忘れない あの日のこと

                    松本 驕@ 長崎 当時10歳

 その日は、ジリジリ照りつける暑い日だった。父の使いで長与駅前のタバコ屋へ行ったとき、ぶらりと長与駅に入ったその瞬間、辺りがピカッと目も眩むような黄色い光に包まれた。周りの景色も空気も全て黄色に染まってしまったような、例えようのない異様な光だった。
私は反射的に、両手の親指で両耳をふさぎ、人差し指・中指・薬指で目を覆い、小指で鼻の穴を塞いで地面に伏せた。今にして思えば本能的に身の危険を感じる異様な閃光だったのだと思う。 その直後、物凄い爆発音がしたかと思う間もなく、熱風が体の上を吹き抜けた。忘れもしない、昭和20年8月9日午前11時2分の出来事。
 駅舎の外に飛び出すと、廻りは薄暗くなっていた。空を見上げた瞬間、心が凍りつくような恐怖心に襲われたことを未だに忘れることができない。さっきまで晴れていた青空は、黒・赤・白などの色が渦巻く雲に変わり、猛烈な勢いで今にも私達を覆い尽くしそうな恐ろしい光景に一変していた。

 間近に見る爆発直後の原子雲は、その後幾度となく目にすることになる、あの「きのこ雲」とは似ても似つかない形で、その原子雲の物凄さ・恐ろしさは、表現のしようがない。 
 もう何が起きたのか分からない。驚きと恐ろしさで動転してしまった私は、何処をどう走ったか覚えないほど、一目散に走って家に帰った。 家に帰り着いた私の目に飛び込んだのは、爆風で障子も雨戸もなくなって、ただ柱と屋根だけが残った廃屋同然の無残な姿であった。 
 それからどれほど時間が過ぎたか記憶はないが、家から50mくらい離れた道路には、避難してくる被爆者の列が続いた。みんな着ている服はボロボロで、まともな姿の人は居なかった。着ている服には血がにじみ、足を引きずりながらのろのろと歩く。それは目を覆いたくなるような光景だった。誰も何も喋らない。喋る気力もなかったに違いない。ただ黙々と歩く姿だけが印象に残っている。

 それから数日後、浦上に住む親戚を訪ね、母と姉につれられ爆心地に入った。一面焼け野原となった市街地には、高熱でガラス瓶が飴のように熔け、鉄骨が紐のように曲がりくねって、原型を止めるようなものは何一つなく、いたるところに焼死体が収容されないままゴロゴロ転がり、異様な臭いが鼻をついた。それは70年を経た今でも忘れようと思っても忘れる事が出来ない、この世とは思えない地獄絵だった。

 たった1発の原子爆弾で、一瞬にして7万人余の犠牲者を出し、形ある物を全て壊されてしまった、死の町がそこにあった。
時が経つにつれ、放射線が遺伝子へ影響を及ぼすことが話題になり、自分の体もその影響を受けているのではないかと密かに心配になってきた。 子供や孫への影響に対する不安は消えることがなく、原爆被害者であることを長い間口外することはなかった。 また放射線による癌の発症に怯え続ける日々で、何時発症するか分からない癌の恐怖は、70年経った今でも消えることがない。

 一瞬にして何万人もの一般市民の命を無差別に奪い去り、形ある全ての物を破壊し、生き残った人にも生涯を通じ筆舌に尽くしがたい苦悩を強いるのが核爆弾。その悲惨な非人道性は、広島・長崎の被爆者だけでなく、世界で唯一の被爆国日本国民が共有しなければならない問題であるにもかかわらず、人々の認識が次第に風化しているように感じてならない。 
 被爆70年を迎える今、改めて原爆の悲惨さと非人道性を次世代の人たちへ訴え続けると同時に、再び日本が戦争に巻き込まれることがないようにしなければならない、との思いが募る。