ナガサキの証言(被爆60周年記念誌寄稿文)

            吉 永 正 子  長崎 当時14歳

ふたたびあの日を繰り返さないために、被爆体験を次代の人々に語り継ぐことは、地獄の惨禍の中を生き残った者の使命と考え、核兵器廃絶、戦争反対を訴え続けてきました。
 1945年8月9日、長崎県立高女三年生の時、長崎市大橋町の三菱兵器大橋工場(爆心地から1.4 キロ)で、動員学徒として特殊魚雷生産の軍務作業中被爆しました。あの日も流れる汗をふきながら、魚雷の部品にヤスリをかけるため一生懸命働いておりました。ちょうど部品を取りに建物の外に出ようと入り口から一半出た途端、ピカッー!と光るというよりは何か強烈なエネルギーで宇宙全体が燃え上がったような一瞬、爆風に吹き飛ばされ、息もつけない苦しさのまま気を失ってしまいました。ふと気がついとき、見渡す限りの地獄図にぼう然となりました。メッキに使う希塩酸を入れたカメが割れ、液が体中にかかり、炎を見つめながら不思議な悪夢を見ているような気持ちでした。

 体に重くのしかかっていたガラクタをこん身の力をふりしぼっておしのけ、無我夢中で逃げ出しました。水を欲しがってうめいている人の群れ、生きているのか死んでいるのか見分けもつかない人がごろごろ、燃えさかる炎。火の海の間をくぐりぬけ人について走りました。体中ひどいやけどをしているのに、その時は気がつきませんでした。はだしで走りにくいなと思いました。燃えている火の中を走りながら体は寒く、スースーしていました。鉄道の線路の枕木が燃え、レールは真っ赤に焼け、畑で農耕中の馬が立つたまま黒焦げになっていました。
 あの日のものすごい、この世のものと思えぬありさま、断末魔の叫び声、阿鼻(あび)叫喚は、幾年たってもまぶたに、耳に焼きついて忘れることはできません。学業も夢も希望も一瞬にして失い、水を求めてこと切れた多くの級友たちを思うと今でも胸が痛みます。傷がひどかった私は、夕方の救援列車の貨車で運ばれ、手当てを受けました。汽車の中で何人かの友人に出会ったらしいのですが、私は意識がもうろうとしていたせいか覚えがないのです。しかし、むせかえるような血のにおいは覚えています。

 大村の病院ではたくさんの被害者が治療を受けていましたが、遠く祖国を離れて強制徴用され、戸外で被爆して大やけどを負った朝鮮の人たちの「アイゴー、アイゴー」という泣き声は今も耳によみがえります。大村で3日間治療を受け、13日の真夜中、道ノ尾駅で列車を降り、まだ赤々と燃えくすぶって、焦げくさい長崎の町中を友だちと三人で歩いて家に帰りました。
 爆心地から4キロばど離れた本河内町にあったわが家では、帰ってこない孫の身を案じて祖母が待っておりました。当時、父母は遠く大連におり、私は72歳の祖母と二人で生活しておりました。祖母は、浦上、大橋あたりの爆心地近くを捜し回り、あんなにひどい惨状の中ではとうてい生きてはいないだろうと精根尽き果てて、真っ暗闇の中、寝もやらずに畳に座っておりました。
 体中包帯に包まれて幽鬼のようにやつれて帰ってきた私の姿をロウソクの明かりで見いだすなり、しわくちゃの顔をゆがませて抱きしめ、うれし泣きに泣いて喜びました。戦後の救護所の応急手当てでは、熱傷はなかなか治らず、化のうはすすみ、足の傷は骨が見えていました。毎日続く下痢に体はやせ衰え、連日39度を超す熱が続き、歯ぐきからの出血が止まらず、つめの根元は全部化のうし、髪は抜けてしまいました。傷のひどい人も外傷のない人も日を追って死んでゆき、今度こそ自分の番ではないかと何度も思いました。祖母はとても心配して、その年の11月、親せきをたよって福岡に移ってきました。九大病院に入院し約半年の治療の結果、真黒く醜いケロイドが残ったものの、どうやら命は取りとめました。

 一年後、父母が人連からリュックサックーつで引き揚げてきました。祖国の上を踏んで3日目、雪の降る寒い日に極度の疲労と栄養失調で父はこの世を去り、傷ついた私をやさしく見守ってくれた祖母も他界し、死と隣り合わせの私と2人、親せきに身を寄せての生活は母にとってどんなにかつらく苦しかったことでしょう。被爆後の10年間は、病気との闘いの日々でした。
 学窓を巣立った友入たちが新しい生活にスタートする青春時代。私は病床に苦しみうめき、就職も結婚もあきらめ、希望も喜びもなく灰色の日々をむなしく生きているのみでした。病弱な体と醜いケロイドに悩み、ミニスカートや水着姿の女性がどんなにうらやましかったか、私は青春とか結婚という文字さえねたましく、自分には縁のないものと自らに言い聞かせました。

 戦後十数年を経て、そんな病弱な私にも縁あって家庭をもつことができました。
 しかし生まれ出ずる子への不安、時限爆弾を抱えているような底知れぬ不安の毎日でした。昭和33年、健康な男の子が生まれ、人並みに母親になることができた時、生きていてよかったとどんなにうれしかったか。でも産後も熱が続き、胸から背にかけて息をしても痛みが走り、生れたばかりの乳飲み子を母に預けてまたもや療養所行きの生活でした。一年後退院して家庭に戻ったとき、赤ん坊は歩けるようになっておりました。
 女学校で同級だった無二の親友は、同じ三菱兵器大橋工場で学徒動員中に被爆し、共に原爆症に苦しんだものですが、私と同じころ、健康な女の子に恵まれました。私たちは手を取り合って喜んだものですが、1歳半でよちよち歩きのかわいい盛りに白血病で亡くしました。「生まれて1年6ヵ月、私を喜ばせ、悲しませて、宝物は消えてしまった」。彼女は狂ったように泣きました。被爆後十何年もたったときの出来事でした。

 原爆症に苦しみ、10年間病気との闘いの日を送り、金もなく、職もなく、あるものはむしばまれた若さのみだった悲惨な青春時代。振り返ると、60年も長生き出来るとは思いもよらないことでした。
 私宅の年中行事の一つとなっているのですが、毎年お盆に家族そろってお墓参りをします。墓前で手を合わせながら、一人っ子で祖母に育てられ、被爆後は母に苦労のみかけたことが思い出され、いつも涙があふれます。びくびくしながら出産し、子育てした子どもたちも成人し、長男、長女、二男、それぞれの連れ合い、孫8人と私ども夫婦、総勢16人の大家族で墓参りが出来ることに、苦しみを乗り越えて生きて来てよかった、としみじみ思います。

 いとしい若い者たちに自分が受けたあの苦しみは絶対に味あわせてはならない。

 戦争は弱い者が犠牲になり、核兵器は人類絶滅の悪魔の兵器、廃絶以外にありません。戦争のない、核兵器のない平和な未来を心から望みます。