もう一度平和について考えましょう

                 岡 崎 満 也  長崎 当時9歳

 私は九歳の時に長崎市内で、アメリカB29爆撃機から落とされた原子爆弾に遭遇しました。その時のことは長い間話せませんでした。それは原子爆弾投下後一瞬にして町があまりにも惨い光景に変わり、その残酷さ悲惨さを思い出し目の前にその光景部浮かび辛くなり、自分でも落ち込んでしまうからです。
 転機は阪神大震災後、神戸の人々が悲しみを乗り越えて阪神大震災について語り継いでいる姿をテレビで拝見し、私も自ら体験した原子爆弾投下後の悲惨さや、戦争の愚かさについて話したいと思うようになりました。
 原子爆弾の怖さは、投下後の爆発による熱量もそうですが同時に放出される放射能です。爆発の際、多量の放射能を放出しますが、爆発後一分以内に放出される初期放射能とそれ以後長期にわたって放出される残留放射能とがあり、多くの被爆者が被爆後何年も経ってから亡くなりました。理由は残留放射能です。放射能は目に見えず音も聞えず五感ではまったく感じることのできないものでありながら、人体や動植物に強い影響をもたらしますので怖いものです。私の弟も38歳の若さで癌の病気で妹は3
歳で原因不明でなくなりました。私も何時病気にかかるかという不安を抱え人生を送っていました。

 これから、私か体験した原子爆弾投下後から8月11日自宅から爆心地に向かって歩いた時の状況や感じたことをお話しします。
 その日、私たちは町内の人たちと一緒に前夜から午前10時半ごろまで長崎市東山手町の防空壕の中に避難していました。昼近くになったので母は近所の人たんと食事を作るために自宅に帰りました。私は弟と近所の子どもたちと防空壕の前で将棋をして遊んでいました。飛行機の爆音がして空を見るとアメリカのB29爆撃機がキラキラと光りながら稲佐山の上の方を飛んでいました。暫くして、落下傘が落ちてくるのが見えました。次の瞬間、目の前でフラッシュをたかれたような光が発せられ、一瞬、目の前が真っ白くなり、何も見えなくなってからしばらくして、ものすごい爆風がきて将棋の駒が飛び散りました。私は爆風で転んだ弟の手を引き立ち上がらせ、あわてて防空壕に入りました。そこで弟の膝から血が出ていたので手拭いで血を拭いてやり薬がないので唾をぬりました。弟と妹と三人、心配と不安な気持ちこ母を待っていたら、二時間すぎた頃やっとお母さんが来ました。祖父、祖母は無事で元気だと母から聞きました。父は不明でしたが夜遅く防空壕に来ました。父の顔を見たときは凄く嬉しくて涙が出ました。父は家族の無事を確認したら、また会社に行きました。防空壕に13時頃から多くの被爆で負傷した人たちが逃げてきました。
 それからの防空壕の中は負傷した人々の呻き声とゴミを焼いたような臭いでいっぱいになり、異常な雰囲気で大変なことが起こったのだと思いました。治療もできず、ただ痛みを我慢するだけの状態でした。本当に負傷した人は痛いとも言えず、苦痛をこらえるうめき声を出すだけで可哀想でした。翌日はお医者さんがきて治療を始めましたが薬・包帯等なにもなくきちんとした治療ができないようでした。私は水汲みをする等子どもなりに何か手伝えることはないか考えお手伝いをしました。その夜、防空壕が負傷者でいつぱいになったのでそこから出て徒歩で時津へ行くことにしましたが、距離にして約3キロ手前の道ノ尾までしか行けませんでした。
 原爆が落ちた2日後8月11日自宅(大浦)から道ノ尾まで、祖母・母・私・弟・妹五名で歩いていきました。祖父は家におり一緒に行かず、父も仕事でいないため心細い気持ちで出発しました。
 午前九時頃自宅を出発、出島、大波止、長崎駅、八千代町、井樋ノロ、浦上駅、浜口町、爆心地付近(百メートル)、大橋、住吉町、道の駅まで、直線距離で約七キロを歩きました。9時25分頃大波止に着きました。出島までは家並みがそんなに傾いたり燃えたりした所はなく中島川に架かる出島橋を渡る時大波止方面を見た時、驚きました。壊れた家や燃えた家が広い範囲にくすぶっていました。なぜか電柱が3メートル以上のところで燃えていました。付近には燃え移ろ物もないのでなぜ燃えているのか不思議でした。
 長崎駅に近づくと多くの怪我をした人で混雑していました。駅でお医者さんが怪我人を治療しているところを目にしました。治療しているというより白衣を着た人が怪我をした人のぼろぼろの服を皮膚からはがす作業をしているようでした。それは大変な光景でした。子どもや赤ちやんもいましたがぐったりしている様子であまり泣き声は聞こえませんでした。長崎駅を離れ八千代町を通り井樋ノロについて電車が燃えて車輪と台だけになったのを見て、なぜ電車が燃えたのか電柱が燃えた時と同じく周りに家もなく燃える物がないのに不思議な思いでした。井樋ノロから茂里町、浦上駅、浜口町方面を見て驚きました。一面焼け野原で、残っているのはコンクリートでできた建物や、鉄骨が曲がりくねった工場や石倉があるだけで、それも窓ガラスヤ扉のない枠だけの建物があるのは、不思議な世界と同時に怖いくらいでした。
 どんな爆弾を何千発飛行機から落としたらこんなになるのだろうかと考えたら、子ども心に戦争って恐ろしいと思いました。大人の大たちは日本が戦争で勝っていると言いますし、何故勝っているのに戦争してない人が酷いことになるのかわかりませんでした。そんなことを考えながら歩いていると茂里町の川に多くの人が浮いていました。その時の驚きは言葉にできないほどで、いやな気持というよりも鳥肌が立ち70年経った今でもいやな思いです。しかしそれは驚きの始まりでした。浦上駅に着いたら水をくれと言っ人たちや、皆服が燃えたようになって裸同然で全身やけどをした、たくさんの負傷した人たちがいましたがたがそこを離れ、浜口町の方へ歩いて行きました。そこは何もかい死の世界のようでした。あちらこちらで家族の人や親戚の方と思われる大たちや消防団の方々が亡くなった大を火葬していました。
 原爆投下中心地に近づくと黒焦げの物が付近一帯に散乱していましたし、一升瓶等ガラスがグニャグニヤに溶けていました。その時は放射能のことも知らかかったものですから、原爆投下中心地より100メートル横を通りぬけて行きました。大橋に着いた時、浦上川(川幅60メートル位)に多くの大たちが川を埋め尽くしていました。お母さんが私に、川で亡くなった方々は水を飲みたくなった人ややけどを冷やしたくて川へ入って行きそのまま亡くなったのだと話してから、母は語気を強くして「むごいことをする戦争は許せない」と言いましたが、そんなこと言っていいのかなと思い心配でした。その頃は戦争を批判ると非国民と言われ兵隊さんに怒られ警察に刑務所に入れられると、子ども心に思っていましたから優しいお母さんがこんなことをいって大丈夫かかと凄く怖いと思いました。

住吉町に来たとき、馬や牛や鶏が大量に死んでいました。馬は前足と後ろ足を曲げてまだ生きているようにしていました。何故田舎でこんなに動物が死んだのか不思議でしたが爆心地から1.5キロの所から、被爆は距離によって被害の大きさが変わることを後で知りました。戦時中はすべての情報が統制され真実は知らされませんでした。住吉町を通りやっと、道ノ尾駅に着者ましたが夜となり親戚の家に行きそこで一泊し、翌日お母さんの田舎に行く予定にしていましたが、その夜お母さんが大量の血を吐きましたので死んでしまうのかなと思い心配しながら4日間が過ぎ8月15日終戦を迎えました。戦争が終わりいろいろな情報が誤報であったことがわかりました。9月になって浦上地区(原爆投下中心地より2キロ以内)は放射能のため今後70年間草木も生えないから住民は生命の危険があるのでこの地を離れ、移転するようにと言われ、住んでいる人は驚いたものです。また被爆はしてない人たちが浦上地区に入り、亡くかなった人々を火葬にふすための作業をしたり、地域の整理整頓をした人たちがここ1年のうちになくなっていきました。消防団の人が多かったように聞きました。ここまでが私の原爆体験です。

 ここからは私の貴方方へのお願いです。皆さんは戦争を絶対してはいけません。誤った戦争をしたと言う人もいますが戦争には正しい戦争も間違った戦争もないのです。人間同士で殺し合いをしてはいけません。被爆した人は体も心もずたずたです。また、兵隊で戦場へ行き人を殺した人も深い悲しみを受けます。それを癒すには長い歳月がかかります。
 もう一度平和について考えてください。皆さんの今の生活と今戦争をしている人々の状況、つまり、毎日毎日が恐怖と絶望です。考えたことがありますか。貴方方口お願いします。
 この平和を守るために世論の動き・戦争に向かう環境については敏感になって、平和の活動に取り組んでください。勇気をもって行動を起こしてください。