生かされて 生きて  (被爆60周年記念誌寄稿文)

              山 内 良 己  長崎  当時 15歳 

 長崎と下五島を結ぶ定期貨客船”長福丸”は午前9時、長崎港の大波止を出港した。鉛色の空と海。初冬の東シナ海は、私の心のように暗く、外海は荒れていた。 2時間程すると、陸地と島影が全く見えなくなった。広い海原をぼんやり眺めていると、原子野の光景と重なって見えてきた。昭和20年11月末ごろのことである。
 約3ヵ月前までは、長崎の街も、人の生活も平穏だった。 8月9日、私の周辺は生き地獄と化した。そして両親や親族の葬儀。生活のリズムが180度狂った。 9月中旬、郵便局の職場に復帰したが、10月中旬には体調を崩し、医師の診断を受けた。結果は「肺結核。2ヵ月の転地療養を要す」。

 原爆投下の翌朝、爆心地から500メートルの自宅、坂本町26番地に帰った。両親と叔母親子を捜し求める毎日が約一週間続いた。二次放射能を諸に受けたのは当然のことである。
 被爆、葬儀、敗戦−。15歳の少年にとって身の処し方など分かろうはずはなく、ただおろおろするばかりだった。自分を見詰め直す気待ちの余裕など全くなかった。そんな時「転地療養」の診断を受けたのだった。 そのことで、フツと母の故郷・五島のことを思い出したのだ。五島の岐宿町河務郷には母の両親が住んでいる。母と叔母親子が被爆死したことだけはハガキで知らせたが、詳しくは伝えていなかった。

 岐宿の波止場まで、祖父が手こぎの小舟で迎えに来ていた。私の顔を見るなり祖父は泣いた。2、3年前、母と一緒に里帰りした私は、天真らんまんを絵に描いたような、丸々とした少年だった。それなのに、目の前の孫の姿の哀れさに、思わず涙が吹き出したのであろう。
 長女の私の母と、二女の叔母の娘2人を同時に亡くした祖父母。もう少し早く帰って、あの時の状況を詳しく話してやるべきだった。祖父母の落ち込んだ姿を見て「申し訳なかった」と後悔しきりだった。
 母と叔母の実母は、母が7歳の時、亡くなっている。後入りの祖母は、祖父を大事にする優しい人だったので、母と叔母は、この祖母に一生懸命、孝養を尽くしていたことを後で知った。

 日暮れの早い初冬は、当然のように夕食も早い。夕食の早い理由がもう一つある。電気のないことだ。明かりと言えば、松の木の根の肥松(こえまつという)という油の多い部分を燃やして明かりにする。私はこの明かりの下で、5晩も6晩も母と叔母親子の死の前後のことを噛(か)んで含めるように話して聞かせた。
 食堂を営んでいた私の家は、戦争が激しくなるにつれて連日、大入り満員の盛況だった。物があれば売れる時代だった。食材は母の故郷と、父の故郷の西彼杵半島から供給していた。母は毎日コマのように働いていた。一食一円の定食を毎日百食は売っていた。2ー3年後に就職した私の初任給が月48円だった。まさにぬれ手に粟(あわ)のような商売だった。
 祖父母にとっては、そんな朗報ばかりが届いていた矢先の悲報だったのである。 「やっと親孝行ができると、あんなに喜んでいたのに」。祖父母は毎晩、声を上げて泣いた。私も泣いた。

 この町にはまだ電気がなかった。夜の長い初冬のこと、当然、早く床に就く。考えてみると、8月9日以降は大勢の人たちと一緒に寝ることが多かった。 長崎の下宿先でも友人の布団に一諸に寝た。一人きりになることはなかった。一人で寝ていると、自然に涙があふれた。楽しかった被爆前のことが、きのうのことのように鮮やかに脳裏に浮かぶ。奈落の底に一人落ち込んだ。どうしようもない寂しさが来る日も来る日心私の眠りを妨害した。50日余りの療養生活で、一生分の涙を流したような気がする。
 祖母は、原爆病で帰ってきた私に、それはそれは気を遣い、腫(は)れ物に触るように大事に大事にしてくれた。毎朝、磯に出て小さなカキを採り、自家製の濃いみそ汁を作ってくれた。白いご飯も腹いっぱい食べた。

 あれから60年。曲がりなりにもどうにか元気に生き延びてきた。それは例え短い時間であったにしろ、祖母の深い愛情に包まれたからである。感謝の言葉もない。正直、生きる力を失った時が何度かあった。父母と叔母親子の4人が、なぜ私だけを残したのか。ある時は恨み、ある時は後を頼むと勇気をもらい、これまで生かされたような気がする。

 地球上の武力紛争は絶えることなく続いている。暴力と憎しみの繰り返しでは永久に平和はない。戦争とは人が死ぬことなのだ。親、兄弟姉妹を戦争で亡くす悲惨な体験は私たちだけにしてほしい。
 この手記が、後世の人たちの平和と安定に少しでも役に立ってくれたらと、願っている。

  原爆忌死者に読経も花もなし
                      合掌