私の1945年8月9日

                早 田 一 男  長崎 当時15歳

 遅い朝食でした。 箸をとった途端、青白い閃光とグアーンという轟音とともに、戦時中とはいえ平和な風景が一瞬視界から消えてしまいました。爆音が聞こえていましたので、爆弾が近くに落ちたのだと、反射的に床に身体を臥せました。「助けて」という叫ぴ声で数秒続いた不気味な静けさが破られ、それが引き金になったようにあちこちから助けを求める声が上がりました。
 周囲の形あるものがすべて見えなくなり、午前中なのに夕闇に包まれたようになりました。

 額から血がしたたっている母と共に裏山の中腹にあるホウキ畑に避難して、そこで一夜を過ごしました。 長崎駅付近のくすぶりが、手の施しようもない火勢となり、瞬く間にその猛火は私の家を呑んでしまいました。
 翌朝は跡形もなく灰塵に帰した我が家の跡に呆然と佇むだけでした。
 ホウキ畑で過ごした夜中に、焼けただれて垂れ下がった皮膚が、衣服に間違えられるほど悲惨な姿で山道を這うようにしてやって来た人達がいました。水を求めていました。畑の片隅にある小さな溜池に口を近づけたまま息絶えてしまいました。救いを求める声は聞きなれない言葉でした。朝鮮半島から強制的に徴用され軍需工場で働かされていた韓国の人達でした。
 私は中学三年生でした。当時は学校で勉強することは許されなくて、爆心地から900メートルしか離れていない工場で働かされていました。その日は身体の具合が悪く自宅にいたことが命拾いになりました。
 私の学友の半数は帰らぬ人となりました。
 爆弾が通常のものでないことが日が経つごとに分かってきました。被害は広範囲に及んでいたのです。数日後、私は学校に行ってみることにしました。あちこちでまだ消し止められない火炎が通行を妨げました。 道路には黒こげの遺体が無造作に横だわっていました。
 学校は爆心地から900メートルのところにありましたが、木造校舎は火災を免れて全壊の状態でした。 下敷きになった先生や下級生の救出にあたりましたが、物言わぬ遺体を収容する作業になってしまいました。

 身体のだるさ、下痢、吐き気が数日続きました。数ヵ月後、偶然逢った友人は脱毛と歯茎からの出血に苦しんでいました。
 父は約4キロ離れた勤務先で被爆したのですが、原爆の放射能の影響がまだ判然としない時でしたが、四年後には原因不明の病で亡くなりました。前後して被爆時私と行動を共にした母は脳出血で故人となりました。元気だった母親が何故と思ったのですが、当時は原予爆弾の所為だとは露程も考えが及びまぜんでした。
 妻の姉は長崎医科大学付属病院に勤務中に被療、遺体は発見できませんでした。恐らく数百度の熱線で跡形もなく蒸発したのではないかと思います。

 私は8年前に悪性の腫瘍を患い、手術で摘出しましたが、後遺症に悩まされ、また転移の不安から解放されない日々を送っています。原爆の放射能は心と体を一生蝕んで生存被爆者をも苦しめるのでしょうか。
 長崎の街は正しく生き地獄と化していたのです。