今を生きる…楽しいけど辛い

              畑 野  薫  広島 当時 6歳

 私は昭和14(1939)年4月9日、広島市の国泰寺で生まれました。原爆が落ちた時は6歳でした。国泰寺は市役所の裏で、爆心地から1キロ以内のところです。私は5人姉弟の長男です。今でも姉と3人の弟はみんな健在です。下の2人の弟は戦後に生まれました。両親は、父が86歳、母が94歳で亡くなりました。
 私は20歳くらいの時に、軽い気持ちで母に一度だけ、原爆の事を尋ねたことがあります。ところが、話し始めてまもなく、母の顔が急にこわばり、一瞬話が止まり、答えてもらえませんでした。その時点で、私はこの先、母にはこの話題は持ちかけまいと思いました。その時の母の気持ちを考えると、おそらく母は被爆の事実を話してはならないと、判断したのではないかと思います。
 私は当時6歳だったので、話すほど体験もしていないし、あまり覚えてもいません。記憶があるのは防空壕に入ったことや、防空頭巾のことぐらいです。場所がどこかはわからないですが、防空壕に入ったら土の匂いがするんですよ。独特な土の匂いです。何度も戦闘機が来るから、その度に防空頭巾をぱっとかぶって、防空壕を入ったり出たりしました。
 戦争中も国泰寺に住んでいて、原爆が落ちた前日の5日は留守番の祖母一人を残して、母と姉と弟と私の四人で、兵隊の父に面会するために海田に行っていました。たぶん、初めての父との面会だったと私は記憶しています。海田は市内よりさらに遠くのところです。バスが通っていて日帰りできるところなんてすが、海田から市内に帰る途中の船越に親戚の家があり、父に面会したその日はそこに泊りました。日帰りのつもりが泊まっていたから助かったのです。運が良かったんでしょうね。
 明くる朝の原爆が落ちた日、船越の家のガラスが割れたのは覚えています。船越の家は爆心地から8キロぐらいのところです。
 次の日から母は姉と弟と私の3人を連れて、市内に祖母を探しに行きました。母は、父の親である祖母を残してきたことに責任があったのでしょう。市内は大変で、きつかったなどと言っていたようです。船越から市内まで当然徒歩。姉がちょっと覚えているのですが、市内中心部に入ると「水をくれ」とか、死体だらけとか、家がなく全市が見えるとか言っていました。国泰寺の私たちの家は、当然の事ながら焼失していました。そして、祖母は生きていたんです。国泰寺の家ではなく、近くをウロウロしていた祖母を見つけて、船越に連れて帰ってきたんですが、その後、亡くなりました。どのくらいで亡くなったかは覚えていません。何日間かは生きていたんです。死ぬ前だからか、原爆だからなのか、ものすごく臭いんです。独特な匂いですね、あれは臭かったなあ…。今でもその臭かった記憶は鮮明に残っています。ああいう匂いはこの世の中に無いですね。
 船越は近い親戚の人を収容するため、遠い親戚の私たちは中国電力の社宅等、空き家へ勝手に入りました。その後、私たちは、母の実家のある可部の家にも1日か2日居ました。しかしそこも出されました。また、母のお姉さんの家族を含めて7人、屋根裏のような狭いところでも過ごしました。私は学校に上る前ですから、あまりわかってなく苦痛はありませんでした。
 父は終戦後だいぶ経ってから無事元気に帰ってきて、家族と合流しました。

 広島商業高等学校を卒業して東芝に入社しました。その後結婚したんですが、最初は妻側で結婚は反対されました。長男であること、転勤の多い会社であること、そして広島出身ということです。原爆の風評被害ですね。それでも運よく結婚は出来ました。結婚してからは転勤・転居の繰り返しです。
 結婚後の26歳の時に「盲腸」になりました。それが数多くの病気の始まりでした。それまでは全く病気をしなかったのに。「腸の病気」は、何度も何度も再発しました。何度も入院生活が繰り返されるので、結婚して7〜8年後に母は私たちの生活を心配して、被爆者手帳を申請しました。今思うと、それまで申請しなかったのは「就職や結婚」に影響すると心配していたのでしょう。姉弟と3人一度に申請しました。腸は40歳位まで何度も手術しました。その後も大腸に潰瘍ができたり、「腎臓がん」にもなりました。がんはドックで早期発見だったので、今は大丈夫です。その後、突発性めまい症になっています。自動車免許証は返納し、もっぱら自転車とバスで移動しています。弟も定年退職後にがんになっています。姉弟3人のうち二人ががんになったのは、年齢的なものもあるとは思いますが、原爆の影響があるんですかね。
 慢性リュウマチだった妻は55歳頃からひどくなって、介助・介護が必要になりました。私は定年の際、仕事の話もあったが断り、10年間は家事と妻の介助・介護の日々でした。最後の1年は夜中に何度も起こされ、たっぷり寝られても2時間位、起こされるベルの音に体を引っ張られるような感じで、しんどかったですね。妻は亡くなる2年前くらいから口癖に「早く死にたい」と、生きるのが辛かったようです。その妻も最期は肺炎となり65歳で亡くなりました。
 定年退職した60歳の時、私は、原爆投下直後の「私たちの行動と暮らし」を知っておかなければならないという強い義務感が働き、母から聞き知りたい気持ちが昂ぶりました。ところが、ほぼ同じ時期に家事と妻の介護に追われる日々が続き、家を空ける事ができなくなりました。妻が亡くなった後に、母の入院の知らせを受け、この機会に持ち越しになっていた「被爆のこと」を聞いて帰ろうと思いましたが、母の体調が芳しくなく、その話はできませんでした。その後、母は急逝しました。原爆被害の実相をつかむ手段を母の死により失った今、悔やまれてなりません。
 広商では野球をやっていました。今はシニアクラブチームでソフトボールをやっています。遠征に行ったり、古稀の大会にも選手として出場しています。練習は好きですね。早く行ってグランドを均したりしています。
 今、趣味としてソフトボール以外にもウクレレとピアノを習っています。そして時々、卓球の仲間と山登りもやっていて、ここ数年は時間に追われています
 そして以前「物忘れ外来」を受診したのがきっかけで「笑○の会」の会長を務めた事もあります。現在は「福岡市原爆被害者の会」の理事と、城南区支部長を務めています。
 最近は原発にも関心があるんです。去年は「被災地東北」の一人旅にも行きました。親族や家を失ったのは共通ですからね。犠牲者の気持ちはよく分かります。私は入市被爆ですが、原爆に遭いながらも生かされています。これからも、この世に「ふたたび被爆者をつくらない」活動をすることが、私の使命と考えています。