子宝に恵まれなかったのは原爆のせい?
                 (被爆60周年記念誌寄稿文)

                小 野 喜 美 子 長崎 当時26歳

 長崎に原爆が役下された時、私は新地(爆心地から3,5キロ)にある勤務先の食糧事務所内にいました。 空襲警報が解除になったので、やれやれという思いでみんなでおしゃべりをしている時でした。ピカッ、ドーン。まもなくして、真っ黒い煙が2階から下りてきました。上司から「空襲だから大変!防空ごうへ行け!」と言われ、いつものように防空ごうへ入りました。
 爆弾がどこに落とされ、どういう状況になっているのか全然知る由もありませんでしたが、周囲の気配でいつもとは何か違う、ただならぬことが起こったのだという感じがしました。
 お昼近くになったころ「家に帰っていい」ということになり、寺町通り伝いに鳴滝の家まで帰りましたが、途中、空気が重くて先に進んで行けない状態でした。 口にぬれタオルを当て、B29が何回も飛んでくるのにおびえながら、4時間もの時間をかけてやっと家にたどり着きました。
 翌日から血便が続いたこと、米軍が上陸するので何が起こるか分からないということもあり、父に言われて島原の親類へ疎開しました。血便は2ヵ月も止まりませんでした。
 3ヵ月後に長崎へ帰ってはきたものの体の不調は続き、職場も辞めて、だらしい体をどうすることもできないで、ただじっと家で過ごしました。
 縁あって結婚しましたが、とうとう子供には恵まれず、主人亡き後ずっと一人暮らしです。
 一人暮らしが慣れたとはいえ、友人が孫のことを話題にするときは「子供が産めない体になったのは原爆のせいでは」と、ふと頭をよぎることかあります。もちろん断言できないことですが、放射能の影響を考えてしまいます。

 60年前のあの「恐怖」は、今も鮮明に記憶に残っています。87歳になりましたが、残されたわずかな時間を大切に、核のない、戦争のない平和な世界であるよう、今まで通り機会があれば「朗読証言」にも参加しながら生きていきたいと思っています。