国民を欺く国家の再現は絶対阻止(被爆60周年記念誌寄稿文) 

              塚  崎 幸  彦  長崎  当時18歳

 1941年(昭和16)12月8日、日本は米国・英国をはじめ連合国相手に戦争状態に入り、1945年初めごろには南の島から退却して、いつ敵が本土上陸してくるか分からない戦争末期の時、中学生はもちろんのこと小学生まで、竹で作った銃で戦う方法を習いました。
 本来は学生なのに、お国のため各企業で働き、生産を向上させる学徒報国隊の毎日でした。沖縄が玉砕し、沖縄・サイパンから発進する本土空襲が激化し、全国の主要都市が爆弾の洗礼を浴びました。
 この時点で、食糧事情が悪化し、国民は脱脂大豆や芋の葉などを食べて飢えをしのぎましたが、日本の敗戦は決定的になっていました。しかし軍部は、降伏より本土決戦を唱え国民に戦争続行を訴えました。 この時点で終戦になっていれば原爆に遭わなくてよかったと思うと残念でなりません。

 8月6日、広島に新型爆弾が投下され、大きな被害を受けたと新聞・ラジオで報道されました。日本国民はますます不安の日を送っていました。
 そして8月9日。その日の長崎市は朝からの空襲警報は解除され、警戒警報下の市民はほ
っとしていた時です。11時2分、ピカッと瞬間的にせん光が走り、ドドーッという地響きとともに目の前が赤色に光りました。自分が「やられた」と思い、瞬間的に岩陰に身を伏せました。しばらく様子をうかがい、そーっと頭を上げると右目の上から血が落ちてきました。おそらく爆風で石が飛んできて切れたものと思われます。それから50メートルくらい離れた我が家へ駆け上がりました。家の中を見渡すと箪笥は倒れ、柱時計は吹っ飛び、家財道具は足の踏み場もないほど散乱していました。
 しばらくして、家の前で人声がするので外に出てみると、浦上方面で被爆した人たちが、すこしでも安全な場所に行こうと、死に物狂いで山越えして逃げてきたのでした。よく見ると、体中が焼けただれ、ガラスの破片が突き刺さり、「水を下さい」「水を下さい」と、か細い声で求めてきました。

 仮の病院となっていた勝山小学校に、手当ての施しようがない重傷の人を連れて行ったところ、そこでこの世のものではない、筆舌に尽くしがたい地獄絵図を見ました。校庭に百人近くの人が横たわり、何とも言えない異臭が漂い、息も絶え絶えに私のズボンを引っ張り「水をくれ」と哀願する人、全身やけどで体中が赤黒く膨れあがっている人、ガラスが背中に突き刺さってウジ虫が這(は)っている人、すでに息が切れている人など。死んだ人の上には、係り員が紙片を乗せていましたが、作業が間に合わず紙片が乗ってない死人が大勢いました。今思えば、この人たちは現在何人くらい生存しているものか、ほとんど絶望ではなかったでしょうか。大勢の死んだ人たちは、周囲の寺や山の空き地で焼かれていきました。

 その後再び敵機が襲来しました。75年は草木も生えない、人類は全滅するのではと、恐怖のあまり、生き残りの市民は、長崎市を離れて故郷などへ避難を始めました。鉄道は不通なので、私は34号線を日見トンネル越えに諌早へと夜間に行動を始め、一晩かかって諌早駅に到着。超満員の島原鉄道に乗って、命からがら山田村の親せきの家に逃げ延び、やがて8月15日の終戦になりました。

 原爆投下後、60年経過しました。当時、近所の人たちが放射能の後遺症で何人も亡くなりました。周囲が山と樹木に囲まれていたため命が助かった私は、残りの人生の生きがいとして、一般市民を巻き込む戦争は「絶対反対」と訴え続けていきます。私たちは、再び戦争が起こることのないように、過去の体験からこの点を特に強く感じます。善良な国民を欺き、酷使した政府の再現は、絶対に阻止ししなければなりません。