被 爆 体 験

                 西 山  進   長崎 当時17歳    

  開戦の翌年三菱長崎造船所へ

 私は、1942年、長崎にある三菱長崎造船所に少年工として就職しました。学科と実習を重ねて、造船技師になるというはずでした。 本来は芸術を志していたのですが、そんな自由は許されませんでした。夢と希望を抱いて、入った造船所はつらい辛い毎日でした。軍国主義の世の中ですから、「戦争を批判したり、戦争を嫌がったりすると」すぐ警察や憲兵に捕まるという時代です。上の者に絶対服従、密告は日常茶飯事。言論の自由も、行動の自由もありません。
 1942年、勝った勝ったの戦争も、その年の8月、アメリカ軍はオーストラリア近くのソロモン諸島ガナルカナル島に上陸し、物量にものを言わせる猛烈な反撃を開始しました。
 国内でも、食料が欠乏し、生活物資もなくなりました。「ほしがりません勝つまでは」「ぜいたくは敵だ」「鬼畜米英撃滅」「進め1億火の玉だ」という標語が街に氾濫していました。造船所でいちばんつらかったのは空腹でした。朝夕の食事で食堂に入ると、力の強いものや上級生が自分のどんぶりにご飯をてんこ盛りに押し付けて、下級生の私たちの食べる分を横取りしていました。
 1943年、戦況はサイパン島の玉砕。ミッドウェー海戦、連合艦隊の全滅へと敗戦へ転げ落ちるように進んでいきました。

  8月9日 原子爆弾
 1945年、8月9日がやってきました。朝から寮の裏山は蝉しぐれで「今日も暑つかね」と坂道を転げるように、工場に入りました。あれは11時頃でした。私は造船所の工場にいました。原爆の落ちたところから約3.5キロです。11時ごろでした。外で空を見ていた中村君が叫びました。「あっ落下傘が」そういったときです。ぴかっーと、それはもう写真のフラッシュが何千個と光ったような真っ白い光でした。私は日頃訓練していたように両目と両耳をおさえて、素早く作業台の下に倒れるように飛び込みました。「逃げろっ」そういう声が聞こえて、立ち上がると私は一目散に逃げました、「死に物狂い」とはあのことです。すでに広島の原子爆弾のことが長崎に伝わっていました。
 8月6日、広島14万人、8月9日長崎では7万人の人がその年に死にました。正確な数字は分かっていません。

  救援のため爆心地へ
 8月10日、工場に出勤すると、工長がひきつった顔で現れました。「これより、『班』を編成して三菱兵器製作所に救援に出発せよ」。1班6人の編成です。造船所の門を出て、稲佐山の裾を回って私は愕然としました。浦上の天主堂、長崎医科大学、見通せて、赤茶けた砂漠です。つい昨日まだあった町がないのです。おそろしい光景でした。
 稲佐橋を渡ると幸町です。その電車通りに両手で目を覆った黒こげの小さな死体が、5体転がっていました。子どもです。「かくれんぼでもしよったんばいね」とっさにそう思いました。しかしそれは間違っていました。原爆が落ちて、光った瞬間、子どもたちは目を覆ったのです。そのまま何千度という焦熱地獄にさらされて、黒こげの物体になったのです。こんなむごいことがあってもいいのでしょうか。「ひどかねぇ、ひどかねぇ」と言いながら歩いていましたが、大橋が近づくと、みんなしゃべらなくなりました。どんな残酷な死体を見ても、もう何も感じないようになっていたのです。頭の中が真っ白になってマヒしてしまったんです。人間は極限状態を見せられると感覚がマヒしてしまうのです。戦場で平気で人を殺す心理と同じかもしれません。恐ろしいことです。
ひどかったのは浦上川でした。水を求めた人たちが力尽きたのか、ピンク色の肌をさらして数珠つなぎに水の中に浮かんでいました。はらわたが飛び出した死体、白い目玉の飛び出した死体、浦上駅のそばでした。とたんのようなものをかぶせてありましたが、残り火のそばに親子と思われる遺体が寄り添ってありました。「むごい!」私の口から出た言葉です。
 たどり着いた大橋工場の鉄骨は飴のように曲がって熱線と、爆風で見るも無残に壊滅して、床には体中にガラスの破片が突き刺さった丸ぶくれの死体がそこここにばらまいたように転がっていました。救援隊はどうすることできません。数が多すぎて、ただ工場の中を徘徊しただけでした。
 旋盤の並んでいる工場に入りました。その時、私たちは重い工作機械の下敷きになっていた少女を発見しました。引き出そうとしましたが手の皮がずるっと剥けてびくともしません。
 8月10日の三菱兵器製作所の様子は今でもまぶたの裏に焼きついていてはなれません。8月15日正午、長い日本の戦争は終わりました。しかし1ヵ月ほどして「いったんは死の淵からのがれた人も、また、家族を探すため入市した人たちも、次々に髪が抜け、血を吐いて倒れていきました。今も隠し続けている低線量被曝です。当時は何も知らされてはいません。防護策もなく次々と被爆していたのです。

  戦争が終わって
 原爆は悪魔の兵器です。本当にあの戦争は無謀な戦争でした。誰が企て、だれがやったのでしょう。戦争被害は原爆だけではありません。アメリカでは原爆によって百万人のアメリカ兵の命が救われた。だからアメリカの原爆投下は正しかったと言っております。そうではありません。このような非人道的な残虐兵器を許すことはできません。先の国会で「集団的自衛権」が強行可決されました。再び日本を戦争する国にしようとする動きがあります。被爆者として絶対許すことはできません。これからの戦争は核戦争です。
 核兵器は人類と共存できない、悪魔の兵器です。一人でも多くの人に核兵器の恐ろしさを知ってもらうことによって、「再び被爆者を作ってはならない」という私たちの願いを実現することになるのです。戦争の恐ろしさ、核兵器の残虐性を伝え、再び日本が戦争する国にならないように。一人でも多くの人たちに広島、長崎のことを話してください。伝えてください。