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沖縄自治研究会を紹介します。

 沖縄自治研究会が2002年4月6日の「立ち上げシンポジウム」を出発点に、以降月1〜2回のリカレント講座を積み上げ、中間報告として「自治基本条例モデル素案」を2003年2月11日に発表した。詳しくは沖縄自治研ホームページを参照してもらいたいが、島袋純さん(琉球大教員)と前城充さん(南風原町職員)の二人が「言い出しっぺ」に沖縄自治研を立ち上げた動機・経緯などを書き記している。
 うるまネシア同人から、この沖縄自治研の存在を教えられ、直ちにアクセスしてみた。プロジェクト概要・定例会・講座から、配布資料・新聞記事などがアップされており、研究会議録などを読むだけで(これはすごい!)参加したような気分になるほど充実している。そしてその成果が「素案」である。これは「まちづくり」ということで、市町村レベル(基礎自治体)を想定したものであるが、今年度は県レベルのものへと進む計画であると言う。【2003年度研究定例会、第1回4月26日(1.平和的生存権 2.基本的権利 3.環境権)、第2回5月10日(1.まちづくりに参加する権利 2.まちづくり活動団体の役割 3.教育と学習の権利)を議題に開催されている。】
 「玉野井芳郎・沖縄自治憲章」を高く評価する者として、憲章作成にかかわった仲地博さんなども加わる、この沖縄自治研活動を「日本復帰30年」をメルクマールとして、新たな沖縄における自治権運動として注目してきた。もちろん沖縄自治研は、「独立論をめざす…」とか「独立論と思われる…」というありうべき(?)「懸念」に対して、「まちづくり」であり「自治の問題」であるので、「杞憂」であることを前提にしていることは、沖縄自治研のためにも銘記しておきたい。
 「自立」であれ「独立」であれ、その前提として、「自治」の確立=「自己統治(能力)」の形成が不可欠であろう。例えば、「沖縄は、北の大列島に対して自らをマイノリティと主張するが、外国人参政権を認める決議書意見書を採択しているのは、沖縄では二自治体しかない。我々の内なるマイノリティを忘れてはならない」という発言にも深く共感する。もちろん、自治が自立・自決と切り離され、とりわけ沖縄の歴史を踏まえた政治・社会・文化の独自性をスポイルされたままで「日本の一部」とされることによって、何ほどの自治が確立しえようか、という思いも禁じえないことも、また確かではあるが。

島袋純「沖縄のガバナンスのゆくえ」を読む03.7.3
島袋純「沖縄のガバナンスのゆくえ」


 本論は2002年11月知事選挙直前の9月に「国際都市形成構想から新沖縄振興計画へ」を副題に執筆された。大田県政から稲嶺県政の転換を縦糸に、地域権力−自治権問題を横糸に、「国際都市形成構想の意義、稲嶺県政の意味、吉元出馬の意味」を通して、「沖縄のゆくえ」を分析したものである。

 島袋さんはポスト冷戦・グローバリゼーション下における日本−沖縄問題、そこでの国民国家の変容(ゆらぎ)を、例えば“冷戦終了後の欧州連合における地域政策の強化と各国の地域政府の勃興”として捉え、“日本においても、グローバリゼーションは、地域にとって、1、財政資源の量的維持、2、経済の自由化、つまり、資本・資源の移動・貿易に関する規制緩和、3、自治権拡大あるいは自治政府構想という三つの要求を浮かび上がらせてきたのである。”と問題提起しており、(日本・中央)政府との「攻防」を通して、地域的なガバナンスとしての沖縄の「変容」を分析しているからである。
 ただ、評者としては“中央の財政援助の量を減らさないように要求しつつ”として説明されている「財政資源の量的維持」が、一番目の座標として設定されていることに若干の違和感を覚えた。何故なら、沖縄における「公共事業依存」は島袋さんも再三指摘しているように、事実として沖縄経済界の死活問題視されており、いわば日本からどのように多くの「補助金の類」を引き出すかが県政に要請されており、その隘路で苦しんだ(?)大田県政は「反基地を掲げて振興策を引き出す」という悪罵にも似た非難を反戦反基地運動の側から浴びせかけられていたのである。もちろん綺麗事的に「高率補助・補助金・振興策」拒否、すなわち「財政資源の量的維持」否定を語って済ませるわけにはいかないことは重々承知の上での話ではあるが。(ここでも、例の「イモハダシ」論が浮上する。)
 そして、それ以上に彼は、「地方自治」に特化する余り、沖縄の最大の関数でもある「反戦反基地」と「反復帰・反同化・反併合」という問題意識を後景化しようとしているように思われる。

 “1、財政援助――グローバリゼーションと沖縄振興策のフレームワーク――”で、“1990年に就任した沖縄県の大田知事もこのような地域リーダーの一人であった。”がしかし“沖縄の問題は、米軍基地のあまりにも大きな存在のゆえに、この3つの基本的な姿勢が、明確に見えてこないきらいがある。平和主義的な運動と捉えられたり、人権運動からの期待を背負って解釈されることが多いからである。しかし……この3つの要求に関しては、沖縄も端的に当てはまる。”と書くことで、「沖縄問題」の固有性を捨象し、「地方自治」一般としての視角を強調する。
 96年11月に発表された「沖縄国際都市形成構想−21世紀の沖縄のグランドデザイン−」も、「冷戦後の在沖米軍基地の存在と機能を維持ないしは強化を主張する95年のいわゆる『ナイ・レポート』は、大田氏に強い衝撃を与え…たと理解されているが、この構想の着手は、92年であ」り、反基地問題とは相対的に別個であるとしている。しかし、これは余りにも皮相な見方ではなかろうか。「ナイ・レポート」以前からの構想ではあれ、そもそも彼は「県知事」になる以前から「日本−沖縄」関係の特殊性の打破(「沖縄自立志向」とよんでも差し支えなかろう。)を意図しており、ブレーンたる吉元副知事(当初は政策調整監?)に至っては、1981年段階での自治労沖縄県本部の「特別県制構想」の直中にいた人物でもある。2015年まで米軍基地を全面撤去させる「基地返還アクション・プログラム」も、島袋さんも言うように「政府は……このアクション・プログラムの意味を、実現可能性のない政治的アドバルーンとみなした。」が、「即時無条件返還」というレベルから「段階的縮小であれ、2015年までは基地を容認するもの」という今では噴飯ものの批判すらあったが、しかし「国際都市形成構想」(これも「単なる作文でしかない」という悪評も多々見られた)とあわせて、画期的なものであったと言えよう。
 大田県政は“この沖縄県独自の構想・計画を実現する組織”を要求し、そのための“沖縄県知事が閣僚と肩を並べて着席する特異な形態の閣僚会議である”沖縄政策協議会の設置を中央(日本)政府が容認したのも、日本における「沖縄問題」の特殊性としてを踏まえ「過重な基地負担」に対する「懐柔策」を新たに弄せざるをえなかった。「基地を取り引き材料にした」という大田県政への批判は教条的立場からすれば的はずれではなかったとも言えよう。

 こうして、島袋さんが提起する第一の座標軸たる「財政資源の量的維持」は、日本政府にとって沖縄政策協議会を一方での「ガス抜き」機関としつつ他方“中央から沖縄への公的な資源の配分量を確保する役割”に限定し、露骨に「基地と振興策のバーター」を繰り出す舞台とされた。第二の要素である「全島フリーゾーン」と、第三の「特別自治制度」の部分は後回しにされた。というより「一国二制度」なる言葉が肥大化し一人歩きしただけだったと言っても過言ではない。
 もちろん島袋さんも“全島フリーゾーン構想と特別自治制度の構想は、県内の合意形成が必要であり、時間が必要であったという理由もある。”と述べているように、「全島フリーゾーン」については県経済界での異論続出という形での「大論争」を惹起せしめた。(参考:推進派の宮城弘岩さん・反対派の来間泰男さん。島袋さんは推進派として、次のように述べている。“沖縄国際都市形成構想の最も特徴的な部分の一つは、グローバリゼーションを明確に意識化し、しかもそれを先取りするあるいは、積極的に対応する形で沖縄の将来構想を描いている点である。その最も重要な推進の手段が、沖縄全県フリーゾーン構想である。さらには、アジアや太平洋諸国との連携、アセアンやAPECの重視をうたっている。/政治的な文脈でいえば、一国二制度的なきわめて分権的な自治制度の導入と、東アジアにおける国際協調の枠組み強化への貢献をうたっている。”)
 “大田氏は、受け入れを否定した名護市民投票の結果にしたがって、中央政府(以下中央と省略)の普天間基地移設提案を正式に拒否した。沖縄のガバナンスがより民主的な方向で新しく変化していく兆しを見せたまさにその時、中央は、この変化を決して認めず、従来型の古い権力の行使手段を用い、それどころか今まで以上にそれを強化した。「北部振興策」といわれるさらなる一連の中央政府補助の公共事業が基地受け入れを促進するアメのように用いられ始めた。”これらは、制度的枠組(対等に近い政策協議の場であれ、財政・補助金問題を始め“古典的な地方統制のための権力を露骨に行使することによって、中央に極端に有利に、県側に極端に不利に作用するシステム”)の問題もさることながら、その制度を「活用する主体」の問題としてリアルに判断されよう。
 大田知事が辺野古沖移設拒否を表明してから、沖縄政策協議会は日本政府によって開催を拒否されていった。稲嶺県政誕生で直ちに再開されたのは言うまでもない。

 “2、経済の自由化、一国二制度・全島フリーゾーン構想”の項では、大田県政に対して“産業界・経済界は、沖縄の現代史において始めて自前の候補者を98年11月の知事選挙にむけて用意した。”ことなども含めた分析を行い、“3、特別自治制度構想”の項において、日本政府の省庁再編の中での新たな「沖縄振興開発行政」が“中央政府機構の改革のみが先行し、沖縄県には、ほとんど新たな権限や独自の財源が付与されないできた。/したがって、振興開発予算と計画のイニシアチブを中央が握りつづけ、沖縄県は、中央に陳情し続けるという、旧沖縄開発庁と沖縄県の関係は、手付かずに残され、あるいはさらに強化されているとさえいえる。/…大田県政が引き起こした中央政府への激しい攻勢が、中央政府の沖縄政策の仕組みの変化をもたらしたといえるが、沖縄県の側にはなんらの変化も生じていない。”と指摘した上で、大田県政−吉元構想(“国際都市形成構想には、最後の大きな柱があった。全島フリーゾーンを実現・管理する能力を持つ自治政府の設立である。特別な自治能力を持つ、沖縄の自治政府の構想である。”)を丁寧に紹介しつつ、“これが実現していたらならば、沖縄のガバナンスは、「脱東京」を基調として、きわめて大きな変化を遂げていたであろう。”と、高く評価した。

 最後に“結びに代えて”で、「基地問題」もきわめて重要な意味を持っているが、“地域政府権限に関する争いと再構成することも不可能ではない。”とし、“実際に大田県政下で多くの政策開発を手がけ、対中央の交渉の最前線に立っていた…吉元氏は、出馬(2002年11月の知事選)にあたって、大田県政期に積み残した課題をやり遂げるという理由を掲げている。普天間基地の県内移設反対のほかに、最も基本的な重要政策として、全県フリーゾーン構想と琉球諸島特別自治制度導入を掲げており、沖縄のガバナンスのゆくえが、沖縄県民に再び問われる。”と結んでいる。もちろん、選挙結果としては「吉元惨敗」であったわけだが、「復帰(併合)30年」を経て、「沖縄イニシアティブ」に見られる「併合・同化・買弁」型のすべてでないにしろ、稲嶺県政が支持を集めたと言うことは冷厳な事実であろう。
 島袋さんには本論の続編として、是非、知事選総括も含めて執筆していただきたい、と思う。「吉元惨敗・稲嶺圧勝」が「過去のこと」として忘れられ、その政治的意味の分析や「沖縄のゆくえ」をめぐる総括が見られないまま今日を迎えているのは決して好ましいことではない。個人的感想を述べさせてもらえば、自立・独立派を称する少なからずの人たちから「吉元は支持できない」「選択肢がない」に続いて「又吉イエスにでも入れようか」という声を聞いて愕然とした思いがある。
 島袋さんは、(地方)自治の復権・創造を中心として、あえて沖縄の固有性(民族性)とその歴史性(とりわけ日本国家との関係)を後景化して分析と考察を進めている。もちろん「住民自治」、自律−自己統治−自立が「普遍的」なものであり、沖縄に限られたものではない。しかし、国民国家の変容−ゆらぎ−解体という歴史的文脈の中で、東アジア−日本との関係での沖縄の政治的歴史的位置を捉え返すことが必要であろうし、その場合、沖縄/沖縄人の固有性は決して無視し得ないものではないだろうか。さらに、地方自治は国家(権力)との対質−対抗を抜きにすれば箱庭のような危うさ・脆さを感じざるを得ない。

島袋純「沖縄の自治確立」を読む03.7.29

島袋純「沖縄の自治確立、1、短期・2、中期・3、長期展望について」
「いっしょに夢を描いて見ましょう。」ということで掲示板も用意されています。


 まず、ざっと眼を通しただけで圧倒されたと言うか感激したことは確かである。ここまでのリアルな構想を見たことが無い。もちろん「単なる作文に過ぎない」という謗りをうけるかもしれない。しかし“三つの自治の形態を戦略的に、短期、中期、長期と分け、時系列的に配置したところに島袋案の特徴があります。”と述べる通り、やれること・やらなければならないこと(何をなすべきか・何から始めるべきか)を“短期02年〜06年/中期06年〜10年/長期10年以降”と整理しているが、島袋案は、最終的には「沖縄と日本との国家連合」(EU型国家連合がモデル)が目指されている。
 彼は本論の末尾を“いわゆる「芋はだし論」” に触れた後、“とりあえず、上の新体制論は、日本政府からの一定の財政移転確保を念頭に発案しているが、統治構造を転換するには、芋はだしの覚悟を沖縄の人々が共有できるか、あるいは、全面的に財政移転をストップされたところで主権さえあれば「芋はだし」には絶対ならないという自信が基礎となる。これさえあれば、日本政府の懐柔策や財政移転カットの脅し・恫喝にも屈しない。/「日本からの財政援助全部切るぞ! 援助なしで沖縄やっていけるか!」これを切り返す覚悟と政策を準備する必要がある。”と締めくくる。
 以下逐次見てみたい。


(1)“2002年〜2006年で可能なこと”
 まず第一に“現在の法律体系、地方自治法の中で最大限の自治、最先端の自治のあり方を目指す”“沖縄県自治基本条例の制定”を掲げる。03.3までに“プロジェクトチーム”を、04.4までに“ワークショップ”を行い、“04年6月までに自治基本条例案を議会に提出。”ここでは条例制定をいわば大衆運動として、後の“自治基本法を作るための訓練としてでもやるべき。二度手間と思わず、この議論や経験が必ず、特別立法の自治基本法に生かされると思うべき。”

 第二に、04.4までに“郡レベルに広域連合”の設置を果たす。地方行政に関する法制度に疎い私としては、この案は画期的なものだと思われたが、どうだろうか。
 “自治体としての「郡」政府は、現行制度上作れないため、(地方自治法上の特別地方公共団体である、多目的・全目的)広域連合…北部広域連合、中部広域連合、南部広域連合、宮古広域連合、八重山広域連合”を作り、他方、現在強権的に推し進められている市町村合併にも対応する形で“広域連合に、市町村単独で実施困難な事務を引き受けさせ、同時にできうる限りの県の事業を移譲する。(04年4月〜06年)…広域連合は、県と各郡市町村がいっしょに一つの広域連合を形成した場合、県の権限移譲が可能となる。合併しない弱小町村の多くが、04年05年中に極端な財政赤字に転落し(予算を組めない)、危機を迎える。予算がつけられなくなった仕事はどこかが代わってやらなければならない。その受け皿・セイフティ・ネットとしても早急に必要。”【※1】

 第三に、第一の「条例制定運動」と連動し、04.4に“自治基本条例研究Pチームを再編して、…基本法作成のためのプロジェクトチームを作る”ことから始め、05.4に“琉球諸島基本法制定県民会議の設立”に進む。
 ここでも、“憲法95条【※2】に基づく沖縄独自の自治のため”であることを踏まえ、“06年9月までに制定会議は基本法原案を作成。06年11月の知事選は基本法賛成と反対が争点。”とリアルなスケジュールを提起している。この「県民会議」は、“全党派的な組織、県議会議員と沖縄選出国会議員が参画するようになったものが、いいと思います。私の役目はあんまり偏った党派色に染まらずに、自民党から共産党までを基本法制定会議に巻き込むこと。(笑)”とのコメントが付されている。

 第四に、“根本的行財政改革、職員の意識革命、行財政革命。”として幾つかの項目が列挙されているが“やることはいくらでもあります。”とのコメント。もっともその中には“5)県庁職員数の1割カット(06年まで)”の項もある。【※3】

 第五に、“琉球諸島広域連合の設立”が提起されている。ここで第二の広域連合設置の手法で“沖縄県、沖縄53市町村及び奄美郡町村及び名瀬市で、琉球諸島広域連合を設立する。/琉球諸島広域連合は、琉球諸島自治政府の設立準備を行う。”
 これも“広域連合は、府県をまたがっても、設置可能。現実的な必要性という視野から、奄美と沖縄県が相互に利益となるような分野から広域連合を設置すればいいと思う。琉球諸島広域連合として、琉球諸島広域連合政府、琉球連合広域連合議会を設置し、郡レベルの広域連合に移譲する事務以外すべて、現在の県の仕事をすべて移譲すれば、特別法を作らないでも、実質的に新しい政府を作ることは理論的に可能。(ただし、この連合の設置には鹿児島県知事の同意と総務大臣の承認が必要)”という法制度的解釈から演繹されているが、当然にも島袋さんは、“実際に国が簡単に権限を手放すことはないと思われるので、今の県の権限と同じになる。これを作っておくのは、「国からの権限移譲の受け皿になる」と書いてあるのに移譲してくれないから、自治基本法を作って、権限移譲を勝ち取るという大義名分を立てられること。”とし、それ以上に彼の強調する点は“何よりも、「琉球」が公的制度の名称に復活し、県民に新しい政府システムが導入されつつあるのだという期待をいだかせる。連合ということばを、下記「案その3」の日本沖縄の国家連合につなげられる。”


(2)“2006年〜2010年あたりにできそうなこと”
 「沖縄県自治基本条例制定・琉球諸島広域連合設立」から、「沖縄自治基本法制定と琉球諸島政府(沖縄省)設立」へが中期展望として語られている。【※4】島袋さんは基本コンセプトとして“簡単に言えば、旧琉球政府と琉球立法院の権限すべて取り戻すことをめざす構想。”と述べている。
 「広域連合」と同様、「沖縄省」も画期的な提起ではなかろうか。若干理解しにくかったが、“大統領型”の「公選の琉球諸島政府主席」が、“国務大臣クラス”の沖縄省大臣であり、現在の県議会が“沖縄省議会”として、琉球立法院(「琉球諸島議会」)となる。それを踏まえ第一に「国政」において、“衆議院及び参議院の常任委員会(もしくは特別委員会)として、それぞれに沖縄委員会を設置”。第二に、「行政」において、“法定受託事務は、沖縄省固有事務に変更”。第三に「財政」は、“国家予算の47分の1を沖縄予算として、一括して沖縄省議会および省政府に財政移転する。”
 こうして立法・行政の沖縄の独自性を確保する。(但し「司法」に関しては、“憲法上、無理では。76条の規定”と付け加えている。)その上で、“基地被害補償及び跡利用促進特別基金…を日本政府(防衛庁)に要求”とし、“沖縄の基地縮小と地位協定改正”に向け、“沖縄委員会と沖縄省を正式のメンバーとする。”ことを要請。さらに「自治体改革」「NGO・NPO活動の奨励」に加え、“県首脳、県選出国会議員が、積極的に国連人権関係委員会・国際社会に「沖縄の人々=国家形成の主体、人民(People)」認知を働きかけること。”

 これに続いて、1“法体系について”という一覧表(日本全国の法体系/沖縄の法体系/政府間関係と市民へのサービス提供の仕組み)と、2「言葉の問題」として、“「沖縄」に国家の下部機構を意味する省、州、道のような言葉をつなげるのは問題ないが、「琉球」につけてはならない。道でも州でもない「琉球」とすべきでは。妥協して「琉球諸島」。日本全体が道州制を採用した場合、沖縄は「道」・「州」と同じレベルで「諸島」という名称を用いる。琉球諸島政府 琉球立法院 琉球諸島(自治)基本法”と付け加えられているが、「沖縄か琉球(琉球諸島)か」「省・州・道・自治州・自治共和国・邦か」という問題とあわせて、一考に値する。3「憲法改正」問題にも触れ、“沖縄の投票では、おそらく、過半数に到達しない。つまり、沖縄は、憲法改正拒否。…沖縄の人々は、独自の主権国家を作り出しうる、国際法上の単位「人民(People)」(一般にいわれる民族自決権の「民族」)であるとすれば、沖縄が否定した憲法は、沖縄には適用されないと主張できはしないか。つまり、憲法改正国民投票の日までに、沖縄は沖縄独自の国家形成と憲法制定を用意しておく必要が出てくる。”と述べた後、“当然ながら、軍事的空白を、軍事力で埋めるような、国際戦略ではなく、非軍事的な平和攻勢を仕掛ける外交的な力がないと無理。今後8年は、それを身につける重要な期間。”とも書き加えてある。


(3)“2010年〜2020年あたり”
 この段階に至り、沖縄は主権国家として「独立」する。(2)で展開した「沖縄省」のアイデアも、スコットランド研究者としての島袋さんの独壇場だが、この「主権国家としての沖縄」/“沖縄と日本の国家連合案、EU型国家連合”も、その成果を充分引き継いでいる。
 冒頭の“1、主権の回復”の項において、“1)沖縄は、国際法上、主権国家を形成する自決権(いわゆる民族自決権)を有する「人民(People)」という単位に相当すると宣言/2)憲法制定会議を設置し、新しい統治の枠組みを定める沖縄の新憲法を作成し、国民投票に付して主権回復を図る/3)英連邦及び欧州連合になぞらえて、沖縄と日本で対等な主権国家の連合体を構築する”

 日本との関係で、まず“日本国内に住むすべての沖縄人に日本国民と同じ権利を保障/沖縄に住むすべての日本人に沖縄人と同じ権利を保障”し、“資格、免許制度に関して、共通政策とし、日本沖縄双方の資格・免許が相互に双方において有効とする。”
 “日本とのEU型国家連合機構”については“「日本沖縄連合閣僚会議」を国家連合の政策、共通政策の最高意思決定の場……合議制の行政機関として、「沖縄日本国家連合委員会」を設置。”
 この“連合委員会は、「極東連合」として、統一朝鮮と中国及び台湾の加盟を目指し、さらに「東アジア連合」として、アセアンとの合同をめざす。……主権回復後、直ちに国連アジア本部の設置し、那覇は東アジアにおけるブリュッセルとハーグ及びジュネーブの役割を目指す。”

 財政問題においては、“沖縄における日本政府への国税をすべて、沖縄の政府の税とする。/沖縄の政府は関税を含むすべて課税権を有する。ただし、一部に共通税制度の導入を妨げない。”は当然としても、“沖縄の日本政府不動産は、すべて無償で沖縄の政府へ譲渡”した上で、“沖縄の予算の収入は、沖縄政府の税、連合協約による一括的財政移転、及び下記の沖日米安全保障機構からの基地関係収入から構成され、用途の決定は沖縄の議会が持つ。”

 公務員制度においては、“自衛隊などごく一部を除き、日本国家機関はすべて、沖縄の政府に移管。/自衛隊を除き、沖縄県内の国家機関に所属する公務員(防衛施設庁を含む)をすべて沖縄の政府に移管。”
 加えて“沖縄のすべての公的役職に国籍要件をはずす。”と同時に“沖縄人が日本のすべての公職に立候補・応募する権利保障要求”
 国防に関しては“沖日及び沖米間に安全保障条約を結び、沖日米合同安全保障条約会議を設立する。……沖縄の政府は、日本政府のもつ軍用地借地権を引き継ぎ、当面、米軍基地の施設提供に責任を負う。”(自衛隊も同様)とした上で“沖日・沖米安全保障条約締結に当たって、日米地位協定を抜本的に見直した新たな沖米地位協定を要求、要求に応じない場合、条約破棄を通告。/米政府及び安全保障条約会議に対して、米軍基地撤去に伴う原状回復義務を要求する。”と主権国家・沖縄としての立場を明記してある。さらに“7)この会議に2020年まで沖縄は参加し、以降、沖縄は全面的に離脱。/8)2020年までに、沖縄は日本及び米国との安全保障条約を平和友好条約として締結しなおす。/9)友好締結後、沖縄は非武装、非核地帯として国際的に宣言を行う。安全保障上の空白地として、コスタリカ的、あるいはマルタ的な、信頼醸成と武力によらない積極的平和外交推進の役割を担う。/10)主権回復後ただちに国連アジア本部を設置し、国連刑事裁判所条約に批准する。”
 この後、「行政・議会・司法」の主権国家としての再編確立を展望しつつ、最後に「警察機能」として“県警を廃止し、沖縄の政府に沖縄警察庁をつくり…/第11管区海上保安庁を沖縄の政府に移管。”


(4)日本国法下で、「最大限の法解釈」という武器を駆使している。それは玉野井芳郎「沖縄自治憲章」の「国の法令を解釈する場合は、この憲章に背反することのないよう努めなければならない。」という「第16条(最高規範)」をめぐって、“「国法」との対峙まで踏み込んで規定している。”と高く評価した大杉論文「年誌3号・沖縄論文」とも通底している。
 そして、“何よりも、「琉球」が公的制度の名称に復活し、県民に新しい政府システムが導入されつつあるのだという期待をいだかせる。”という「政治的判断」も重要であろう。これは1998年の自治労プロジェクトによる「沖縄政策提言」に対して、“ただ「提言」に見るべきものがあるとすれば、……「琉球弧」概念=「奄美」をも包み込み「沖縄の異質性」を法(行政)制度レベルにおいて「地方政府」として突き出したことではないだろうか。”(前掲・大杉論文)との評価にもつながっている。
 島袋さんは経済問題に対しても“芋はだしの覚悟を沖縄の人々が共有できるか、あるいは、全面的に財政移転をストップされたところで主権さえあれば「芋はだし」には絶対ならないという自信が基礎となる。これさえあれば、日本政府の懐柔策や財政移転カットの脅し・恫喝にも屈しない。”という点を強調している。これは、かの居酒屋独立論争時の新川明さんの「これは比喩です。血を流すというのは、今の生活レベルをどれだけ落とせるかの話です。血を流さないままで今のおいしい生活のままでさらにおいしい独立を夢みるなんてこんなムシのいいことは話にならない。独立の決意とか決断とかは、自ら血を流せるか否かの決意、決断のことなのです。」とも対応していると見るのは我田引水であろうか。
  “政治的自立の意志と条件を欠くならば経済的自立もないこと”(前掲・大杉論文)を受け、今改めて、中村丈夫の「島嶼の自治ないし自決を、その物質的根底にまでわたって保障しようとすれば、そのための障害を排除する上部構造的条件の確立が、先決とならざるをえない。経済的従属下の『低開発の発展』を打破する、政治的自決をめざす抵抗運動が、内発的な経済発展を主導する。」(『沖縄自立への挑戦』社会思想社1982)という提起を思い返すことが必要だろう。

 さて、前掲の大杉論文にこだわれば、ひとつは“法・制度なるものが、階級闘争の結果、言いかえるなら国家と人民の闘争の結果にすぎ”ないこと、もう一つは“運動は、展望とともに実際的な「獲得目標」が鮮明に打ち出されなければならないだけでなく、それへの手段・方法あるいは(運動・組織)形態が確立されなければ”ならないこと、言い換えれば、主体の「強固な意志」を前提に、「可能な/具体的な目標」と「可能な/具体的な方法」について確立する必要がある。
 さらに付け加えるとすれば、法−制度は単なる「結果」だけではなく、その運用・活用にも着目しなければならない。例えば「権限委譲の受け皿」然り、「地位協定」をめぐる問題然り、この間の反戦反基地運動の側による「自治体の平和力」然り…。もちろん島袋プランは法−制度的提起を基軸にしており、或る意味では「可能な/具体的な方法」としての法−制度化は、「可能な/具体的な目標」を鮮明に打ち立て「意志」をも顕在化させうる。
 島袋戦略1は、プロジェクトチーム→ワークショップという大衆運動を経て、条例案作成→提出・可決というプロセスをたどるとなれば県議オルグがカナメとなろう。島袋戦略2は、1とパラレルに進められなければならないが「広域連合」形成であるからして、行政首長オルグが不可欠である。さて、この管制高地はどのように構築されるのだろうか。いわばリアルな政治勢力形成が問われているのではないか。【※5】


【※1】島袋さんは、市町村合併に対抗して広域連合を構想しているように思われるが、一方で「合併しようとしている市町村のため…旧町村公民館と生涯学習を中心とした住民自治組織」構想を提起している。(沖縄自治研MLより)沖縄における「公民館」の位置と役割は日本とは比較にならないくらい大きなものがあり、これは「シマ」「字」などの地域的共同体がいまだ生きていることにも依っていると思われる。
 彼は、“合併特措法改正、法人格をもつ、旧町村単位での自治法人設置の可能性大/しかし、内容がまだつかめない。間に合わない気がする。そこで代替案:既存の法体系、既存の施設制度を利用した、新しい制度の考案(法人格なし)”として、準公選(住民が投票し市長が任命)の公民館議会(運営委員会)を設置し、“(学校教育を除く)生涯学習の分野を教育委員会の管理から、新市総務(もしくは企画)と各町村中央公民館の管理へと移管”し、公民館事務所の中に支所機能(市民係・窓口業務中心)を置くことを提案する。
【※2】『沖縄21世紀への挑戦』(岩波書店02)の加茂利夫「第10章 沖縄・自治モデルの選択」より。“同(憲法95条)条では一つの地方公共団体にのみ適用される特別法を認め、当該地方の住民の投票によってその可否を決定するものとしている。この条項にもとづいて沖縄に地方自治法上特別の法的地位を設定する基本法(仮に「沖縄自治基本法」と呼ぼう)を制定する。”
【※3】前掲・加茂より。“内政事務を原則として沖縄の地方政府の自治事務とするといっても、復帰後30年近くを経て、中央集権的な行財政度のなかで一世代を経過した沖縄の県や市町村にこれをこなす能力がただちに備わっているわけでもない。…県(州)や市町村が委譲される膨大な内政事務をこなしていくのはたしかにむずかしかろう。…(しかし)琉球時代の簡素で包括的な地方政府の記憶を呼び覚ましながら、この困難を切り抜けていくことを考えてはどうか。”と指摘する。これに対して、かつて吉元元副知事が語ったことが思い出される。彼は、琉球政府時代を振り返りつつ、「多くの制約・限界はあれ、私達は一つの政府を運営してきました。」と「一国二制度」も含め「特別県制・自立県政」の展望とその可能性を強調した。(沖縄文化講座2002.5.15講演)
【※4】これも前掲加茂より。ここでは自治労プロジェクトが1998年に発表した「琉球諸島の特別自治制に関する法律案要綱(素案)」を意識してか(これは多分島袋さんも同様だろう)、“自治体から出発/まず県および市町村から、住民の議論と直接投票に基づいて、自治基本条例をつくるのである。…/条例から特別法へ/…沖縄基本法が国会で成立して沖縄の住民投票にかかるというのではなく、沖縄が全国の自治体や専門家の支援のもとにつくった基本法案を議員立法で国会に繰り返し提出し、多少の修正はあっても成立させる、という順序でなければ事はならないにちがいない。”
【※5】岸本真津/琉球列島暫定政府への道筋(うるまネシア第4号02.7.10)より。
 “独立へのプロセスを考えてみたい。一つの方法として、まず「海邦小国基本法」の制定のための運動なり、団体なりを立ち上げるというやり方があるだろう。これは日本国憲法の枠内であっても合法的に可能である。海邦小国立国推進協議会とでも仮称しようか。その協議会を中心として基本法草案、さらには民法、商法、刑法などの実体法、さらには手続法など、海邦小国がスタートした際に日常生活に必要な法令などの準備を始める。これは、米軍統治下の琉球政府時代の琉球の経験がものをいう。少なくとも、我々の先輩たちは、一定の枠のなかではあったが、立法、司法、行政とそのような「琉球国」の運営をやってきた経験がある。”


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