あの日あの時 (被爆60周年記念誌寄稿文)

                 山 根 唯 志  広島 当時20歳

 広島 8月6日 午前8時15分
 長崎 8月9日 午前11時2分 
 この2発の原爆投下で、一瞬にして両市は焼け野原と化してしまいました。
私は6日の朝6時半ごろ、仕事のため南観音町の三菱寮を出て江波三菱造船所に向かいました。到着して作業着に着替え、進水台のある場所に着いて間もなく、ものすごい光と大きなさく裂音がしました。幸いけがはなく、8日まで会社で救護活動に当たりました。

 市内の焼け跡からトラックで全身包帯の重傷者が次々と運び込まれました。男女の別も分かりませんでした。
 日赤から搗(か)ち割りが運ばれてきて、私はそれを患者の口に一つずつ入れるのが仕事でした。
 工場内でもガラス張りの中にいた人たちは、体中にガラスの破片が刺さって助けを求めていました。しかし目の前にいながらどうすることも出来ませんでした。
 4日目の朝、寮に帰りましたが、家は倒れ、衣類はなく、着の身着のままでただぼうぜんとしていました。

 残虐な原子爆弾のため、50年、60年過ぎた今日でも多くの人々が後遺症のがん・白血病などで苦しんでおられます。私は17歳の夏、徴用で三菱長崎造船所に。翌年広島に転勤、原爆に遭いました。現在も脊椎(せきつい)変型症で悩み苦しんでいます。
 年をとって、体験を書くことがだんだん出来なくなりましたが、生き残った私たちが、当時の悲惨なありさまを後世に伝え、一日も早く平和が訪れるよう頑張っていきたいと願っています。