あすの退院告げられながら急死した姉 (被爆60周年記念誌寄稿文)
          
              橋 本 春 江   長崎  当 時 5歳 
 
 私は当時5歳でした。爆心地から4キロ離れた長崎市中小島町で被爆しましたが、被爆の瞬間そのものは記憶にありません。自宅にいた家族は全員無平で、家も瓦が飛んだくらいだったということです。
 当時の記憶としては、空襲警報のサイレンが鴫ると一 斉に電気が消され、幼い私にも緊張が走ります。防空ずきんをかぶせられ、母の背に負われて防空ごうに駆け込んだこと、近所のおばさんが今にも生まれんばかりの大きなおなかを抱えて、不安そうに階段をヨイショ、ヨイショと上がっていく姿、防空ごうは湿気があり、敷いてあるむしろがジメジメしていて私はそこが嫌いだったことなどを覚えています。

 私の家族の中では、当時十六歳だった姉が原爆の犠牲になりました。姉は学徒動員で長崎三菱製鋼所に行っていて被爆しました。姉の同僚のAさんが、仏壇の前で号泣していたことを今もはっきり覚えています。後日、母が話してくれたことですが、姉はAさんとトイレに行ったそうです。姉が先に入り、Aさんから「早く出てね」と言われ、急いで出て、外で待っていた時に被爆したのです。姉は体が燃えるように熱く、のどか渇いて浦上川に飛び込みました。行方不明になった姉を家族は何日も懸命に捜していたところ、大村病院に入院していることが分かりました。
 姉の名前は「雪子」と言い、名前の通り本当に色白だったそうです。でもベッドで寝ている姉の顔は、やけどでパンパンに腫(は)れ上がり、糸を引いたような細い目で、とても自分の娘とは思えないほどだったと母は繰り返し話していました。少しずつやけども良くなり、明日退院してもよいと医者に言われた矢先、容体が急変し、入院十五日で逝ってしまったのです。放射能を吸っていたのでしょう。

 生存する権利を奪う原爆、いつも民衆が犠牲になるのです。時と共に風化されないように戦争を知らない子供たちに伝えていこうと思っています。