頭塔南面は頭塔の整備対象外で、今も多くの墓碑類などが残る。多くは興福寺賢聖院関係の墓碑で、その他日蓮宗頭塔寺住僧の墓碑(2基)、題目碑などが残る。年紀は慶長年中から慶応年中迄あり、江戸期をカバーする年数のものである。これらの碑の銘文を総合すれば、頭塔は興福寺寺中賢聖院の支配下にあったが、寛保年中 に日蓮宗常徳寺に譲渡され、常徳寺末頭塔寺と称するようになることが分かる。頭塔寺開基は常徳寺日實上人とする。
 史蹟頭塔石碑:南面の石階を上がった小平坦地にある。大正11年(1922)史蹟に指定される旨を刻する。
 背後には興福寺賢聖院僧侶墓である五輪塔群が写る。
 南面墓碑列:向かって右より、頭塔寺開基日實上人墓碑、大型五輪塔:寛永3年銘/盛兼学乗房墓碑、小型五輪塔:慶長15年銘/光誉宗古墓碑、小型五輪塔:慶長14年銘/妙薫禅定尼墓碑、大型五輪塔:<判読できず>墓碑、大型五輪塔:賢聖院住/享保7年銘/英誠学円房墓碑、大型五輪塔:賢聖院/正面は判読できず/慶■年紀、さらにこの左に 、写真には写らないが、大型五輪塔が1基あり、これは元文元年銘/秀英学真房の墓碑である。
◇日實上人墓碑
 日實上人墓碑正面:当山開基弘法院日實上人
 日實上人墓碑左面:頭塔寺者法華霊場常徳寺末寺定置也/寛保三癸亥蔵八月十八日行年七十二歳寂
 日實上人墓碑右面:宝永七庚寅年二月十四日/慈父 一公院元真日隆居士/慈母 清涼院妙瑛日生信女/延宝六年牛年六月十四日
 なお、背面は「菊池肥後守隆恭裔隆真也、宣説三千座、護国寺玄講、於当所宗祖之旧跡、常徳寺鐘鋳鐘楼堂建立、加庫裡修復也、賜紫玄ム頭塔寺感得元文五申 秋移、摂州久々知村広済寺而庫裡再建印之 」と刻す。
 日耀上人墓碑正面:體妙院日耀聖人日耀上人墓碑左面:明和六年・・・/法性山常徳寺十(?)四世、右面の解読は未済
 賢聖院住持秀英墓碑:興福寺僧秀英は頭塔を常徳寺に譲渡したときの住僧である。
◇石段下題目碑
 石段下題目碑正面:頭塔寺永 于常徳寺感得主日實也/南無妙法蓮華経日蓮大士隆真(台石正面)日實/京頂妙寺遂聖為開会祖焉弘法院
 石段下題目碑左面     石段下題目碑右面
◇艸堂跡
 艸堂跡/玄ム千歳記念石碑:頭塔の西南隅で、艸堂と称する小宇があった平坦地と思われる。
 但し、近代に土盛がなされ、平坦地の面影は失われているという。ここに「玄ム1000年記念碑」が建つが、
 この碑は大正年中までは頂上の五輪塔の脇にあったというので、大正年中に現在地に移設されたのであろう。
◇玄ム千歳記念石碑
 玄ム千歳記念石碑正面:南無妙法蓮華経 賜紫僧正玄ム御頭塔
 玄ム千歳記念石碑左面:自天平十八丙戌至寛保三癸亥一千歳建吊之也
 玄ム千歳記念石碑右面:従賢聖院主法眼秀英学士永代于常徳寺譲賜也
 なお背面には「・・・・感得開基/日實聖誌」とあるという。
※墓碑などの銘文については、上に掲載「石碑石塔類位置図」に記載があるので参照を願う。
2017/02/10追加:
上記の石碑類の意味するところであるが、
 玄ム千歳記念石碑:
正面には題目が刻まれ、それ故日蓮宗にて建立した石碑であり、
寛保3年(1743)に玄ム千歳記念石碑を建立、玄ムの頭塔は賢聖院法眼秀英が永代にわたり常徳寺に譲賜したことが分かる。
 日實上人墓碑:
正面には頭塔寺開基は弘法院日實上人であると刻み、その頭塔寺は常徳寺末寺と定められ、日實上人は環保3年72歳で寂したことが分かる。さらに背面の銘文で日實上人は菊池氏の末裔で、 三千座を宣説し、護国寺(山科檀林)玄講であり(?)、当所の於いて宗祖の旧跡である常徳寺梵鐘を鋳て、鐘楼堂建立し、庫裡を修復する。元文5年(1740)申、摂津久々知村広済寺庫裡を再建する。
 石段下題目碑:
この石碑については正確に意味が把握できず、後日を期す。
※隆真は弘法院日真の俗名。(「菊池肥後守隆恭裔隆真也」)
※「京頂妙寺云々」:
頭塔寺の本寺である常徳寺の創建は、常徳寺の項で述べたように、暦応3年(1340)中山第三祖浄行院日祐上人が四度目の上洛の時、南都に下向し東大寺の寺中であった法性房を常徳寺と命名し開山したことによる。
さらに、中山法華経寺は、文禄3年(1594)堺妙国寺日bが中山法華経寺住持を兼帯、以降京頂妙寺・京本法寺・堺妙国寺の輪番制となる。
おそらく、以上のような経緯で常徳寺は京頂妙寺末であるのであろう。
※享保15年庚戌(1730)6月より、賢聖院譲賜訖(おわんぬ):享保15年興福寺寺中賢聖院、頭塔譲渡する。
 20番石碑(上に掲載「石碑石塔類位置図」中にあり):
正面には題目を刻むので、題目碑であろう。左右の刻銘から、この題目碑は玄ムの旧跡にある頭塔寺の題目碑であり、頭塔寺に三十番神を祀る堂宇があったかどうかは不明であるが、三十番神が鎮座していたようである。
2017/09/09追加:
○「頭塔寺境内地取開届(本寺常徳寺による)」:「明治二年中 寺院及人民願伺届之件 社寺之部」庶務課、明治2年 より
明治2年には無住、常徳寺が兼帯、頭塔寺境内の表西側が住居として貸出される様子が分かる。

    乍恐御届奉申上候

 一當寺末寺上清水町頭塔寺境内表手

 通り之内西手ニ空地之有候処東西四間南北

 三間半右間数之通橋本町但馬屋清八ニ

 貸渡同人ヨリ仮ニ家建いたし住居仕候ニ

 就而者山手之所少々相開キ候儀も御座候間

 此段御届奉申上候

 右之趣御聞届被成下候ハバ難有奉存候以上

      北向町法花宗常徳寺末寺
           上清水町法花宗頭塔寺
             無住ニ付兼帯本寺
                 北向町
                 常徳寺[黒印]
   明治二巳年十一月三日

 奈良縣
  御役所様

なお、上記の翻刻については、京都市歴史資料館のご教示を得て、作成したものである。
 頭塔寺境内地取開届:上図拡大図
この「届」には社寺懸りの11月17日付の附箋が付き、大意「差支無之様、申知候ニ付御聞届可申渡候哉」とあり、裁可された模様である。

大和奈良西在家町本照寺

2017/09/07追加:
明治六年中「大和国各郡寺院調表」(明治6年奈良町寺院調表・日蓮宗)では京都本能寺・尼崎本興寺両末寺、無住とある。
 ※西在家町の町自体の所在が不明、西新在家町は存在するも、当該町には現存せず。廃寺か。
 ※明治6年以降の記録は皆無。

大和奈良油阪町蓮長寺

○草創は奈良末期で、東大寺勤操の建立した千ヶ寺の一つ喜見城院であったと伝える。
日蓮上人は嘉禎3年(1237)得度、是聖房蓮長と名乗る。仁治3年(1242)叡山に登る。
寛元4年(1246)三井及び南都研学、泉涌寺にて道隆に謁す。
宝治元年(1247)南都薬師寺に一切経を閲す。
宝治2年(1248)南都の諸山に歴参、紀州高野ならびに東寺・仁和寺に研学。
宝治3年(1249)叡山に帰り定光院に住す。
(※蓮長寺略歴では以下のように云う。
寛元4年(1246)から宝治元年(1247)南都六宗研鑽の為奈良に来りて、元輿寺(倶舎宗)、東大寺(華厳宗)、興福寺(法相宗)、法隆寺(三論宗)、唐招提寺・西大寺(律宗)を研鑽攻学、薬師寺経蔵で一切経を閲読すると伝える。
この間、喜見城院を拠点とする。)
 →しかし、以上の具体論の当否は留保せざるをえない。
例えば「日蓮」田村芳朗、昭和50年では「叡山留学中・・・の事跡・・・については、後世の伝記では、色々紹介しているが、確かな日蓮遺文を通して見る限り、詳しいことは不明といわざるをえない。」と云う。
ま た「日蓮宗の歴史」中尾尭、昭和55年では「(南都北嶺で)どういう遊学を経験したかということは別に確証はない」が、遊学中に書いたとされる断章が幾つ か残り、これ等と日蓮の思想とを照らしあわせると、叡山・京都奈良の諸大寺を廻り、「高野山に足を伸ばしたものと考えられる。」と云う。
○改宗:応仁2年(1468)住持即俊、宗祖の霊夢を見て日蓮宗に改宗、寺号を喜見院と改め、六条本国寺11世大聖院日尭を開山とし、自らは第2世と称する。
戦国期に火災焼失、退廃す。
○中興開山:寛永期、六条本国寺喜見院日便中興開山する。承応2年(1653)本堂・庫裡・山門等を再建、寺号光映山蓮長寺と改め、六条本国寺末頭となる。
 →六条本国寺喜見院日便上人は山城大住法華寺開山である。
なお、本堂は寛文5年(1669)大和郡山城主豊臣秀長建立の「真言宗西岸寺」本堂を移築したと伝える。
 ※承応2年(1653)本堂再建との関係は良く分からない。
 (本堂/入母屋造本瓦葺/昭和62年重文指定)
享保11年鐘楼、寛政3年妙見堂、昭和六年客殿「法悦荘」建立、昭和54年に山門再建。
平成元年妙見堂再建、番神堂を復元、平成2年書見院日便建立書院「要法庵」再興、平成10年鐘楼再建。
 (再建妙見堂は鵠工舎設計施工、棟梁は西岡常一・小川三夫と云う。)
2018/07/12追加:
○明治14年「添上郡社寺境内外区画取調書」 より
 油坂町蓮長寺:現境内1反9畝67歩<587坪>官有地、外5反7歩<1507坪>(油坂村畑宅地、藪、池、■)民有地、住職獅子原霊應、南道路から北に13間半(25m)の参道が続き、参道正面に表門、東に鐘楼がある。境内ほぼ中央に本堂が南面して建ち、東に庫裡があり、更に東に蔵がある。本堂西には南から東向きに三光堂、番神堂、妙見堂、籠堂が立ち並ぶ。墓地は北西にある。
 明治14年蓮長寺境内図
○明治20年「社寺宝物古文書目録 添上郡」 より
 油阪町蓮長寺:上申書(今般寺院宝物古器物古文書等取調書差し出すべく旨御達相成り候所、当寺に於いては宝物古器物古文書等これ無く候条、この段上申仕り候也」)
住職獅子原霊應
2013/02/21撮影:
 大和蓮長寺山門
 大和蓮長寺本堂1     大和蓮長寺本堂2     大和蓮長寺本堂3     大和蓮長寺本堂4
 大和蓮長寺本堂5     大和蓮長寺本堂6     大和蓮長寺本堂7
 蓮長寺番神堂・妙見堂    大和蓮長寺番神堂    大和蓮長寺妙見堂    大和蓮長寺鐘楼
2015/11/21撮影:
 門前石碑     蓮長寺山門2
 蓮長寺本堂11     蓮長寺本堂12     蓮長寺本堂13     蓮長寺本堂14
 蓮長寺本堂15     蓮長寺本堂16     蓮長寺本堂17
 蓮長寺鐘楼2      蓮長寺妙見堂2     蓮長寺番神堂2     蓮長寺庫裡
 蓮長寺客殿       蓮長寺客殿庭園     蓮長寺茶室       蓮長寺書院
2016/09/25:KG氏情報:
本末関係では、高畑感徳寺(当時は蓮長寺布教所妙法感徳結社などと称する)が末寺である。

大和奈良林小路町妙善寺

2017/09/07追加:
明治六年中「大和国各郡寺院調表」(明治6年奈良町寺院調表・日蓮宗)では四条妙顕寺末寺、無住とある。
林小路町には現存せず。明治26年肥前彼杵郡功徳山妙善寺<肥前の日蓮宗諸寺中>に寺号を移すという。実質は廃寺。
2018/07/12追加:
○明治10年「添上郡社寺境内外区別下調帳」 より
 林小路町妙善寺:68坪
○明治14年「添上郡社寺境内外区画取調書」 より
 林小路町妙善寺:境内2畝8歩除地(68坪)、外に1畝18歩民有地(48坪)、無住に付き兼務・蓮長寺住職獅子原霊應、北道路に接して表門があり、西側に一棟の仮本堂及び居宅(南北の敷地一杯に建つ)があり、南東に墓地がある。境外の東西及び南は宅地である。
○明治20年「社寺宝物古文書目録 添上郡」 より
 林小路町妙善寺:上申書(今般寺院宝物古器物古文書等取調書差し出すべく旨御達相成り候所、当寺に於いては宝物古器物古文書等これ無く候条、この段上申仕り候也」)
兼住職獅子原霊應
 ※以上の記録のように、明治20年頃までは、無住であるが、林小路町に存在したことが知れる。

大和奈良北向町常徳寺

法性山と号する。京都頂妙寺末。
常徳寺の前身は東大寺塔中の1つである法性房で、東大寺別当の隠居寺であったという。
さらに法性房は日蓮上人が奈良遊学の折には起居したとも伝える。
暦応3年(1340)中山第三祖浄行院日祐上人が四度目の上洛の時、南都に下向し法性房を常徳寺と命名し開山する。
開基檀越は宇陀松山城主宇都宮貞綱である。
これが日蓮宗常徳寺の創建である。
このことは、本堂正面の扁額には康安元年(1361)の年紀が刻銘され、当時の常徳寺の存在が裏付けられる。
第二祖は中山日祐上人の随身として従った日胤上人であり、第三祖は日叡上人(大塔宮護良親王第二子)と云う。
慶長4年(1599)現在地に移転し、本堂はこの時のものであるという。
あるいは、貞享3年(1686)建立<棟札銘>ともいう。
あるいは、住職談では現本堂は東大寺戒壇院の戒壇を移築したものであるといい、確かにそのような雰囲気の建築ではあるが真偽はどうなのであろうか。
その他、山門、鐘楼(梵鐘はない)、妙見堂、庫裡などを有する。
そのうちの妙見堂妙見大菩薩は朝日妙見大菩薩といい、享保年中柳生藩家老小山田主鈴が奉納すると伝える。また妙見堂には七面大明神像、鬼子母神像を安置する。
◇江戸期には4末寺を有するという。現在は2寺のみ現存。
長久山妙福寺:大宇陀町:現存:近世には宇陀水分社の神宮寺という。常徳寺10世日琢の開山。
寂而山常照寺:壺阪山:現存、同じく常徳寺10世日琢の開山。
頭塔寺:廃寺:奈良頭塔の南麓にあり、近世には本堂もあり、現在は歴代の二基の墓碑などが現存するという。 →頭塔寺は上に掲載。
2017/09/07追加:
明治六年中「大和国各郡寺院調表」(明治6年奈良町寺院調表・日蓮宗)では京都頂妙寺末寺とある。
2018/07/12追加:
○明治10年「添上郡社寺境内外区別下調帳」 より
 北向町常徳寺:境内183坪・墓地62坪
○明治20年「社寺宝物古文書目録 添上郡」 より
 北向町常徳寺:住職寛紀慈正
當山開闢元意書:二祖日胤上人撰及執筆康安元年(1361)十月
縁起書:日通上人撰 執筆不詳正徳三癸巳(1713)
過去帳:日實上人撰及執筆延享元年(1744)
頭塔寺縁起書:日實上人撰及執筆享保17年(1732)
木像:一体 日蓮上人自作の尊像 高さ1尺5寸
木像:毘沙門天 一体 伝教大師作 高さ1尺
棟札:一枚 日因上人古堂修覆の際執筆貞享三丙寅(1686)
2015/11/21撮影:
 常徳寺全容:中央は鐘楼    常徳寺山門     門前題目碑     常徳寺本堂1     常徳寺本堂2     常徳寺本堂扁額
 本堂前題目碑1     本堂前題目碑2:中央は日蓮大菩薩御入学旧跡云々と刻む。      本堂前題目碑3
 本堂前地蔵尊石仏:開基日祐大聖人と刻む。      常徳寺鐘楼     常徳寺庫裡     常徳寺妙見堂

大和奈良下三条町本妙寺

2017/09/07追加:
明治六年中「大和国各郡寺院調表」(明治6年奈良町寺院調表・日蓮宗)では京都本能寺・尼崎本興寺両末寺とある。
2018/07/12追加:
○明治10年「添上郡社寺境内外区別下調帳」 より
 下三条本妙寺:境内560坪・墓地30坪(ある程度大きな境内地を有する。)
○明治14年「添上郡社寺境内外区画取調書」 より
 下三条本妙寺:境内1反9畝20歩(590坪)、兼務住職:蓮長寺住職獅子原霊應、本堂は南面し、東に番神堂、西に庫裡、東道路に面して表門、南道路に面して裏門・墓地があった。
○明治20年「社寺宝物古文書目録 添上郡」 より
 下三条町本妙寺:この頃は日蓮宗八品派に属する。
過去帳:日治撰及執筆、文化3年(1806)
本尊書:開闢日様(木編はなし)撰及執筆、天正2年(1574)
書画:日蓮上人一代記、天保7年(1836)寄付
木像:日蓮上人一体、尼崎本興寺日富(?)作、萬治3年(1660)
木像:日様(木編はなし)上人一体、当寺開基日様(木編はなし)伏見院御子と木像に記載、天正7年(1579)造
 ※以上の記録から、開基は伏見院御子という日ヨウ(ヨウは様の木編がない字)、天正の初頭ころの開基と推定される。
 萬治3年(1660)には尼崎本興寺僧侶造の日蓮上人像を受ける、文化3年頃に日治が居る。
○昭和17年「寺院登記嘱託」
 下三条町本妙寺:この時に登記する理由は「宗教団体法第32条第2項に依る寺院規則認可したるに因り、・・登記を求む。」ということのようである。何れにせよ、昭和17年「法華宗」本妙寺は現に存在したのは確かである。
 ※現存する。戦前は法華宗本門流(八品派)に属するも、現在は本門佛立宗に属する。比較的広い境内地を有する。
 開基は伏見院御子という日ヨウ(ヨウは様の木編がない字)、天正の初頭ころの開基と推定される。
2015/11/21撮影:
 下三条町本妙寺

大和奈良小川町啓運寺

法唱山と号する。京都妙覚寺末。
以上の外の情報はなし。
2017/09/07追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
寛正5年(1464)日隆の開山。
その後焼失し、元禄元年(1688)玄如院日立が現在地(旧地不詳)に移転、中興開山する。
2017/09/07追加:
明治六年中「大和国各郡寺院調表」(明治6年奈良町寺院調表・日蓮宗)では京都妙覚寺末寺とある。
2018/07/12追加:
○明治10年「添上郡社寺境内外区別下調帳」 より
 小川町啓運寺;141坪(境内76坪、墓地65坪)
○明治14年「添上郡社寺境内外区画取調書」 より
 小川町啓運寺:境内76坪、墓地65坪、住職兼務寛紀慈正(代理:蓮長寺住職獅子原霊應)、南道路に面して門、すぐ東に鐘楼、北に仮本堂(住居兼)があった。
○明治20年「社寺宝物古文書目録 添上郡」 より
 小川町啓運寺:上申書(今般寺院宝物古器物古文書等取調書差し出すべく旨御達相成り候所、当寺に於いては宝物古器物古文書等これ無く候条、この段上申仕り候也」)
兼務住職寛紀慈正
2015/11/21撮影:
 啓運寺全容:山門・本堂・庫裡などを備える。また山門左横に旧山門とも思われる屋根が見える。市中に埋もれた様に存在する。
 啓運寺題目碑     啓運寺本堂1     啓運寺本堂2:本堂は近年造替されたようである。

大和奈良奥子守町清心庵

2017/09/07追加:
明治六年中「大和国各郡寺院調表」(明治6年奈良町寺院調表・日蓮宗)では四条妙顕寺末寺、無住とある。
 ※その後の記録は皆無、 奥子守町には現存せず。廃寺か。

大和奈良奥子守町妙法寺

2017/09/07追加:
明治六年中「大和国各郡寺院調表」(明治6年奈良町寺院調表・日蓮宗)では四条妙顕寺末寺とある。
2018/07/12追加:
○明治10年「添上郡社寺境内外区別下調帳」 より
 奥子守町妙法寺:237坪
○明治14年「添上郡社寺境内外区画取調書」 より
 奥子守町妙法寺:境内■畝15歩(237坪)、住職■川孝順、境内図は欠落か写真撮影忘れかであるが、撮影忘れであろう。
○明治20年「社寺宝物古文書目録 添上郡」 より
 奥子守町妙法寺:上申書(今般寺院宝物古器物古文書等取調書差し出すべく旨御達相成り候所、当寺に於いては宝物古器物古文書等これ無く候条、この段上申仕り候也」)
 ※奥子守町には現存せず。明治20年頃までの記録には残るが、その後まもなく、廃寺か。

大和奈良奥子守町妙栄寺

2017/09/07追加:
明治六年中「大和国各郡寺院調表」(明治6年奈良町寺院調表・日蓮宗)では京都妙覚寺末寺、無住とある。
2018/07/12追加:
○明治10年(1877)「省寮進達書類 庶務課」奈良県庁文書
「奈良奥子守町日蓮宗妙栄寺ノ廃寺ニ伴フ跡地及建物ノ処分方ノ内務省ヘノ伺ニ付起案」
の文書が残るようである。(未見)
○明治10年「添上郡社寺境内外区別下調帳」 より
 奥子守町妙栄寺:165坪
○明治14年「添上郡社寺境内外区画取調書」 より
 奥子守町妙栄寺:境内5畝15歩(165坪)、住職■川孝順、北道路に面して門があり、直ぐ本堂があり、その奥(南)に庫裡がある。境外の東西及び南は宅地である。
○明治20年「社寺宝物古文書目録 添上郡」 より
 奥子守町妙栄寺:上申書(今般寺院宝物古器物古文書等取調書差し出すべく旨御達相成り候所、当寺に於いては宝物古器物古文書等これ無く候条、この段上申仕り候也」)
獅子原霊應
 ※奥子守町には現存せず。明治20年頃までの記録には残るが、その後まもなく、廃寺か。


大和桜井妙要寺

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
恵光山と号す。六条本圀寺末。莚師法縁。
寛永5年(1628)開山、開山は真如院日悟、小宇を建立という。
正徳元年(1711)4世日修代、本堂を建立。
妙見堂前の舞台の堂は、桃山御殿の馬乗門が奈良大乗院の観音堂となっていたものを、明治12年に移築する。その欄間木組などは左左近(甚五郎の高弟)の作。
山門は明治34年、庫裡は大正5年の新築である。
 ※桃山御殿とは不明、奈良大乗院とは興福寺大乗院門跡であろう。
2020/05/07撮影:
 妙要寺山門     門前題目石     妙要寺境内     境内題目宝塔     妙要寺本堂1     妙要寺本堂2
 妙見堂正面1     妙見堂正面2     妙見堂舞台     妙見堂背面1     妙見堂背面2     妙要寺庫裡
2021/03/15撮影:
 妙要寺山門     妙要寺本堂・妙見堂     妙要寺本堂3     妙要寺本堂4
 妙要寺妙見堂11     妙要寺妙見堂12     妙要寺妙見堂13     妙要寺妙見堂14     妙要寺妙見堂15
 妙要寺妙見堂16     妙要寺妙見堂17     妙要寺妙見堂18     妙要寺妙見堂19     妙要寺妙見堂20
 妙見堂背面3     妙見堂背面4:下に掲載の平面図を見ると、本尊厨子は東向きで、むしろ背面は正面であるのかも知れない。
2020/07/15追加:
〇「明治12年大和国十市郡寺院明細帳」
 妙要寺寺院明細
本國寺(六条本圀寺)末、寛文2年創立開基日悟、本堂 方5間、境内 130坪
妙見堂 創建年月不詳、明治10年8月再建、桁行4間 梁行3間 なとが分かる。
〇「寺院実測并見取図 磯城郡(元十市郡)」明治24年 より
 妙要寺見取図(カラー)     妙要寺見取図(モノクロ)
 妙要寺実測図(カラー)
2020/11/19追加:
○「桜井市史 上巻」 より
妙見堂:桁行3間、梁間3間、一重、入母屋造、前面桁行1間梁間1間・舞台付、背面向背1間、本瓦葺き。
元は呼応服地大乗院観音堂であったが、明治11年当地に移築される。文化8年(1811)に手斧始、同10年に上棟(棟札)。
伝説では秀吉築城の伏見城の馬乗門が興福寺大乗院に移されていたのを、明治8年にこの地に移築という。
しかし、伏見城というのは単なる伝承で、文化8年に奈良の何れかの観音堂として建てられたことが棟札から分かる。
「依御宿願被再建三間四面観音堂一宇並拝堂 文化八年・・・・」と棟札にある。
 妙要寺妙見堂内部・平面図

大和高田妙行寺

2016/08/15追加:
○「大覚大僧正」 より:
真如山と号する。京都妙覚寺末。
元応2年(1320)大覚妙実上人修行の折、創立したという。
和泉堺戎町にあったが、明治3年辻本即貞師が大和高田へ移転再興す。

大和上市日慎院:吉野町上市

山号は妙見山か。
情報はほぼ皆無であるが、「昭和40年、妙法日慎宗日慎院(奈良県吉野郡吉野町)、日蓮宗に改宗」とある。
境内に一基の墓碑があり、正面には「日慎院開基眞穏法尼」と刻み、背面には「第二世修学院日幸/昭和40年2月吉日建之」と刻む。
以上の2つの情報を総合して推測すれば、戦前か戦後に眞穏という女性が法華経の導きで感得し、日慎院を開創する。
おそらく戦後妙法日慎宗を開宗し、信者を獲得する。昭和40年かその少し前に遷化し、日幸上人が2世となる。
そして、その時とほぼ同時、日蓮宗に改宗する。(以上推測)
2020/07/03追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
妙見山と号する。開山は日慎院真穏尼、主人との再度の死別などで仏門に入り、法相宗薬師寺にて得度、後に妙法日慎宗(総本山法覚院・北葛城郡香芝町)の門に入り、講及び教会を設立。昭和28年本堂・庫裡を建立、日慎宗分院とする。開基は法覚院日慎(1世)。
2世は日慎院真穏尼、3世前田幸弘が日蓮宗に改宗する。
2017/03/09撮影:
 上市日慎院本堂     上市日慎院庫裡     上市日慎院開基墓碑

大和上市宝塔寺

宝塔寺由緒沿革」と称するページには次のような沿革(大意)が述べられる。
宝塔寺由緒沿革
昭和30年代後半、吉野・宮滝の日高ハル(妙春法尼)は若くして夫と死別、その上両眼を失明する。
ハルの生家には先祖伝来の仏舎利が祀られており、その御前にて法華経を誦経する修行を積む。その結果、ハルは霊力を得ることとなる。
その後、桜井妙要寺(上に掲載)大島鳳静師の弟子となる。
昭和39年師の尽力によって、吉野・志賀に日蓮宗日高結社を設立する。
その頃、吉野・上市の法華経信仰者であった笠山仙治は「胃がん」の宣告を受けるも、日夜結社を訪れ信仰に没頭する。
その結果、再検査の結果「胃ガン」は完治していたのである。(笠山仙治は後に宝塔寺初代日仙となる。)
完治の後、笠山仙治は布教活動に専念し同信と共に「題目講」を結成し講頭となる。
昭和40年妙春法尼捧持の仏舎利を景勝の地に奉安することを発願し、妙春法尼の賛同を得て、現在の地に仏舎利塔建立を企図する。
昭和41年パゴダ式仏舎利塔・祖師堂を建立。以来、本堂の建立・鬼子母神堂・水子地蔵尊堂建立。
昭和48年宗教法人「七宝山大和仏舎利塔」を設立し、笠山日仙が初代住職となる。
昭和59年妙春法尼の孫、寺島法瑞が第2代住職に就任。
平成17年新本堂建立。
2017/03/09撮影:
 上市宝塔寺仏舎利塔1     上市宝塔寺仏舎利塔2     上市宝塔寺仏舎利塔3     上市宝塔寺仏舎利塔4
仏舎利塔は昭和41年竣工、RC造と思われる。
 上市宝塔寺本堂     上市宝塔寺庫裡     仏舎利塔50周年記念碑
 上市宝塔寺日蓮上人像:昭和53年建立      上市宝塔寺みずこ地蔵


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