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◆沖縄5・18シンポジウム◆
来るべき<自己決定権>のために
  −沖縄・アジア・憲法−


『情況』2008年7月号
第二部・基調講演「沖縄の独立は3年くらいあれば可能だ」佐藤 優
パネリスト報告「民衆の連帯とは何なのか?」孫 歌
        「影の東アジア−−ああ、これが朝鮮だ」崔 真碩
        「琉球の自己決定権の新たな方向」松島泰勝
        「死者の記憶──沖縄の『思想資源』」仲里 効

沖縄の独立は3年くらいあれば可能だ


佐藤 優




 実行委員会からいただいたお題は「沖縄・憲法・アジア」ということですが、一番目の「沖縄」については「沖縄独立」という話にしましょう。あえて挑発的にやりたいと思うんです。そのほうが理論の輪郭が明らかになるからです。二番目は「憲法」の話。三番目は「アジア」。それで四番目は、私なりに考えて全体がどういう方向がいいのか、ということについて話したいと思います。ここで中心になるのは久米島の「堂のひや」の話です。

*沖縄の独立は可能

 まず沖縄独立に関してです。結論から言って、私は沖縄独立に反対です。その第一の理由は、独立した沖縄(琉球)共和国は、アメリカ、中国、日本という3つの帝国主義国に囲まれます。そのような環境で生き残るには多大なエネルギーがかかります。他方、沖縄国家の独立は可能と私は考えます。沖縄独立に関して、内地(ここでは沖縄以外の日本を内地と言います)の人々はもとより、沖縄の人々もその可能性を明らかに過小評価しています。沖縄独立は可能です。おそらく3年くらいあればできるでしょう。まずですね、沖縄の独立論云々と言ってもそれは「居酒屋独立論」じゃないか、圧倒的大多数の沖縄県民は独立なんて考えていないという議論がよくなされ、それが常識として通用しているところがあります。国家独立、民族独立、−−沖縄の人々は、日本人の中の2つの国家を作っていくという方向なのか、別の民族として国家を作っていくことなのかは、とりあえずここでは詰めないでおきます。いずれにせよ独立可能性についての過小評価があるのです。
 まず、「居酒屋独立論」という言い方ですが、すべての独立運動というのは居酒屋から始まっているんです。これはヨーロッパで見ていただければ分かるんです。パブであり、あるいはコーヒー・ハウス、ティー・ショップ、そこに入るのは誰でも自由なんですね。こういう場所で、「おい、俺たちちょっとコケにされてるんじゃないか」「ふざけやがって」と、こういう話を飲みながらするうちに、だんだん国家独立という方向へ向かっていくわけなんです。ですから、居酒屋独立論というものが出てきているということは、それは一つの独立へ向けた土壌だということです。ちなみに沖縄の人々が居酒屋独立論だと言うことは構わないんです、若干の自嘲であれ、アイロニーだからです。ところが、内地の沖縄の置かれた状況を理解しようとしない人間が居酒屋独立論だと言うことはいけないんです。それは揶揄だからです。言葉というのは、その中に言霊が宿っています。ですから、それを発声する人の誠意によってその言葉の内容が異なるものになるからです。
 さらにですね、住民の圧倒的大多数が賛成していないから独立ができないということは、ありません。1991年3月に、ソ連全体でソ連維持に関する国民投票というのをやったんですね。8割のソ連人が「ソ連維持」です。バルト諸国でも過半数が独立反対です。ところが、その年の終わりにソ連は崩壊してしまって、15の独立共和国ができたじゃないですか。過去3回、「ウチナー評論」という「琉球新報」の評論に、ルーマニア人とまったく同じモルドバ人という人たちがいるんですが、これがルーマニア人からモルドバ人となって別の国家を建てていくプロセスについて書きました。国家がどういうときに独立するかという興味深い実例だからです。簡単に言いますと、独立というのは県会議員が国会議員になりたいと本気で思って、県会議長が国会議長になりたいと思って、知事が大統領になりたいと思う、商工部長が商工大臣になりたいと思う、と。そう思うと瞬く間に実現するんです。住民全体にとっては非常に不利になってもそれでも実現するんです。この例は、東欧の崩壊の中でも、ソ連の崩壊の中でもよく見られる現象でした。ですから、去年、教科書検定に対する抗議行動として11万6千人という一つの物語なり神話ができたということがすごく重要なんですね。
 あの11万6千人という数字は、一つ一つカウントすればそこまではいかないなということは、集会の主催者や参加者がいちばんよく知ってます。他方、内地の沖縄に対する目つきのよくない連中が、「航空写真で数えてみたら1万数千人しかいない」などと言うと話が変わってきます。沖縄戦の意味が何かを理解しようとしていない人間がアヤをつける。そんなことになるんだったら断固11万6千でいこう、とこう思うんです。沖縄の人々の心理を考えた場合、こうなるのは当たり前なんです。こうやって神話を作らせるようなことをしているのは、沖縄を軽く見てる奴ら、内地の一部の有識者なんですね。ただこういう雰囲気になって、仲里利信県会議長あたりが、けっして革命的と言う人ではないですからね、その人がカーッとする。この雰囲気というのは、独立の土壌を作るのに明らかに貢献しているわけなんです。この辺のことは、ナショナリズムの成立過程とか、ソ連や東欧の崩壊再編過程というものと比較してみると、私は端的に言いまして、1987年のバルト諸国の様子に今の沖縄は似ているなと思うんです。そして、翌1988年にはソ連からの分離独立の動きが本格化しました。そしてその3年後の1991年にソ連は崩壊しました。ですから、今後、沖縄がそのまま内地との統合の力を強めていくのか、あるいはどんどん独立の方向に行くのか、これは誰も分からないというところです。
 ただ、今のような無為無策なことを中央政府がやっているのならば、これは独立の方向に拍車がかかります。私は母親が久米島の出身で、父親が東京の出身者です。私が沖縄独立に反対する理由はここにあります。私にとって父の国と母の国は一つであった方がいいからです。その意味で私は反沖縄独立論という偏見を強く持っています。ですから、偏見があるという前提で私の話を批判的に聞いていただければ幸甚です。
 私の母親の姓は上江洲です。沖縄出身の出版界の人間や新聞記者は結構多いんですね。沖縄の姓を名乗っているか、内地の姓を名乗っているかで、かなりアイデンティティの違いはあるんですが。いずれにせよ、そういった人たちと話すときによく言うのです。「我々は沖縄のアイデンティティって持ってないよね」「そうだね」。沖縄系内地人は、石垣島とか、久米島とか、あるいは今帰仁であるとか、そういった個々の地域のアイデンティティは持っているんですが。
 ただ最近は、沖縄のアイデンティティを感じる時が多いんじゃないか。どういう時か? 少女に暴行事件が起きる。それに対して内地の報道姿勢があまりに冷たい。あるいは、教科書の検定問題において、沖縄に対する理解を内地の人間はあまりにもしない。そういう時に、我々は「よくもコケにしやがって」ということで沖縄(人)という意識を持つんですね。アーネスト・ゲルナーが、民族というのは負の連帯意識から生まれてくるのだということを言ってるんですが、それを実感しています。しかも沖縄に直接住んでない我々の感情は、いわゆる遠隔地ナショナリズムに親和的です。
 IRA(アイルランド共和国軍)をサポートしているのは現地のアイルランド人じゃありません。アイルランドにほとんど住んだことがないアメリカやカナダのアイルランド人です。それと同じような遠隔地ナショナリズムが、明らかに僕たちの中で頭をもたげているな、ということを感じるわけなんです。ですから沖縄の独立ということを内地はもっと深刻に考えないといけない。この辺が分かる優れた右翼の人たちがいます。国策捜査で逮捕・起訴され5月15日に収監されてしまいましたけど、参議院議員の村上正邦さんはその一人です。沖縄の教科書検定問題が起きた直後に、この人が私にはっきりと言いました。「手榴弾を軍が渡しているんだったら、それだけで強制じゃないか。民間人が手榴弾をもって戦闘することなどない、何をつまらない議論をしているんだ」と。それから、右翼の月刊誌『月刊 日本』という理論誌が、曽野綾子さんに対する実証的で徹底的に厳しい批判をしてますよね。大江健三郎さんのテキストを読まずに、右派、保守陣営の一部が、「大江健三郎と岩波書店を法廷に引き出すことに喜びを感じている」ことが知の退廃だ。しかもその中に沖縄に対する差別的な眼差しがある。と、そのことをはっきりと内地の右翼に言っている。これは私は日本の保守陣営の救いじゃないかと思うんです。特に山崎行太郎さんという文芸評論家が説得力のある言論活動を展開しています。とても面白い「現象」です。

*書かれていない憲法が沖縄にある

 さて二番目、憲法についてです。川満信一さんの憲法はとっても面白いと思うんです。なぜ面白いか?あの憲法は構築された憲法ではないからです。実は、目に見えていない憲法、書かれていない憲法というのが沖縄に存在するんですね。憲法というのを文字にしないとダメだという時は、文字にしないと我々のアイデンティティなり権利が保全されないという時だと思うんです。ですから、この目に見えない憲法、我々が持つ沖縄性ということがどういうことなのかを議論してみないといけないと思います。外国のいろいろな共和国憲法の例を持ってきてそれを沖縄に適用しようとしてもうまくいかないです。
 沖縄の政治論、今日のシンポジウム第1部の議論の最後1時間くらいを聞いていたんですが、率直に言って、問題なのは沖縄の有識者、それから沖縄県民全体ですが、あまりに優等生シンドロームに陥っていることだと私は思います。優等生すぎる。これは謝花昇、それから伊波普猷、仲原善忠、あるいは比嘉春潮や他の先生にしてもみんな共通していることだと思うんです。沖縄からの発信というのは、文学、詩、「おもろそうし」研究、あるいは郷土史研究の中の個別の事象、昔話を拾ってくるとか、それは実に素晴しいものが山のように蓄積されている。ところが政治言語になった場合にはステレオ・タイプになってしまうんですよ。それから歴史の通史になった場合、特に琉球政府と沖縄県の教育委員会がまたがって作ったあの「沖縄県史」という、全27巻からなる、あの本は素晴らしいものだと思います。ただし通史のところがまったくおもしろくない。通史になると借り物の議論になっちゃうんですね。要するに、日本共産党・講座派流の絶対主義天皇制の下では反封建的な……云々。その鋳型の中に押し込めて琉球・沖縄で起きたことを一つの物語として作ろうとする。それからアメリカ帝国主義と二重に従属していて……とか。そのようなフレームの中で、できるだけ外側で通用して立派な言説を立てているなと思われるようなものを優等生的に受容してしまう性向があると思うんです。これは、辺境でよく見られる優等生シンドロームだと思います。これを打破して、もっと開き直ってもっと乱暴になる必要があるのではないかと、私は思うのです。沖縄県にはそもそも137万人しかいなんですから。民主主義なんていうものも信用しちゃなりません。あれは最終的に数の論理で押し切るわけですから。日本の総人口の99対1だったら勝てるわけがないんです。ですから、こちらは最大限要求をしないといけないんです。ごねてごねてごねて、聞き分けがなくて。それでもどこかで均衡に落ち着くわけですから。それで取りたいものの10分の1くらいがやっと取れる、これが実態だと思うんです。そこのところが、どんどん優等生になって素直になりすぎている。これは最終的に日本全体のためになりません。沖縄という異質な文化を持った空間がある、それが入っているということが日本という国が生き残るためにとても役に立つんです。それだから、沖縄は自らの異質性についてもっと積極的に語るべきだと思います。そして、異質な沖縄を包摂する寛容な原理の重要性を内地の政治エリートに自覚させるのです。
 沖縄の憲法、私はあえて「国体」という言葉を使います。このことについて私は川満先生に注意されました。「『国体』なんて言葉を使うべきではない、それは戦前の天皇制の……」、いや、それだからまさに使わなければいけないと思うんです。「国柄」と、今、内地の保守の人たちは言い替えていますが、「国柄」と言うと文化的で柔らかいものになる、しかし「国体」と言うと、そこの中には国民小(学校)中学校の往復ビンタから始まって軍隊の内務班、それから第2次世界大戦中の日本軍の様々な行動、これが入っている。この暴力性をともなう国体について議論しないといけないんです。沖縄も、今のところ日本の一地域ということになっているから、国家としての暴力を自ら行使するという問題から免れているわけですね。ところが、独立国家を作っていこうと作業をしていく場合には、自分たちの持つ暴力性をどのように位置づけていくかと言う問題も出てくるのではないかと思うんです。
 ただいずれにせよ、現時点において、私は沖縄が安全保障問題に対して絶対に対案を出すべきではないと思います。対案を出せと言った場合、私は官僚でしたからよく分かるんですが、沖縄から対案が出てきてその中に良いものがあったらそれを政府のイニシアティヴとして使います。それは、これだけ言うことを聞いているじゃないか、我々は最大限やっているからお前たちは言うことを大人しく聞け、という形で使うんです。それから、それが国際政治の現実とあてはまらないようなものである場合は、あえてそれを公の場所で明らかにしてあざ笑うんです。こんなにレベルが低くて国際政治のことも分かっていない、こんな人たちに発言権があるんですかね? と。ですから対案なんぞ出さないで、自分たちの最大限要求を出す。「基地はいらない」。じゃあテロはどうするんだ?「テロもいらない」。じゃあ雇用はどうなるんだ? 「雇用も確保しろ」。無茶苦茶じゃないか! 「知ったこっちゃない」「それに関しては税金を払ってる」(会場から拍手)。所得税も払っているし消費税も払っている。その税金でお前ら官僚は食ってるんだろ、俺たちの要求、私たちの要求を満たすことを考えるのはお前たちの仕事だ、私たちにかっつけるな、とこういう姿勢を断固通すべきだと思うんですね。もしそれで対案を出せということならば、「分かりました独立させて頂きます、国家主権も頂きます」。こういうことだと思うんです。こういう取引をする必要があると思います。
 正義闘争と政治闘争は分ける必要があります。沖縄の場合は正義闘争を掲げる。絶対に我々に正しいんだ、と。真実、正しいんです。例えばこの前の教科書検定を見てみましょう。私はあの検定は完全に沖縄の勝利だと思います。ところが「沖縄タイムス」も「琉球新報」もそう書かなかった。何も変わっていないという趣旨のことを書いた。みんながっかりしちゃいますね。我々がどれだけ努力をしても無駄なんだと実際に教科書に書かれた内容を見てみれば、前の記述が改善されているところもある。そもそも教科書で歴史認識が作られるというのがフィクションです。ろくでもない教科書だったらそれにあわせた使い方があるんですよね。こんなひどい教科書に改定してこれはとんでもない! と授業で教えればいいんです。重要なのは何か? 最大限要求を出すが、政治的にはしたたかな妥協をして具体的な成果を獲得することです。正義闘争の目標にいつも行きつかないということから政治的に負け癖がつくのはよくないです。正義としてはこれを要求するが、政治としてはこれを取る。これが重要だと思います。今回の教科書問題に関しても、渡海紀三朗さんという人は、私は個人的に何度かお付き合いしたことがあります。人間として誠実です。人間として誠実な部分にいっさい目を向けないで、ステレオ・タイプの旧来のマルクス主義的な切り方で、権力者は誰だとやってしまうと、獲得できるものも獲得できなくなってしまう。
 例えば私は、鈴木宗男さんと一緒に北方領土問題に取り組みました。私が鈴木宗男さんを好きになったのは沖縄絡みの理由があるんですね。彼は沖縄北海道開発庁長官をやっていた。ある日、沖縄開発庁長官室に行くと、机の上に海図が広げてあるんです。「先生、何やってるんですか?」と聞いたら、「俺、対馬丸を引き揚げたいと思うんだよ」。沈んだ学童疎開船の対馬丸をなんとしても引き揚げたいという陳情が沖縄から来ているんだ。結構深いところで技術的に引き揚げられるかどうか分からないが、場所は確定できるはずだ。横着なのは厚生省の連中だ、「そんなことはできません」「船に乗っていた人にとっては海がいちばんいい墓場なんです」と言った、と。鈴木さんは、「ふざけるな! これは学童疎開船だぞ。もう厚生省はいい」と言って、独自の手法で対馬丸を見つけることを考えた。彼は昔、中川一郎さんが大臣の時に科学技術庁の大臣秘書官をやっていたんですが、その時の人脈をちゃんと持ってるんです。科学技術庁には深海潜行艇がある、と。それから防衛庁に鈴木さんに近い連中がたくさんいます。防衛庁ルートでアメリカに照会し、対馬丸が沈められた日の戦況報告を取ったんです、それからその時の風の流れ、潮の流れを調べました。それで科学技術庁に指示をして潜行させて一発で見つけたわけです。そしたらその瞬間から橋本総理が、「いや宗ちゃん、いいことやってくれた。是非これは私の成果にしてほしい」と。厚生労働大臣の小泉さんなんて最初なんの関心をもっていなかったのに、最後の段階になって、「是非船に乗せてくれ」と。こんなドタバタ劇をやったわけなんです。その時、私は初めて鈴木さんに、「私は実は母親が沖縄の出身なんです。叔父は兵庫県の尼崎市で県会議員をやっていた、上江洲久といって、上江洲智克というのが本来の名前なんですけれども、復帰運動を一生懸命やった人です」と言ったら、「聞いたことがある」と。私の叔父というのは沖縄独立論と復帰論の間をずっと揺れまして。日本共産党が最初独立論を掲げていたのに、ああいった形でいつの間にか総括もせずに復帰論に変わった。その中で沖縄の若者たちは本当に人生が滅茶苦茶になった、それを見て社会党左派に行ったんです。ただ心情的には社会大衆党に非常に近い人でした−−そんな話をしたら、鈴木さんも、「実は、沖縄戦で1万人以上死んでいるのは、沖縄県民の人と北海道出身者だけなんだ。だからあの戦争は、北海道にとっても特別な意味がある。大きな負担があったんだよ。だから俺は対馬丸の問題も一生懸命やりたいと思った。北海道の人々と関係している問題だ、俺の中ではそうなっているんだ」と。その時から私は、保守の政治家である鈴木宗男さんのこういうところが本当に信頼できるなと思ったわけなんです。野中広務さんにしても沖縄の問題には真面目に取り組んでましたし、小渕恵三さんにしてもそうでした。ところがそういう内地の保守政治家たちがいなくなった後、この為体なんですね。日本人一人一人がみんなばらばらになって、すべての価値がみんなカネで換算できると思うようになった。カネを貯めていくことが良いんだという感じになった。同胞意識がなくなっちゃったんですよ。
 例えば北方領土問題もそうです。北方領土問題に対するデモが去年の12月の始めにありました。その時に産経新聞は社説で「このデモに結集しろ」と書いたわけです。全体で200人くらいのデモで、そのうち動員がかかっているのは150、60人ですから、産経新聞が社説で書いても40人くらいしか来ないの?ということになるわけです。人のところの(沖縄)集会の数字を数えている場合か、自分の足許の心配をしたほうがいいんじゃないか、と産経の人たちに言ったんですが。しかしこれは由々しき事態ですよ。北方領土問題に関する官製デモで200人、最終的には200人は越えたとしても、日本国家として領土要求を行なっているにもかかわらず、この程度しか人が集まらない。それから竹島問題、どこに行っちゃいました? それから拉致問題に対する取組みについても確実に世論の熱意がなくなっている。これと沖縄に対する冷たい目というのは、私は根っこは一緒だと思います。新自由主義です。これに対して沖縄でなぜ連帯が出てくるのか? 新自由主義と違う価値観があるからです。その価値観はまだ文字にはできない。文字にはできないけれども、そこに僕は沖縄の憲法があると思うんです。ですから、沖縄の憲法を今から発見していくという作業が今から重要になってくると思います。

*沖縄をめぐる3つのシナリオ

 三番目のアジアについて話を進めます。冷戦後のアジアと世界。これは露骨な帝国主義の時代が反復してきたんだと思います。冷戦もろくな時代じゃない。その後の時代も帝国主義の時代でろくな時代じゃない。時代というのは悪い時代とうんと悪い時代が反復して起きるんだ程度に見ておいたほうがいいと思います。その状況の中で、日本の指導部は三つのシナリオを考えてるんですね。
 一番目は親米主義です。ちなみに外交官は私を含めてみんな親米派です。しかしそれぞれ幅があります。アメリカは素晴らしいです。ケツも拭きます、金袋も洗います。最後までついていきます−−こういう形の親米主義があります。これに対して、強いものとは喧嘩はしないほうがいい。アングロサクソンは戦争に強いから喧嘩はしない−−その程度の親米派もいます。この幅があるんです。もちろん私は後者です。
 ところで、親米主義者になると今日本が抱えている問題は二つしかないんです。集団的自衛権の問題、要するに集団的自衛権をちゃんと機能するようにする問題と、沖縄の基地問題です。結論から言うとどういうことか。沖縄の基地は沖縄にかっつける。現状のまま、それよりももっと負担を増やす。それで日本全体の安全保障が守られるんだから、みなさんが運は悪かったと思ってあきらめてください。本音はこういう話です。こういう理屈に付き合う必要はまったくないわけですよね。
 そうそう、道州制に関して、私は「沖縄タイムス」や「琉球新報」の記事が心配。道州制で、沖縄は独自の州を持ちたい、それを先取りしないといけない、と。心配しないでも大丈夫です。沖縄は独自の州になります。なぜならば基地問題を沖縄に全部かっつけたいから。だから今やるんだったら、「沖縄だけ独自の州というのは勘弁してください。九州と一緒にやって九州各県と基地負担は等分にしましょう」とこれくらいのことを言って脅かして、向こうからお願いされて一つの州になるくらいにしたほうが、取るものを取れると思いますね。交渉論として見る場合、入口が間違えていると思います。
 二番目の考え方はアジア主義です。日本はアジアの国である。だから中国と仲良くしていく、ということ。ただこれには、私は非常に批判的です。なぜかと言うと、それは基本的に大東亜共栄圏の論理と一緒だからです。ただし支配するのは日本じゃなくて中国です。それからあともう一つ、沖縄の場合、中国と一緒になった場合ですよ、伊波普猷さんの回想なんかを読んでいると、自分が子供の頃日清戦争があったんだけどクラスの半分くらいの連中が清朝の勝利を祈ってた、と。それだから微兵制度もないわけでした。沖縄の自己意識形成において中国との関係というのは非常に重要なわけで、過去の歴史のどの点と線とで繋ぐかということで別の歴史像ができてくるわけですよね。例えば、『球陽』は漢文で書かれている。それに対して『おもろさうし』は平仮名で書かれている。内地でアクセスできる沖縄史の資料となると『球陽』よりも『おもろさうし』の流れになるわけです。それは自然にそうなってくるでしょう。日本との連続性が高くなるからです。裏返して言うならば、点と線のつなぎ方次第で別の沖縄史も組み立てることができるわけなんです。その場合、これは孫歌先生からご批判を受けることを覚悟して言うわけですけれども、中国と一緒にアジア主義の方向に向かって日本がやっていく、その中で沖縄が中国と特殊な関係を持っているということになると、これは大丈夫かな? と。中国の持っている普遍主義に同化されていく危険性というのは、内地によって大和の文化によって沖縄が同化されるよりも強いのではないか、と。中国のチベット、ウイグル、さらに特に悲惨なのは私はモンゴルだと思う−−内蒙古の状況を考えた場合に、沖縄人が民族になるか日本人の中の特殊なグループにするかはとりあえず留保しておきましょう、その我々のアイデンティティを維持していくことが、日本と一緒にやっているのと比べ容易になるのか否か? ここを考えた場合です。
 ただし沖縄が独立した場合、経済的に中国と手を組むことには大変な魅力があります。それは東シナ海の開発を中国と一緒にやって、もしガス田が当たれば沖縄は東洋のクエートになりますので、今後一切働かずにサウジアラビアのように楽しく暮らすことができる。そこは魅力なんですが、あえて苦しい日本との関係を選んだほうがいいんじゃないかと思います。
 3番目は地勢学的な発想です。国家というのは全部悪いものだから、悪党と悪党を適宜歯向かわせてそのバランスの中で生き残っていく、という発想ですね。その観点においては、ロシアと日本の関係を近づけることによって中国を牽制する、こういう考え方になっています。それからロシアにエネルギー依存度を高めることによって、アメリカの中東での戦争の影響を受けないようにしていく。こういうやり方で地勢学的な考え方をする人は、現実的なシナリオとしてはロシアとの関係を強化するということになるわけです。ただ、2番目、3番目のシナリオを今の日本政府が選択する可能性はまずないでしょう。福田さんはアジア主義に傾いてますけどね、外務官僚たちにその発想がないからです。

*「堂のひや」モデルの重要性

 最後に私自身は、久米島の「堂のひや」のスタイルがいいと思うんです。堂とは久米島の村の名前で、「ひや(親方)」は村長のことです。15世紀に三山統一の時の影響で沖縄本島から按司が入ってきた。按司に揉み手擦り手で擦り寄って徴税請負人になるんですね。これは『おもろさうし』にも書かれています。ところがですよ、第二尚氏ができて久米島討伐に来る。それで中城の按司が亡ぼされてしまう。自分の息子だけは頼むと言って按司は逃れていくわけですが、「堂のひや」は按司の息子の髪の毛を結ってやると言って首を絞めて殺してしまうんですね。それで首里城に来て、「前の按司の一族は滅びました。ここは是非私を按司にして下さい」とお願いして任命してもらった。喜びいさんで帰って来たら馬から落ちて脇差が刺さって死んでしまった−−という因果応報の物語なんです。同時に「堂のひや」が久米島に蚕も導入したし、太陽石という形で日時計も作ったという伝承もある。昭和15年、1940年に、仲原善忠が「久米島史話」という小さい本を作っているんですが、その中でこう言ってるわけですね。「この堂のひやこそが地域の英雄なんだ」と。確かに按司の子供を殺す必要はなかったかもしれない。残虐なところもあった。けれども、按司は外から来て久米島の住人から年貢を取り立てるようなよそ者じゃないか、「堂のひや」たちも心から従っていたわけじゃない、そんな奴に殉死するような必要はないし付き合う必要はない。天命が離れたんだからそんなものは放っておけ、そういう発想なんです。「これが英雄なんだよ」というわけなんです。これは、仲原善忠は自分の故郷のことだから、普段のあの極端な同化傾向と異なる方向に筆が滑ったんだと思います。ただし、このメッセージをこれから戦争に直面する久米島の同胞たちに残しておきたかったんだと私は解釈しています。第2次世界大戦中、久米島には海軍が陸戦隊を上げた。米軍の部隊が上がってきた。そして集団自決が起きるような状況になったんですが、当時の久米島の指導者だった吉浜さんという人は、実は陸軍の憲兵出身なんです。彼は海軍陸戦隊の鹿山隊よりは百倍も軍隊の内在的論理についてよく知っている。吉浜さんをはじめとする久米島のエリートは慶良間なんてアメリカ軍が住民皆殺しだとか残虐行為をしているという事実はないという情報を手に入れ、「この状況の中でアメリカと対峙することはしない、日本軍と米軍の間で中立を維持する」という方針を徹底したんです。そのために久米島においては集団自決は起きませんでした。しかし住民虐殺が起きました。20人の住民の中には朝鮮タンメイと呼ばれていた朝鮮人の一家がいた。私の母親の家の斜め後ろに住んでいた人です。その一家が大変悲惨な殺され方をされて、家に火をつけられた。
 私はこの「堂のひや」モデルというのが、これから沖縄について考えていくときにはとても重要なんじゃないかなと、こんなふうに思います。
 それではちょうど時間になりましたのでここまでにします。


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民衆の連帯とは何なのか?


孫 歌




 佐藤さんのご講演を面白く聞かせて頂きました。彼に対して非常に親近感を持つようになりました。こういうきっぱりした姿勢は今の知的世界の中で最も欠けているものだから。ですから、中身はともかくとして、私はまず佐藤さんの今日の発表の姿勢は大歓迎でした。さらに言えば、もし佐藤さんの表したパワーは沖縄のパワーだと、この場にいるみなさんが納得できれば、私はさらにそのパワーを尊敬します。
 早速本題に入ります。私は同じように3つのポイント、沖縄、憲法、アジアという順でやや佐藤さんと違う意見を述べたいと思います。

*沖縄

 まず沖縄について。佐藤さんのご発表の中で論じられた沖縄のこれからの選択の困難さ、あるいは可能性について、私は基本的に反対する気がございません。ただし、彼はあくまでも外交官の発想で述べましたので、それはこの問題のすべてではないんじゃないかと、そういう意味で、佐藤さんの意見を否定する立場ではないけれども、やや違う角度と違う観点から同じ問題について自分の意見を述べます。
 どうも佐藤さんの目から見ると、私が中国の代表として見られるようです。あえて言えば、私は中国の東北出身で、万里の長城の外で生まれた人間なんです。ですから、代表権はございません。しかし、仮に私が北京で生まれたとしても同じ話をします。私は中国を代表できません。というのは、それは国民国家の名称ですから、賛成するか反対するかはともかくとして、一人の人間が一つの国を代表できる場合はごく少数の場合しかないです。場合によれば、佐藤さんは転職しなければ、日本を代表できるかもしれないです。私にはそういうチャンスはまったくございません。思想史研究者ですから、ですからそういう意味で、つまり代表権を否定する意味で、逆に沖縄の問題を、沖縄人だけの問題として設定したくありません。私はあえて沖縄の問題は自分の問題として考えたいと思います。沖縄人ではないですので、発言権は、ある意味では資格もないかもしれません。しかし、沖縄で発生している歴史的な出来事と今現在進行中のいろんな出来事は、私にとって人ごとではありません。つまり、考える人間としてある危機感を共有することは充分に可能だと思います。そういう意味で、私は沖縄の問題は私の問題でもあると考えております。
 何年か前に、台湾である人たち、運動家と知識人たちと一緒に、竹内好の50年代始め頃に書かれた「国の独立と理想」という文章を一緒に議論したことがあります。その文章の中で竹内好は、国が独立するか否かということを考える前に、まず理想があるかないかということを追究しなければならない、という問題を提起したんです。その時、ちょうどサンフランシスコ平和条約(その条約によって沖縄はアメリカの軍政の下に置かれた)が結び付けられる時期にあたりまして、その時にそういう形で日本国は独立できると考える人間に対して竹内好はそういう独立は独立とは思っていないと厳しく批判したんです。むしろ、長い間独立できなかった中国には独立の精神、理想があるから、はるかに日本より独立してますよ、と。彼はあえて定式を破りまして、その精神構造の面から潜在的な目に見えない独立の問題を論じました。

*憲法

 二点目に移ります。憲法について思う時に、佐藤さんの目に見えない憲法の存在という指摘は、異なる方向からまったく賛成です。憲法というのは活字で書かれたものだけではないです。民衆がそれを認めて初めて憲法は実際の効用を発揮できます。そうじゃなければただの一枚の紙でしかないです。しかし、ここで論じられた憲法の二つの草案については、私は重く受け止めます。この二つの草案の中で書かれたのは憲法そのものではなくて、むしろ憲法という形での沖縄の理想についての追求の姿勢、そしてその理想を追求するときに具体的に何を守るか何を否定するかという思想的な課題が十分に出されたと思います。そういう意味において、台湾で竹内好の文章を読んだ時の、台湾の友達の反応をつくづく思い出しました。彼らは竹内のあの50年代初頭の文章を聞きまして、こう言ったんです。「我々の中で行われている独立運動は、はたして理想があるのでしょうか?」。彼らは、独立か、統一かという目に見える目標をある意味では第二義にして、第一義として台湾という地域をいかに理想のある、人間にとってもっと良い社会になるように作れるか?という課題を自分に課していたんです。そのきっかけになったのは、竹内好という台湾についてまったく一言も論じたことがない日本人の文章でした。そこから私がさらに考えさせられたのは、竹内好が50年代の冒頭に出した「国の独立と理想」という課題は、ひょっとすれば今の沖縄の状況とかなり共通点を持っているのではないか、ということです。そういう意味において、日本の戦後間もなくの社会に存在したある健全な思考は、沖縄の人たちにとって、台湾の人たちにとって、そして中国の人たちにとっては、決して人ごとではないんじゃないかと思います。

*アジア

 三番目の問題、アジアに入ります。中国は、今大きな国として、脅減を常に周りの国に感じさせるという事実は否定できません。しかし、思想史研究者として私は違う風景を見ているんです。中国大陸は、むしろ、沖縄に似ているような存在だと、私はそういうふうに考えております。もちろん外交官の立場と違うという前提で、私が見ているのは、中国社会の中で形成していない秩序、その秩序と表に形成された国家の制度の間の大きなギャップがあります。もし視点を国家という角度に置けば、見えてくるのは制度上の、つまり体制化された部分しかないです。混沌たる中国の同時代史は見えてこないわけです。混沌たる中国の同時代史の中で私も生きておりまして、そこである連帯の可能性を痛感させられました。第1部で川満信一先生がご提言されたように、例えば台湾と沖縄と済州島、この3つの地域の間にある種の共通した憲法ができるとすれば、私はこの発想をさらに精密化していきたいです。そのような憲法は誰によってどの理想で作ることができれば、その憲法は我々の憲法になるのか? 民衆の連帯とは何なのか?
 この追求はまさにアジアに対する追求だと思います。私の考えでは、アジアは決して国と国の関係ではないです。佐藤さんの言った通り、民衆たちがいくら反対しても国はやろうと思えばやっちゃいます。その通りです。どういうふうにやらせないかという課題は、我々民衆の課題なんです。ただし、この場合にはもう一つの厄介な問題があります。民衆というのは、多数の存在、一つの実態ではないです。さまざまな違う立場に立っている人たちが民衆です。民衆の間でつねに激しく対立して矛盾し合って闘争するわけです。そういうものがなければ混沌たる歴史というものもないわけです。歴史はなぜ政治家の考え通りにいかないかと言うと、民衆という厄介な存在があるからです。ですから、この民衆という混沌たる、互いに緊張関係を持ちながら歴史を動かすという力の中で、私たちはいかに連帯を作るのかというのがこれからの課題だと思います。



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影の東アジア−−「ああ、これが朝鮮だ」


崔 真碩




 ハイサイ、アンニョンハセヨ、ニイハオ! 崔真碩です。佐藤さんも孫歌さんも時間を完璧に守られていてプロというか、すごいなと思うのですが、僕はまだ名もなくて、僕のことを知っている人はおそらく誰もいないと思うんですが、簡単に自己紹介しますと、私は、駆け出しの朝鮮近代文学研究者であり、テント芝居「野戦の月」の役者です。学者で役者のチェ・ジンソクです。どうぞよろしくお願いします。私が今日お話したいのは、学者としての発言というよりは、表現者としての発言です。ここは美術館だから、いいですよね? 表現というのは目に見えないもの、死者の存在であるとか、記憶をすくいとるものです。ちょうど今、一階の展示室で、戦争の絵の展示(「情熱と戦争の挟間で−−無言館・沖縄・画家たちの表現」)をやっていますよね。僕は午前中ずっと見ていたんですけど、ほんとに見ていると暗くなって。見てよかったと思うのですが、おかげで力が抜けていて(笑)。でも頑張ってやりますから、最後までお付き合いください。

*沖縄で目に見えないもの、それは朝鮮人の死者

 私がお話したいことは一つです。目に見えないもの。沖縄で目に見えないもの、それは例えば、朝鮮人の死者のことです。最初にお断りしておきたいのは、私が朝鮮人の死者のことを語るのは私が朝鮮人だからではないです。どういうことかと言うと、私が自分のことを朝鮮人と言えるまでにはものすごい時間がかかり、ものすごい自分の解体を経てここまで来てるんですね。詳しいことは新川明さんとの往復書簡(注:『沖縄タイムス』掲載)を読んで頂きたいのですが、僕にとって、あるいは在日のみんなにとってそうだと思うんですけれども、朝鮮人と名乗ることは一番怖いことなんです。日本社会は、北朝鮮との関係が悪くなったりとか、あるいは植民地時代の記憶ですよね、気まずい記憶を喚起させるから、朝鮮と呼ぶべきところをすべて韓国、韓国と呼ぶようになった。ほんとうはそこは朝鮮と言うべきだろうというところを、ぜんぶ韓国と言っている。例えば簡単な例ですが、NHKのラジオ講座、10年前までは「朝鮮語講座」だったんです。それが今は「ハングル講座」です。また、大学のカリキュラムを見ると、10年前は語学の講義名は「初級朝鮮語」とか「上級朝鮮語」だったんですが、今は原則を守っているところはほんとに少ないです。朝鮮語は韓国だけの言葉ではなくて、朝鮮半島の言葉ですから。でも今はほとんどが「韓国語」とか、「コリア語」と英語に逃げてる場合もあります。あるいは、ほんとうに何も分かってないなと思うんですが、「ハングル語」っていうのもあるんですよ。ハングルというのは平仮名やカタカナと同じように文字言葉の意味なので、だから、「ハングル語」と言うと、「平仮名語」とか「カタカナ語」と言っているようなものなのですね。そこまで行っている。何も分かってないでやっている。そういう日本社会の動きはここ10年のもので、90年代後半のミサイル発射から拉致問題、核実験、この一連の動きの中においてです。北朝鮮バッシングが激しくなればなるほど、「朝鮮」という言葉は禁句、あってはいけない存在になっているんですが、それを一番怖がっているのは、日本人ではなく、当事者だと思う。日本人の目に見えないところで、朝鮮籍の人が韓国籍を取得したり、さらにはそれをすっ飛ばして日本に帰化している。僕の身の回りでもそういうことが具体的に起きています。
 僕はずっと韓国籍ですが、そうした状況の中で、僕はあえて朝鮮人と言わなきゃ、と思ったんです。その最大のきっかけは、台湾に行ったこと、沖縄に来たこと、そこで客死した死者を感覚するようになってからなんです。そのことをお話しします。……

*台湾での体験、朝鮮人が住んでいた寮

 最初に台湾での僕の体験をお話しします。僕は一年半前に台北に行きました。その時、台北の近くにある。今は閉鎖されて観光地化されて資料館ができ始めている炭鉱に行ったんです。その炭鉱に関する話を地元の人に聞く機会がありました。戦前、特に戦時期、その炭鉱には日本人の技師と台湾人と原住民と、あと朝鮮人がいたそうです。その四者は対等、フラットな関係ではなくて、やはり序列があるんです。今お話した順番に序列があって朝鮮人は最下層。台湾人の下が原住民で、その下が朝鮮人だったんです。その炭鉱の資料館の中には歴史的な資料が残っているんですが、朝鮮人に関する資料はありませんでした。また、炭鉱の周辺には当時炭鉱で働いていた日本人と台湾人が住んでいた寮が残っていました。今は別の用途で使われていますが。その建物の姿とか恰好よさとか、立地条件、寮の名前で、日本を頭とするその序列のありようが露骨に現われていました。例えば寮の名前ですが、日本人技師が住んでいた寮の名前は「天皇寮」です。台湾人が住んでいた寮は「東京寮」です。この二つの建物は残っています。特に日本人の住んでいた寮は、地元のお金持ちの人が住んでいるか、ペンションみたいものになっている立派な庭がある建物でした。原住民が住んでいた寮は、もう建物は無くなってるんですが、「北海道寮」です。東京の下みたいな感じなんでしょうか。最下層の朝鮮人が住んでいた寮は、何だと思いますか? 長元さん、あててください(会場から「琉球寮」)。いいえ、琉球ですらないんです、哀しいことに。名前が無いんです。原住民の寮はだいたいあそこにあったよ、と記憶されてるんですが、朝鮮人の寮はどこにあったのかも分からないと言うんですよね。僕はこれからその炭鉱のことをもっと調べたいんですが、名前が無い、どこにあったかも分からないと言われた時に、「ああ、これが朝鮮だ」と遥か遠くを見ながらしみじみと感じました。
 僕にはその時の体験がずっと残っていて、何で残っているのかなと後から考えたら、沖縄にその前に来ていたんです。沖縄の友人を通じていろいろ案内してもらい、ほんとうにたくさんのことを教わって、新川さんや屋嘉比さんの論考に救われた思いがしたくらいなんですけれども、それと同時に、沖縄で客死した朝鮮人のことを知りました。沖縄の空気と台湾の空気はすごく似ている。近いから似ているのは当たり前なんですけどね、亜熱帯の湿った空気とか土地の感覚とかが似ていて。それで僕の中で台湾と沖縄が繋がるんですが、それとともに、台湾と沖縄で客死した朝鮮人が繋がりながら、僕の中で、東アジアが、別に東アジアと名づけなくてもいいんですが、流行の言葉で言えばそういう関係ができてくるんです。「朝鮮って何だろう?」という問いとともに。今年35歳になるんですが、30歳過ぎてからです。勇気を持てるようになって、強くなって、歴史感覚も豊かになって、客死した朝鮮人の死者の存在を通して東アジアを感覚するようになっています。

*沖縄は内に他者として台湾、朝鮮、アジアを抱えている

 次に沖縄の話をしたいのですが、さっき第一部でも話に出ましたが済州島四・三事件、さらには済州島四・三事件が拡大するようにして起きた内戦としての朝鮮戦争において、人間がなし得る最も野蛮なやり方で殺し合った。地獄でもそんなことしない。朝鮮半島は、虐殺の記憶からまだ自由ではあり得ていないんです。それは沖縄戦における集団自決の記憶を抱える沖縄と同じだと思います。60年経ったって無理ですよ。だって、韓国では加害者がまだ権力を持って生きているような状況ですし、日本はまだ集団自決の歴史的事実とちゃんと向き合おうとしていない。しかし、沖縄がもっと悲惨なのは、地獄でもしないことをしてしまった、その大きすぎる傷を抱えているだけじゃなくて、加害の記憶もあるということ。どうしようもない、抱えきれない傷がある。沖縄戦の時、沖縄人によって殺された朝鮮人がいる。今でも嘉手納基地の滑走路の下には、強制連行されて連れて来られた朝鮮人の死体が埋まっていて、まだ骨があるんですよ。ここから近くですけれども、そこにまだ眠っている。骨があるんですよ、目に見える形で。そして、客死した死者は、目に見えない形で、弔われないまま、沖縄の地を這っている。目には見えないけれども、消えたわけではけっしてない。
 沖縄の死生観というのは死者と共に在るものだと僕は理解しているので、きっと朝鮮人の死者を感覚する。ただ感覚するだけじゃなくて、内在化している、つまり内に抱えている死者として向き合う感覚を持てるはずだという前提の下でお話をしたいんですが。私が沖縄の友人と話をしていて胸が痛くなるのは、加害の記憶として、加害者の立場から朝鮮人の被害を語られる時です。非常に辛いんです。もちろん一次的にはそれが必要だけれども、ずっと加害者の視点から語ってそれがパターン化されてしまうと、すでに内に抱えている、内在化している死者を外に追い出して、外在化させてしまうのではないか、と。つまり加害だけの語りがパターン化されると、観念的なものになってしまうのではないか、と。それは日本を見れば分かります。平謝りをずっと繰り返している。そのうちに死者と向き合う感覚を棄てましたよね。棄てたんですよ、日本は。一つ例を挙げると、今韓国では「真実と和解のための過去事真相糾明委員会」という国家プロジェクトの一環として、日本に強制連行された死者の遺骨を韓国に帰す事業を行っています。今でも日本の炭鉱などの周辺のお寺に骨がそのまま残っているんです。炭鉱やダムの日本人経営者が処分するのに困ったほとんどの死体は燃やすか棄てるかされて、ダムだったらば当時セメントは高価でしたからその節約も兼ねてダムのコンクリートの中に埋め込んでそのまま処理したんですが、中には良心的な人もいてせめて骨だけは寺に預けよう、ということをした。その骨を持って帰る国家プロジェクトを今やっているんです。それで最近、韓国から筑豊の炭鉱に調査団が来たんです。筑豊周辺は筑豊炭鉱の御曹司である麻生太郎氏の地盤ですが、ものすごく保守的な土地で、そこでこんな事件が起きたんです。調査団が福岡空港からバスで地元に行きました。そしたらば、地元住民がバスを取り囲んで調査団をバスから降ろさなかったんです。こんなことは許されることではないんです。沖縄戦も含めて、この世にあるすべての呪いがその地元住民に降り注がんことを私は願います。許さない。韓国では国家プロジェクトですから当然ニュースになります。反日で当たり前ですよ。でも日本では、みなさん知らないですよね。メディアで報道されないから。今さら言うまでもないことですが、日本は、日本の犠牲となった旧植民地出身の死者と向き合う感覚を棄てたんですよ。しかし僕は、沖縄は、日本とは全く質の違う傷、大きすぎる傷があるし、死者と共に在る死生観があるので、きっと朝鮮人の死者と向き合う眼差し、死者を内に抱えているという感覚をもって、観念ではなく、目には見えないけれどもこの世から消えていない存在として眼差すことができると僕は信じています。沖縄の友人、具体的な人間関係を通じて僕は信じています。ですから、見方を変えると、沖縄というのは今さら外に向かってアジア、アジアと言うのではなく、内に他者として台湾、朝鮮をはじめとするアジアをもう既に抱えているということなんです。アジア、アジアと外に向かって展開する前に、足元を見ろって僕は言いたいです。

*朝鮮人である前にチョソンサラム

 レジュメの最後の星を見て下さい。私が今回沖縄に来た一番の目的なので、是非果たさせてください。到来する朝鮮のために。もう既に到来しているんですが……。「チョウセンジンからチョソンサラムへ」というタイトルです。私は皆さんに「チョソンサラム」という言葉を刻んで頂きたいんです。「チョソンサラム」というのはどういう言葉かというと、「チョソン」は朝鮮語で「朝鮮」という意味、「サラム」は朝鮮語で「人」という意味です。つまり、「チョソンサラム」は朝鮮語で朝鮮人という意味です。これは在日であれば誰でも知っている言葉です。現在の沖縄の若者と一緒で、在日はもう僕の下の世代は、民族学校を出てなければ朝鮮語ができない状態です。だけど、「チョソンサラム」という言葉は、在日であれば誰でも知っている言葉です。在日以外の人は誰も知らない言葉です。沖縄の人も「ウチナンチュー」って言葉は誰でも知ってるじゃないですか、若い人も。ちなみに、朝鮮語で「サラム」は「人」、そして朝鮮語で「愛」は「サラン」なんです。つまり朝鮮語においては、「サラン」と「サラム」、「愛」と「人」は同じ響き、同じ語源を持っている。ほとんど文字も一緒です。「愛」と「人」が同じ響きって、すごく素敵なことですよね。愛の響きを持つ、「チョソンサラム」というこの言葉を皆さんに刻んで頂きたいんです。
 なぜかと言うと、朝鮮半島は新自由主義の流れの下で近い将来統一すると思います。絶望的な状況になると思います。北朝鮮の安くて質の高い労働力、手つかずの豊かな資源が搾取されまくる。アメリカの企業が入って日本の企業が入って、それに遅れるようにして韓国の企業が入ってゆく状態になると思います。そして、現在の東西ドイツのような南北朝鮮間の格差と差別……。大きな絶望が待っている。けれども、考え方によっては希望もあって、例えば北朝鮮出身の表現者や研究者がこの県立美術館の壇上に来る日は近いです。その時、国の名前はどうなっているか分からないですが、彼/彼女もチョソンサラムであるということに変わりはありません。近い未来、チョソンサラムが来ます。また過去と現在の歴史においても、チョソンサラムという言葉を刻む必要がある。なぜならば、戦前に沖縄で客死した朝鮮人は、朝鮮人として死んでいったわけじゃないし、朝鮮人として連行されてきたわけではない。ほとんどの人が日本語ができない状態でしたでしょうし、自分のことをチョウセンジンと思うよりも、「私はチョソンサラムだ」と思ってやって来て、客死していったということです。沖縄の人々が内在化して内に抱えている死者というのは、朝鮮人である前にチョソンサラムなんです。ですから、この言葉を刻んでください。このシンポジウムが終わり、家に戻られて一人の静かな時間に、是非、「チョソンサラム」あるいは「チョソンサラン」と呟いてみてください。ありがとうございました。


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琉球の自己決定権の新たな方向
──琉球は日本の経済植民地、琉球と日本が対等な関係性を持つ必要がある


松島泰勝




 私は現在京都に住んでいますけれども、その前は静岡に居ました。その前は沖縄島、グアム、パラオと点々と生活してきた琉球人です。

*国連欧州本部で先住民作業部会に参加

 私が今日の主題である自決権──自己決定権について考えるきっかけになったのは、今から12年前の1996年、スイスのジュネーブにある国連欧州本部で先住民作業部会に参加したことです。作業部会に集まっていた世界の先住民族と、琉球人である自分は同じ境遇にある民族であると実感しました。植民地支配や抵抗の歴史、独自の文化と生態系の中での生活、土地に対する強い愛着等、多くの類似点がありました。世界の先住民族は自らが有する自決権、先住権を抑圧している国に対して要求を出し、現状を変えてきました。このような人々の実際の姿を見て実践内容を聞いて、私は非常に感動しました。アメリカ合衆国の中にも国家内の国家というものがあります。ネイティヴ・アメリカンたちが自らのネーションを運営し、米国と協定を結んでいると、本人自身から聞きました。

*外務省・専門調査員としてグアム、パラオ共和国に

 翌年から、私は日本国の外務省で専門調査員としてグアムで2年間、パラオ共和国で1年間、働きました。グアムの先住民族はチャモロ人です。パラオ共和国の先住民族はパラオ人です。グアムの政治的な地位はアメリカの属領です。属領の住民は米国市民権を持っていますが、アメリカ大統領を直接選べません。また、米下院議会にグアムの代表を送っていますが、その人は議会で発言する権利はあっても投票する権利はなく、徹底的に民主的な権利が押さえつけられています。その理由は、アメリカがチャモロ人に有無を言わせず、一方的に軍事拠点として利用するためです。沖縄島から海兵隊が行く場所としてグアムが、米政府によって勝手に決められました。チャモロ人はその命令を受け容れざるを得ないというのが、植民地グアムの現実です。
 パラオ共和国の人口は約2万人です。パラオ共和国憲法もあります。その2万人の国が1994年に独立をし、国連でも一票を持っています。私は琉球の島々と、太平洋の島々、特にミクロネシアの島々の研究をしています。太平洋の島々の中には、例えばツバルやナウルのように人口1万人で独立している島もあります。ミクロネシア連邦でも約10万人、マーシャル諸島では約6万人です。石垣島や宮古島よりも人口が少ない島嶼が独立しているのです。数万人でも独立し国連で一票を持っており、人口数だけをみると、約130万人の沖縄県が独立しても何もおかしくはないと思います。

*沖縄県という現在の地位は非常に不当なもの

 太平洋諸島を中心に世界の島々を研究していると、この「沖縄県」という政治的地位は果たして、琉球人にとって妥当なものかと思うようになりました。現在、琉球において道州制に関する議論が盛んにおこなわれています。高度な自治権を有する単独州の要求は当然ですが、それを実現するには琉球と日本が対等な関係性を持つ必要があります。現在のように日本に対する従属的な関係が続く限り、これからも日本の多数派によって琉球が「捨て石」にされる恐れがあります。
 皆さんもご存知のように、かつて琉球王国はアメリカ、フランス、オランダ等とも条約を結び、独立国家と認められていました。その国を暴力的に併合したのは日本国です。沖縄県という現在の地位は非常に不当なものと考えます。日本との琉球との関係性をもう一度仕切りなおすべきではないか。

*琉球の歴史的な節目(1)

 琉球にはいくつかの歴史的な節目がありました。例えば1879年の「琉球処分」です。「琉球処分」とは日本政府の造語であり、自らの帝国主義的欲望を満たすために、琉球を「処分」したのです。琉球側に非があったわけではありません。日本政府は軍隊を導入して琉球王国を併合し、国王を東京に拉致し、合法的な王府を消滅させ、土地を奪い、同化を促しました。日本の侵略に対して王府や清国政府は強く反対し、日清戦争後まで日本の植民地化に抵抗する闘争が展開されました。
 琉球王国と同じ境遇におかれたのがハワイ王国です。1810年にカメハメハ一世が島々を統一し、ハワイ王国は欧米諸国とも条約を締結し、憲法を有する独立国家でした。サトウキビ産業が盛んになり、欧米諸国から移住してきた白人たちが経済的支配を及ぼすようになりました。彼らは1893年にクーデターを起こし、王朝最後の王であるリリウオカラニ女王を廃位させ、王国を倒壊させました。その際、アメリカの海兵隊がクーデターに関与しました。クーデターの首謀者を中心に樹立されたハワイ共和国による支配を経た後、1898年に米国に併合されました。
 1992年にハワイの先住民族であるカナカマオリがハワイ州選出の米上下院議員に働きかけ、翌年、ハワイ先住民に対する謝罪決議を米上下議会において可決させました。同年はハワイ王朝が潰されて百年目となりますが、当時のクリントン大統領がハワイに来て謝罪しました。住民の同意を得ず、米政府、米海兵隊を介入させて不当にハワイ王朝を倒した違法性を認めて、政府として謝罪しました。
 他方、「琉球処分」に関して、まだ日本政府は謝罪、賠償等を一切行っていません。来年は、「琉球処分」から130年、島津瀋の琉球王国侵略から400年という節目の年となります。琉球と他国との条約や外交関係を無視し、数百年にわたり運営されてきた政府や洗練された文化を有した国を暴力的に消滅させることの違法性を日本政府に認めさせ、謝罪を求めるべきです。琉球と日本との関係性を対等に持っていくには、佐藤さんもおっしゃったように、琉球人は強く要求しなければならない。明治政府と現在の日本政府は連続した関係にあり、責任がないとはいえまい。琉球処分は、現在の琉球人だけでなく、当時、琉球と関係を有した国々にとっても未解決の問題です。

*琉球の歴史的な節目(2)

 もう一つの琉球の歴史的な節目は、1972年の日本への「復帰」により、「沖縄県」が誕生したことです。アメリカから日本へ、琉球に対する施政権が返還されました。本来、その施政権は日本ではなく琉球自身に返還されるべきでした。日本が「母国」であるとマインドコントロールされたために、広大な米軍基地が押し付けられ続け、カネで民族の誇りを傷つけられるという現在の不幸を招いてしまいました。
 1972年に効力が発生した沖縄返還協定が、現在の「沖縄県」という政治的地位を規定しています。同協定の第4条3項には、「復帰」前の土地の損害に対し米国政治が「土地の原状回復のための自発的支払を行う」と記載されています。しかし実際は、外交機密文書、当時の外交官・吉野文六氏の証言等によって明らかになったように、日米は密約を行い、日本政府が400万ドルを支払ったのです。つまり同協定は事実に基づいておらず、条約として不備であり、無効であるといえます。また、同協定の策定過程には琉球人の参加がなく、琉球政府によって策定された、「米軍基地がない本土並みの復帰」を求める「復帰措置に関する建議書」も葬り去られてしまいました。
 琉球人は国連憲章、国際人権規約等の国際法によって保証されている自己決定権を行使して、新たな政治的地位に関する協議会を日本政府との間で開くべきです。1993年の「謝罪法」後のハワイにおいても、独立国家、自由連合国家、国家の中のもう一つの国家、州の中のもう一つの州等、様々な政治的地位についての議論と実践が行われています。
 広大な米軍基地を押し付けられている琉球は、地域全体として自治を享受しているとはいえません。もし日本政府が対等な関係性や高度な自治権を琉球自治州に認めないならば、国連の「非自治地域」リストに琉球を登録することも必要になるでしょう。太平洋諸島の中で同リストに記載されている島嶼にはグアム、米領サモア、ニューカレドニア等があります。国連の非植民地化委員会は「非自治地域」の統治国に対して同地域における自治の実現を勧告しています。ハワイ人の勇気と実践から学び、国連、国際法等を活用し、様々な手段を講じて、2009年を琉球の新たな時代の始まりにしたいと思います。

*現在の沖縄県庁は日本政府の傀儡化している

 私は琉球や太平洋諸島の経済も研究しています。琉球は日本の経済植民地でもあると思います。植民地政府の中心が内閣沖縄担当部局です。かつての沖縄開発庁です。沖縄担当部局に植民地性を感じたのは、去年、沖縄大学で国際開発学会が開かれた時のことです。沖縄担当大臣と審議官が来て講演をしました。なかでも審議官の講演内容は非常に植民地性の濃いものでした。大臣の講演が終わった時、一つの光景を見ました。担当大臣が話をする一番前の席に沖縄県の副知事が座っていましたが、大臣の話が終わるとすぐに大臣とともに教室から出て行きました。沖縄県庁と日本政府との隷属的な関係性を象徴的に示している光景であると感じました。
 沖縄大学で国際開発学会があったのは非常に画期的だと思います。国際開発学会は通常、世界の「開発途上国」を対象とした研究集会を行う場合が多いのですが、今回は、国内の琉球における開発の意味を問うセッションがいくつか開かれました。副知事は、大臣の講演の後に開かれた琉球の開発に関するシンポジウムや後日のセッションに参加せず、大臣とともに帰りました。自らの未来を自らの頭で考え、自らの手や足で切り拓くことが、自己決定権の意味であると思いますが、現在の沖縄県庁は日本政府の傀儡化しているのではないかと思います。
 「復帰後」36年間の振興開発によっても、沖縄県は目標とされた経済自立を実現することはできませんでした。ますます日本政府への経済的、政治的依存度が深まっています。基地と金との交換という日本政府の罠に琉球がかかっている。こういった植民地状況の中で、琉球人はどうしたらいいのかという思いで今日、自己決定権の議論が行われていると私は考えています。

*琉球の憲法はいかに制定されるべきか

 次に憲法について話をします。私は琉球列島の中でも特に八重山諸島の島々を歩くことが多いのですが、八重山諸島の中には既に島の憲法のようなものがあります。例えば竹富島憲章があります。「復帰」前後、日本企業や団体によって竹富島の約3分の1が買い占められたことがありました。その後、売却した土地を買い戻すとともに、島人が話し合いをして、土地は売らない、島の景観を保持するなど、島独自の発展の在り方を明示する竹富島憲章にまとめました。憲章が外からの開発の欲望に対する防波堤になっています。これも島人の自己決定権行使の形の一つであると思います。
 石垣島の白保でも住民の話し合いにより、住みよい安定した村を目指した憲章がつくられました。八重山諸島ではないのですが、土地の総有制を現在までも守っている久高島でも久高島憲章が制定されました。島やシマの自然、文化、安定した生活を守るために憲章を作り上げ、皆で守っている。通常の憲法、法律のように強制力はないが、憲章の実効性の担保になっているのが、住民の土地に対する限りない愛であると思います。琉球人にとって土地は、神や先祖が住み、文化が生まれ、生活資源を手にし、精神的な安定性を得る基盤です。先住民族としての琉球人の生き方がこれらの憲章に明示されていると思います。
 ですから琉球の憲法も、必ずしも沖縄島の那覇中心とした内容になるのではなく、琉球の個々の島々にある憲章をいかした形で制定されるべきではないでしょうか。
 パラオ共和国の憲法を紹介します。憲法の中でも一番重要なものが非核条項です。核兵器を持ち込ませない、原子力発電所は作らせないという内容です。アメリカはパラオ共和国が独立した後も、有事の際には核兵器を含む武器弾薬、艦隊、戦闘機を島々に展開する予定ですから、しつこくこの条項を廃止させようと介入してきました。当初1986年に独立する予定でしたが、アメリカの介入による社会的混乱のために、94年に独立がずれ込みました。
 他方で、よくも人口2万人の国が人口3億人に8年間抵抗できたといえます。最終的に、非核条項はアメリカに対しては適用されないことになりましたが、アメリカから多くの譲歩を引き出し、アメリカは自らの意のままにパラオ共和国において軍事展開できません。属領のグアムとは大きく異なります。島独自の憲法を作ることによって大国と対等に向き合い、交渉をすることが可能になると思います。

*琉球、グアム、ハワイの先住民族の連帯と新たな方向

 最後に、グアムについて話します。歴史問題にかかわることです。沖縄島からグアムに海兵隊が移駐する予定です、グアムはかつて太平洋戦争中に日本軍が軍事占領した島です。その時は、「大宮島」という名前に変えられました。グアムはもともとチャモロ語の「グアハン(大きな島)」という意味から来ていますが、それを日本名に変えました。そして日本語の教育等の皇民化教育が強制されました。日本軍の統治に従わないもの、米軍のスパイとされた者等は、処刊されたり、虐殺されました。私がグアムに住んでいた時にも地元紙には、日本軍の残虐行為を体験された方の談話が掲載されていました。
 グアムのチャモロ人は現在においても戦時賠償を求めています。しかし、サンフランシスコ講和条約において、アメリカ政府は日本政府に対する賠償請求権を放棄したために、チャモロ人は日本政府に賠償金を請求できない状況におかれています。よって、チャモロ人はアメリカ政府が日本政府に代わって賠償金を払うべきであるという内容の法案を毎年のように米議会に提出しています。
 日本との歴史的な問題が解決していないグアムに沖縄島から海兵隊が移動することになっています。そのための基地、関連施設を日本政府が国民の税金を投入して建設する。ゆくゆくは自衛隊もグアムの基地や関連施設を利用するようになるのではないか。いまも歴史問題が解決していない島に対して、日本が経済的、政治的、軍事的にも関与していこうとしている。
 日本の植民地の琉球から、アメリカの植民地である、グアムまたはハワイに軍隊を移動させ、植民地島嶼を軍事拠点として利用することがアメリカの戦略です。しかし、これまで米軍は太平洋戦争後の戦争で勝ったことのない欠陥軍隊といわれています。その軍隊が作成した米軍再編計画も信用できず、また、日本の米軍再編推進法も日本各地域の分裂と衰退を招くでしょう。米軍再編計画に基づいて、島嶼間で軍隊を押し付け合うのではなく、琉球、グアム、ハワイの先住民族がそれぞれ連携して、軍事を拒否し、土地を守る運動を展開する必要があると考えます。


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死者の記憶──沖縄の「思想資源」


仲里 効




*死者の眼差し

 20日ほど前に桜坂劇場で上映していた『実録・連合赤軍──あさま山荘への道標』を観てきました。第1部で比屋根薫さんが沖縄の団塊の世代や全共闘世代の経験から「空無化するラディカリズム」について触れていましたが、「連合赤軍」はわれわれ全共闘世代が行きついた果ての、非常に暗い部分が描き出されていたように思いました。山岳ベースで次々と仲間を殺害、残ったメンバーが最後に浅間山荘に立て籠もって警察隊と銃撃戦を繰り広げるわけですが、警察官の突入が迫った最後のところで、リーダー格の1人が「流れたあいつらの血を受け継ぐのが俺たちの闘いだ、俺たちの借りは死んだ同志たちにある。その借りを返そう」と言うシーンがあります。そのとき、それまでほとんど口をきいたことがなかった、最年少の少年が「何言っているんだ! 俺たちはみんな勇気がなかったんだ!」と呼ぶところがあります。ラストで監督の若松孝二がそのセリフを吐かせた意味は「連赤」とその死者たちへの映像言語での総括のような気がしました。我らの時代の死者である「連赤」の死者たちの眼差しに、どう言葉を返すことができるのか、ということを考えたりしました。
 最初に死者の話をしたのは、崔真碩さんが朝鮮人の死者について語ったことについ触発されたからですが、考えてみれば「沖縄・憲法・アジア」も「死者の眼差し」を無視しては論じられないように思います。では「死者の眼差し」という場合、どのような内実において語られなければならないでしょうか。まず一つは、連合赤軍によって引き起こされた、我らの時代の死者たちです。二つ目は沖縄戦の死者で、三つ目はアメリカ占領下での、アメリカ兵がらみの事件・事故で死んでいった、統計に表れない無数の死者たちです。こうした死者たちに対してどのような思想の言葉を返すことができるのか、ということが「沖縄・憲法・アジア」というときの、「沖縄」の中身と関わってくるように思えます。

*沖縄の「思想資源」

 最初に、第1部で新川明さんも話されていたことですが、1968年に出された『沖縄・本土復帰の幻想』(三一書房)を取り上げてみたいと思います。その中に、川満信一さん、伊礼孝さん、中里友豪さん、嶺井政治さん、真栄城啓介さんなど当事沖縄の状況の先端で発言していた面々の座談会が収められています。ここでの討論は、1968年が沖縄にとっても大きな転換点であった、ということを教えてくれます。その年は、主席公選が実現した年でしたが、その背景には、日米両政府による沖縄の共同管理体制と日本政府による一体化路線がはっきりしてきて、主席公選をどう評価するかがそのまま復帰運動の質を問うことにつながっていたんですね。それまで復帰運動の中で決して問われることがなかった「沖縄にとって復帰する本土とは何か」「国家とは何か」ということが、はじめて問題にされたということがあります。川満さんと伊礼さんの鋭い対立にその位相をみることができます。伊礼孝さんは、復帰運動の質的転換という視点から主席公選を位置づけ、その勝利は「抵抗政府」を樹立することである、と主張したわけですね。この「抵抗政府」は、復帰運動の臨界点で言われた言葉でしたが、しかし、復帰運動のフレームから出るものではなかった。それに対して川満さんは、復帰運動の延長ではもう時代に対応できないんだということをはっきりさせていく。二人の「論争」は、その後主席公選で復帰運動のシンボル的存在であった屋良朝苗が当選、しかし、ほかならぬその屋良革新政府の手で、B52撤去を掲げて組織された2・4ゼネストが流産させられることによってはっきりさせられます。2・4ゼネストの流産は、沖縄の戦後史にとって記憶しておくべきトピックだったといえますが、ちょっときつい言葉で言えば、復帰運動が「反動」に代わっていく契機でもあったように思えます。『沖縄・本土復帰の幻想』は、いわば、「国家とは何か」「本土とは何か」という問いを問うことの内で拓かれた、沖縄の戦後思想の一つの座標を呈示したと思っています。
 もう一つは、谷川健一さんが編集した叢書『わが沖縄』の第5巻として1970年に発行された『沖縄の思想』です。そこで新川さんが「非国民の思想と論理」、川満信一さんが「沖縄における天皇制の思想とは何か」、そして岡本恵徳さんが「水平軸の発想」を書いています。これらの論考には沖縄がかかえるアポリアに踏み込んだ「反復帰」論の思想的な核心点が書き込まれています。第1部で上映されたインタビュー映像で川満さんは、自分にとって戦後とは何かと問われれば、土地闘争の経験から軍隊の本質を認識したこと、もう一つは沖縄が帰るといっているその国家とは何かということをとことん突きつめていったことだ、と述べていました。この軍隊と国家との格闘こそ、いわゆる「反復帰論」のエッセンシャルなものになっている、と私は思っています。「反復帰」とは、ですから復帰に対するアンチテーゼというか、政治的な力学のフレームにとどまるものではなく、「天皇制」や沖縄戦での「集団自決」、そして植民地主義を内面化した精神や知のあり方を、近代に遡って問い、それを内側から批判したということができます。「精神革命」といわれるゆえんですね。だからこそ、沖縄の団塊の世代や後続する世代にも少なくない影響を与えたと言えるはずです。もちろん「反復帰論」は60年代後半から70年代にかけての時代思想という側面を持っていることは否めませんが、それだけに収まるわけではありません。沖縄の近代の問題を徹底的に論じつくしたということで、沖縄で何ごとかを考えようとする人たちにとって避けて通ることはできない。「思想資源」という言葉を使ったのもそういった意味からです。

*沖縄戦の死者たち

 沖縄戦の死者について考えてみたいと思います。これは実は「沖縄にとってアジアとは?」ということに関連してくることなんです。そのことに接近していくために、第1部で基調報告を受け持った屋嘉比収さんと2年前に亡くなられた岡本恵徳さんが、『けーし風』の第25号(1991年12月)での対談で問題にしたことを考えてみたいと思います。そのときの特集は「検証・平和資料館問題」でしたが、新平和祈念資料館の日本軍が住民に銃をつけている展示が改ざんされようとしたことが、マスコミでも採り上げられ大きな反響を呼びました。対談では沖縄戦や歴史認識にまで及んでいました。私の目を引いたのは、加藤典洋の『敗戦後論』に触れながら、沖縄戦の死者をどうみるのかについての岡本さんの意見でした。『敗戦後論』をきっかけにして加藤典洋と高橋哲哉との間で論争が行われますが、ここではこの論争に触れることはしません。ただ、論争の発火点にもなった『敗戦後論』の中で、「300万人の自国の死者」と「2000万人のアジアの死者」を対比しながら、先にまず300万人の自国の死者を哀悼することによって2000万人のアジアの死者たちの哀悼に至るというようなことをどう見るかということです。岡本恵徳さんは「300万人」という括り方は戦争体験の多様性を隠蔽することになり、事の本質を見失わせることになるのではないか、と異議を唱え、「300万人の自国の死者」という時の、その「300万人に沖縄は入っているのか」という鋭い問いを投げかけるわけです。そして「300万という言い方では括れないし、その括れないことを言い続けることが沖縄戦の実相を語ることの意義でもある」と述べています。
 例えば、日本軍による住民虐殺は日本本土では起こったでしょうか? たぶん起こり得ないだろうと思います。「沖縄語を使った者はスパイと見なす」とした日本軍の住民観だって、日本本土ではあり得ないことではないでしょうか。「集団自決」の問題で浮かび上がってくる構造もそうだと思います。「300万の自国民」という枠組みをはみ出す沖縄戦の死者は、アジアの死者とつながっていくような、そういった死を死んでいったと言うことが可能です。このことは1980年代に、第3次家永教科書裁判で、南京大虐殺や731部隊、従軍慰安婦とともに、日本軍による沖縄住民虐殺が検定の対象にされたことがありましたが、その時の沖縄の抗いは、朝鮮や中国や東南アジアの抵抗と繋がる質を持っていた、と指摘していたことを思い起こさせます。「死者の眼差し」という視点から考えてみましたが、沖縄戦での「集団自決」の死を考えることは、連合赤軍の死者について思いを返すことに、どこかで繋がっているはずです。

*憲法をめぐって

 次に「憲法」の問題について考えてみたいと思います。先ほど佐藤さんは沖縄には目の見えない憲法があるとおっしゃいました。そのことがどういうことを意味するのか、よくは理解できないのですが、後で是非教えて頂きたいと思います。1981年に『新沖縄文学』に発表された「琉球共和社会憲法」と「琉球共和国憲法」試案は、私なりの捉え方をすれば、1960年代から70年代にかけて、復帰運動を徹底して批判し、沖縄の近代に突き抜けていった「反復帰・沖縄自立論」を構成的権力として提示した、と言えます。これも佐藤さんの言い分ですが、沖縄の知識人は「優等生シンドローム」に陥っているのではないか、と指摘されました。果たしてそうでしょうか。問題は沖縄で育ったわれわれが世界と渡り会えるような言葉を獲得していくことができるのか、ということです。決して「優等生シンドローム」ということではありません。「共和社会憲法」にしても「共和国憲法」にしても、沖縄における言語/世界像の創出の問題として考えるべきだ、というふうに私は理解しています。

*沖縄とアジア

 最後に「アジア」です。これまで「沖縄をアジアに開く」ということをしきりに言ったりしてきました。沖縄タイムスで孫歌さんとの往復書簡でも書きましたが、『ポスト〈東アジア〉』(作品社)の共同編集者である孫歌さんと台湾の陳光興さんと韓国の白永端さんの3名が「〈東アジア〉を語ること、その可能性」というテーマでの座談会をやっていました。そこで、陳光興さんが、日本や韓国や台湾などの、東アジアの国々がアメリカを内面化している問題点を見抜き、アメリカからも日本からもいじめられた沖縄からはその矛盾や問題点が見えてくる、というようなことを述べていました。それから韓国の白永端さんは、東アジアにおける辺境・辺縁からの二重視点、二次元的な視点の重要性について語っていました。この台湾と韓国からの沖縄の「位置の政治」への言及は、まさに東アジアにおける沖縄の可能性についての、示唆に富んだ視点ではないでしょうか。「アメリカの内面化」の問題と「辺縁からの2重視点」は、第1部で川満信一さんが提案した、国家と国家の力学で翻弄された済州島、沖縄、台湾を結ぶ「越境憲法」と響きあうものがあります。国家に回収できないアイデンティティや翻訳的主体を発明する文体の創出にかかわってくるように思えます。「沖縄をアジアへ開く」とは、その文体の発明にかかわってくる、と思っています。


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