被爆70年に思うこと 

                泉   勇  長崎 当時12歳

 今年(平成27年)から70年前の1945年(昭和20年)、私は長崎市桜馬場町に住み、勝山国民学校の6年生でした。
 2年生の時、1940年(昭和16年)に始まった大東亜戦争(太平洋戦争)も、アッツ島、サイパン島等での玉砕、硫黄島での激戦など旗色が悪くなっていました。
 長崎市も昭和20年7月29・31日と、三菱長崎造船所、香焼島の川南造船所などが、米軍の艦載機数十機による攻撃を受けたのです。
 昭和20年(1945年)8月9日の朝、空襲警報のサイレンが鳴り、家の地下防空壕に母と共に避難したが間もなく警戒警報は解除になったので、部屋に戻り、母は、新大工町に買い物に出かけ、私は本を読んでいました。
 それからどれくらい経ったでしょうか、なにか、ブーンという音が聞こえたような気がしました。と、その時 急にピカッとひかり、周囲が、家の中から外まで真黄色になりました。
 驚いた私は外に逃げ出したのですが、こんどは、ゴーっという、まるで、地球が壊れるのではと思った強烈な爆風に吹きつかれ、頭を抱えてかがみこみました。
 風がおさまり、顔を上げた私が見たのは、家の中の畳は吹きあがり、家具、建具も倒され、外は灰色の世界でした。
 何が起こったのかわからず。隣組の人たちと、近くの春(しゅん)徳寺(とくじ)(夫婦川(ふうふがわ)町)裏の森に逃げました。誰かが「これは広島に落とされた新型爆弾バイ!」と言っていましたが、そのうち、風に乗って「死の灰」とよばれる放射能塵を含んだ「黒い雨」が降り出しました。
 また 県庁方面が燃えるのが見え、みんな恐怖と不安で、夕方まで森の中にとどまっていました。近所の県立高女学生で、挺身隊(戦時の労働力確保のため未婚の女性に強制的にさせた勤労働奉仕)として三菱兵器工場に動員された人は、身体半分がやけどの状態で帰り着き、また爆心点付近の丘にある長崎医大生は帰らぬ人となりました。
 救護所として開設された、伊(い)良(ら)林(ばやし)国民学校(小学校)には負傷者や遺体が軍用車、消防団などで運ばれ、遺体は運動場に組まれた材木を燃やし、荼毘(火葬にするだけの葬儀)に付されました。
 あの時の何とも言えぬ臭いが、今でも忘れられません。
 当時、長崎市の人口は、約27万人だったと言われていますが、投下された一発の原爆による犠牲者は死者約7万4千人、放射能汚染、とくに体内の残留放射能(土壌や食品になどに残留した放射能物質が放射線を出す現象)の被害により、この年の12月までに、顔に紫斑(出血で現れる斑点)が出てきたり、髪の毛が抜け落ち、白血病などで亡くなった人が、約7万人と記録されています。
 終戦から70年経ち、悲惨な犠牲者を出し街を破壊された出来事は、歴史としてとらえられ、風化されようとしています。
 犠牲者の死を無駄にならないようにするためにも、被爆体験者の一人として、伝え続けなければならぬと思います。