被爆60年を迎えるに当たって(被爆60周年記念誌寄稿文)

               小 出 康 雄 広島  当時20歳

 60年前の8月6日、私は東洋工業工具管理課で執務中、ピカーッとせん光が走りごう音が耳をつんざきました。爆風で隣接工場のスレート屋根の一部が崩れ落ちるのを窓越しに見て、反射的に机の下にもぐりました。2発目の爆弾を避けるため地下1階にある工具保管庫に駆け込みましたが、懸念した2発目の爆撃はなく待ち場に戻りました。そのときはてっきり工場が爆撃されたと思ったのです。 

 やがて広島が新型爆弾による大惨事、との情報が入り、急きょ救助隊が編成され、私もその一員として救助活動に当たることになりました。家屋解体作業に出動していた住田先輩の救出が私の役目でした。その捜索救出の過程で行く道、行く道の道端に、川面に、比治山山ろくに掘られた数々の防空ごうの中で、悲惨なこの世の生き地獄を見たのです。どす黒く焼けただれ苦悶のなか絶命される。それはこの世のものと思われない様で、生涯忘れられない惨状でした。息絶え絶えの女性から「兵隊さん、助けて!」と手を合わせられても何もしてあげられなかった。そのことが今も心を痛めます。住田先輩を見つけ出すのが私の役目と、捜索を続けました。幸いに西蟹屋町の紡績工場に設けられた救護所で見つかりました。やけどを負い苦痛に耐えておられる先輩を抱き起こし、背負って会社の付属病院治療室まで運びました。先輩の苦痛に満ちた息づかい、じっとりした体の重み。ただただ「がんばって、がんばって」と念じつつ足を踏みしめ歩みました。そのことが今も鮮明によみがえります。住田先輩は20日後に亡くなられました。

 思えば、5日始業から引き続き夜の防空監視要員として、本館屋上監視詰所に夜通しで嘉田先輩(父危篤の知らせで早朝、爆心地近くに帰宅し家族もろとも即死)と宿直し、6日執務中の8時15分原爆投下、救助活動に当たりました。7日、職務上から生死確認のためもあって嘉田先輩宅を訪れ、焼け跡に立ってめい福を祈り、涙を禁じ得ませんでした。帰路、爆心地に立ち、目にした廃虚と化した広島の街。今も目に焼き付いています。
 被爆60周年を迎えるに当たって、尊い人命を殺りくした悲惨な戦争の実態を知らない世代の人々に、平和の尊さ戦争の愚かさ、なかんずく数多くの尊い命を一瞬にして奪った原子爆弾による悲惨な被害の実相を知っていただきたいと思います。そしてニッポンは絶対に戦争はしない、核兵器をふたたび使わせてはならないとの決意のもと、私たちは世界に向けて戦争反対、核兵器廃絶を、声を大にして訴え続けるべきだと思っています。

 そのような思いを胸に、せめて私にできることはやっていこうと心に決め、毎年行われている核兵器廃絶を求める原水爆禁止国民平和大行進に参加しております。2004年の国民平和大行進は長崎を6月29日出発、広島到着8月4日の日程で行われました。
 2004年の福岡地区の行進は7月14日午前9時10分、JR周船寺駅を出発、国道202号線長垂海浜公園−JR姪浜駅−西区役所−202号線−早良区役所−旧西新岩田屋−城南線−福岡気象台−米領事館−黒門−明治通りー天神−水上公園到着午後5時40分。6時から歓迎集会。15日福岡市役所前8時半出発式、8時45分出発。明治通りー千鳥橋病院−大学通りー九大本学構内−小松門−3号線−香椎セピア通りー香椎きらら通りー香椎自労会館−香椎セピア通りー旧3号線ナフコ和白店−和白−新宮町役場−旧3号線−古賀市役所到着午後5時でした。この福岡地区の行進団に加わって2日間行進しました。
 炎天下の行進は高齢者にとって一口に言ってきついと言えますが、あのしゃく熱の業火に見舞われた広島を炎天下歩き回ったことを思えば、暑さも疲れもしのげます。80歳まで頑張って歩こうと心に決めて行進に参加しています。被爆60周年、私も80歳になります。