被爆 姉の思い

                  松隈 博子  長崎 当時9歳   

 昭和20年8月17日正午頃、私たちは父に会うためトラックで長崎県時津の春田病院に着いた。父は三菱兵器製作所勤務で、戦争末期は軍属扱いとなり、会社に泊まり込んでいた。被爆した時、事務所で熱線を後方から浴び、後頭部やけど、鼻、腕、肋骨を骨折し、時津の病院に運ばれていた。責任ある地位にいた父は、16日に敗戦を知らされた後容態が急変し、死亡していた。戦前から父の知人だった院長は、父をお棺に納めご自宅の座敷に安置してくださっていた。その横には戸板に横たわる次姉が居た。
 教師一年目の20歳の姉は、銭座国民学校の田んぼで他の先生方と草取り中に被爆して長与の学校に収容されていたが、探しに出た兄が父のもとに移し、母と共についていた。

 私たちは一休み後、社宅へ向かった。トラックの荷台に父のお棺と姉が寝た戸板を並べ、皆で毛布をかかげ持ち姉に直射日光が当たらぬようにし、トラックも姉の身にひびかぬようゆっくり動いた。毛布をかかげ持ったおかげで、否応なく見える辺りは酷いものだった。あの日から一週間以上経っているのに、チロチロ燃えている。そしてその臭い、数えきれぬ人々が焼かれたのだ。
 チロチロ燃える馬も見た。焼野原がどこまでも続いていたが、家のある東部は焼けていなかった。家は焼けなかったが、隣組の中で家族全員無事の家は無く、3キロ離れた戸外に居て無傷だった隣の人は、1ヵ月後に亡くなられた。

 トラックで新大工町の社宅に戻った家族は、母、兄、次姉の他に、被爆時座敷で母と一緒だった私、2階に友人と居た弟、父と同じ大橋の工場内で被爆しガラスの破片を全身浴び、山越えの途中釘を踏み穴の開いた足で帰宅した四番目の姉、慢性腎臓病のため工場勤務を免除され女学校併設の保育所勤で四姉が帰宅後矢上の知人宅へ私と弟を連れて行き、母と兄が時津に行った後壕の中でただ一人留守番をしていた三姉だった。

 千切れ飛んだ建具やガラスの破片、大きく裂けた柱、倒れた重い家具類、被爆直後そのままの社宅に着いた家族は、大急ぎで寝起きできる場を作り、十二畳の部屋に次姉を寝かせ、奥の座敷に父のお棺を安置した。火葬場は伊良林国民学校の校庭。父のお棺は大八車に乗せられ、小ぬか雨の中を行った。
 その間も次姉を一人にできぬ私は、留守番をして姉の看病をした。建具のない部屋に蚊帳をつり、直接夜具を掛けられない体はリヒカで覆い毛布をのせた。
 姉の体表面の殆んどが膿で覆われていた。いつ頃からか鉄剤(ハッコウ)を使った。これで膿を洗い落とし、これで湿布をした。何より姉の生きようとする気力は大変なものだった。顔一面もやけどのためしゃべるのも不自由な口を動かし、「あんなアメリカの新型爆弾なんかに負けて死ぬのは悔しい。きっとよくなって元気になってやる」と言い続けた。
 そのため食欲もあった。ハッコウは飲み薬としても使った。流動食ばかりだったが、一度に沢山飲ませ過ぎると消化できないのではないかと心配する私たちは、「大丈夫、早く良くならなければならないから早く頂戴」と、反対にハッパをかけられた。姉が「くやしい」と力む度に、肉が腐れ落ち、浮き出た血管が切れ、血が流れ出た。

 そんな日が一週間程続き、少しずつ良くなったように見えたが、うわ言を言い始めた。内容が分からず聞くと、ちゃんと返事をした。「お父様がいらっしゃる」、「泳いで行くから大丈夫」の時は、「三途の川を泳ぐつもりかも」と話し合い、姉の名を返事があるまで呼び続けた。
 今までに出会った人たちにお礼やお詫びをし、二日二晩、夜も昼もしゃべり続けた姉は、最後は鉄道唱歌を歌いながら息を引き取った。ハッコウで顔のやけどは治ったらしく、母から生まれて初めての化粧をしてもらった姉、出会った人たちに挨拶を済ませた顔は、穏やかで微笑さえ感じられた。
 姉はあの重傷の身で、家に帰ってから亡くなるまで、一度も痛いとは言わなかった。「痛い」とは言わず、血を流しながら「くやしい、くやしい」と言い続けた姉。私はこの姉の気持を無にしてはいけないと思っている。