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第一回 東アジア <仲里 効vs孫 歌> 第二回 憲 法 <佐藤 優vs川満信一> 第三回 沖縄の自治 <松島泰勝vs平 恒次> 第四回 復帰−反復帰<崔 真碩vs新川 明> |
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第一回 東アジア <仲里 効vs孫 歌> | ||||
仲里効なかざと・いさお(編集者、批評家) 1947年南大東島生まれ。95年に雑誌「EDGE」創刊に加わり、編集長。著書に「ラウンドボーダー」「オキナワ、イメージの縁(エッジ)」など 孫歌すん・げ(中国社会科学院文学研究所研究員) 1955年中国吉林省生まれ。中国社会科学院文学研究所研究員。日本思想史専攻。主な著書に『アジアを語ることのジレンマ−知の共同空間を求めて』『竹内好という問い』(共に岩波書店)など。 |
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東アジア@<仲里 効 → 孫 歌> 辺縁の視点 矛盾を照射 反復帰思想と魯迅の抵抗 孫歌さん 昨年9月、竹内好研究会のメンバーに誘われ、台北から東京を巡り北京に渡ったテント芝居「変幻痂殻城(へんげんかさぶたじょう)」を観に行った折、孫歌さんの自宅を訪ねさせていただいた時のことを思い出しながら、この手紙を書いています。 北京の市街が見渡せる集合住宅の一室での、心地よい緊張に満ちた交歓がひと通り終わるころ合いを見計らったかのように、同席していた友人の一人が私に、孫歌さんが『現代思想』(2006年9月号)に書かれた「那覇から上海へ」をどう思うかと訊ねてきました。友人がそうしたのは、文章の後半で触れられている「那覇で一人の竹内好を敬愛する」沖縄人にあった、その沖縄人が私である(だろう)という事情を慮っての機転でした。 内なる植民地 覚えていらっしゃるでしょうか。その問いかけに、直接的な感想を述べるということよりも、「沖縄をアジアに開く」ということを意識しつつ、「日本復帰」前後の転換期の沖縄で生まれた〈反復帰・沖縄自立〉の思想とそれを80年代に構成する力として提示した「琉球共和社会/共和国憲法」草案について紹介しました。私の唐突とも思える返答に、幾分困惑した友人たちの様子がその場の雰囲気から察することができました。 しかし、「那覇から上海へ」のエッセンスに沖縄から応えるとしたら、植民地主義を内面化した主体のあり方を、近代に遡り内側から越えていった思想の実践とその資源においてしかない、と考えていました。なぜなら、その批判的主体に、魯迅のあらがいの沖縄的スタイルを見たからであり、反語の構えを持ちつつも、琉球・沖縄の経験を構成的力動として洗い出したことは、日本という国民国家の枠組みの臨界で、沖縄の可能性を立ち上げ、アジアにむかって開いていく思考実験でもあったからです。 時空を越えて 「那覇から上海へ」は2004年の那覇と05年の上海での2つのクリスマスの経験を往還させた見事な思想的紀行文となっています。研究者たちとの交流や那覇の市場で聞いた庶民の声、新基地建設に反対する辺野古での見聞や賛否が分かれる平和祈念公園の墓碑の意味などを読み込み、沖縄がおかれている現実を決して単純化することなく、歴史の襞に分け入る思索の旅といえます。 そして抗日戦争勝利60周年下の上海で、日中戦争の暗い影に覆われた同じ上海での極度に緊張を強いられた魯迅の境遇と、魯迅がとった複雑な身の処し方に思いを寄せ、那覇から上海へ、上海と那覇の、時空を越えた、いや、時空を結び、そこに抵抗を通い合わせていました。驚きました。こんなふうに沖縄と中国とが結びつくとは。 とりわけ私の目を引いたのは、世界各地の大都市の名前が方角と距離とともに書き記されている、88階建ての金茂大廈の展望台で孫歌さんが感受したことです。ガラス張りの展望台には那覇の名はなかったが、東南の方角に那覇の存在を感じたこと、「那覇と上海、そして中国とが互いに結びつきあっている」と述べていました。私はそこで、魯迅のあらがいと竹内好という問いや、アジアを語ることのジレンマを潜ることによって獲得された、思想の力を知らされました。「アジアをゼロ化」することなく、アジアに内在する矛盾や緊張関係に分け入ること、透明な概念では伝えられない歴史に思いを返すこと、これです。 地図書き換え ところで、北京での懇談でいささか唐突とも思える話をしたのは、実はもうひとつの忘れがたい対話を意識していたからでした。それというのは、孫歌さんが韓国の白永瑞さんと台湾の陳光興さんとの共同で編集した『ポスト〈東アジア〉』(作品社)の巻頭座談会「〈東アジア〉を語ること、その可能性」をめぐる討論のことです。 そのなかの「『小国主義』と沖縄─国家と地域」を論じたところで、日本、韓国、台湾などの東アジア諸国がアメリカを深く内在化していることと、その矛盾がはっきり見えてくる沖縄の位置に注目しながら「沖縄問題がいまだ解決されていないということ、そのアイデンティティーの問題は、やはり歴史経験とかかわるものなのです。東アジア全体における歴史的切り込みは、沖縄から展開できる」とした陳光興さんの意見と、「辺縁(周縁・辺境)からの二重(二次元的)視点」の大切さを説いた白永瑞さんの提言でした。 そうなのです。〈反復帰・沖縄自立〉の思想資源と「琉球共和社会/共和国憲法」草案は東アジアにおける歴史的切り込みであり、「辺縁からの二重視点」によるアジア地図の書き換えに、沖縄から参入の果敢な試みであった、といえば私の思い込みでしょうか。 私はいま、孫歌さんが思索の旅で残した「那覇から上海へ、私はそこで輪郭が完全にできていない一つの思想の地平を見つめていた」という、「思想の地平」について考えを巡らせています。いつかは書いてみたいと思っている私の「北京から那覇へ」のために。 東アジアA<孫 歌 → 仲里 効> 自由の代償 重さを共感 琉球共和社会の理念 衝撃 仲里効さん 去年の9月の、我が家での話は、私にも印象的でした。「琉球共和社会/共和国憲法」草案は、私に戦後まもなく世界的に現れた「世界共和国」運動を連想されました。もちろん、後者には「アジア性」が薄いという点で、沖縄のこの運動とはかなり違うところがありますが、歴史的に考えれば、沖縄のこの「独立の理念」そのものは、アジアだけではなく、人類の歩みにとっても記念すべき一歩だと思いました。ともかく私は、去年の9月の時点において、お話から強い衝撃を受けたのでした。 異質な「憧れ」 思えば、仲里さんは、私が一度目に沖縄に訪れた折に、もっとも親しく付き合ってくださった沖縄人でした。たしか、夜は遅くまで飲み屋で話し合いましたね。時間の流れによって、そのときの風景は色あせてきましたが、しかし、時間の淘汰によって抽出されたエッセンスが時がたつにつれて鮮明になってきています。 本土で出会った日本人と違って、仲里さんの中国に対する「憧れ」には、ある種の異質な要素が含まれているような気がしました。それは何なのか、私にはそのとき、それを取り出す力はありませんでした。しかし、仲里さんの竹内好に関する話、中国大陸や沖縄に関する話は、私の沖縄イメージとしっかり交じり合っていました。 二度目に沖縄に訪れたときは、短い滞在でお目にかかれませんでした。ヘリコプターが炎上したその跡を目の当たりにして、辺野古で現場の話を聞き、私は中国社会にこの一連のことを伝えようと考えました。そして、その思いはさらに1年以上の発酵を経て、「那覇から上海へ」になりました。 沖縄ならでは この原稿を書いたことは、私に特別な体験を与えてくれました。それを読み取って下さり、感謝します。時間と空間の交錯によって醸し出される、ある名づけようのない感動を、この原稿に書き込みました。書いてからもその感動の余韻は残りました。そしてそのときに、仲里さんの持っている「異質な要素」は、勝手ですが私の中で輪郭ができ始めました。 それは、沖縄ならではの「自由感覚」そのものだと思います。 知的世界においては、「自由」という不透明な概念は空洞化されていますね。昔、空洞化されて、逆に資本主義社会の不平等さを隠蔽した「自由主義」は失望のあまり、ラスキは「社会主義者」に転じました。その後の歴史は大きく変動して、英国の政治学者ラスキも人々に忘却されたようですが、彼が掴んで離さなかった問題は依然と存在しているでしょう。それは、「イデオロギーとしての自由概念」は不自由な現実を隠蔽する、ということです。 私は仲里さんを媒介に、「沖縄の自由感覚」に近づいたときに、冷戦期をへて、ますます空洞化された「自由というイデオロギー」から自由になる可能性を感じました。それは、私に言わせれば、沖縄の闘争の中で生まれた「つらい自由」という現実を踏まえた理念があって、はじめて実現できる可能性だと思います。 極限での感覚 東アジアの中で、沖縄ほど濃厚に歴史を凝縮した「地勢」はないでしょう。これは、仲里さんの「地政学の想像力と暴力の審級」(「沖縄映画論」作品社、2008年)から学んだ視座です。沖縄という地勢は、それは国家の囲いから逃れる方位といまだ『明かしえぬ共同体』としての複数のアジア」を生み出す、これは極限状態においてしか醸し出されない空間感覚なのです。仲里さんが映画や写真を見つめるその視線には、「地勢学」と「地政学」という二つの位相が含まれていますね。これこそが、地政学における「マイノリティー」を地勢学のおける「沖縄精神」に転じさせる、覚めた視線でしょう。 複数のアジアと同じように、地勢学の意味での沖縄も複数でしょう。それは、南下精神と北上精神だけではなく、「西進」精神をも含めるはずです。西へは、大陸中国に出会います。「那覇から上海へ」は、私の「西進」でした。そして、西進して仲里さんは北京を訪れ、琉球共和社会を語っていました。思えば、国籍には関係なしに、我々には共通の原点があります。それは、地政学における沖縄を踏まえた、地勢学における「沖縄の自由精神」です。 沖縄から、自由の代償がいかに重いか、ということを学びました。その目で、私は中国社会を見ています。今日世界的に「人権問題」と「言論自由」の枠を押しつけられた中国にも決して地勢学の問題がないわけではありません。しかしそれは、仲里さんの鋭く指摘した「国家を介在されない民衆における異集団との接触の思想の現像」を原点にしなければ、地勢学どころか、いわゆる「反体制」の地政学に止まるのみで、それ以上に原理的な精神を生み出すことはできないでしょう。 「北京から那覇へ」は、去年、北京で約束した作品ですね。私はずっと楽しみにしておりますよ。私たちは、同じような「常識違反」のことをやろうとしていますから。北京人の私は「西進」して、沖縄人の仲里さんは「東進」します。このような反則によって、我々はいかなる発見が共有できるでしょうか。 東アジアB<仲里 効 → 孫 歌> 「併合」と「分離」の歴史 中国の旅 原景に既視感 孫歌さん お手紙を拝読させていただき、改めて出会いの不思議さについて考えさせられると同時に、いくつかの大切なことに気づかせてもくれました。 地勢学と地政学 たとえば、構成的力として沖縄の個性を開いた「琉球共和社会/共和国」構想を、アジア性と世界史的文脈で読み返してくれたこと、沖縄の運動に意表をつくような「自由感覚」を発見してくれたこと、それに、私の映画や写真を論じる視線に「地勢学」と「地政学」という二つの位相が含まれていることを指摘し、複数であるはずの沖縄の地勢学と地政学から、南北だけではなく「西進」を交差させたこと、などです。 孫歌さんは私の中国認識に、本土の日本人とは違う「異質な要素」があることを感じ取ってくれました。「北京から那覇へ」はしばらく置くとして、私は私の「西進」を語らなければならないようです。 思えば私は、昨年9月の短い北京の旅を含めこれまで三度「西進」したことになります。最初は36年も前、第三の琉球処分ともいわれた「日本復帰」直前の1972年の春でした。本土在住の沖縄出身の青年たちからなる一団で、広州から上海を経由して北京を回る三週間ほどの旅程でした。当時の私の中国認識は、竹内好の強い影響のもとで形成されたものでしたが、文化大革命の波動が残る現実の中国は、私の予想をはるかに越えていました。意地の悪い友人は、そのときの私たちを「昭和の脱清人」だと皮肉っていました。 居心地の悪さ 孫歌さん、「脱清人」をご存じでしょうか。明治の琉球処分による日本国への併合を嫌い、清国へ亡命したり、日清戦争のときは、清国に援助を求め「琉球救国」運動に身を投じた一群の志士たちのことです。むろん、私たちは「脱清人」などではありません。二度目の旅は、1992年の夏から秋にかけての2カ月間、朝貢体制下で独自な地政学を築いた琉球の進貢使節団がたどった、福建省の福州・泉州市から北京までの3000`のルートの踏査に同行したときでした。改革開放から間もない中国の、何かに向かって走り出そうとする姿に驚きながらも、刻々と変化する風景の中を、ただひたすら歩きました。 この二つの旅で痛感させられたことは、広大な大陸の果てのない広がりのなかで、私のなかの群島としての沖縄が消失するような不安と、私たちの意思とは関係なく「日本からの来訪者」とひとくくりにされることの居心地の悪さでした。この居心地の悪さは、「日本」を当たり前の前提にしている内地の日本人にはあり得ない心の機微といえます。 昨年、テント芝居「変幻痴殻城」に出演する台湾の役者さんたちが、北京空港で「国内」と「外国」に分かれた入国審査の手続きを、どこへ行けばいいのか、ひどく動揺していた、という話が思い出されます。台湾の役者さんの動揺は私たちと決して無縁ではありません。 国境意識 こうしたアイデンティティーの揺れや空間感覚を、逆説的にではあれ言い当ててくれたのが、ほかでもない孫歌さんでした。「アジアという思考空間」の中で、「中国の広大さの意味」を中国人の「流動や動乱を受け入れる能力」と「国境意識の欠如」と関係づけて説明していましたね。そうだとして、では、沖縄人の空間認識はどうかといえば、動乱や流動を国境意識の「欠如」からではなく、その「現前」によって受け止めていることに気づかされます。 考えてみれば、沖縄の歴史は<境界>の変成史とみても過言ではありません。明治の琉球処分によって併合され、皇民化の果ての沖縄戦に行き着き、戦後は日本からの分離とアメリカの占領下におかれ、72年に再び日本に併合される、まさに併合と分離の歴史でした。この経験が主体意識に影響しないわけはありません。 孫歌さんが指摘した沖縄の「つらい自由」という言葉は深い思索に導いてくれます。「沖縄がわれわれの眼に映るとき」(「沖縄戦と『集団自決』」、『世界』臨時増刊)では、国民国家に回収できないアイデンティティーの存在や国家単位の発想から自由であることの内に見出していましたね。「つらい自由」とは、また何と陰翳に満ちた言葉でしょう。 そのような言葉を可能にする孫歌さんの場を、不遜にも私は「文革期に育った私は、ちょうど『下放』の最終列車に乗り合わせた」という一行が示唆するところに感じ取りました。中国現代史の動乱の「最終列車」に乗り合わせた身体と眼の経験こそ、孫歌さんの「アジア叙述」を可能にした磁場のひとつに思えます。 勝手な類推をしてもらえるならば、「日本復帰運動」の高揚期に育った私もまた、農村への「下放」ならぬ日本への「同化」の最終列車に乗り合わせました。もっとも私の場合は「復帰」という名の「同化」を拒む非常識者でしたが。ほぼ同じ時期、私たちは西と東で原景となる、何かを見たということでしょうか。「明かしえぬ共同体」を分かち持つ、そのパルタージュにわれらの<アジア>が到来する、と思いたい。 東アジアC<孫 歌 → 仲里 効> アジア性備わる「自由」 妥協なき思想 互いの課題 ご返信ありがとうございます。私たちは二人とも、心の中でそれぞれに原風景を潜めている、というご指摘には、まったく同感です。私は、仲里さんの「西進」における思想的遍歴を、自分の体験に重ねて受け止めました。人間には、自分の置かれた環境に属しながら、同時にそれに埋没しないということがありうるとすれば、仲里さんと私は、中身が違いながらもまさにその体験者でしょう。 歴史的原風景 生まれ育った環境に愛着を持ち(これは言われるアイデンティファイでしょう)ながら、「もう一つの目」でそれを見つめる。このようなときには矛盾しあうその立場が、私の精神遍歴を支えてきました。それは、いかにも選択不能な臨界状況において、精神的にその限界を自分の中で転じさせる、という「歴史的原風景」ですね。 日本への同化を拒む仲里さんが、「日本への復帰運動」の最終列車に乗り合わせた、という一言は、私にとって大切なポイントです。それはまさに沖縄人として、「現前」に対する厳しい選択を迫られたときの極限感覚そのものだったと思います。そのような極限感覚がなければ、いまの「琉球共和社会」という発想に対する仲里さんの思索も生まれてこなかったでしょう。 私も私なりに、文革中の「下放」の最終列車に乗り合わせ、中国北部の農村で、不出来な農民となり、村の人々から生活の知恵を教わりました。田舎の土に立ち、いかなるイデオロギーにもとらわれず、厳しい現実から目を背けないという民衆の視線を初歩的に身に付けました。その視線があったからこそ、中国の「改革開放」というプロセスを生きてきながら、私は「もう一つの目」でイデオロギーに回収できない厳しい現実を見つめることができたのでした。そして、自分は一体どう生きていくか、個人として一体なにができるか、を思索してきました。 イデオロギー 思うに、アカデミー世界の住人は、いかなる意味においても「イデオロギー」の愛好者になりやすいですね。政治権力による公定イデオロギーに対抗するポーズはあるとはいえ、さまざまな「理論イデオロギー」を消費する点でいえば、まったく根性がないと言うべきかもしれない。イデオロギーを消費して、社会に「言説」を送りつづける、その結果、透明な概念によって、透明な擬似環境が作られ、複雑で理不尽な現実はそこにはめ込まれ、固定化されてしまいます。 ある意味では、沖縄の「併合と分離」の「境界変成史」は、このような擬似環境には相性が悪いものです。そして、中国の過去と現在の歴史も、です。もっとも、「広大な大陸の果てしない広がりのなかで、私のなかの群島としての沖縄が消失するような不安」を感じられた仲里さんにとって、そして、北京空港で国内か外国かという選択に迫られた台湾人にとって、大陸の混沌たる同時代史は異質なものかもしれませんが。 当面は、「聖火リレー」をめぐって、世界的に大騒ぎが起きています。その騒ぎの透明さから、戦後少数の実力国家によってつくられた冷戦イデオロギーそのものが見えてきています。そしてそのイデオロギーによって、チベット対中国、自由対独裁、というような単純明快な二分法が、世にまかり通っている。もしも私たちが、仲里さんのご提案のように、国民国家という現実に直面しながら、「国家を介在させない民衆における異集団との接触の思想」を原点にするなら、一体どのような課題が浮かび上がるでしょうか。 魯迅と竹内好 国家を介在させないということは、決して「乗り越える」ということを意味しません。それは、国家を肯定するか否定するかは問わず、それを前提にする思考パターンへの否定です。そのような原像がなければ、往々にして国家批判をしながら国家単位の発想に縛られるということになってしまいます。 仲里さんが九・二九「教科書検定意見撤回を求める県民大会」の広場で感じ取った「魂込み」を分有されたという「明かしえぬ共同体」は、まさにその罠への警戒を示唆しています。沖縄のあらがいは、ただ「日本国家」あるいはアメリカの軍事基地に向き合うものだけではない。それは、日本国家から保障された「経済的な利益」にも向き合っています。その意味においてこそ、沖縄の「つらい自由」は、アジア性を備えているのです。 膨大な人口を抱えている中国は、冷戦期に形成された国際的な不平等な環境において、グローバルな資本にけん制されながら、国内の格差と国際的格差という二重の意味で、限界状況に直面しています。しかし、宙づり状態になった「人権イデオロギー」によって抹殺された「民衆」の意志そのものは、かえって国家を介在させることによってしか表出できませんでした。もしも沖縄のつらい自由からアジア性が生まれてくるとすれば、中国大陸という混沌たる空間において、「内在化された近代」へのあらがいがあってはじめて、つらい自由を生み出し、アジアに向かって開くことになるでしょう。 その意味においては、魯迅と竹内好の時代は過ぎてはいません。擬似環境に妥協なしに戦うという思想課題は、国籍と関係なしに、私たちに課せられることでしょう。 |
第二回 憲 法 <佐藤 優vs川満信一> | ||||
川満信一かわみつ・しんいち(詩人)1932年宮古島(旧平良)市生まれ。元「新沖縄文学」編集長。詩人、個人誌『カオスの貌』主宰。詩集に「川満信一詩集」ほか。著書に「沖縄・根からの問い」など。 佐藤 優さとう・まさる(起訴休職中外務事務官・作家)1960年、東京都生まれ。同志社大大学院終了。85年外務省入省。著書は「国家の罠」「自壊する帝国」「私のマルクス」など多数。 |
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憲法@<佐藤 優 → 川満信一> 沖縄憲法言語化が必要 再発見は保守陣営により 川満信一様 沖縄タイムスの慫慂により、川満さんに公開書簡をしたためることにいたしました。私の筆の至らなさのため、大先輩に失礼があってはならないと恐れますが、同時にこの機会に根源的な問題について、川満さんのお考えを聞かせていただければ幸甚です。具体的には、革命と憲法の形態についてです。 国民の原子化 昨年2007年の高校歴史教科書検定を契機に、沖縄と内地(本信では、沖縄県以外の日本を指す)の歴史認識の差異が、かつてなく拡がっていることが明らかになりました。教科書検定を契機に問題が発生したのではなく、私の理解では、小泉純一郎政権が新自由主義的改革を導入した後に、日本国民の一人ひとりがアトム(原子)化してしまった結果が、沖縄と内地の関係で、このような形態をとって現れたのだと思います。 貨幣に換算できる経済合理性以外の価値が希薄になってしまったため、大多数の日本人が他者に起きた出来事を、自分の問題として追体験する能力が弱くなってしまいました。その結果、日本人の同胞意識も弱まっています。 内地で右翼、保守陣営の一部は、沖縄を中国、朝鮮/韓国などと同じように「あいつら」すなわち外部と見始めています。民主主義は、少数派にとって不利な制度です。わが国総人口の1%強しか有しない沖縄県は、構造的に極めて不利な状況に置かれています。 沖縄にとって重要なことは、沖縄が生き残っていくことです。それは、ただ経済的に生き残るということだけではなく、沖縄の名誉と尊厳をもって生き残るということです。裏返して言うならば、内地が経済的に沖縄が置かれた状況に特別の配慮をせず、沖縄の名誉と尊厳を保全しないならば、当然、沖縄独立のシナリオがあると思います。 特別の方策を 結論を先に言いますと、私は沖縄独立には反対です。それには二つの理由があります。 一つ目の理由は、私の外交官としての経験に基づくものです。時代が帝国主義化する現状で、中国、日本、アメリカという三つの帝国主義大国に囲まれる中で、独立国家沖縄が勢力均衡外交のはざまで生き残っていくことに多大なエネルギーがかかるからです。沖縄のアイデンティティーを維持するためには、この三つの帝国主義国の中では、ぼんやりし、自己の基準を他者に押しつけることが上手でない帝国主義国日本に帰属していた方が、沖縄にとって得だと思うからです。 二つ目の理由は、私の出自からくる偏見です。私の母は久米島の出身ですが、父は東京の出身です。私個人にとって、父と母の国が一つである方が居心地がよいからです。これは1918年に、父がスロバキア人、母がチェコ人のトマス・マサリク(チェコスロバキア共和国初代大統領)が、チェコスロバキアという人造国家の創設に固執した気持ちに近いです。 内地人の大多数は、「沖縄は独立できない」と思っているが、それは大きな間違いです。沖縄は独立する能力は十分にあるが、現時点でその意思がないだけです。このことを内地の政治エリートに自覚させ、沖縄を日本国家にとどめるために東京に特別の方策をとらせる必要があると思います。 構築より発見 そのためには、沖縄には、すでに独自の憲法が存在しているということを明らかにする必要があります。文字になった憲法、大日本帝国憲法や日本国憲法は、文字になっていない憲法の一部であると私は考えます。憲法は、構築するものではなく、われわれの伝統の中から「発見」し、それをその時代の言語で表現していく作業なのだと思います。 究極的には、イギリスやイスラエルのように成文憲法をもたない国家の方が、国民の憲法に対する順守意識が強いのだと思います。この目に見えない憲法を、戦前の日本人は國體(国体)と呼んだのだと思います。アメリカにはアメリカの国体があります。アメリカのユダヤ・キリスト教的市民宗教、自由、民主主義などは、アメリカの国体に不可欠な要因なのだと思います。 日本の国体の特徴は、革命がないことです。権力と権威が分かれ、権威の世界が皇統によって保全されていることです。しかし、このような国体観は沖縄には適用されません。沖縄において「天皇制」(私はこの言葉は、コミンテルンが「32年テーゼ」で初めて用いたものなので極力使いたくありませんが、論壇で流通しているので、仕方なく使います)が常に問題になるのは、目に見えない沖縄の憲法に皇統が含まれていないからと思うのです。 沖縄にとって、重要なのは、外国の共和制憲法を模倣もしくは移入して、沖縄憲法を構築することではなく、現時点で沖縄に存在する憲法を言語化する努力を行い、わが沖縄の国体が日本に帰属することによって失われるか否かを見極めることと思うのです。 保守とは、伝統に根ざす勢力を指します。沖縄の憲法を再発見していく作業は、設計主義的な理性によって国家を構築していくという左翼、市民派から生まれるのではなく、沖縄の土地に根ざした右翼、保守陣営から生まれるのだと思います。 御批判をお待ちしています。 憲法A<川満信一 → 佐藤 優> 草の根憲法作成が重要 「暴力」でなく「魂」の革命を 佐藤優様 雑誌『情況』へ連載している「いまこそ廣松渉を読み直す」や、琉球新報に連載している沖縄へのメッセージを読みながら、貴方の「血」の中に仕組まれた不思議な暗示性を、どきどきするような興味深さで読ませていただいております。 歴史認識の差異 日本、いや世界のどこでも、古代から官僚世界は、中国の科挙に象徴されるようにエリートであり、ましてや現代のグローバリズムの世界では、外交官はエリート中のエリートだと思っています。なぜ、将来のトップ官僚、あるいは大臣の椅子を予約されているような貴方が、システムの網の目を裁ち切って、あえて野武士の道を選んだのか、その志がこの辺境の年寄りを悩ませます。 貴方から届いた書簡を読んでいる今は、午前二時です。栄町で飲んで酔っ払って寝床へ泳ぎ着いたら、情況の先端を突っ走る「知の前衛」から、昔懐かしい「革命」と「憲法」という古傷を疼かせるような策謀が仕掛けられていて、一瞬戸惑いました。 でも書簡を読みながら、次第に悲しみが湧き上がってきました。辺境に閉ざされた「知」の独り相撲は、しょせんは南の海のあぶくでしかないのです。 内地との「歴史認識の差異」もさることながら、沖縄内での相互認識の差異は深まるばかりで、堂堂巡りが続いている情況です。植民地的分断支配に翻弄されるばかりで、意思の相互確認さえ適いません。 そんな情況下で「沖縄独立」をうんぬんしても、それは個々の志でしかないでしょう。もともとミニ国家としての琉球独立には、わたしも反対してきました。大国間の三すくみで、手出しの出来ない非武装地帯として、自立の道が開けるなら別です。 一時期は雑誌『新沖縄文学』に力を注ぎましたが、雑誌がなくなってあらためて沖縄の主体形成の重要さに気がつきました。 日本の憲法理念 1980年代に「琉球共和社会憲法C私(試)案」などという作文をしたことがありました。 憲法改正問題が進行し、自衛隊の国軍化昇格を指標に、九条の取り扱いが怪しげな揺らぎを見せ、危機感が迫ったからです。それで日本が戦後の理念を放棄するなら、見切りをつけて、沖縄がその理念をさらに発展させようではないか、という反発心で作文したわけです。 アメリカへの幻滅と、戦後の新しいナショナリズムの形成を怠けて、アメリカ従属を強めていく日本国家への苛立ちが動機でした。日本の望むべき方向としては、強大化した自衛隊を、そっくり国連平和部隊にして、日本に常駐させ、その予算は国民が負担するという処置が、政治的解決としては現実的だと考えました。 アジア諸国間にトラブルが起きても、日本は自国の意思で軍事発動は出来ない。あくまで国連機関の合意が前提になる、とすれば日本の憲法理念は維持出来るのではないでしょうか。憲法改正に当たっては、現在の代議制という擬制民主主義に委ねるのではなく、草の根憲法を作ることです。この件については雑誌『環』に案を出しておきました。素人の政治談義は居酒屋の酒の肴でしかないでしょうけど。 「国体」の概念 ただ、アジアに対する日本の視線は、アメリカやEUへの視線と明らかに違います。沖縄戦の体験から推測しても、周辺島嶼に対する日本の見方は威嚇的であり、日本への帰属を得と考える佐藤さんの選択がベターであるか、頭を傾げるところです。 私の出身地・宮古島は、12、3世紀に言語の大変換があり、語源的には日本文化圏に属していることは疑えません。しかし、歴史の経緯を振り返ると、文化圏の同一性に安住できるほど日本国の処遇が平たんだったわけではありません。「分島政策」は日清戦争から、復帰の前後まで再三取りざたされてきたからです。 憲法を不立文字として、慣習法に位置付ける考えは一考に価するでしょう。言語も理念も時代性のものであり、人々の心の法廷で法としての規範性を持たなければ意味がないと思うからです。その規範を「国体」として、「日本の国体の特徴は、革命がないこと」と規定づけていますが、どうでしょうか。 折口信夫のように「天皇魂」を想定して、万世一系の国体をイメージしているのか、幕府の争いや明治維新をどう考えるのか、議論の詰め合わせが欲しいところだと思います。「国体」という概念は、沖縄戦を体験したものにとってはある種の「禁句」です。それは新たな「アジア共同体」を構想するときに「大東亜共栄圏」の概念が歴史記憶の悔恨をつつくのと似ているからです。日本における戦後ナショナリズムの形成問題と関連させながら、新たな思想・概念を見つけなければ短絡の誤解を招きかねません。 また、憲法は政治思想の左右を問わず、かつての民権運動の際の「草の根憲法草案」のように、底辺の民衆まで関心を寄せる運動の中から誕生させたらいいと思います。市民の成熟は忍耐の要るプロセスでしょうけど、革命ということがあり得るとすれば、今度こそ軍隊を動員した暴力革命ではなく、成熟市民への個々の魂の革命として遂行されなければならないと思います。甘い夢でしょうか。ご教示を請います。 憲法B<佐藤 優 → 川満信一> 沖縄の魂 伝える表現を 琉大活用の雑誌創刊提案 川満信一様 丁寧なお返事をどうもありがとうございます。 川満さんの〈沖縄戦の体験から推測しても、周辺島嶼に対する見方は、威嚇的であり、日本への帰属を得と考える佐藤さんの選択がベターであるか、首を傾げるところです〉という点で、すなわち、日本帰属か否かという結論について、川満さんと私のとりあえずの結論は対立しています。 威嚇的な見方 しかし、この点について、最終的結論を出すことを急がないようにしたいと思います。現状のような日本帰属、連邦制での日本への残留、外交・防衛権をアメリカもしくは中国に委ねる「保護国」となることでの日本離脱、更に沖縄独立など、われわれの想像力が及ぶすべての結論を「開いたまま」にして、公共圏で誠実な議論を展開していくことが重要と思います。 ここでもっとも重要な論点は、川満さんが指摘された、〈沖縄戦の体験から推測しても、(日本の)周辺島嶼に対する見方は、威嚇的(である)〉という沖縄の人々の認識を内地の人々に正しく伝えることです。 大民族は周辺の小民族、ロシア人ならばポーランド人、イギリス人ならばアイルランド人に威嚇的行動をとってきたし、現在もとっていることが、認識できないのです。それだから、ポーランド人、アイルランド人は、常に過去の歴史を反芻し、異議申し立てを行うのです。川満さんの御指摘を得て、同様の構造が内地と沖縄の間にあると思いました。 ステロタイプ それから、国体という、まさに沖縄では禁句となっている暴力性を含む日本国家を成り立たせる基本原理について語ることが重要だと思います。私がいま関心をもっているのは、謝花昇、伊波普猷、仲原善忠など、沖縄性を日本語で表現しようとした人々のテキストから虚心坦懐に学ぶことです。その系譜で、「川満信一のテキスト」も重要な意味をもつのです。 このことを言うべきか否か、迷っていたのですが、言うことにします。沖縄にとって重要なことは、借り物ではない言葉で語ることだと思います。小説、詩歌、おもろさうし研究などで、沖縄はそのことに成功しています。問題は、政治言語になった場合、なぜそれがステロタイプになってしまうかということです。 例えば、琉球政府、沖縄県教育委員会が編纂した『沖縄県史』でも、個々のエピソードは、いわゆる「集団自決」(強制集団死)についての証言、東条英機首相の沖縄立ち寄り、民衆生活のレベルでも太平洋戦争が始まると電力供給が不安定になり、薄暗い「トマト電球」のような状態になったことなど、当時の状況が映像とともに追体験できるテキストになっています。 それが通史になると、マルクス主義・講座派流の「半封建的日本の絶対主義天皇制」というパターンに押し込められてしまい、リアリティーに欠けてしまうのです。沖縄の知識人が優等生すぎて、過度に権威ある「知の形」に自らをあわせようとするからです。伊波普猷、仲原善忠のテキストに見られる過度の内地への同化傾向も、沖縄の知識人のもつ優等生性に起因すると思うのです。もっと乱暴な表現で、沖縄の魂を表現することが、内地の知識人に刺激を与え、そこから化学反応を引き起こすことができると思うのです。 独立の「爆弾」 その点で、1981年に川満さんが発表された「琉球共和社会憲法C私(試)案」前文の〈万物に対する慈悲の原理に依り、互恵互助の制度を不断に創造する行為〉に基づく国家像が、その規格外の構想という点で面白いのです。 直接民主主義と生産手段の共有と(沖縄の中での)州自治を基本とする国家、むしろこれは通常の国家というよりは、国家による暴力と収奪を極力抑えた、レーニンがいう「半国家」のように見えます。このような川満さんの発想の底には、私の理解では、「沖縄の国体」が存在するのです。私は「川満信一のテキスト」から沖縄を沖縄として成り立たせる「われら沖縄の国体」を抽出したいと考えています。 『新沖縄文学』の重要性については、ほんとうに川満さんの御指摘通りと思います。ちなみにこの雑誌のユタに関する特集号は私の愛読書の一つです。ここで提案です。琉球大学をもっと活用することはできないでしょうか。琉球大学で、沖縄の有識者のフォーラムとなる雑誌を作るのです。私は情報(インテリジェンス)屋だったので、いまあるカードの中で、何が有効かということを常に考えるのですが、琉球大学に蓄積されている知的遺産の中には、内地にとって爆弾となるようなものが山ほどあります。 この爆弾を地中から掘り起こして、庭に並べておくのです。そして、「沖縄を日本にとどめておきたいのならば、この爆弾をよく見るんだな」という姿勢をとることです。その爆弾とは、沖縄独立です。ただし、前にも述べたように、私は沖縄独立には反対です。この爆弾はもっているだけで、使わないことで、最大限にその効果をあげることができると信じるからです。 与えられた紙幅の範囲で、私の見解を率直に記しました。忌憚なく批判してください。 憲法C<川満信一 → 佐藤 優> 沖縄問題世界的視野で 憲法改正議論9条以外も 佐藤優様 問題点の指摘ありがとうございます。 日本と沖縄の具体的関係をどう解決するか。1600年代から始まったこの課題は、これから先もまだ続くでしょう。それは沖縄の未来像を探るときに、まず整理し、けじめをつけなければならない課題だからです。結論を急がず、各面から議論をオープンにする、という提案には大いに賛成です。 社会的差別意識 ただ、今日のグローバリズムの潮流では、対日本関係に限定した沖縄問題のとらえ方だけでは埒があかないだろう、と見ています。近代国民国家の領土拡張主義に伴って、西洋でも東洋でも異文化地域を国境周辺に抱え込むことになったわけですが、特に日本の場合、歴史上の指導者たちは植民地の文化対策で、根底的な誤りを犯してきました。 琉球をはじめ、台湾、朝鮮、中国、南洋群島などその土地の文化を下等と決め付け、抹殺政策を強行したからです。たとえば台湾の場合だと、学校や職場でも本土人を優位にして、琉球人、朝鮮人、台湾人、生蕃というランク付けで、社会的差別を当然のこととしてきました。 この刷り込まれた差別政策が、「本土人」の庶民感性にまで浸透して、隠然と現在まで続いているわけです。差別の問題は、沖縄対本土だけの問題ではなく、沖縄内の問題でもあり、同時に対アジア的広がりとして構造化しています。現在の軍事基地政策の不当な押し付けも、それを当然と了解する「本土人」の差別意識が、国家の政策を支えているからだと見ています。 私は沖縄内の差別の底辺から這い上がってきたので、まず思想の出発点として、差別の構造を解明することからはじめなければならないと、70年代に「宮古論=島共同体の正と負」を書きました(『根からの問い』泰流社刊)。本土への告発は本土知識人たちのルサンチマンを刺激しますが、沖縄内部の負の意識を告発するテーマには関心を寄せないようです。 外部の目に期待 たとえば最近問題になった、いわゆる「集団自決(虐殺)」(強制集団死)にしても、当時大政翼賛会で軍権力の先兵をつとめた島内の、戦争責任についてはあまり問題にしません。米軍基地の問題も、その強化過程で利権を競った島内の先兵たちがいたことは間違いありませんが、それも「基地負担過剰は国家の責任」という合唱で目隠しされてしまうのです。 自主決定を必要とする「道州制」の課題を控えて、まずは島内部の負の構造を見極めることから始めなければ、これまでの大国依存体質を超えることは難しいでしょう。その点では佐藤さんたちのように、体験と視野の広がりをもった「外部の目」、島外からの論及に期待するところ大です。 つぎに「借り物でない言葉で語る」ことが必要という指摘ですが、如何せん母語を消す教育のもとで「教科書言葉」を覚えてきた環境ですから、つい肩ひじ張った「書き言葉」になってしまいます。テレビやラジオなどの普及で、若い世代は日本語を「母語」として育ってきていますから、いずれ「リアリティー」のある言葉で沖縄の魂を伝えることでしょう。 地元の大学が主宰する雑誌の構想を打ち出したのは、優れたアイデアだと思います。雑誌『新沖縄文学』は大学のアカデミズムにも門戸を開いてきましたが、アカデミズムは学内紀要だけで閉じ、一般社会の論客に門戸を開くのは邪道だという意識が強いようです。しかし、今沖縄が直面している状況は、世界的視野で論及しなければ先の見通しがきかないところにきていると見ています。 植民地的な隷属 アメリカの国策に翻弄されるだけで、アメリカの失敗の後追いと、ごり押しされた尻拭いばかり引き受けてきた政権と「新自由主義者」たちは、戦後日本が築いてきた国民生活全体の底上げ政策を放棄し、国民の公的資産を「民営化」という名目で大資本へ売り渡して、国家単位の植民地的隷属を強行しているように思えます。米軍再編に3兆円を超す予算を組み、軍事予算をお手盛りしながら、貧しいものは食うな、年寄りは早く死ねと言わんばかりの、憲法違反の医療制度改悪を平気で進めています。そして国家の浪費の責任転嫁策として、苦し紛れの場当たり構想で「道州制」を打ち上げていると見ています。 官僚と新自由主義者の操る日本政府は、地方の痛みなど二の次にして、「自己決定」などという甘い言葉でカモフラージュしています。「自己決定」とは、法律の山で押さえつけながら、赤字の尻拭いをどう背負うかを決めよ、ということではないのでしょうか。憲法の精神を踏みにじってきた付けとして、グローバリズムの荒波へ地方を投げ出だそうとしているとしか受け取れません。 それならば、独立、基地の競売権利、処理、帰属先の選択までふくめて「自己決定」を保障しなければなりません。憲法改正を問題にする場合は、9条云々だけでなく、もっと視野を広げた論及が望まれます。 |
第三回 沖縄の自治<松島泰勝vs平 恒次> | ||||
松島泰勝まつしま・やすかつ 1963年石垣市生まれ。龍谷大学准教授。早稲田大学大学院修了。主な著書に「琉球の『自治』」「沖縄島嶼経済史」「ミクロネシア」など。 平 恒次たいら・こうじ 1926年宮古島(旧平良)市生まれ。イリノイ大学名誉教授、名桜大学客員教授。主な著書に「日本経済史概説(共著)」「沖縄労働市場論(監修)」など。 |
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沖縄の自治@<松島泰勝 → 平 恒次> 「独立論」語られる琉球 国の管理強める道州制 はじめまして、平恒次さま。平さんにはまだお会いしたことがないのですが、この企画を通じて意見を交換する機会をえることができて感謝申し上げます。私は学生時代から平さんの独立についての論考を読み、博士論文(『沖縄島嶼経済史』藤原書店)でも引用させていただきました。私は琉球と太平洋諸島を比較しながら、島嶼社会における自治、開発、生活、人間の関係性等の意味について考えています。平さんと同じく、琉球人でありながら琉球外での生活が長くなった者でもあります。 少しの権限だけ 最初のお手紙ですので、私の方から平さんにいくつかの質問をしたいと思います。最初の質問は道州制についてです。現在、沖縄県単独の道州制を主張する議論が新聞紙上で盛んに行われています。ただ、沖縄県は補助金に大きく依存しているため、単独での州の形成や運営はできないのではないかという疑問の声も聞こえます。 そもそも、道州制は、市町村合併の時と同じく、財政赤字に苦しむ国が、広域行政地域をつくりあげ、少しの権限だけを地域に譲り、「効率的」な財政運営を強いることで、自らの財政負担を軽減することを目的としていると思います。つまり、現在の道州制とは、国主導の「分権化」という側面を否定できないのではないでしょうか。 平さんは1974年に書かれた『日本国改造試論』(講談社)において、「日本と同格の琉球」という立場から琉球は「ナシオン」として日本国連邦に対等な立場で参加することを提唱しました。また、「全世界的琉球精神共和国論」においては、世界に住むウチナーンチュと琉球とのネットワークを活用した琉球独立を唱えました。平さんは現在の道州制を巡る議論をどのように考えていますか。独立への一過程としてとらえるのか。道州制は国による琉球管理を強化するものであり、琉球は独立の道を歩むべきなのでしょうか。 現在の地位不当 第2の質問は、日本「復帰」以来の琉球における開発行政についてです。「復帰」後、沖縄開発庁(現在の内閣府沖縄担当部局)を主軸として琉球の開発が行われてきました。目標とされた経済自立は実現せず、かえって島の環境が大きく損なわれ、補助金に依存し、開発をエサにして基地が強制されるという状況に陥っています。私は、同組織を廃止して、琉球の住民自身が自らの頭で考え、実践できる体制を作り上げるべきだと考えています。他者の戦略、規格、開発方法を機械的に琉球に当てはめてきた「復帰体制」からの脱却が求められていると思います。 平さんが提示された「日本依存謝絶計画」を作成し、日本とは異なる独自の生態系、生活のリズム、人間関係、地場産業等を守り、育て、再生させるべきではないでしょうか。平さんは「復帰」後の開発行政をどのように考えていますか。失敗であったとするのならば、何が原因だったのでしょうか。日本政府主導の開発手法にかわる、発展の道としてどのような方法があるでしょうか。 第3の質問は、琉球独立についてです。日本の中で独立が長期にわたり真剣に論じられ、独立を求める政党が結成され、独立論者が選挙に立候補する地域は琉球以外にはありません。1879年の琉球国の併合問題、基地を強制し、歴史をわい曲する日本と琉球との植民地関係はいまだに解決されておりません。かつて独立国家であったこと、固有の社会文化・生態系を有する島嶼であること、現在の従属的関係性等を考え、また世界の同様な地域と比較してみても、日本の一地方に押し込められている、現在の琉球の地位は不当なものです。 島嶼の社会生活 平さんは70年代から琉球独立を主張されていますが、現時点における琉球独立の可能性についてお聞かせください。独立すれば琉球人は何から解放され、何を得ることができるのか。独立を実現するための方法、過程としてどのような道筋が考えられるのか。独立した場合、日本、他のアジア太平洋諸国とどのような関係を結ぶのか等を教えてください。 琉球独立論は経済自立論とセットで論じられています。独立により、日本政府からの命令や規制を受けることなく開発を行い、現在の経済水準をこえる、さらなる発展を目指すのか。それとも、これまでの開発による諸問題を反省し、島嶼の社会生活や生態系を踏まえた、人間の生活を守り育てるための生き方を目指すのか。太平洋の島嶼国をみますと、開発志向の地域は独立後、環境破壊、スラムの形成、所得格差、犯罪率・自殺率の増加等、さまざまな課題に直面するようになったケースがしばしば見られます。他方、憲法に島独自の慣習法、土地制度、首長制度を明記し、国内外からの開発暴力を抑えて、内発的な発展を歩んでいる島嶼もあります。 以上ですが、お返事のほど、どうぞよろしくお願いします。 沖縄の自治A<平 恒次 → 松島泰勝> 主権独立で国連参加へ 日琉経済関係は維持 松島泰勝殿 お手紙ありがとうございました。このごろの貴殿のご活躍ぶりには敬服のほかありません。私自身即座には思い出せないような私の旧著、旧論等についても、ご精通のご様子には大いに驚きました。時々気まぐれに書いてみた程度の駄作ばかりですのに、大変好意的なご質問を下さりこの上ない光栄です。 政治的地位 ご質問の三大項目の一つ一つが、論じ尽くせない重要課題ですので、直接取り上げで既にお見通しの持論を反芻するよりは、世界、日本、および琉球の未来へ目を向けながら、総論的な所感をまず申し上げたいと思います。 順不同で恐縮ですが、三大項目の一つは琉球独立論でした。これは、琉球独立を琉球のために望ましいとする議論のことであります。ところが、過日、インタビューで独立論の話が出て、「独立して食っていけるか」という反論もあるが、これをどう思うか、と訊かれたことがあります。正直、驚愕のあまり言葉も出ませんでした。今や世界はグローバリゼーション、琉球の一人当たり県民所得も先進国並みというご時世に、「食っていけるか」には全く恐れ入りました。 こうなると、政治と経済との先進国的関係について基本的な認識から始める必要があるようです。独立論の「独立」は、政治的独立であって、国際人権規約の第一条にある「人民の自決の権利」に基づき人民が自由に決定するその「政治的地位」に関することです。複数の選択肢の中から最も望ましいと思われる政治的地位は主権独立国であります。このような独立国を望ましいとする所以は、世界秩序の形成、維持、発展のための国際関係には、主権独立国でなければ全面的参加が困難であるからです。 現今の国際関係をある程度総攬している機構は国連です。国連加盟国となる独立国琉球にとって最も有り難い反対給付は平和と安全保障でしょう。「命どぅ宝」第一主義の琉球国の価値観は国連の価値観とぴったりといえましょう。琉球国が主権独立国となれば、国連および各種の国際機関等に積極的に参加して、世界秩序における分相応の当事国になれるわけです。沖縄で少数の運動家が進めている国連機関誘致も難なく実を結ぶでしょう。 自由度に差 国家主権の原理と実態は最近目に見えて変貌しましたが、政治社会が主権国家であるのとないのとでは、その権限、威信、行動の自由度等においてまだまだ雲泥の差があると思われます。国際人権規約で「すべての人民は自決の権利を有する」とされている以上、政治的独立は琉球人民の人権に含まれているといえるでしょう(ここで自決権の保持者とされる「人民」は規約の正文では「民族」を意味する「ピープル」<複数は「ピープルズ」>であるから、「人民の自決権」とは、分かりやすく言えば、耳慣れた「民族自決権」のことです)。 一方、人々は生活原資を経済で稼がなければなりません。独立国琉球の経済はどうなるかを考えるに当たって、琉球経済の現状規定が必要ですが、私は21世紀の琉球経済を「グローバリゼーション下の先進国経済」と規定します。このような経済は、世界一円の市場メカニズムという制度的インフラに支えられています。琉球が政治的に独立してもしなくても、このように規定される琉球経済の現実は変わりません。 独立前の(というのは、今の)琉球経済は、日本経済との所謂「一体化」、即ち経済統合が高度に進んでおり、世界史的展望で位置付ければ、日琉経済連合といえるのではないかと思います。欧米の経済統合史では、関税障壁に護られた閉鎖的な各国経済が、関税同盟、自由貿易地域、コモンマーケット、経済共同体、経済連合という具合に制度的にも経済行動においてもボーダーレスになってきたことが、見て取れます。ヨーロッパ連合の最後の大仕事は各国通貨を廃して共通通貨ユーロを採用したことでした。 毅然な態度 このような経済統合史を基準に日琉経済関係を見れば、ヨーロッパ連合内の二国間経済関係に酷似しています。私が主張したいことは、琉球独立後も二国間経済連合としての日琉経済関係は維持すべきであるということです。つまり、対等な主権独立国である日本と琉球が、経済関係においては統合度の最も高い経済連合として組み合っているというわけです。 現在、日本は数カ国のそれぞれと二国間自由貿易地域関係を結んでいます。これらの二国間関係は早晩一つの多国間関係に収斂・整理されるだろうと思います。琉球が政治的に独立してもしなくても、日本を含む身近な国際経済関係の行き着く先は、アジア経済連合のようなものであろうことは、大体想像されます。 私が望むことは、上記のようなアジアの動向に、琉球の人々が覚めた目で積極的に貢献して行くことです。「人民の自決の権利」に基づく毅然たる態度と世界変動の法則性を見抜く洞察力、そして「万国の津梁」に相応しい行動力が、琉球の人々に求められています。 総論で余白が尽きてしまいました。道州制と開発行政については次回で取り上げたいと思います。 沖縄の自治B<松島泰勝 → 平 恒次> 琉球は自己決定権所有 道州制も高度な自治で 平恒次様 お返事ありがとうございました。平さんのお手紙を通じて、琉球にとって自決権とは何かを改めて考えました。私は1996年に、アイヌ民族の方々、市民外交センターの上村英明さん等とともに、ジュネーブの国連欧州本部で開かれた先住民族作業部会に参加しました。琉球人は先住権等の権利を有する先住民族であり、日米両国による不当な支配から解放されるべきであると訴えました。琉球と同様な植民地支配下におかれた、世界中から参加した先住民族とも交流しました。自国政府に対し先住民族の諸権利を具体的な形で認めさせた人々もおり、大変励まされました。 諸権利持つ自覚を それから後の2007年にニューヨークの国連総会で「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択されました。同宣言では、先住民族は次のような権利を有しているとされています。自己決定権、平和的生存権、知的所有・財産権、文化権、メディア・情報への権利、教育権、経済権、発展の権利、医療・健康権、土地権、資源権、土地や資源の返還・賠償・補償を求める権利、越境権等です。 先住民族としての琉球人も当然、国連で認められた諸権利を行使して、現状を変えることができるのです。「琉球人の大多数は日本復帰を選択し、自己決定権を使ってしまった」といわれています。しかし、自己決定権は地域において変革すべき状況が存在している場合に使うことができる民族の権利であり、1回きりのものではありません。問題は琉球人がこれらの諸権利を持っていることを自覚し、行使するかどうかです。 自由度に雲泥の差 私は、琉球とともに太平洋諸島をも研究しております。ナウル、ツバル、パラオ等のように人口が1万や2万の島でも独立して国連のメンバーになっている島もあります。私は米国の属領であるグアムに2年、パラオに1年住んでいました。米国はグアムを軍事的に自由に使うために、住民が大統領を選出する権利、グアム代表が米下院議会で投票する権利等の諸権利を奪っています。その結果、住民に有無を言わせず一方的に原子力潜水艦基地が設置され、数年後、琉球から海兵隊・その家族が移駐し、基地機能がさらに強化されそうです。また日本企業をはじめとする外部資本による観光業の支配を顕著に進み、環境や社会生活の破壊を深刻化しています。 他方、パラオは憲法、法制度により外国企業の土地所有を禁止し、パラオ人優先の雇用を進め、入島税を課して環境を守るなど、自己決定権を発揮して、他者ではなく自らのペースに基づく発展の道を歩んでいます。米国と自由連合協定を締結しており、米国がパラオの軍事権を有していますが、パラオ人の意思を無視して基地を建設することはできません。グアムとパラオは飛行機で2時間で行くことにができる、遠くない場所にある島同士ですが、島の人間が享受する権利の違いに私は驚きました。平さんがお手紙で「政治社会が主権国家であるのとないのとでは、その権限、威信、行動の自由度等においてまだまだ雲泥の差があると思われます」と書かれておりましたが、その通りだと思います。 人間の尊厳求めて 琉球人の境遇はグアムの先住民族チャモロ人のものと近いのではないでしょうか。多くの琉球人の意思を無視して、太平洋戦争後、広大な基地が日米両政府から押し付けられ、東村高江のヘリパッド、名護市辺野古の新滑走略等、新たな基地の建設が強行されています。観光、公共事業等で利益の大部分を得ているのは本土の大企業であり、本社がある本土に利益の多くが還流しています。また地元企業や琉球人労働者は激しい市場競争のもと、倒産、系列化、失業の恐れに直面しています。 太平洋の島嶼国もグローバリゼーションの中にあり、独立したからといって孤立しているわけではありません。資本のグローバリゼーションに対して無防備に身をさらすのではなく、独自の慣習法や土地制度、自国企業の存続や発展を前提にした外資導入制度、厳しい環境保護法等、憲法、法制度によって「島の宝」を守り、育てようとしています。また生活に必要な島外からの資本、人、技術等を選択的に導入している島々の存在に気付かされます。太平洋諸島の人々は「経済自立」、「食っていくこと」を求めて独立をしたのではなく、人間の尊厳を自らの力で守るために「国」という形を選んだといえます。 琉球人はどのように自決権を行使すべきなのでしょうか。独立、高度な自治権を有する地域、現状維持等の選択肢が考えられます。かつて独立国であった琉球はいつまでも「沖縄県」という従属的な地位に甘んじるべきではありません。日本と対等な政治経済的な関係性を構築するために仕切り直す必要があります。道州制も「沖縄単独」だけではなく、他の道州とは異なる高度な自治権を堂々と要求すべきです。 独立論は琉球の自己決定権の思想的、文化的基盤であり、具体的な自治の形はどのようになろうとも、琉球人の魂を支え続けていくのではないでしょうか。40年近く、琉球独立を主張してこられた郷里の大先輩の存在を誇りに思います。 沖縄の自治C<平 恒次 → 松島泰勝> 連邦的移行で独立視野に 折角、先住民族の権利に関する国連宣言という新しい項目を、この往復書簡に加えられましたが、これを検討する紙幅は与えられていませんので、後日を期すことにして、前回予告の道州制について、国際人権法におけるピープル(民族)の自己決定権(自決権)との関連で、琉球の政治的地位の選択肢を考えて見たいと思います。 友好関係宣言 貴殿はおっしゃいました。「道州制も(沖縄単独)だけでなく、他の道州とは異なる高度な自治権を堂々と要求すべきです」。全くその通りです。 まず、話を出発点にもどしてピープルの自決権行使で得られる政治的地位の選択肢の定義から始めるとすれば、国連総会で採択された「友好関係宣言(一九七〇)」ではこう言っています。「主権独立国の確立、独立国との自由な連合若しくは統合、又はピープルが自由に決定したその他の政治的地位の獲得は、このピープルによる自決権の行使の諸形態を構成するものである」 素人感覚では、これらの諸形態(選択肢)の中では、主権独立国が一番望ましいわけです。ところが、同宣言はこうも言っています。「上記の各項のいずれも(中略)主権独立国の領土保全又は政治的統一を全部又は一部分割し若しくは毀損するいかなる行動をも、承認し又は奨励するものと解釈されてはならない」。 上記二つの条文を琉球独立に適応すると、沖縄県は主権独立国日本の一県ですから、それが独自の主権独立国になるということは、見ようによっては日本国の「領土保全又は政治的統一」を「分割」若しくは「毀損」することになるかも知れません。とすれば、日本国の反応は、と想うと恐ろしさに身震いがしてしまいます。 しかし、民主主義が成熟した二十一世紀の日本国がまさか十九世紀的行動に出ることは、ありえないだろうと言えるかも知れません。対話と交渉による問題解決を尊ふ民主主義の時代においては、ピープルの独立要求に対しても、日本国の合理的対応を期待してよいのではないかと思います。先進国に相応しい紛争の平和的解決に関しては、理論と実践の蓄積も相当なものがあるからです。 沖縄のチャンス 独立交渉が長丁場になることは常識です。幸いにして、日本国はその行政機構を道州制に再編しようとしています。道州制に秘められている普遍的国制の一つは「連邦制」です。連邦制の理念的原型は、複数の独立国が共通の理想や目的の追求、あるいは共通の問題解決のために、国際合議機関を設置し、交渉と合意の末各国の統治機能の一部を同機関に譲渡し、これを連邦政府としたことに始まる、と言えましょうか。つまり、本来の連邦制は単位政体のボトム・アップで統合された広域政体であるというわけです。 日本の道州制は、上記の原型とは逆の方向に(トップ・ダウンに)中央集権の地方分権によって成立するわけです。恐らく、この分権方式の連邦化では、道州の自治権は原型連邦制の構成諸国が保持し続ける主権に劣るものであろうと思われます。そこに沖縄のチャンスがあるわけです。沖縄県だけは、日本の道州制移行過程において、交渉の基底としての独立琉球国の立場から、連邦化の普遍的原理に基づき、独自の交渉によって連邦的統合を果たし、道州制時代の日本における特別な政体として、その名も琉球共和国とするなどして、その後の真の独立が視界に入るようなところまで歩を進めておくことができれば、と願いたいものです。 以上、独立論と道州制について所感を綴ってみました。開発行政の反省は積み残しました。総じて、すばらしい学習の機会でした。ニフェーデービタン。 |
第四回 復帰−反復帰 <崔 真碩vs新川 明> |
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崔真碩ちぇ・じんそく 1973年韓国ソウル生まれ。朝鮮近代文学研究者。役者。編訳者に「李箱作品集成」、出演作に「変幻痂殻城」がある。 新川明あらかわ・あきら 1931年生まれ。ジャーナリスト。元沖縄タイムス社長、同元会長。著書に「沖縄・統合と反逆」「反国家の兇区」「詩画集『日本が見える』」(共著)など。 |
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復帰−反復帰@<崔 真碩 → 新川 明> 「同化の暴力」今も継続 在日朝鮮人につながる構造 新川明様 ハイサイ。アンニョンハセヨ。こうして往復書簡というかたちで新川さんとお話できる貴重な機会を得ることができて、とても感激しています。どうぞ、よろしくお願いします。 「個」にも訴え 私はちょうど沖縄の日本復帰の翌年に生まれました。韓国のソウルで生まれて三ヵ月後に家族で日本に移民してきました。私は大学まで一貫して日本の学校に通って日本の教育を受けました。大学卒業後の四年間にわたるソウル留学を経て、朝鮮語を習得し、朝鮮近代文学を研究・翻訳し、今はテント芝居「野戦の月」で役者をしています。 新川さんの反復帰論に初めて出会ったのは、ソウル留学を終えて日本に戻ってきてから、2003年に尊敬する歴史家である屋嘉比収さんと出会ってからのことです。それまでは出会う機会がありませんでした。私の無知を恥じると同時に、私の世界は長らく混とんとしていたような気がします。 国家批判、植民地主義批判、そして同化批判としての反復帰論を読みながら感じるのは、反復帰論は朝鮮人の存在とつながっている思想である。ということです。反復帰論は普遍性を持っており、今日の在日朝鮮人が置かれている歴史的状況にもそのまま通じるものです。とりわけ、私は自分のこととして(きっとたくさんの誤読をしながら)反復帰論を読んできました。「個」の存在に訴えかける表現の力が反復帰論にはあるのです。 消された存在 私は小学校と中学校時代は、崔と名乗っていました。つまり、日本語読みの朝鮮名です。私が育った東京都足立区という所は、在日朝鮮人が多い地域です。しかし、ご存じの通り、ほとんどは日本名で生活しているため、どこに朝鮮人がいるのかわからないのが日常です。均質で透明な日本社会の空気の中に存在を消され、その均質で透明な空気を支えてしまっている、正確には、支えさせられてしまっている。 そのなかで私はいつもクラスでひとりだけ朝鮮人である状態でしたから、劣等感の塊でした。とにかく、日本人でないことが、一人だけ名前が変わっていることが恥ずかしくてたまりませんでした。上の世代の人々に比べれば、私はとりたてて露骨な差別体験をしてはいませんが、日本人であることを強いるような社会的空気が依然としてこの国には漂っていて、子供ながらに私は敏感に空気を読んでいたんだと思います。 だから、日本人になればこの劣等感から解放される、堂々と生きられると、少年時代、ずっとそう妄信していました。高校に上がるとき、私は自分で日本名を作り、日本名で高校に通うようになりました。自分の意志で、私は、日本人になったのです。しばらくは、半年くらいは、ばら色だった気がします。しかし、抑圧しきれずに、なにか、いつもみんなに嘘をついているようで、また、ほんとうはみんな僕が朝鮮人であることをじつは知っているんじゃないか、というような妄想にとらわれて、学校に行けなくなりました。真っ暗な日々でした。その当時のことは、じつは今でもうまく思い出せません。 呪縛からの解放 高校卒業後、このままではいけないと、日本人ではないことを受け止めて、次は、韓国人になろうと、韓国に一年間留学し、韓国語を必死に勉強しました。ゴリゴリの民族主義者になって日本の大学に入り、そのときから、私は本名を名乗りだしました。しかし、それも長くは続かなく、いきなり大韓民国になじめるわけもなく、どうしても無理があって、やはり真っ暗な日々でした。 さあこれからおれはどうしようと無気力になっているとき、いいかげん、青天のへきれきのように悟りました。日本人になりたかった、韓国人になりたかった、国民国家に片思いし続けてきたその軌跡を。それは私が文学と出合うのとまったく同時だったのですが、それから私は呪縛から解放されて、植民地朝鮮の歴史、朝鮮戦争の歴史、日本で客死した朝鮮人の死者たちと向き合うまなざしを除々に持つようになりました。ああ、おれは朝鮮人なんだ、と噛み締めながら。 これは私における精神革命です。ここから新川さんの反復帰論に出合うまでは一直線だった気がしますし、私にとっては必然なんですよ。新川さんの言葉に触れると、私が被ってきた同化の暴力を歴史化してとらえることができます。同化の暴力が継続している、その歴史的現在をとても具体的に感覚します。沖縄と朝鮮をつなぐものを通して、構造的に日本が見えます。そして、沖縄と朝鮮、東アジアから取り囲むようにして日本を見つめながら、あるいは国家が抱えこんだ壊疽として内側から抉るように貧しい日本を見つめながら、こう確信しています。私(たち)はマイノリティーではない、多数であると。 もちろん、沖縄と朝鮮の関係は、これで落着するわけではなく、もっと複雑で難しい問題を抱えているはずです。同じ日本の植民地だからといって並列できるわけではけっしてない。沖縄で客死した朝鮮人の死者たちがいるからです。弔われることのないままに今でも地を這いまわっている。そのこととどう向き合うのか。客死した死者に対するまなざしをもって、新川さんとお話したいです。東アジアにおける反復帰論の普遍性について、そして東アジアにおける私たちの多数性について。 復帰−反復帰A<新川 明 → 崔 真碩> 反復帰論 個の精神革命 普遍・多数性持つ土台に 崔真碩様 一度お会いしたことがありながらすっかり忘失していた貴方に、どのように返書を書くべきか思い迷っていると、ふと書架の『沖縄アジア臨界編』と題された分厚い一冊が目にとまり、手に取りました。第四章に「他者とのつながりを紡ぎなおす言葉−新川明と金時鐘」(我部聖)があり、読み返すと論述の導入部に貴方が登場しているのです。 朝鮮とのかかわり 2005年11月、韓国で開催された「継続する東アジアの戦争と戦後−沖縄戦、済州島四・三事件、朝鮮戦争」というシンポジウムで貴方が私の42年前の詩作品「『有色人種』抄(その一)」(1956年3月『琉球文学』第11号所収)を韓国語に翻訳、朗読なさったことです。その言葉の響きが我部君の心をとらえ、私の詩と金時鐘の「規律の異邦人」を交響させながら「不可視化されている他者たちとのつながりを紡ぎなおしていく言葉」を追求するのですが、その作業を媒介することで、貴方が数年前から私の近くにおられたにもかかわらず今回の書簡の交換相手であることに今日まで気づかない無知を恥ずかしく思います。 振り返ってみますと、朝鮮とのかかわりで思い出されるのは、70年代から80年代後期にわたって親しくしてもらった大阪在住の歴史家・姜在彦さんとの交流です。当時刊行されていた朝鮮問題の総合誌『季刊三千里』にも関係されていた姜さんのすすめで同誌第16号(78年冬号)に「近代沖縄と朝鮮」と題した小論を書いたほか、その厚意で同誌の創刊号(75年2月春号)から終刊の第50号(87年5月夏号)まで全巻を揃えたことです。 姜さんとの交流も87年に『季刊三千里』が終刊し、同年から十数年間、個人的な事情で私も自らに「断筆」を課したこともあって次第に疎遠になり、朝鮮問題とのかかわりも遠くなって、今日に至っています。 同化志向の超克 さてお手紙によりますと、貴方の精神革命は固有の本名を隠して名乗っていた日本名を捨てて本名を名乗ることでその第一歩を踏み出され、さらに国家幻想の呪縛から自らを解き放って十全の精神革命に至り、その延長線上で「沖縄」と出会い、私の「反復帰」論とも出会ったということでした。 ご承知のように植民地の宗主国が併合した被植民地の住民を国民国家の国民として統合していくとき、制度的同化の暴力(強制)が働きます。「琉球処分」後の日本帝国と琉球国との関係でいうと皇民化の強制ですが、上からの制度的暴力としての強制だけで国民的統合が完成することはない。上からの強制に呼応する下からの同化への希求という情動の発揮があり、両者の融合によって統合は完結するのですから、植民地主義への抵抗と闘いの本源は、すぐれて個々の内なる同化志向の超克という精神の革命にあると言えると考えます。 私の主張したいわゆる「反復帰」論はそういう意味の精神革命の訴えだったのですが、この点はなかなか理解されず、これを日本と沖縄の二項対立の形で論ずる「沖縄独立論」と解釈されたり、初発の契機となった島尾敏雄「ヤポネシア」論と短絡的に重ねつつ単なる「反国家権力論」とする的はずれの批判を受ける情況が今なお続いています。 「反復帰」論は国民国家を内側から撃つ反国家、反権力の思想を基盤にしていますが、論の本義は個々の精神革命であるという本意を理解する人が多くない現実は寂しいことです。 「在日」の「祖国」とは ともあれ、「同化の暴力を歴史化して捉える」精神革命においてはいわゆる「在日」(姜尚中の自伝『在日』に倣ってこの表記を用います)と沖縄人が共通の広場に立つことは可能ですが、両者の関係は「並列できるわけではけっしてない」というご指摘はその通りでしょう。「沖縄で客死した死者たち」に対するまなざしを堅持しつつ、相互の足場のちがいも冷静に確認したい、と思います。 たとえば前記『季刊三千里』の第42号(85年夏)から第45号(86年春)にかけて「在日」をめぐる論争があり、その中で沖縄ともかかわる問題で姜尚中の次の発言があります。 「われわれが留意すべきは、アイヌ民族や沖縄の住民にも自治州の創建といった独立分離主義の権利はあっても(略)、われわれには祖国があるというのが事実である」(同誌第44号) そこで「在日」にとってイメージされる「祖国」とは?という問いも含めて、同化の問題と絡む国民国家論において、「祖国」観念をどのように位置づけて処理するか、ご意見をお聞かせ下さい。 最後に「東アジアにおける反復帰論の普遍性」と「多数性」について、私は先に貴方と確認した精神革命の如何による、としか言えません。日本、中国、アメリカの帝国主義と植民地主義に抗して、個々の生存の基本的な主張としての精神革命(「反復帰」論の本義)がその地で受け止められるとき、それは普遍性を持つことになりますし、「多数性」も展望されるのではないでしょうか。 復帰−反復帰B<崔 真碩 → 新川 明> 加害性違う日本と沖縄 もうひとつの精神革命を 新川明様 ハイサイ。アンニョンハセヨ。崔真碩です。「『有色人種』抄」を朝鮮語に翻訳してソウルで朗読した日のことは、今でもよく覚えています。声が震えるほどに緊張しました。今度お会いした時、新川さんの前で朗読しますから。 異なる祖国の観念 さて、「祖国」観念をどのように位置づけて処理するが、これはとても難しい問いです。在日においては、一世、二世、三世、四世と世代ごとに異なるでしょうし、民族学校出身者と日本学校出身者との間でも異なるでしょう。また私のような突然変異的な在日においてもそれは同じです。しかし、結局のところは、個の存在に行き着く問いであるように思います。 私は、精神革命を経てからは、国民国家の呪縛から解放されると同時に、「祖国」観念も解体されました。今は、朝鮮そのものと繋がっている感覚を持っています。ここで朝鮮とは、何か実体的なものではなく、“痕跡がないもの”です。新川さんの「反復帰論」への応答として、私はこの朝鮮についてお話したいと思います。 「私は日本の国民が恐い。沖縄の人間のひとりとして、日本の国民は非常に恐いわけさ」。『前夜』(9号、2006年秋)でのインタビューにおける新川さんのこの言葉がとても印象深く、今でも私の中に残っています。幸運にも私はインタビューの場に居合わせたのですが、新川さんは、この言葉を大げさにではなく、さらりと、率直におっしゃっていました。私は共感します。 背中刺される感覚 拙稿「影の東アジア」(『現代思想』2007年2月号)で表現したことですが、2006年11月9日、朝鮮民主主義人民共和国によって核実験がなされた後の日本社会で、私は、ウシロカラササレル、身体の緊張を覚え始めました。それは私の歴史感覚を革命的に変える出来事であり、朝鮮と出合う瞬間でした。関東大震災の時、日本民衆に竹槍で背中を刺され客死した朝鮮人の身体と繋がった、そう言ってしまうと理解に苦しまれるかもしれませんが、少なくとも、関東大震災の時から日本社会は何も変わっていないことを直感しました。 ウシロカラササレル、それはきっと痛いしとても恐いことなのですがしかし、今は恐くありません。客死した死者とともにある、あるいは、これはテント芝居「野戦の月」の桜井大造さんの言葉ですが、死者に抱かれた、からなのだと思います。客死した死者に抱かれている私(たち)は、マイノリティーではなく、多数である。これは絶望の深淵から湧き上がってくる希望です。 私の身体は今、客死した朝鮮の死者に呼ばれるようにして、東アジアを感覚しています。沖縄で客死した朝鮮人の死者、台湾で客死した朝鮮人の死者のことを知りたい、そう切に思っています。たとえば、沖縄戦の時、沖縄人に竹槍で背中を刺され客死した朝鮮人の、その刺される瞬間の眼に映ったものを想像します。 欠落する死者存在 故岡本恵徳氏の文章で、ずっと気になっている一文があります。それは氏が亡くなられる一年前に発表された「偶感(42)」(『けーし風』第47号、2005年6月)で、氏は次のように沖縄戦の記憶を想起するなかでふと朝鮮人のことに触れているのです。 「食糧といえば近所に宮古上布の工場があって陸軍の糧秣が保管されてあった。夜半そこに朝鮮人軍属が忍び込んで玄米を生のまま口にしておなかを壊したり、忍び込んだところを見つかって酷く殴られる様子を眼にすることもあった。工場の周辺には、消化できないまま排出された玄米を含んだ糞が、幾カ所にも垂れ流されていた。今思うとその背後には食事だけではなく差別問題など朝鮮人をめぐる深刻なドラマが展開されていたに違いないが、それらは全く理解の外にあった」(80ページ) 氏が亡くなられる前に沖縄戦における朝鮮人を想定されていることに私は深い感慨を覚えます。そこには非常に大きな意味があるように思えてならないのです。 言うまでもないことですが、沖縄と朝鮮の関係は、加害と被害の二項対立で語られるべきではありません。そこからは死者の存在がこぼれおちてゆきますし、日本帝国および帝国本国人の加害者性と沖縄および沖縄人におけるそれとはまったく質が異なります。沖縄と朝鮮の間で(それ以上移譲されることがないままに)渦を巻いている抑圧の暴力を解き、それを日本帝国に返すこと。そして、沖縄で客死した死者を弔うことが重要なのです。具体的に言えば、客死の真相を究明することであり、たとえば、嘉手納基地の滑走路の下に埋まっている遺骨を発掘することです。しかしながら、それでもやはり、死者の恨(ハン)を解くことはできないのでしょうか。だから、死ぬまでずっと付き合い続けることなのだと思います。 語弊を恐れずに言えば、沖縄は朝鮮人の死者の上に在る、その意味で、沖縄は朝鮮なんですよ。沖縄で客死した死者に対するまなざしは、「反復帰論」によって解体された沖縄をさらに解体したその先に獲得されるものだと思います。新川さん、今ここで、もうひとつの精神革命が求められているのではないでしょうか。 復帰─反復帰C<新川 明 → 崔 真碩> 滅びない「思想的資源」 自省忘れる体質に恐さ 崔真碩様 私が季刊『前夜』(2006年秋)のインタビューで「沖縄人として日本の国民が恐い」と申したことに触れて、第二信で崔さんは日本社会から感受される「ウシロカラササレル、身体の緊張」について書かれました。 「拉致」問題以上 その意識の基層には関東大震災における朝鮮人虐殺の歴史の記憶があり、近年の「北朝鮮」の核開発や拉致問題で激化する日本社会の「朝鮮人バッシング」の噴出によって、あらためてその記憶が喚起されながら、そこで客死した死者と繋がることで自己形成をはかる姿を見ることができました。 「併合」にはじまり、さる大戦下の「従軍慰安婦」問題にいたる大日本帝国の加害と関東大震災における虐殺に象徴される日本社会の民衆レベルの加害にみられる日本という国と国民の「恐さ」もさることながら、この国と国民の本当の「恐さ」は、自らの過去の歴史への反省がない、ということと思います。 そこでわかりやすいのは、ご承知のように旧西ドイツと日本の戦争責任と戦後責任のとり方のちがいですが、たとえば、この国は「従軍慰安婦」問題について「日本軍の関与を証明する公文書の存在」を求めて被害者と争うし、その国民は「北朝鮮」の国家犯罪としての「拉致」問題以上に、大日本帝国が大々的に行った国家犯罪としての「強制連行」問題に関心を寄せることはない、という現実です。こうした歴史に対する自省を忘れた不感症と他者の痛みに鈍感な体質に「恐さ」を感じるのです。 沖縄人の加害性 ところで崔さんは沖縄戦で沖縄人に殺された朝鮮人のことを思い、沖縄人の加害者性について書かれました。「琉球処分」のあと、自ら忠良なる帝国臣民なることを目指した沖縄人が帝国軍人として侵略戦争下のとくに中国の戦場において「帝国本国人」と同じ行動をとったことは否定できませんし、沖縄戦における加害の事例を閑却視するわけにもまいりません。それゆえにこそ、そのように自らすすんで国家へすり寄り、「より良き日本人」たらんとした沖縄人の同化志向を撃つ思想として私の「反復帰」論はありました。 そこで沖縄人の加害者性をめぐる思想的営みで忘れてはならないのは崔さんも触れておられる岡本恵徳です。岡本は川満信一とともに私にとっては1950年代からの友人だし、「反復帰」論が語られる時には、この三人が一括りにされる間柄ですが、彼が私たちの学生時代の同人文芸誌『琉大文学』(1954年11月、第7号)に発表した短編「空疎な回想」(筆名・池澤聡)は、中国の戦場における加害の経験を持つ主人公を描いた好編です(同作品は翌55年9月『新日本文学』に「ガード」と改題されて転載されました)。 朝鮮人に対する加害ではなく、大陸での中国人への加害ですが、沖縄人の加害者性を描いた先駆的な文学作品として特筆されるものです。ついでに申し添えますと、私が「ひめゆり」を殉国美談としてのみ語ることを批判的に論じた「戦後沖縄文学批判ノート」が前出の『前夜』で話題になりましたが、これも岡本作品と同じ号に掲載されたものです。 知的作業への挑発 ともあれ崔さんは第二信を「沖縄は朝鮮人の死者の上に在る」とし、客死した死者に対するまなざしは「反復帰」論で解体された沖縄をさらに解体したその先に獲得される、という問題提起で締めくくりました。その前段で崔さんは、客死の真相を究明し、あるいは嘉手納基地の地中から遺骨を掘り起こしても「死者の恨を解くことはできないだろう」と書きとめています。皆さんのこの痛切な思いを私はそのとおりに受け止めたうえで、さきの提起に対する私の応答を簡潔に申せば、つぎのようになります。 私たちは死者に対する責任を引き受けつつ、たとえば本シリーズ最初の仲里氏=孫歌氏間のテーマであった「東アジア」に向けて、開かれた社会空間の構築をどのように構想し得るのか、という知的作業への挑発として、崔さんの提起はなされたのであろう、ということです。 そこへ向かうアプローチとして佐藤氏=川満氏の「憲法」論があったと思いますし、さらには平氏=松島氏「自治=独立」論もあったと理解しています。 いずれにしてもその道程の険しさを想いますと、私の世代が光明を見ることはできないと思いますが、私は崔さんがこだわりをみせている「多数派」についてはさほどこだわりません。もともと「反復帰」論は沖縄において少数異端の主張として、「復帰が実現すれば消滅する」とさえ言われたものです。それが「復帰」後36年を経て「思想的資源」として位置づけられて議論の対象になることを思えば、少しの焦りも感じないからです。多くの批判にもさらされながら、これまで私を支えてくれたのは、魯迅のつぎの言葉です。 「もともと地上には、道はない。歩く人が多くなければ、それが道になるのだ」(竹内好訳「故郷」より)。おつきあい、ありがとうございました。 |
第四回 復帰−反復帰 <崔 真碩vs新川 明> |
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崔真碩ちぇ・じんそく 1973年韓国ソウル生まれ。朝鮮近代文学研究者。役者。編訳者に「李箱作品集成」、出演作に「変幻痂殻城」がある。 新川明あらかわ・あきら 1931年生まれ。ジャーナリスト。元沖縄タイムス社長、同元会長。著書に「沖縄・統合と反逆」「反国家の兇区」「詩画集『日本が見える』」(共著)など。 |
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復帰−反復帰@<崔 真碩 → 新川 明> 「同化の暴力」今も継続 在日朝鮮人につながる構造 新川明様 ハイサイ。アンニョンハセヨ。こうして往復書簡というかたちで新川さんとお話できる貴重な機会を得ることができて、とても感激しています。どうぞ、よろしくお願いします。 「個」にも訴え 私はちょうど沖縄の日本復帰の翌年に生まれました。韓国のソウルで生まれて三ヵ月後に家族で日本に移民してきました。私は大学まで一貫して日本の学校に通って日本の教育を受けました。大学卒業後の四年間にわたるソウル留学を経て、朝鮮語を習得し、朝鮮近代文学を研究・翻訳し、今はテント芝居「野戦の月」で役者をしています。 新川さんの反復帰論に初めて出会ったのは、ソウル留学を終えて日本に戻ってきてから、2003年に尊敬する歴史家である屋嘉比収さんと出会ってからのことです。それまでは出会う機会がありませんでした。私の無知を恥じると同時に、私の世界は長らく混とんとしていたような気がします。 国家批判、植民地主義批判、そして同化批判としての反復帰論を読みながら感じるのは、反復帰論は朝鮮人の存在とつながっている思想である。ということです。反復帰論は普遍性を持っており、今日の在日朝鮮人が置かれている歴史的状況にもそのまま通じるものです。とりわけ、私は自分のこととして(きっとたくさんの誤読をしながら)反復帰論を読んできました。「個」の存在に訴えかける表現の力が反復帰論にはあるのです。 消された存在 私は小学校と中学校時代は、崔と名乗っていました。つまり、日本語読みの朝鮮名です。私が育った東京都足立区という所は、在日朝鮮人が多い地域です。しかし、ご存じの通り、ほとんどは日本名で生活しているため、どこに朝鮮人がいるのかわからないのが日常です。均質で透明な日本社会の空気の中に存在を消され、その均質で透明な空気を支えてしまっている、正確には、支えさせられてしまっている。 そのなかで私はいつもクラスでひとりだけ朝鮮人である状態でしたから、劣等感の塊でした。とにかく、日本人でないことが、一人だけ名前が変わっていることが恥ずかしくてたまりませんでした。上の世代の人々に比べれば、私はとりたてて露骨な差別体験をしてはいませんが、日本人であることを強いるような社会的空気が依然としてこの国には漂っていて、子供ながらに私は敏感に空気を読んでいたんだと思います。 だから、日本人になればこの劣等感から解放される、堂々と生きられると、少年時代、ずっとそう妄信していました。高校に上がるとき、私は自分で日本名を作り、日本名で高校に通うようになりました。自分の意志で、私は、日本人になったのです。しばらくは、半年くらいは、ばら色だった気がします。しかし、抑圧しきれずに、なにか、いつもみんなに嘘をついているようで、また、ほんとうはみんな僕が朝鮮人であることをじつは知っているんじゃないか、というような妄想にとらわれて、学校に行けなくなりました。真っ暗な日々でした。その当時のことは、じつは今でもうまく思い出せません。 呪縛からの解放 高校卒業後、このままではいけないと、日本人ではないことを受け止めて、次は、韓国人になろうと、韓国に一年間留学し、韓国語を必死に勉強しました。ゴリゴリの民族主義者になって日本の大学に入り、そのときから、私は本名を名乗りだしました。しかし、それも長くは続かなく、いきなり大韓民国になじめるわけもなく、どうしても無理があって、やはり真っ暗な日々でした。 さあこれからおれはどうしようと無気力になっているとき、いいかげん、青天のへきれきのように悟りました。日本人になりたかった、韓国人になりたかった、国民国家に片思いし続けてきたその軌跡を。それは私が文学と出合うのとまったく同時だったのですが、それから私は呪縛から解放されて、植民地朝鮮の歴史、朝鮮戦争の歴史、日本で客死した朝鮮人の死者たちと向き合うまなざしを除々に持つようになりました。ああ、おれは朝鮮人なんだ、と噛み締めながら。 これは私における精神革命です。ここから新川さんの反復帰論に出合うまでは一直線だった気がしますし、私にとっては必然なんですよ。新川さんの言葉に触れると、私が被ってきた同化の暴力を歴史化してとらえることができます。同化の暴力が継続している、その歴史的現在をとても具体的に感覚します。沖縄と朝鮮をつなぐものを通して、構造的に日本が見えます。そして、沖縄と朝鮮、東アジアから取り囲むようにして日本を見つめながら、あるいは国家が抱えこんだ壊疽として内側から抉るように貧しい日本を見つめながら、こう確信しています。私(たち)はマイノリティーではない、多数であると。 もちろん、沖縄と朝鮮の関係は、これで落着するわけではなく、もっと複雑で難しい問題を抱えているはずです。同じ日本の植民地だからといって並列できるわけではけっしてない。沖縄で客死した朝鮮人の死者たちがいるからです。弔われることのないままに今でも地を這いまわっている。そのこととどう向き合うのか。客死した死者に対するまなざしをもって、新川さんとお話したいです。東アジアにおける反復帰論の普遍性について、そして東アジアにおける私たちの多数性について。 復帰−反復帰A<新川 明 → 崔 真碩> 反復帰論 個の精神革命 普遍・多数性持つ土台に 崔真碩様 一度お会いしたことがありながらすっかり忘失していた貴方に、どのように返書を書くべきか思い迷っていると、ふと書架の『沖縄アジア臨界編』と題された分厚い一冊が目にとまり、手に取りました。第四章に「他者とのつながりを紡ぎなおす言葉−新川明と金時鐘」(我部聖)があり、読み返すと論述の導入部に貴方が登場しているのです。 朝鮮とのかかわり 2005年11月、韓国で開催された「継続する東アジアの戦争と戦後−沖縄戦、済州島四・三事件、朝鮮戦争」というシンポジウムで貴方が私の42年前の詩作品「『有色人種』抄(その一)」(1956年3月『琉球文学』第11号所収)を韓国語に翻訳、朗読なさったことです。その言葉の響きが我部君の心をとらえ、私の詩と金時鐘の「規律の異邦人」を交響させながら「不可視化されている他者たちとのつながりを紡ぎなおしていく言葉」を追求するのですが、その作業を媒介することで、貴方が数年前から私の近くにおられたにもかかわらず今回の書簡の交換相手であることに今日まで気づかない無知を恥ずかしく思います。 振り返ってみますと、朝鮮とのかかわりで思い出されるのは、70年代から80年代後期にわたって親しくしてもらった大阪在住の歴史家・姜在彦さんとの交流です。当時刊行されていた朝鮮問題の総合誌『季刊三千里』にも関係されていた姜さんのすすめで同誌第16号(78年冬号)に「近代沖縄と朝鮮」と題した小論を書いたほか、その厚意で同誌の創刊号(75年2月春号)から終刊の第50号(87年5月夏号)まで全巻を揃えたことです。 姜さんとの交流も87年に『季刊三千里』が終刊し、同年から十数年間、個人的な事情で私も自らに「断筆」を課したこともあって次第に疎遠になり、朝鮮問題とのかかわりも遠くなって、今日に至っています。 同化志向の超克 さてお手紙によりますと、貴方の精神革命は固有の本名を隠して名乗っていた日本名を捨てて本名を名乗ることでその第一歩を踏み出され、さらに国家幻想の呪縛から自らを解き放って十全の精神革命に至り、その延長線上で「沖縄」と出会い、私の「反復帰」論とも出会ったということでした。 ご承知のように植民地の宗主国が併合した被植民地の住民を国民国家の国民として統合していくとき、制度的同化の暴力(強制)が働きます。「琉球処分」後の日本帝国と琉球国との関係でいうと皇民化の強制ですが、上からの制度的暴力としての強制だけで国民的統合が完成することはない。上からの強制に呼応する下からの同化への希求という情動の発揮があり、両者の融合によって統合は完結するのですから、植民地主義への抵抗と闘いの本源は、すぐれて個々の内なる同化志向の超克という精神の革命にあると言えると考えます。 私の主張したいわゆる「反復帰」論はそういう意味の精神革命の訴えだったのですが、この点はなかなか理解されず、これを日本と沖縄の二項対立の形で論ずる「沖縄独立論」と解釈されたり、初発の契機となった島尾敏雄「ヤポネシア」論と短絡的に重ねつつ単なる「反国家権力論」とする的はずれの批判を受ける情況が今なお続いています。 「反復帰」論は国民国家を内側から撃つ反国家、反権力の思想を基盤にしていますが、論の本義は個々の精神革命であるという本意を理解する人が多くない現実は寂しいことです。 「在日」の「祖国」とは ともあれ、「同化の暴力を歴史化して捉える」精神革命においてはいわゆる「在日」(姜尚中の自伝『在日』に倣ってこの表記を用います)と沖縄人が共通の広場に立つことは可能ですが、両者の関係は「並列できるわけではけっしてない」というご指摘はその通りでしょう。「沖縄で客死した死者たち」に対するまなざしを堅持しつつ、相互の足場のちがいも冷静に確認したい、と思います。 たとえば前記『季刊三千里』の第42号(85年夏)から第45号(86年春)にかけて「在日」をめぐる論争があり、その中で沖縄ともかかわる問題で姜尚中の次の発言があります。 「われわれが留意すべきは、アイヌ民族や沖縄の住民にも自治州の創建といった独立分離主義の権利はあっても(略)、われわれには祖国があるというのが事実である」(同誌第44号) そこで「在日」にとってイメージされる「祖国」とは?という問いも含めて、同化の問題と絡む国民国家論において、「祖国」観念をどのように位置づけて処理するか、ご意見をお聞かせ下さい。 最後に「東アジアにおける反復帰論の普遍性」と「多数性」について、私は先に貴方と確認した精神革命の如何による、としか言えません。日本、中国、アメリカの帝国主義と植民地主義に抗して、個々の生存の基本的な主張としての精神革命(「反復帰」論の本義)がその地で受け止められるとき、それは普遍性を持つことになりますし、「多数性」も展望されるのではないでしょうか。 復帰−反復帰B<崔 真碩 → 新川 明> 加害性違う日本と沖縄 もうひとつの精神革命を 新川明様 ハイサイ。アンニョンハセヨ。崔真碩です。「『有色人種』抄」を朝鮮語に翻訳してソウルで朗読した日のことは、今でもよく覚えています。声が震えるほどに緊張しました。今度お会いした時、新川さんの前で朗読しますから。 異なる祖国の観念 さて、「祖国」観念をどのように位置づけて処理するが、これはとても難しい問いです。在日においては、一世、二世、三世、四世と世代ごとに異なるでしょうし、民族学校出身者と日本学校出身者との間でも異なるでしょう。また私のような突然変異的な在日においてもそれは同じです。しかし、結局のところは、個の存在に行き着く問いであるように思います。 私は、精神革命を経てからは、国民国家の呪縛から解放されると同時に、「祖国」観念も解体されました。今は、朝鮮そのものと繋がっている感覚を持っています。ここで朝鮮とは、何か実体的なものではなく、“痕跡がないもの”です。新川さんの「反復帰論」への応答として、私はこの朝鮮についてお話したいと思います。 「私は日本の国民が恐い。沖縄の人間のひとりとして、日本の国民は非常に恐いわけさ」。『前夜』(9号、2006年秋)でのインタビューにおける新川さんのこの言葉がとても印象深く、今でも私の中に残っています。幸運にも私はインタビューの場に居合わせたのですが、新川さんは、この言葉を大げさにではなく、さらりと、率直におっしゃっていました。私は共感します。 背中刺される感覚 拙稿「影の東アジア」(『現代思想』2007年2月号)で表現したことですが、2006年11月9日、朝鮮民主主義人民共和国によって核実験がなされた後の日本社会で、私は、ウシロカラササレル、身体の緊張を覚え始めました。それは私の歴史感覚を革命的に変える出来事であり、朝鮮と出合う瞬間でした。関東大震災の時、日本民衆に竹槍で背中を刺され客死した朝鮮人の身体と繋がった、そう言ってしまうと理解に苦しまれるかもしれませんが、少なくとも、関東大震災の時から日本社会は何も変わっていないことを直感しました。 ウシロカラササレル、それはきっと痛いしとても恐いことなのですがしかし、今は恐くありません。客死した死者とともにある、あるいは、これはテント芝居「野戦の月」の桜井大造さんの言葉ですが、死者に抱かれた、からなのだと思います。客死した死者に抱かれている私(たち)は、マイノリティーではなく、多数である。これは絶望の深淵から湧き上がってくる希望です。 私の身体は今、客死した朝鮮の死者に呼ばれるようにして、東アジアを感覚しています。沖縄で客死した朝鮮人の死者、台湾で客死した朝鮮人の死者のことを知りたい、そう切に思っています。たとえば、沖縄戦の時、沖縄人に竹槍で背中を刺され客死した朝鮮人の、その刺される瞬間の眼に映ったものを想像します。 欠落する死者存在 故岡本恵徳氏の文章で、ずっと気になっている一文があります。それは氏が亡くなられる一年前に発表された「偶感(42)」(『けーし風』第47号、2005年6月)で、氏は次のように沖縄戦の記憶を想起するなかでふと朝鮮人のことに触れているのです。 「食糧といえば近所に宮古上布の工場があって陸軍の糧秣が保管されてあった。夜半そこに朝鮮人軍属が忍び込んで玄米を生のまま口にしておなかを壊したり、忍び込んだところを見つかって酷く殴られる様子を眼にすることもあった。工場の周辺には、消化できないまま排出された玄米を含んだ糞が、幾カ所にも垂れ流されていた。今思うとその背後には食事だけではなく差別問題など朝鮮人をめぐる深刻なドラマが展開されていたに違いないが、それらは全く理解の外にあった」(80ページ) 氏が亡くなられる前に沖縄戦における朝鮮人を想定されていることに私は深い感慨を覚えます。そこには非常に大きな意味があるように思えてならないのです。 言うまでもないことですが、沖縄と朝鮮の関係は、加害と被害の二項対立で語られるべきではありません。そこからは死者の存在がこぼれおちてゆきますし、日本帝国および帝国本国人の加害者性と沖縄および沖縄人におけるそれとはまったく質が異なります。沖縄と朝鮮の間で(それ以上移譲されることがないままに)渦を巻いている抑圧の暴力を解き、それを日本帝国に返すこと。そして、沖縄で客死した死者を弔うことが重要なのです。具体的に言えば、客死の真相を究明することであり、たとえば、嘉手納基地の滑走路の下に埋まっている遺骨を発掘することです。しかしながら、それでもやはり、死者の恨(ハン)を解くことはできないのでしょうか。だから、死ぬまでずっと付き合い続けることなのだと思います。 語弊を恐れずに言えば、沖縄は朝鮮人の死者の上に在る、その意味で、沖縄は朝鮮なんですよ。沖縄で客死した死者に対するまなざしは、「反復帰論」によって解体された沖縄をさらに解体したその先に獲得されるものだと思います。新川さん、今ここで、もうひとつの精神革命が求められているのではないでしょうか。 復帰─反復帰C<新川 明 → 崔 真碩> 滅びない「思想的資源」 自省忘れる体質に恐さ 崔真碩様 私が季刊『前夜』(2006年秋)のインタビューで「沖縄人として日本の国民が恐い」と申したことに触れて、第二信で崔さんは日本社会から感受される「ウシロカラササレル、身体の緊張」について書かれました。 「拉致」問題以上 その意識の基層には関東大震災における朝鮮人虐殺の歴史の記憶があり、近年の「北朝鮮」の核開発や拉致問題で激化する日本社会の「朝鮮人バッシング」の噴出によって、あらためてその記憶が喚起されながら、そこで客死した死者と繋がることで自己形成をはかる姿を見ることができました。 「併合」にはじまり、さる大戦下の「従軍慰安婦」問題にいたる大日本帝国の加害と関東大震災における虐殺に象徴される日本社会の民衆レベルの加害にみられる日本という国と国民の「恐さ」もさることながら、この国と国民の本当の「恐さ」は、自らの過去の歴史への反省がない、ということと思います。 そこでわかりやすいのは、ご承知のように旧西ドイツと日本の戦争責任と戦後責任のとり方のちがいですが、たとえば、この国は「従軍慰安婦」問題について「日本軍の関与を証明する公文書の存在」を求めて被害者と争うし、その国民は「北朝鮮」の国家犯罪としての「拉致」問題以上に、大日本帝国が大々的に行った国家犯罪としての「強制連行」問題に関心を寄せることはない、という現実です。こうした歴史に対する自省を忘れた不感症と他者の痛みに鈍感な体質に「恐さ」を感じるのです。 沖縄人の加害性 ところで崔さんは沖縄戦で沖縄人に殺された朝鮮人のことを思い、沖縄人の加害者性について書かれました。「琉球処分」のあと、自ら忠良なる帝国臣民なることを目指した沖縄人が帝国軍人として侵略戦争下のとくに中国の戦場において「帝国本国人」と同じ行動をとったことは否定できませんし、沖縄戦における加害の事例を閑却視するわけにもまいりません。それゆえにこそ、そのように自らすすんで国家へすり寄り、「より良き日本人」たらんとした沖縄人の同化志向を撃つ思想として私の「反復帰」論はありました。 そこで沖縄人の加害者性をめぐる思想的営みで忘れてはならないのは崔さんも触れておられる岡本恵徳です。岡本は川満信一とともに私にとっては1950年代からの友人だし、「反復帰」論が語られる時には、この三人が一括りにされる間柄ですが、彼が私たちの学生時代の同人文芸誌『琉大文学』(1954年11月、第7号)に発表した短編「空疎な回想」(筆名・池澤聡)は、中国の戦場における加害の経験を持つ主人公を描いた好編です(同作品は翌55年9月『新日本文学』に「ガード」と改題されて転載されました)。 朝鮮人に対する加害ではなく、大陸での中国人への加害ですが、沖縄人の加害者性を描いた先駆的な文学作品として特筆されるものです。ついでに申し添えますと、私が「ひめゆり」を殉国美談としてのみ語ることを批判的に論じた「戦後沖縄文学批判ノート」が前出の『前夜』で話題になりましたが、これも岡本作品と同じ号に掲載されたものです。 知的作業への挑発 ともあれ崔さんは第二信を「沖縄は朝鮮人の死者の上に在る」とし、客死した死者に対するまなざしは「反復帰」論で解体された沖縄をさらに解体したその先に獲得される、という問題提起で締めくくりました。その前段で崔さんは、客死の真相を究明し、あるいは嘉手納基地の地中から遺骨を掘り起こしても「死者の恨を解くことはできないだろう」と書きとめています。皆さんのこの痛切な思いを私はそのとおりに受け止めたうえで、さきの提起に対する私の応答を簡潔に申せば、つぎのようになります。 私たちは死者に対する責任を引き受けつつ、たとえば本シリーズ最初の仲里氏=孫歌氏間のテーマであった「東アジア」に向けて、開かれた社会空間の構築をどのように構想し得るのか、という知的作業への挑発として、崔さんの提起はなされたのであろう、ということです。 そこへ向かうアプローチとして佐藤氏=川満氏の「憲法」論があったと思いますし、さらには平氏=松島氏「自治=独立」論もあったと理解しています。 いずれにしてもその道程の険しさを想いますと、私の世代が光明を見ることはできないと思いますが、私は崔さんがこだわりをみせている「多数派」についてはさほどこだわりません。もともと「反復帰」論は沖縄において少数異端の主張として、「復帰が実現すれば消滅する」とさえ言われたものです。それが「復帰」後36年を経て「思想的資源」として位置づけられて議論の対象になることを思えば、少しの焦りも感じないからです。多くの批判にもさらされながら、これまで私を支えてくれたのは、魯迅のつぎの言葉です。 「もともと地上には、道はない。歩く人が多くなければ、それが道になるのだ」(竹内好訳「故郷」より)。おつきあい、ありがとうございました。 |