核兵器の恐ろしさと非人間性を後世に伝えるため、世界で唯一、広島・長崎で被爆された方々の体験談を、本人のご了解のもとに収録しています。
今後もこのような証言を、順次掲載していきます。
なお、「被爆60周年記念誌寄稿文」とあるのは、福岡市原爆被害者の会発行の「いのち(次世代におくる)」の中に掲載されています。 (年齢は被爆当時の年齢)
注:これまで掲載してきた体験記は、被爆70周年記念誌「記憶」の発行に伴い、「記憶」に掲載された体験記と順次差し替えを進めています。
また、これまで掲載されてされていない方々の被爆体験記も、ご希望に応じ、順次掲載する予定です。
掲載者一覧 記載は氏名の50音順
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被爆地:広島 |
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「父も母も原爆に殺された」(被爆60周年記念誌寄稿文) 安部 民子 (13歳)
私は当時13歳で、爆心地から2キロ地点の広島市竹屋町に、父と母の3人で住んでいました・・・
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「軍隊のない真の平和を地球上に」(被爆60周年記念誌寄稿文) 飯野 豊 (16歳)
1945年8月6日、8時15分、東洋工業の講堂で迎えた強烈なせん光と爆風は今も脳裏に鮮明・・・
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「戦争だけはイヤ!戦争だけは・・・ 」 渡辺 尚子 (3歳)
3歳9ヵ月で被爆しました。稲荷町の家の中で、まだ布団の上に転げていました・・・
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「被爆60年を迎えるに当たって」(被爆60周年記念誌寄稿文) 小出 康雄 (20歳)
60年前の8月6日、私は東洋工業工具管理課で執務中、ピカーッとせん光が走りごう音が耳を・・・
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「核兵器の恐ろしさ」それを伝えるために 島野 道次 (14歳)
昭和20年8月6日、学徒動員のため舟入川口町の町工場で作業中、ピカッと光ったあの恐ろしい光景・・・
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「今を生きる…楽しいけど辛い」 畑野 薫 (6歳)
私は昭和14年4月9日、広島市の国泰寺で生まれました。原爆が落ちた時は6歳でした・・・
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「ピカドンが落ちてきた 」 牧之内 繁男 (19歳)
平成17年は、広島原爆から60周年。その時の情景は、今でもはっきりと脳裏に焼きついています・・・
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「負の遺産」 森 律子 (5歳)
私がこれから話すことは、今から65年前の8月6日、広島で弾が投下された時のことです・・・
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「あの日あの時」 (被爆60周年記念誌寄稿文) 山根 唯志 (20歳)
広島8月6日、長崎8月9日、この2発の原爆投下で、一瞬にして両市は焼け野原と化して・・・
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被爆地:長崎 |
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「原爆でわが家庭は一変」(被爆60周年記念誌寄稿文) 磯田 玲子 (3歳)
今日は8月9日、59回目の長崎原爆忌の日だ。当時3歳だった私には・・・
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「被爆70年に思うこと」 泉 勇 (12歳)
70年前の1945年、私は長崎市桜馬場町に住み、勝山国民学校の6年生でした
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「あの時の私 今の私」 (被爆60周年記念誌寄稿文) 岩野 久雄 (9歳)
原爆が役下された8月9日、私は近所の悪ガキと3人で裏山(山の下は三菱造船台)にセミ取りに行っていた・・・
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「もう一度平和について考えましょう」 岡崎 満也 ( 8 歳)
私は9歳の時に長崎市内で、アメリカB29爆撃機から落とされた原子爆弾に遭遇しました。
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「子宝に恵まれなかったのは原爆のせい?」(被爆60周年記念誌寄稿文)小野 喜美子(26歳)
長崎に原爆が役下された時、私は新地(爆心地から3,5キロ)にある勤務先の・・・ |
「日本に戦争はない しないと信じたのに」 釜崎 照子 (7歳)
70年前8月15日、7歳だった私が防空壕から自宅に帰る時、・・・
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「 70年 不戦を継ぐ」 上川 仁 (10歳)
本日は、先の世界大戦(太平洋戦争)が終わって、70回目の日を迎えました。
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「孫たちへ伝えたい」 鈴木 志郎 (2歳)
私は2歳半の時に長崎で被爆しました・・・
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「人間が人間にすることか」 熊谷 龍生 (17歳)
運命の8月9日、17歳にして旧海軍に志願入隊していた私は、佐世保郊外の大崎砲台で・・・
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「私の1945年8月9日」 早田 一男 (15歳)
遅い朝食でした。 箸をとつた途端、青白い閃光とグアーンという轟音とともに、・・・
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「国民を欺く国家の再現は絶対阻止」(被爆60周年記念誌寄稿文) 塚崎 幸彦 (18歳)
1941年(昭和16)12月8日、日本は米国・英国をはじめ連合国相手に戦争状態に入り、・・・
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「私の被爆体験について」 土内 義雄 (9歳)
昭和20年8月6日夜、父が仕事から戻って夕食の時に、「広島に新型爆弾が投下されて焼け野が原・・・
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「若者に「平和」託したい」 (被爆60周年記念誌寄稿文) 豊永 萬里子 (9歳)
午前11時2分、ピカーッとものすごいせん光で空が真っ白になりました。・・・
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「被爆体験」 西山 進 (17歳)
私は、1942年、長崎にある三菱長崎造船所に少年工として就職しました。
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「息子の白血病死は被爆のせいか」(被爆60周年記念誌寄稿文) 西山 京子 (13歳)
その時、ピカーッとせん光が光り、私の体もフアッと生暖かい風に包まれ、・・・
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「あすの退院告げられながら急死した姉」(被爆60周年記念誌寄稿文) 橋本 春江 (5歳)
私は当時5歳でした。爆心地から4キロ離れた長崎市中小島町で被爆しましたが・・・
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「生涯忘れられない「あの日」」(被爆60周年記念誌寄稿文) 開 勇 (7歳)
空襲警報も発令されていないのに、急に飛行機の爆音が聞こえてきました。驚いて空を見上げ、・・・
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「忘れられない、戦争の記憶 」 (被爆60周年記念誌寄稿文) 福井 キミ (22歳)
あゝ終戦70年、私など青春はなかった。物心ついた頃は支那事変の勃発・・・
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「誰にも経験させたくはない」(被爆60周年記念誌寄稿文) 藤井 恵子 (7歳)
私は7歳の時に原爆を体験しました。空襲がひどくなったので、・・・
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「 戦争を知らない今の平和を」 藤島 郁子 (10歳)
あの忌まわしい戦争から、早いもので70年を迎えました。・・・
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「被爆 姉の思い」 松隈 博子 (9歳)
私たちは父に会うためトラックで長崎県時津の原田病院に着いた。父は三菱兵器製作所勤務で・・・
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「忘れない あの日のこと」 松本 隆 (10歳)
その日はジリジリ照りつける暑い日だった。ぶらりと長与駅に入ったその瞬間、・・・
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「戦争だけは絶対ダメ」 三根 繁 (9歳)
昭和20年8月9日、その日は、午前7時半すぎに警戒警報のサイレンが鳴りました。
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「生かされて 生きて」(被爆60周年記念誌寄稿文) 山内 良己 (15歳)
長崎と下五島を結ぶ定期貨客船”長福丸”は午前9時、長崎港の大波止を出港した。・・・
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「次世代に伝えたいメッセージ」 山口 美代子 (14歳)
8月9日も図面を引いていた。天井がピカッと光り、ピンクの甘いような風が・・・
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「「戦争法」廃止のために声を上げねば」 吉﨑 幸惠 (5歳)
わたしは、自分が被爆者であることを知ったのは20歳で長崎から福岡に移り住んだ2年後のこと・・・
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「ナガサキの証言」(被爆60周年記念誌寄稿文) 吉永 正子 (14歳)
ふたたびあの日を繰り返さないために、被爆体験を次代の人々に語り継ぐことは、・・・
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