「戦争法」廃止のために声をあげねば

                 吉ア幸惠  長崎 当時5歳 

 わたしは、自分が被爆者であることを知ったのは、20歳で長崎から福岡に移り住んだ2年後のこと。実家から「被爆者健康手帳」が送られてきたから。「エッ、なして、わたしが被爆者?」仰天した。若さと元気にあふれた青春真っただ中、それまで「被爆者」という自覚はまるでなかった。大やけども大けがもしなかった「あの日」のことが、手帳を手にして初めて蘇った一瞬であった。
 わが家は爆心から3.5キロの伊良林町。長崎は周囲が小高い山に囲まれていて、どこもかしこも坂の町。その高台にある家の中で、妹や近所の子、疎開して来ていた子も一緒に駆け回って遊んでいるとき、核爆弾はさく裂した。
「ピカーッ」と真っ白に輝いたあの閃光と爆風のすさまじさ。家具や建具、大きな仏壇までも倒れ、ガラスが割れて家中に飛び散ったあの惨状。裏庭の奥の防空壕に逃げるとき、ガラスで切った足の痛みと恐怖に、ワアワアーと泣き叫んだ5歳の日の出来事。これだけは今でもはっきりと目に、脳裏に焼き付いている。
 学年が進んでから聞いたわが家の体験とはー長女の姉は、赤ちゃんだった妹を自分の体を覆いかぶせて守り、だが頭と大腿部に刺さったガラスで、顔まで流れ出る血を見て気を失い、次女の姉は、台所の土間に降りたところで爆風に倒されて頭を打ち、同じく失神した。母は畑で農作業中に爆風に飛ばされて背中を、父は疎開者のために近隣の方の手を借りて、隣の空き地に小さい小屋のような家を建築中に胸を、チカチカッと熱線でやけどを負った。家の中はと言えば、畳に突き刺さったガラスのほか、地震が起きたときのような状態。
 その夜はお布団が敷けず、お縁の下にゴザを並べて家族みんなでごろ寝をした。だが、眠れるはずはない。浦上の方角の上空は、街の燃え盛る炎で夕焼けのように赤く美しく、爆弾のすさまじさを想像はできても、人々が生きながら焼け死んでいく“地獄″の惨状など知る由もなかった。
 核爆弾のエネルギーの50%は「衝撃波」(ちなみに、熱線が35%、放射線が15%)と後に学んだが、その影響をもろに受けはしたものの、家族は誰一人命を失うことなく、家も倒壊せず、この程度の被害で済んだ。しかし、三菱兵器大橋工場に学徒動員されていた、近所に住む14歳のいとこは、9日目の8月18日、放射能による急性原爆症のため、看護していた防空壕内で死亡した。
 このように苦しみにもがいていた被爆者たちは、何の救済もなく、12年間にわたり国から放置されていた。1956年(昭和31年)に日本被団協が結成されたその翌年、国会請願の運動が実り、医療法制定(原爆二法)が実現。「被爆者健康手帳」が交付された。わたしに手帳が届いた年だ。
 このことから、日本被団協の底力とありがたさを知った。あれからすでに半世紀以上が過ぎた。わたしは、1981年に福岡市原爆被爆者の会幹事となった折、会と会員のパイプ役になることを決意し、現在までの34年間、被爆者活動に全力投球中。被爆者を自覚しての使命感からである。
 そもそも、被爆者はなぜ「被爆者」とされたのか。言うまでもなく「国が起した戦争」の結果による犠牲であろう。1931年、「満州事変」からの15年戦争。1941年の「真珠湾攻撃」で太平洋戦争へと突入。「事変」と詐称しながら「侵略戦争」であったことは歴史が証明している。軍国主義日本の行為により、アジアの人々2千万人以上、国内では310万人以上の命が奪われた。被爆者の場合、放射線影響による病死は現在進行形だ。わたしの両親は共にがん死。姉と妹に続き、今度は自分の番ではと細るたび不安な日々を過ごしている。
 「戦争」と聞けばそれだけで鳥肌が立つ。「いのち」とは何か。それは「生きている」こと。死者にはもはや命はない。「戦争とは?」それは殺し、殺される関係のこと。
 このたび、安倍政権は「安全保障関連法」と称する、十把ひとからげの「戦争法案」を、一部の少数野党まで巻き込んで、参議院でも数の力で暴力的に採決を強行した。これは、憲法9条に反する「集団的自衛権行使」=自衛隊の海外での武力行使そのもの。
 憲法を誰より一番に守るべき立場の総理が、守らせる側の国民を裏切り、国会をも裏切り、戦後70年の今年4月の訪米では、米議会上下両議院合同会議で、「安保法案の成立をこの夏までに必ず実現します」と勝手に約束。「何が何でも採決ありき」で暴挙に出たもの。これほどまでに国民、国会を愚ろうした総理は”変人″ではなく”狂人”とさえ命名したくもなる。
 自衛隊を「わが軍」と呼び、米軍の戦争の助っ人に自衛隊員を派兵、武器使用まで容認する。それによって相手からは「敵」とみなされ、日本国内へのテロの心配は生じないか?
 21世紀の幕開けは、「戦争のない平和で明るい希望の夜明け」−との期待を持って迎えたわたしは。けれど、2003年のイラク戦争を始めとして、地球上で戦争が絶えたことはなく、今日に至ってはますます激化し、「イスラム国」「過激組織IS」の存在など、一段と深刻化していく状況におののくばかり。国内においても、戦後70年の大きな節目の年が、「戦争前夜」を思わせる暗い政情になろうとは、想像だにしなかった。
 日本列島を揺るがす「戦争反対」、「立憲主義」 「民主主義」を壊すなの声は国中に広がって、あらゆる階層の人々の心を動かし、体を動かし、国会周辺や全国各地での集会やパレードへと足を運ばせた。元最高裁判事をはじめ広範な著名な方々の「憲法違反」との指摘は、マスメディアを通じて誰もが周知のこととなった。特筆すべきは、青年たちや子を持つ若いママたちの「誰の子も殺させない」という、心からの叫びが胸を打つ。かつて被爆者は、核爆弾のモルモットにさせられた。人の命をもてあそぶ戦争行為には、最も敏感に反応するのが被爆者である。

 学校の平和授業後の感想文には、小学1年生でさえ「せんそうをしないためには『けんぽうをまもる』です」と書いている。被爆体験を聞いて、「戦争ほどこわいものはない」と書く児童・生徒が圧倒的。大人はこの子たちを裏切ってはならない。絶対に。特に政治家は。
 「被爆70年」「戦後70年」に刻まれた独裁的政治の横暴を、わたしたちは決して記憶から消す訳にはいかない。国の戦争政策に翻弄(ほんろう)されてきた被爆者の一人として。
 今後は、「戦争法」廃止のために声を上げることが、わたしたちに課せられた大きな課題と言える。