「核兵器の恐ろしさ」それを伝えるために

              島野 道次  広島 当時14歳

 あの日私は高等科2年生でした。学徒動員で新興ゴム工場で潜水艦の電池ソーを作っていました。
 8時の朝礼が終わった時、「ピカッ」と目もくらむような閃光が走り、轟音とともに猛烈な爆風で、気が付いたら工場の下敷きになっていました。外にはい出たら、人々は広場に集まっていましたが、誰かが「空襲だから江波に避難しよう」と言い、皆で向かいました。
 私は頭が4センチぐらい打ち切れて血が出ていましたが、タオルで血止めして皆に着いて行きかけましたが、その日家におじいさん一人しか居ないのを思い出し、家に引き返しました。家は倒れていたのでおじいさんは何処かと探していたら、両親と妹が帰ってきました。私たちは屋根に上り瓦を手ではがし「おじいさん、おじいさん」と何回も呼びましたが返事がありません。あたりを見回すと歩いている人は少なくなり、シャツはボロボロ、皮膚が焼け、皮がたれさがった大やけどをした人ばかりがトボトボと歩いて居ました。もう火が近くまでせまってきたので、探すのを諦めて私たちも江波に向かいました。途中黒いねばねばした雨が降ってきました。夜になると、昼、大やけどをして歩いていた人たちが、道の端で死んでいました。皮がはがれて、白い布を着けているような人でした。座ったまま死んでいる人もいました。
 私はおじいさん子でしたので、おじいさんの事が思い出されて、悲しくて悲しくてたまりませんでした。
 戦争とは、朝、元気で別れた人と夜には会う事が出来ないのです。
 観音町は被害が少ないと聞き、知り合いがいましたので訪ねて行きその夜は泊めてもらいました。
 広島市内は燃え続けていました。火が収まり私は市内に入りましたが、道はまだ熱く、木の電信柱は、短い鉛筆のように焼け、がらす瓶は丸くなっていました。
 我が家の焼け跡に行きました。兵隊さんが亡くなった人を、防火用水槽の上に乗せ焼いていました。私は「この家にいた人は」と聞きましたら「十二間道路に行けばわかります」。と言われたのでそこに行きました。そこには瓦に乗せた骨が道一杯、ずーっと並べてありました。係の人が「舟入本町203の3にいた人はこれです」。と骨を包んでくれました。ここでも道路の脇で、人と材木を重ねて焼いていました。私は焼け残ったミカンの缶詰や梅干しなどを食べ水も飲みました。今にして思えば恐ろしいことで、放射能を含んだ物を食べたりしたわけで、先生に訊くとストロンチウム90は体中からは抜けないといいます。黒い雨を浴び、焼け跡で物を食べた私ですが、今のところは元気でありがたいと思います。
 私は見てはいませんが、大田川の両岸に干潮時に、「子どもから老人まで折り重なった死体が、ぎっしり並んでいた」と言う人もいました。
 私たちは廿日市におばさんがいたので、焼け跡には4日しかいませんでしたので、無残なところを余り見ることなく済みました。
 父は2年後、母は5年後に亡くなりましたが、当時は原爆と関係があるかないかわかりませんでした。妹は小網町の電車の中で被爆しました。若い時から体が弱く、見た目はそうでもないですが、世にいわれるぶらぶら病でしょうか、今でも足がはれて困っています。
 私は今、小中学校に行き、証言活動をしています。若い人たちが、平和のためのバトンを受けてくれることをありがたいと願っています。