下  総  成  田  山  新  勝  寺

下総成田新勝寺三重塔・大塔

成田山名所圖會(嘉永7年(1854)序、安政5年(1858)刊 中路定俊著、長谷川雪堤等画 )
巻2:新勝寺 全   図 三重塔(部分図)
仁王門、本堂、経蔵、三重塔、御供水所、鐘楼、宝庫、本坊、遍照院、南光院、正福院、延命院、奥院、額堂、光明堂、大師堂、観音堂、阿弥陀堂、薬師堂、その他各社があ る。

利根川図志(安政2年(1855)序 赤松宗旦著)
巻4:成田山新勝寺
新勝寺の伽藍図あり。 全      図   三重塔(部分図)

成田山三重塔

正徳2年(1712)建立。宝暦7年(1757)、亨和元年(1801) 、安政5年(1858)大修理、昭和58年現在の姿に復元。
本尊:五智如来。総高約25m。装飾については江戸関東風の典型・極地を示す。この装飾の復元は享和3年(1803)の仕様書に基づくものとされる。

成田山新勝寺三重塔1
  同         2
  同         3(左図拡大 図)
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2003/3/27撮影画像
成田山新勝寺三重塔1
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2006/09/01撮影画像

成田山新勝寺三重塔19
「婦人画報」2219/01号より転載
モデルは国木田彩良(国木田独歩の玄孫)
大工棟梁は桜井瀬左衛門安信ほか、彫物師は島村円鉄(円哲)<何れも心柱墨書>という。
桜井瀬左衛門安信、島村円哲は宝永元年(1704)常陸薬王院三重塔を竣工 した大工・彫物師とされる。

2012/06/10追加:「Y」氏ご提供画像
 成田名所成田山三重塔:絵葉書、大正7年〜昭和7年頃(「Y」氏推定)
2012/07/20追加:絵葉書:作成時期不詳
 成田山新勝寺三重塔

成田山の建築等は、江戸期坂東風の典型を呈する。さらにその宗教活動も坂東風新義真言の典型を示す。
(これは悪いと云う意味ではなくて、江戸文化/坂東文化は、それは一時代を画したものあるいは画するもので、今も受け継がれている文化であるという評価である。)
2008/03/09追加:
いわゆる軒は垂木を使わない「板軒」である。
 成田山三重塔初重見上     成田山三重塔三重見上
2010/04/25追加;「建物修理アーカイブ」 より
宝暦7年(1757)、享和3年(1803)、安政5年(1858)、明治36年、昭和13年、昭和46年以上は部分修理
昭和57年〜昭和59年、塗装修理、屋根葺替及び部分修理
「塗装工事は、各重塗装の漆塗・彩色ともに初重内部来迎壁彩画を除いて素地まで旧塗装を落として塗替、同背面彩画は補筆にとどめる。
 塗替は享和3年の仕様書に倣い次の通りとする。
・初重外部の柱・長押地紋彫部と桟唐戸入子彫刻部は溜塗
・柱地紋彫部及び長押地紋彫周囲を金箔押
・初重外部台輪・内法長押間羽目部は鉄仙唐草文様彩色
・初重縁廻り及び同切目長押は赤漆塗
・初重内部各脇間内法壁板は金箔押
屋根は腐朽した野地板を取替え、銅板葺を葺替る。金具は相輪を除き一旦取外し、補修と取替補足して鍍金・漆箔を行う。」
 新勝寺三重塔竣工立面図     新勝寺三重塔竣工断面図
 新勝寺三重塔初重平面図     新勝寺三重塔二重見上図     新勝寺三重塔三重見上図
 新勝寺三重塔竣工内部

成田山大塔

平和大塔と称する。弘法大師1150年遠忌記念として昭和59年完成。一辺約24m、総高約58m(基壇含む)。
本尊不動明王、2層には五智如来安置。鉄筋コンクリート製。

2003/3/27撮影画像
 成田山新勝寺大塔1:(右図拡大)
   同        2
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   同        5

2006/09/01撮影画像
 成田山新勝寺大塔1
   同        2
 

成田山概要(「江戸の装飾建築」窪寺茂による)

天慶3年(940)開創と伝える。
元禄期の照範上人を中興第1世とする。それまでは田舎の小寺院で、弥勒寺(新義真言宗)の末寺に過ぎなかった。
照範上人代に元禄14年建立本堂(現光明堂・重文)、不動堂、鐘楼、弁財天堂、常燈明堂、仁王門、三重塔、客殿、一切経輪堂などが建立された。
宝永4年(1707)大覚寺直末、醍醐金剛王院兼帯の令旨を受け、新義真言宗智山・豊山両本山から常法談林の寺格を受ける。
政治的・資金的檀越は佐倉藩主(稲葉氏)であったと云う。また出開帳(江戸深川永代寺)も江戸で絶大な人気を博し、資金源になる。さらに初代市川団十郎および歴代団十郎の信仰を得、荒事に成田不動尊を取り入れた興行が打たれ、江戸庶民に成田山信仰が広まってい く。
今もその江戸中期の人気が持続する。
現在、智山派3大本山の一つ。

2019/10/13追加:
承平5年(935)平将門が乱を起こす。朝廷は追討軍を派遣し、諸大寺に将門調伏の祈祷を命ずる。
天慶2年(939)寛朝僧正も朱雀天皇の密勅を受け、山城高雄山神護寺護摩堂に安置の弘法大師作不動明王を奉じて関東に下ることとする。
天慶3年、寛朝は海路にて上総に至り、陸路にて下総公津ヶ原に入り、この地にて不動明王を本尊とした朝敵調伏の密法を厳修する。この護摩供の験であろうか将門はややあって敗死する。
寛朝が帰国の途に就こうとするも、不動明王はこの地を動こうとはせず、この報を聞きた朱雀帝は、公津ヶ原にて東国鎮護の霊場を拓くべく寛朝に開山せしめて、神護新勝寺の寺号を下賜するという。以上が成田山新勝寺の縁起である。
 


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