忘れられない、戦争の記憶

                 福井 キミ  長崎 当時22歳    

 あゝ終戦70年、私など青春はなかった。物心ついた頃は支那事変の勃発、戦争、戦争の明け暮れ、日一日と戦争は激しくなるばかりで、なんでこんなにあるのだろうかと、今思えば、世界一の大国アメリカを向うにまわして勝つわけないだろう。戦争なくしては国は発展しないというが、多くの犠牲者を出して、今思えば馬鹿みたい。亡くなられた方々は可哀想・・・でもこればかりは時の流れというか、仕方のないことではなかろうか・・・現在の平和、亡くなられた方々には気の毒なことだと思う。
 アメリカは原爆というものを作ったが、その威力を確かめてみたかったらしい。広島・長崎に投下してあまりにもその威力の偉大さに驚いたらしい。上司の命令とはいえ、投下に当たった人は、精神状態がおかしくなったとか。

 私は出島にいて命拾いした。35年に国民健康保険が発足して、その保健施設に保健婦が必要で、私は資格を得るために、町村からの出向で、出島にある県の保健婦養成所に入所していた。
 昔のことになるが、外国に行くものは、予防接種を受けなければ外国船に乗れなかった時代(腸チフス・赤痢・種痘等々)。
 保健婦養成所には、県下から資格を得るために50人ほど入所していた。出島にあった養成所は、海外検査渡航所といっていた。外国に渡航する人は、ここで身体検査を受けて渡航したらしい。 

 8月9日この日は、長崎大学に講義に行く日だったが、大学の都合で休みになり、出島にいたので命拾いしたのである。長崎大学は原爆投下の中心地だったのである。 はじめは大浦天主堂の救護所に2人ずつ配置され、毎日出島から大浦まで通った。焼けただれて髪の毛は抜けて、夏で薄物を身に着けているので、服はズルズルに破れ、それこそ顔は焼けただれて、身体も焼けている。大浦の救護所に一週間ほど通ったあとは、新興善小学校の救護所に行くことになった。教室という教室には、焼けただれた人で一杯、足首をつかまれては、「水を水を下さい」と、水をやったら駄目と言われていたが、今思えば末期の水だったろうに、腹一杯飲ませれば良かったのに。

 休みがとれて島原神代の実家に帰った。当時父は寝たり起きたりの状態だった。3日ほどたったら、救護所から呼び出しがあった。父は「行かんでよかったい、行くな、行くな」としきりに止めたが、県からの呼び出しで、新興善小学校の救護所に戻り、大きな平釜でご飯を炊いてはおにぎりを作り食べさせたものだ。亡くなった人は、トラックにごみみたいに放り込まれ、トラックで運ばれてきた人と交替で・・毎日毎日この繰り返しだった。新興善小学校は、兵隊、赤十字、保健婦らでごったがえしだった。運ばれて来た人の処置といっても、チンク油を塗ってあげるのが精一杯の治療だった。
救護所に帰った3日後に「父死す」。の電報を受け取り島原神代に帰った。島原鉄道もごったがえして窓から乗り込んだりしていた。ひと7日をすまして救護所に戻った。保健婦の免許証を得るため、町役場の保健婦として働いた。免許証をもらっても町村では何から手をつけてよいやら分からなかった。

 結婚して五島列島の最北端宇久町の保健婦として30年、離島とあって急患が出たら重症の時はヘリコプターを要請し、大村国立病院へご家族ともども同乗して行った。ヘリコプターにも何回も乗った。