人間が人間にすることか

                熊谷 龍生  長崎 当時17歳   

 運命の8月9日、17歳にして旧海軍に志願入隊していた私は、佐世保郊外の大崎砲台でグラマン戦闘機と対空戦闘の日々であった。午前10時30分ごろ、B29爆撃機2機飛来したが、長崎方面へ機首を変えたため、空襲警報は解除された。
 しばらくして長崎の空が真っ赤に染まり、数分して遠雷のような音と地響きが続いた。後になってわかったことだが、さっきのB29は原爆「ファットマン」を搭載した「ボックスカー」だった。
 そして8月15日、終戦となった日、私は「長崎原爆海軍特別救援隊員」に指名され、入市被爆者になった。
 国鉄大村線を経由して、道ノ尾駅で下車した救援隊員が見た長崎、あまりの惨状に誰もが無言だった。
 まず我々を襲ったのは、呼吸もできない猛烈な悪臭であった。ヒトや馬は真夏の太陽にさらされてすでに腐敗。その匂いに加え、遺体を道路に並べて火葬にすると、強烈な悪臭となる。
 ゴミが焼けるにおい、救援物資の握りメシが腐るにおい、市内は壊滅しているため人糞は垂れ流し・・・まさに絶望の地獄であった。
 さらに、夕方になるとあちこちから火の手が上がる。この暑い季節になぜか・・・それは家族を火葬にする火の手であった。材木を拾い遺体を乗せ火をつけると、死者はまるで生きているかのごとく立ち上がるという。たとえは悪いが、魚や肉を焼くとちじこまってそりかえる現象と同じだ。
 それが「熱い、苦しい」と、もがくかのように見え、肉親にとっては目視できるものではない。そのむごさが見えないようにと、夜の火葬にするのだった。
 画家、松添 博氏が道ノ尾駅で見た、福留美奈子さん=九歳の火葬を、後日「振袖の少女」として再現し、原爆の大量虐殺、非人道性を世に問う作品がある。
 救援隊員が市内を巡回するとき、あちこちでピラミッドのような白い塔を散見した。真上からの強烈なドンで、倒壊した家の下敷きになって脱出できず、そこへ自然発火による火災で、生きたまま焼殺された家族であろうか、大きい頭蓋骨の下には小さな骨が寄り添って、死んでもわが子を守る親の愛は、無残にも戦争・原爆によって打ち砕かれた。戦争は人間の愛情も一顧だにしない。
 七万人が被爆死したといわれる長崎。救援隊は火葬に追われた。目をそむけたくなるような光景のなか、男女の区別、氏名、住所、年齢もわからないまま、ひたすら火葬を続けた。
 これが人間が人間にすることか・・・私は永遠に問い続けたい。
 17歳の少年海軍兵が、よくぞこの修羅場に耐えられたと今にして思えば、不思議に思う。おそらくわれわれの神経は麻痺し、なにを見ても、なにをしても、もはや人間的な理性はなかった・・・で、なければこんな任務に耐えられるはずがない。
 茂里町の軍需工場で無残な死をとげた学徒動員の子どもたち、「水をくれ」、「やけどが痛い」、もはや声も出ないでバタバタと死亡する伊良林や新興善国民学校の臨時救護所の地獄図、いまでも夢に出てくる。
 約二週間の救援活動の任務を終え、全身に放射能を浴びていたことも知らないままの復員となって、8月29日、朝倉市の実家に帰り着いた。
 翌々日から脱毛、血便、高熱、意識の混濁となり40日間の入院。その後40歳台から、慢性肝炎、不整脈の発症、平成12年には、胃がんの手術と、原爆後遺症との闘いに明け暮れた。
 私はときどき思うことがある。旧海軍に特別救援隊員に指名され被爆者となったことがなかったら、もっと健康に、もっと幸せに生きてこれたかもしれないと。
 しかし「自分の進路や考え方を後悔しない自己責任」これが私の人生哲学である。だれしもが思うであろう、長崎の地獄を見た以上、戦争を忌避し平和を願う私が「語り部」を続けるバックボーンとなっている。
 被爆70周年、依然として原爆の脅威は緊迫の状態にある。だからこそ絶対に風化させてはならない。それにはまず被爆者が声をあげなければならない。