負の遺産

                   森  律子  広島 当時6歳  

 あの日 縁側で、私が外出するのを止めたのは父である。
父はあまりの暑さに外で遊ぶのを友達が誘いに来たのを、断ったのである。
その矢先にあの事態が起きたのである。
瞬間的に4〜5メートルは吹き飛ばされたのである。
真っ暗闇のがんじがらめの身動きさえ取れない縁の下に落ちたのである。
大きな石や木で明かりを探すこともできない真暗闇である。
わずかな明かりを探すと鉛筆の芯ほどの明かりが見えた。
「お父さんたすけて!お父さん!」と叫んでいた。
すぐ近くから父の声がした。「大丈夫か?」と、しかし父も身動きが出来ないのだろう「今助けるから!」叫んでいた。
どのくらいの時間が過ぎたのか今は思い出せないが、真っ黒な雲と凄いに匂いのする外に助けられたのである。
母が血だらけでボロボロの衣服を着て突き立っていた。「律子!りつこ!」と 私の家族は父母兄姉と私とで東京から母の実家である祖母がいる広島に疎開したのである。東京より広島のほうが戦争が烈しくないだろうという判断だった。
姉の学校の具合で4月に入ってのことである。姉は中山高等女学校(広島市天神町)に行き、その日は学徒動員(中学生以上生徒や学生が軍需産業や食糧増産に従事させられる事)に朝早くから出て行った。兄も国鉄の操車場に勤務していた。
その朝も早くから出勤していて、母は洗濯物を干していた時だった。ガラスの破片で顔中目も開けられないほど血だらけだった。
「正男さーんたすけて!正男さーん!」居間があるあたりから祖母の声だ。必死で叫んでるようだ。
母も父も居間の奥深い部屋のあたりに一歩でも近づこうとすると火の回りがものすごく、とても近づくことさえできる状態ではない。
祖母の声はだんだんと小さくなり私のところからは、聞こえなくなってしまった。
母はへなへなと倒れてしまって 火に巻き込まれないようにその場から出来るだけ遠くに離すのに必死で抱きかかえて焼けていく様を見ているしか術がありませんでした。
皆の計らいで焼け跡でとりあえず。兄と姉の帰りを待つことになり、焼け跡で過ごすことになりました。
何時間もそのようにしていたのか思い出せないが、兄が国鉄の勤務先からぼろぼろになって、いつも1時間もかからない勤務先から、橋の倒壊、死体の山、歩行困難な負傷者の行き倒れ、家の前にあった南大橋のほうにたどり着いたのは夕方近くなってである。
母が橋の対岸で兄を見つけてくれたそうで 家は跡形もないけれど母の姿に涙を流しながら走ったと言っていました。
それで今度は姉の帰りを一晩中焼け跡で、まんじりともしないで待ちましたが、白々と辺りが明るくなっても、何の変化もなく匂いと煙った空気とが私たちを包んでいました。
それからみんなで姉を探すべきありとあらゆる場所を死体、黒こげになった人間、動物、水槽に突っ込んだまま亡くなった人々、地面も焼けて暑く臭く、蛆がわいている死体の中、女学生のセーラー服を見たらめくってみて まるで気が違った様子だったと思います。
一日中歩き回りましたがそれらしい人には、会えず、今現在まで遺体すら不明です。
焼け跡で待っていないと。帰ってきたら≠ニ期待を込めて皆で野宿して1週間待ちましたが父も母も衰弱が激しく宮島の旅館の一部屋が借りることができ、そちらに移り養生しましたが一向に回復せず益々悪化し、親戚を頼って福岡に身を寄せることになりました。
父も被爆時の影響で九大病院に入院することになり、昭和21年7月6日〜8月27日まで日記があります。
栄養を取ることもままならず、卵1個でさえも分けてもらうには着物をもって農家に行っていました。
ブドウ糖注射2円なりとか、食べていくのに最低70円かかると書いてあり 配給を貰いに行くと今日も欠配と。
その点 私は子どもでひもじかつたとか、着た切り雀だったとか 全然苦にならなく、父、母、兄、学校で勉強ができるし、遊べるのが楽しみでした。
それから食べていくために母、兄は必至で働き 私を高校まで出してくれました。
今考えると並大抵のことではなかったと思います。
私は幸せな学生生活をさせてもらったと、今も思います。
同窓会に行き おしゃれをして行った時、男の子から「あんたいつも同じ洋服を(縞の)着ていたね!」と言われました「よくおぼえているね!」と逆に感心しました。
しかしいつもは母にほめてもらうために勉強は一生懸命頑張りました。毎学期の終わりには必ず「優秀賞」を母に見せるのが楽しみでした。
母も死に兄もなくなり私も2年前にガンが見つかり、あちこち悪いとこだらけですが子どもたちには、私と同じく苦労はしてほしくありません。あの日が2度と来ないように祈ってやみません。
結婚、就職とやはり偏見は今でもあると思います。威張って言えることではありません。自慢にはなりません。
あの世で母と会って色々お話ししたいです「お母さんありがとう!この年令まで生きてこられたのはお母さんのおかげよ!」子どもも3人大きくなりましたよ!私も必至で働き大学にもやりました。しかし財産は何にも残してあげられませんでした。負の遺産しか私にはありません。
子どもたちの、そして孫たちの将来が夢を見られて それを実現できる世の中にしてください。