戦争だけはイヤ!戦争だけは・・・

              渡辺 尚子  広島  当時3歳

 あの朝三歳八か月の私は、学徒動員が休みだった次兄と、布団に二人並んでごろっとしていました。次兄が廊下側で、私はその背にくっついていたため、次兄はやけどをしましたが私は大丈夫でした。しかし、一週間後くらいに手足の指全部に水疱瘡ができました。
 長兄は紙屋町の逓信局に出勤していて、職場で被爆して遺骨もありません。父は日陰でゲートルを巻いていて大丈夫でしたが、母は廊下で二人の姉の疎開先に送る荷物を整えていて光線にあたりやけどしました。ピカが落ちて父が押入れから布団を出して母と私にかけてくれました。しばらくして、「このままではまた来るかもわからんから外に逃げよう」と玄関に出ると、下駄が散らかり戸も外れていました。隣家に声をかけましたが応答はなく、稲荷町の大通りに出て的場の方へ歩きました。反対側もみんな的場の方へ歩いている行列ができていました。みんなカッターシャツの袖が地面に落ちているようで(やけどで皮膚が垂れ下がったもの)、猿候川近くの芸備倉庫にたどり着きました。夜は川の中で「お母さん」「兵隊さん」「水」「水をください」と叫ぶ声を三才ながらよく覚えています。

 滑り台や遊具がいっぱいだったところから、家もなく野宿のような・・・井戸のほとりでトマトを食べた強烈な記憶が残っています。母が「原爆さえなかったらねー」と、言った。
 「国から千円配ってきたが、布団二組買えただけ」とのこと。みんなが貧乏だったといいます。多くの人の人生を変えた、特別の感があります。

 この歳になり病気をいくつも抱え「リンパに関する病だけは気をつけよう」と言われています。甲状腺機能低下症で医療特別手当の申請を、被爆者の会の相談係にたすけてもらい二年前に提出しましたが、未だ承認なし。
 一年前安倍首相は「一・五キロ迄は積極的に認定する」といったはずですが、死ぬのを待っているのでしょうか。
 被爆七十年ということで明らかになったABCCの件。私も小中学生の頃授業を休んで車で連れて行かれ検査を受けました。本人には結果を報告することもなかったようです。本国(アメリカ)へ、データを送る研究対象で、人体実験のデータ集めだったということ。治療行為はなかった。(毎日新聞・平成二十七年七月三十日付)

 戦争をやめるために原爆を落としたと米国はいうが、罪の意識はないのか!心の底では死んだ人のためにも許せない。敗戦国だから、言ったらだめなのですか。長期にわたって放射能が残留することをアメリカはわかっています。土壌を複数回調査したこともわかっているのです。(毎日新聞・平成二十七年八月五日付)福島の時も日本に居る自国民(米国人)に出国しなさいと言っていましたし、何十キロ以内には入らないことなど、広島の調査を基に出した公報指導でしょう。
 日本の若者のアンケート調査で、原爆投下の日・場所を答えられない人がいること 日本が戦争をしたことを知らない人がいること 学校教育で教えてほしい。

 憲法や安保問題におびえている今日この頃、戦争に進む道には絶対迷い込まないでください。引き返せないことはよくわかっていますよね。国民の声を押さえつけ強行しようとしています。一般人の友人から集まった声は「戦争だけはイヤ!戦争だけは・・・」