戦争だけは絶対ダメ

               三根 繁  長崎 当時9歳  

 私が生まれ育ったのは、長崎市水の浦町です。そこは稲佐嶽の山ひだのような谷あいの小さな町でした。住民は三菱造船所の従業員が多く、私の父も造船所の技術屋でした。
 昭和20年8月9日、その日は、午前7時半すぎに警戒警報のサイレンが鳴りました。
これまでの空襲は夕方か夜でしたから、「今日はえらい早かね」と言いながら防空壕へ走って避難する途中、空襲警報へ変わりました。家から7〜80メートルの防空壕に飛び込みましたが、暫くたっても爆弾が落とされる様子がなく、おかしいなと思っていたら8時半頃、空襲警報解除となりました。「やれやれ今日は何事もなくてよかった」と言って家に帰ってみると、母と妹が防空壕には避難せず家に残っていました。「どうしたの?」と聞くと、母が「和子(妹1歳2ヵ月)が高熱を出しているから、今のうちに三菱病院に連れて行く、あんたも来なさい」というので、隣町の飽の浦(家から約500メートル)へ3人で出かけました。

 その日は朝から空襲警報が出た関係か、来院患者も少なく、診察は早く終わりました。病院内の薬局で薬をもらって帰ろうと、玄関近くの薬局へ行く途中で、私の友人のお母さんと会い、母親たちが薬局前の石段に座って話を始めました。その時です。キラツと閃光が走り、びっくりして窓の外を見ると、白い光がササーッと広がるのが見えました。私は反射的に薬局の中に飛び込み、待合室のベンチの下にもぐり込みました。数秒後、ドーンという轟音と共に病院の建物がぐらぐらっと揺れました。瞬間、建物が倒れると思い、身構えました。赤レンガ造りの建物は倒壊しませんでしたが、吹き抜け天井で総ガラス張りの薬局のガラスが崩れ落ちてきました。10分くらいベンチの下で、固まっていました。あたりが静かになったので、恐る恐るベンチの下から顔を出してみると、誰も人がいません。履いていた下駄はガラスに埋っていました。ベンチの下から抜け出し、どこか怪我してないかと、頭の先から体全体を摩ってみたら、右足首にガラスの破片が1本刺さっていました。興奮のせいか痛さも感じず、その場で引き抜ました。病院の中の方に入って行くと、大人たちが窓を乗り越えて病院の裏側に逃げ出していました。私も窓枠に手をかけて乗り越えようとしましたが、できませんでした。大人たちは、皆無口で、自分が逃げるのに一生懸命で、子どもの私が、もがいているのを見ながら、誰一人手を貸そうとする人はいませんでした。その時、ハッと我に返り、母たちはどこに行ったんだろうかと思い、もといた薬局の前に行ってみると、そこに母が妹を抱いて、しゃがみ込んでいました。怪我もしていませんでした。母は私に「お前、どこに行っとったね、死んだと思うて心配したばい」と激しく叱りました。
 一刻も早くその場を離れたかったのですが、先ほどの爆発が、病院の近くで起こったものと思い、また当時は沖縄が陥落して、次は九州に米軍が上陸してくるとのうわさび盛んに耳に入っていました。その艦砲射撃が始まったとばかり思いこみ、次の2弾3弾がいつ飛んでくるかと思って、病院の玄関から外に出られませんでした。思い切って病院の玄関を飛び出して、200メートルほど離れた飽の浦国民学校の防空壕へ走って逃げ込みました。砲弾が飛んでくる様子もなく、家に帰ろうとそこを出ました。200メートルぐらい歩いた瀬の脇町の恵比寿神社の前に差し掛かったとき、真黒い雲が頭の上に覆いかぶさってきました。原子雲です。真夏の昼間だと言うのに夜みたいに暗くなりました。そこで、また近くの防空壕へ飛び込みました。家に帰り着いたのは午後3時半ごろだったと思います。家は半壊状態で少し傾いていましたが、倒れてはいませんでした。家の中は土壁が落ち、家具・建具が倒れて足の踏み場もない状態でした。母が病院に出かける前、かぼちゃ飯を炊いていたらしく、土壁をかき分けて釜を探し出したら、かぼちや飯が温かくして出てきました。それを食べたときのおいしかったことは今でも忘れません。爆心地から3.4キロの被爆で、当時私は満9歳、国民学校3年生でした。
 その後、終戦までの一週間はずっと防空壕にいました。夜は少しの時間家に帰りましたが、長崎の空は3日間ぐらい真っ赤に焼けていました。 
 8月15日、終戦の玉音放送は聞いた覚えがありませんが、大人たちが「戦争は終わった、日本は負けた」と言っているのを聞きました。その時は、これからどうなるのだろうかという不安はありましたが、悔しいとか、残念とかいう気持ちは全く湧いてきませんでした。毎日のように母から「死ぬときは一緒だからね」と言われていましたので、「これで死なずに済んだ」とほっと安心しました。 
 父方の親戚が浦上地区に多く、確認に行きたいと言うので、終戦から1週間目頃、父・兄と私の3人で出かけました。大波止から長崎駅前〜岩川町〜爆心地を通り、西彼杵郡時津村(母の郷)まで片道18キロを歩きました。原爆投下から2週間近くが経っていましたから、人の遺体は、あまり見かけませんでしたが、焼け跡全体に異臭が漂い、特に馬の死体が点々とあり、体内のガスが膨張したものかパンパンに膨れ上がり強烈な腐臭を放っていました。歩きながら、さらに異様に感じたのは、一面が焼け焦げの黒以外に色がないこと、また音がまったくないことでした。

 あれから70年が経ちました。もう戦争はこりごりと言って作った平和憲法、国民が本当に懸命に取り組んだ戦災復興と、民主国家づくりのおかけで、日本は歴史上、特筆すべき豊かで平和な時代が70年も続いています。「戦争で解決できるものは何もない、あるのは滅びと恨みだけ」これは長崎の被爆者、故・永井隆博士の言葉です。国の存亡をかけるような戦争に注ぎ込む、莫大な金と命、そして強大なエネルギーを平和外交に振り向ければ、「武力の発動以外に方法がない」という状態には絶対にならないと信じます。
 『戦争だけは、どんなことがあっても、絶対やってはダメ』と心の底から強く訴えます。