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地方自治を考える
=琉球政府よ、復帰後も“政府”であれ=



松田賀孝(琉大講師・アメリカ経済史専攻)

《上》

 戦後の苦悩の歴史の中で、われわれはかけがえのない貴重な体験をした。それは、みずからの政府をもったということである。東京へ留学した沖縄出身の学生が、本土の友人に、“おれのおやじは政府に勤めているんだ”といったら、妙な顔をしたそうである。なるほど“政府に勤めている”との表現は、本土の人間には奇異に聞こえるのかも知れない。たしかに政府という言葉が卑近な日常会話にさまでポンポン飛び出す地域は、わが国では他に例がない。つまりそれほどまでに、戦後の沖縄では政府というものが住民の日ごろの生活に溶け込んでいるのである。
 なるほど究極的な権限が高等弁務官の手にゆだねられているようでは、琉球“政府”とはいってもそれは形だけの擬制的な“政府”であって、けっして本来の意味での“政府”ではないという議論もあろう。しかしそれでも、他の府県の地方自治体に比べれば、はるかに“政府”的要素をそなえていることは否めないところである。たとえば、琉球政府は住民の税負担率や外資導入の可否を決定することもできれば公共料金を定めることもできるし、琉球警察は行政主席の統轄下に置かれているなどの点をみただけでも、このことは容易にうなずけよう。
 ところで復帰後は、このような権限はすべて中央政府に移され、47番目の一地方県庁に転落し、“三割自治”、いや“一割自治”の苦杯をなめさせられる運命にあるといわれる。もしこれが現実となれば、軍政下の厳しい条件下でこれまで自治権拡大運動を進めてきた沖縄県民は、復帰によってやり場のないざ折感を味わわされることになろう。
 地方自治という言葉は英語のLocal Governmentに当たるが、これは直訳すれば「地方政府」である。「地方政府」という訳語はわれわれ日本人にはなじみの薄い言葉であるが、このことはとりもなおさず、地方自治体を「国の政府」(National Government)ないし「中央政府」(Central Government)に対する「地方政府」として把えようとする自治観念が、中央集権化の著しいわが国には存在しないことを意味している。つまり、地方自治体は、国の行政事務をつかさどる下級の一機関にすぎず、政治とは無縁なものでしかないとみられている。
 ところで地方自治の歴史は古い。「地方自治のふる里」といわれるイギリスでは、すでにノルマン王朝のころに諸都市では「自治憲章」(Charteer)の制定をみており、教区での自治の発生はさらに古い。しかしこれらは、住民個々人の自然権に基礎を置いた住民自治ではなく都市貴族や僧侶などの一部特権階級がみずからの特権を、国王の干渉から守って独占するためのものでしかなかった。
 自治が“在民主権”に根をおろすようになるには、市民革命による意識上、制度上の変革を俟たなければならなかった。ところが、わが国民はみずからの手によって市民権を獲得した歴史をもたないだけに、地方自治を在民主権の自然法にねざすものとして体得するにはまだいたっていない。なるほど明治維新後の一時期、いわゆる民権運動が盛んになったことがあるが、しかしそれも住民の間に根をおろさないままに、万世一系の天皇を中心とする全体主義にその芽をつみとられてしまった。そのため、自治権を、基本的人権と同じく自然法に固有なものと考える見方は、日本人にとってなんとなくなじめないものになっている。
 戦後、新憲法によって地方自治が“与え”られることになったが、その第92条には「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基づいて、法律でこれを定める」とある。ところが肝心な「地方自治の本旨」については明確な規定が示されていないのである。「地方自治の本旨」をめぐって専門家の間で議論がたえないのはそのためである。
 しかしすでに述べたように、自治権は実定法以前の問題であり、憲法に規定されている、いないによってその存否が決まる性質のものではない。その証拠に、地方自治のもっとも進んだイギリス、アメリカ、スイスなどでも、格別に憲法ないし連邦憲法で地方自治について規定しているわけではない。英米法にならってつくられたはずのわが国の憲法にわざわざ地方自治に関する条文が織り込まれていること自体、不自然といえば不自然なのである。もっともそれにはそれなりの理由がなかったわけではない。つまり終戦前まで、王権神授説まがいの天皇主権説がハバを利かせ、在民主権はおろか、天皇機関説の程度ですら口にすることを許されなかったところに、いきおい在民主権の民主主義がもち込まれても、容易に受け容れられるはずがない。そこで新憲法は、本来自然法の範囲に属するはずの地方自治について、特に触れざるをえなかったのである。
 ともあれ、地方自治の問題は、憲法に規定されているかどうかにあるのではない。それは憲法以前、さらにいえば国家以前の問題なのである。だとすれば、「地方自治の本旨」についての規定を憲法の条文の解釈に求めようとする不毛な議論は止めて、英米の事例から地方自治の実態を学びとることのほうが重要である。
 イギリスの地方政府は、執行部と議決機関の区別がなく、議員が各常任委員となって執行を分担する仕組みになっている。その地域の住民が選挙によってえらんだ議員が行政執行にあたるのであるから、中央官僚が地方自治へ天下ってのさぼるということは起こりえない。そもそもイギリスでは、国家官僚の取り扱いうる行政範囲は中央の事件に限られており、地方的事件については、それがいかに重要なものであっても、地方政府の処理にゆだねられている。租税の賦課や予算の編成はすべて地方行政の権限と責任においてなされている。中央政府派遣の検査官がいるにはいるが、彼は“政府の目と耳”にすぎず、なんの執行力ももってはいない。
 アメリカのばあい、各州政府はそれぞれ独立した幅広い自治権をもっており、その一部が「委託権限」として連邦政府にゆだねられているにすぎない。連邦憲法の第一条8節一項には、「連邦議会は左記の権限を有する…」とあって、18項目にわたる委託権限が列証されている。裏をかえせば、委託を明示してない権限は州政府の手もとに留保されるということである。そこには、在民主権にもとづく社会契約説的な考え方がよくあらわれている。各人の基本的権利の一部が委託されて州政府となり、州政府の権限の一部がさらに委託されて連邦政府となるというわけである。つまり“上から下へ”ではなく“下から上へ”の考え方である。なおつけ加えるなら、州政府から独立したコミュニティ自治体の存在すら珍しくない。そこには、「政治が人民に近ければ近いほど、その政府はそれだけ健全である」という在民主権の政府観が一貫して流れている。
 英米のばあい、要するに“地方自治体あっての中央政府”という考えから、地方自治体は政治を含む包括的な権力を住民から委託されているのであって、中央政府の礎石をなしているのである。
【沖縄タイムス1970年10月14日】


《下》

 ところがわが国では、中央集権による画一化の前に、地方自治の独自性はほうむりさられている。地方自治体は中央から権限の一部を移譲された下級機関にすぎず、地域住民に対するよりもむしろ中央官庁に対して責任を負うものとみなされている。中央から分譲される権限も一部の行政にかぎられている。たとえば、わが国の地方自治体は警察に対してなんらの権限もないのであるから、道路に対する管理権が自治体にあっても、それに対する規制権は警察を通じて中央政府が握っている。道路に対してすら自ら治めることができずして、なお地方自治の面目をどうして保てるのだろうか。
 要するに民主的な国ほど、地方自治が尊重され、民主主義の弱い国ほど中央集権化が強い傾向にある。「民主主義は平等的な画一性ではない。民主主義は各人の見解や利害が互いに批判され計算されることを要求するもの」(K三・パンターブリック)であり、「地方的な特殊を否定して、機械的な画一性の枠の中に自治を窒息せしめるところに現代行政の発展はありえない」(吉富重夫)のである。
 このような見解に対して反論のあることも筆者は十分承知している。つまり、専制君主の支配する時代には、地方自治の果たす民主的役割りはきわめて大きいが、公選による民主的中央政府の存在する今日では、地方自治の民主的意義は失われ、もはやその存在価値がないという議論だ。たとえば、「民主主義は、平等にして多数による単一の制度である。民主主義は、時と所とを問わず有機的に統一された社会、すなわち画一的な同一水準化された合法則的な社会を形成するもの」というG・ラングロッドの見解は、この種の代表的なものである。
 しかしこのような主張が一つの真理となるのは、封建的な中央集権との戦いの中で特殊性、独自性、利己性等の個の概念が十分確立した市民社会においてである。わが国のように、常に個の主張が封殺されてきた社会においては、個の確立による多様性の開化こそ民主主義の前提条件でなければならない。「民族は自由の政府組織をつくり得るかもしれないが、自由の精神をもつことは不可能である」(トックヴィル)。
 個の確立してない社会における中央集権化は大きな危険をともなう。なぜなら、いかに中央の権力が形式上民主的な公選制に依拠したものであっても、それは裏に在民主権の思想に根ざすものではないから、国民から浮いてしまい、むしろ特定の利害集団と結びつくおそれがあるからである。特に大企業と政府の結びつきはしばしば指摘されるところであり、“産政共同”なる言葉もあるくらいである。住民と直結した政治については、中央政府よりも、地方自治体にヨリ大きな期待が寄せられるゆえんである。これを象徹的に示したのが、公害対策をめぐる国と地方自治体の間のくい違いである。
 公害防止に関する法令としては、昭和24年に東京都が制定したのが最初で、大阪、神奈川、福岡の各条例がこれに続いているが、国の対策はこれよりはるかに遅れ、江戸川の製紙工場排水事件がきっかけとなって昭和33年末にやっと「水質二法」が日の目をみたが、これがまたザル法同然であり、その後公害基本法の制定までこぎつけるのに10年近くの歳月が流れている。一方、地方自治体による条令ないし協定は国の基準よりきびしい規定を設けて前進をつづけている。
 このように公害対策で国が絶えず地方自治体に遅れをとっている理由はなんであろうか。一つには、中央政府が公害企業の“目玉”である大企業と愈着しているからであり、二つには地域住民から遊離しているからである。公害はその地域住民の健康や福祉に直接影響を及ぼすものであり、他の行政課題に比べてはるかに深刻かつ切実な問題である。それだけに、公害問題は地域住民と地方自治体の連帯を促し、その結束が、にえきらない中央政府の基準を乗り越え、ヨリきびしい公害条例や防止協定を生みだしているのである。
 公害問題は、凋落しきったかにみえる地方自治に新たな息吹きをふき込み、地方自治復権への足がかりとなるかもしれない。
 琉球政府の場合、法制度上、究極的な権限は高等弁務官の手に掌握されている。そのねらいを一口で言えば、軍事基地の保持にある。だから基地の運営に支障をきたすような行為に対してはきびしい規制が加えられている。ところがほかの領域については、すでに述べたように、本土の地方県庁とは比較にならないほど大きな権能を琉球政府は与えられているといってよいのである。
 われわれはこれまで施政権の返還を叫びつづけてきたが、その際、われわれは漠然とそれをみずからの手に収めることを想定してきた。ところが復帰とともにそれは中央政府へそっくりそのまま委譲され、しかもその上、これまで琉球政府が享受してきた権限の少なからぬ部分までもが中央へ取りあけられてしまうおそれが十分にある。
 沖縄の人間には、“他府県並み”を目標にしたがる習性がある。かつて他府県以下の差別をしいられたことが、いびつなサガをつくりあげてしまった。このようなゆがんだろう僻は一日も早くたださなければならない。
 琉球政府よ、いまさら三割自治の他府県並みでもあるまい。これからも地方“政府”としての権能を保持し、本来の地方自治を墨守すべきである。ひん死の状態にあえぐ本土の地方自治に新風を送り込んで蘇生をはかるべきである。
 具体的には飛鳥田横浜市長も述べているように、沖縄自治憲章のようなものを早急に制定し、復帰の際は中央政府から特別自治法をかちとってこれを守るべきである。その際、全国の地方自治体に呼びかけて、連帯、支援を求めるようにすればよい。この琉球政府の自治権擁護のたたかいは、やがて全国の地方自治拡大運動に発展するであろう。沖縄自治憲章の樹立は、日本の地方自治民主化運動の歴史に、不動の金字塔を築くことになろう。今ならその栄誉を得るチャンスが琉球政府に与えられているのである。
 特別自治法というと、沖縄の人間の中には、悪いイメージをいだく人も少なくないだろう。なぜなら、大正10年まで続いた“特別自治制度”を連想させるからである。これは“旧慣温存”に名をかりた差別政策にほかならず、自治などと呼べるシロモノではなかった。
 筆者のいう特別自治法は、これとは逆に沖縄の進んだ自治権を擁護するためのものである。地方自治に関するかぎり歴史は逆転しているのだ。われわれは本土地方自治体に比べて、はるかに大きな権限を手に入れている。これは戦後の塗炭の苦しみの中でえた、かけがえのない財産である。われわれは、みすみすこれを失ってはならないし、琉球政府は地方自治の砦としてこれを死守すべきである。
 しかるに、最近の琉球政府の挙動は腑に落ちないことばかりである。すでに行政レベルでの中央支配が、本土政府の所轄官庁別に進められている。琉球政府があくなき中央官僚に食いちぎられて、トリガラ同然になる日もそう遠くないかもしれないことを恐れる。それを象徴的に示唆しているのが、教育委員任命制度と代官人事の導入である。中央支配へみずから地方自治を明け渡すが如きは愚の骨頂である。
 琉球政府よ、本土の地方自治がそうであるからといって、みずから“三割自治”の暗黒に身を投ずるようなことをしてはならない。不屈でなければならない。
 「われわれは団結しなければならない。剛胆でなければならない。不屈でなければならない。われわれの精神と行動とは、燃え上がり、白熱して、闇を照らし、その救済を明示する炬火にならなければならない。」(ウィンストン・チャーチル)
【沖縄タイムス1970年10月16日】


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