原爆でわが家庭は一変 (被爆60周年記念誌寄稿文

              磯田 玲子  長崎  当時3歳

 今日は8月9日、59回目の長崎原爆忌の日だ。当時3歳だった私には、わずかの記憶しか残っていないが、記録としてしたためることにした。
 私の家は、長崎駅前、NHKの上の西坂の丘にあった。よく晴れた当日、縁側には、綿を打ち直して、新しい布団カバーが掛けられた掛け布団が四つ祈りに置いてあった。祖母は縫いもの、そのそばで私は遊んでいた。
 世の中の異変に気付いた私は、祖母に「おばあちゃん、この布団かぶろうよ」と言ったが、慌てた祖母は、私を座敷へ抱えていってその場に座り込んだ。そして私の頭の上から自分の顔で覆ってくれた。そういう状態で、その時、私は小さい体と目で、世の中で何か起きているか、祖母の腕のすき間から確かめていた。
 広く開け放たれていたガラス戸が動き出し、座敷の方ヘバチャン、バチャンと倒れてくるのをじっと見つめていた。私の原爆の記憶はこれだけである。

 その後、私はその時母の背におんぶされて、悲惨な場所を通ったと母から聞いたが覚えはない。母はその時、近くの防空ごうで衣類の整理をしていた。慌てて自宅へ戻ると、祖母は顔面血だらけ、私は頭から血を流していた。でも私の頭の血は、祖母の顔面の血だったようで、私の頭部にはガラス傷の小さいのが一ヵ所あっただけだった。12歳上の兄は、当時、三菱兵器工場に行っていたが、当日はなぜか行きたくなくて、叔父さんと福田の海水浴場に行って、そこで原子雲を見たという。 母の話によると、山手の農家の牛が脱走し、我が家の門の前で生き絶えていた。それを近所の人たちは食べていたが、母はどうしても食べられなかったと、よく話をしていた。

 昭和18年に亡くなった父は、祖母、母、兄、私と、生活ができるようにと、貸し家を数軒建てていた。我が家は、原爆が役下されるまでは経済的には安定していたようだが、すべてが一変した。幸いにも原爆での犠牲者は出なかったが、経済基盤が失われ、その後、母が大変な苦労をして一家を支えてくれた。よく買い出しの苦労話は成長とともに聞かされたものだ。
 本日、平和公園の祈念式典で長崎市長は、アメリカ市民に向かって核兵器廃絶を訴えた。我々の願いが全世界に届き、恒久平和が訪れることを心より祈りたいと思う。