あの時の私 今の私 (被爆60周年記念誌寄稿文)
 
                 岩 野 久 雄  長崎 当時9歳
                 
 1936(昭和11)年1月、山口県下関市赤間町で生まれる。生後1ヵ月の時、父の仕事の関係で長崎市西泊町に移転。立神国民学校4年生(9歳)の時被爆した。私は6人兄弟の5番目。2人の兄は軍隊に。長兄は山口県萩基地、二兄は佐世保海軍基地に所属していた。
 原爆が役下された8月9日、私は近所の悪ガキと3人で裏山(山の下は三菱造船台)にセミ取りに行っていた。飛行機の爆音が聞こえると、空襲警報のサイレンがけたたましく鳴り響いた。空を見上げた。飛行機がいた。機体が太陽の光を受けてキラキラ光りながらゆっくりと動いていた。私は叫んだ。「逃げろ」。その時突然「ピカッ」と青白い閃光に包まれた。瞬間「ドーン」というものすごい音。走った、走った、飛ぶように走った。怖かった。家に着くと、ふすま、障子、畳ははがれ、2階の階段ははずれ、家の中はメチャクチャだった。誰もいなかった。

 当時隣町に、途中まで掘られたトンネルがあり、防空壕代わりに使われていた。そこへ向かった。私は暗いトンネルの中で泣き叫びながら母や姉たちを捜し回った。母たちは見つかった。長姉は女学生だった。学徒動員で三菱電機長崎製作所に勤務していたが、その日は昼からの出勤で出かける準備をしていた。
 平成8年1月、福岡市で定年を迎える。翌9年8月、大腸がん手術。10月には狭心症のためバイパスの手術を受け、ニトログリセリンを待ち歩くようになる。16年3月、今度は糖尿病と診断される。
 早良区の集会に妻と参加する(妻も2.6キロで被爆)。支部長の小出康雄さんから会員になるように熱心に勧められる。何度もわが家を訪問され、入会を決心した。
 平成13年10月、福岡市原爆被害者の会に正式に入会、同14年4月、早良区支部幹事、同15年4月、事務局次長、同年10月、情報宣伝部長、同16年4月、福岡県原爆被害者団体協議会理事に。

 現役時代には被爆者として何も行動していなかった。平成13年10月、幹事会に初めて出席する。被爆者の会がどんな活動をしているのか、参加していくうちにまず組織がどうなっているのか、いろんな会合、集会に参加して勉強をした。
 今後、被爆者として何をすべきか。@我々が先頭に立って核兵器廃絶を世界に訴えて行き、2度と核の使用を繰り返させてはならない A日本が世界に誇れる平和憲法(九条)を守る B被爆体験を語り継ぐ証言活動 C平和運動の集会・会合に参加し被爆者の声をアピールする。
以上のような市の会の運動方針を基本に着実に、行動していきたいと思う。

       一人はみんなのために
         みんなは一人のために(三銃士より)
好きな言葉である。