私の被爆体験について

           土 内 義 雄   長崎  当時9歳

○ 私の家族と当時の状況
 私の家族は父、母、祖父、祖母と私の5人家族で住んでいた。
 父は三菱長崎造船所勤務(タグボートの船長)をしていた。祖父は三菱造船幸町工場(兵器の魚雷等を製造していた)に勤務。
 昭和20年8月6日夜、父が仕事から戻って夕食の時に、「広島に新型爆弾が投下されて焼け野が原になっているらしい」と話してくれた。「長崎も魚雷など兵器を製作しているから狙われるかもしれない。早く疎開した方がよかろう」と言った。そして知人を頼って、西彼杵郡長与町三根郷の農家の座敷を借りることができた。
 8日(原爆投下前日)に父が大八車を借りてきて、祖母と私を旭町から浦上駅・道ノ尾駅を通って16qを歩いて疎開した。爆心地から直線距離で約6qの所だった。日が暮れるとカエルの鳴き声しか聞こえず、寂しくなって両親がいる旭町へ帰りたくなった。一人線路をとぼとぼと長与駅の方向へ歩いていた。長与駅の近くまで来たところで、村の人たちに追いつかれて連れ戻された。たぶん、祖母が農家の人たちに頼んだのだろう。村人達や祖母からしこたま叱られた。涙が止まらなかった。泣き疲れて寝てしまった。

〇 原子爆弾投下
 昭和20年8月9日は朝から快晴だった。朝早くから庭の柿の木に蝉が何匹も止まってジージー鳴いてやかましかった。 その時、遠くから飛行機の爆音が聞こえてきた。祖母から「早く家の中へ入れ!」と云われた。
 私は縁側に膝を立てて座り、空を見上げていた。突然、上空で「ピカッ」と光った。私はとっさに眼と耳を押さえてその場に伏せた。
 午前11時2分、長崎市松山町上空に敵機B29が飛来して上空500mでプルトニウム型原子爆弾が投下された。
 どれだけ時間が経ったのか判らないが、静かだったので起き上がり、座敷の方へ逃げ込んだ。すると縁側と座敷の境にあるガラス障子が内側に倒れてガラスが粉々に割れて畳の上に散らばっていた。
 ここまで爆風が吹いて内側に倒れたのだろう。その割れたガラスの上を爪先立てて座敷から土間を通って裏口からミカン山へ逃げた。祖母もミカン山へ逃げて来ていた。夕方までそこにいた。これからどうなるのか?何がどうなっているのか?判らなかった。しばらくして空腹を感じたので、落ちた夏ミカンを拾って食べた。酸っぱかった。他に食べるものはなかった。 
 夜になって西の方向(長崎の浦上の方)が燃えているのか?山越しに空が赤く昼間のように明るかった。普段は暗くて見えない山の稜線や田んぼの畦道まで明るく見えた。このような日が何日も続いた。
 祖父母と両親の安否、旭町の家のことが心配になっていたが、どうしてよいのか判らなかった。
 浦上へ行ってきたという村の人は「稲佐や旭町の方は大丈夫のようだ」と話してくれた。西町や住吉の方は、建物は壊れていたが燃えてなかったと話していた。

○ 戦争は終わって
 8月15日正午、ラジオで「天皇陛下さんから大事な放送があるので、忘れずに聞くように」と家主が教えてくれた。ラジオの前に正座して村の人達と一緒に聞いた。日本は戦争に負けた。日本は無条件降伏をした。
 子供心に「無条件降伏がどのようなものか判らなかった」。「無条件降伏をしたので、そのうちアメリカ人が来て、皆殺されてしまうだろう」と誰かが言った。怖くて泣いた。
 翌16日、両親がリヤカーを借りて迎えに来てくれた。旭町まで帰るには松山町(原爆落下中心地)を通って浦上駅前を通らなければならない。浦上一帯は焼け野原でどこが道路か?はっきり分からなかった。
 市内電車が線路の上で焼けて台車の鉄の部分だけが残っていた。この頃の電車は木造のちんちん電車だった。
 日暮れ時だったのでよく見えなかったが、道路脇にはところどころに人の黒く焼けた遺体?らしきものや、牛馬の死体が転がっていた。
 旭町の家に帰り着くと、屋根に大きな穴が開いていた。雨が降るとバケツや洗面器を並べてポトリポトリと落ちる水の音が音楽に聞こえ、月の出た夜は寝ていて大きく開いた屋根から月見が出来た。(この頃天井板は焼夷弾が落ちて天井裏で燃えると消火の邪魔になるという理由で取り外されていたので梁が下から見えていた)

 原爆投下の時、父は長崎港内で船上にいて光は浴びたが火傷はしなかったという。祖父は職場(幸町工場)の壊れた建物の煉瓦の下敷きになって助けを求めていたところ、避難していた人に引っ張り出されて、稲佐山へ逃げたという。そして翌日、夕方になって旭町の自宅に帰ってきたらしい。両親は、祖父は死んだと思って明日にも探しに行くつもりだったらしい。祖父は稲佐山へ逃げて翌日の夕方までのことを恐ろしさからと怖さからか?話してくれなかった。
 二学期が始まって登校してみると、同級生の一人は背中に火傷をしていた。聞くと「海岸で泳いでいてピカーッと光ったので慌てて水中へ潜ったらしいが間に合わなかった」と話していた。私は泳げなかったが海岸でよく遊んでいたので、ひょっとしたら全身火傷して死んでいたかも知れない。
 毎日、校舎の中の片づけなど作業ばかりで授業はなかった。幸い亡くなった友達はいなかった。そして教科書は不適当?なページに墨を塗ったり破ったりさせられた。
 夜になると毎晩のように何処からか人が集まってきて、積んでいた柱などを上手に組んで、亡くなった人を火葬していた。探していた人が死体で見つかったのだろう。異臭がしていたが、苦情を言う人は誰もいなかった。
 炊事に使う燃料も無かったので、取り壊した家の柱等を集めて燃やしたり、風呂はドラム缶の風呂で空き地に煉瓦を積んで焚口を作って沸かしていた、今風にいうと月を眺めながらの露天風呂だった。
 そしてこの空き地に強制立ち退きになっていた以前の八百屋、魚屋、酒屋のバラックが建ちはじめた。少しずつ人が戻りつつあった。 
 
 私は、平成26年で78才になった。これからの日本はどんなことがあっても戦争は絶対にしてはいけない。
 このことをこれからの子供達に受け継いで行って貰いたいという願望は強いのだが?。
 また、終戦69年目が近づいてきた。思い出すが私は原爆投下の前日に疎開して、お蔭で火傷もせずに今日まで生き延びることができている。
 それで遅ればせながら、福岡市原爆被害者の会に入会させていただいて一日でも長く、若い人達のためにお役に立てればと模索している。ただ、気がかりなのは被爆者も高齢化が進んでいる事と、戦後、69年になること、被爆者といっても当時、1〜2歳だったり、胎児だったりでは親からの話でしか知らないのでは、と思うのだが・・・