下  総  不  受  不  施  派  隠  し  墓

下総不受不施派隠し墓

 いわゆる「元禄の法難」で日蓮宗不受不施派は禁制とされ、幕府制度の枠外に弾き出されるが、下総においても、多くの不受不施僧はその信仰の純粋性を堅持する為、出寺し、庵を拠点として活動を継続していった。
勿論、これらの出寺僧や庵を支えたのは信徒である農民層の存在があったからこそであるが、これら強固な信仰を持つ農民層は下総・上総・安房地方の村々に広く分布した。
 これら庵や出寺僧を支え続けた村々などには、一見して不受不施派法中のものとは分からない「隠し墓」が設けられ、現在に伝えられる。

旧栗源町及び多古町などの隠し墓

◎加川治良「房総禁制宗門史」(以下「宗門史」と表記)では「隠し墓」について次のように云う。(p,125〜)
                    ※以下「町史」とは「多古町史」である。

◇沢村  1ヶ所
 →沢日講上人万部石塔ほか(現在の沢「隠れ卵塔史跡」を指すと推定、
   以前は県道44号開通前日講万部石塔(「聖 −写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史−」所収)のような様相であった。
 あるいは
 →下総澤のかくし墓(「聖 −写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史−」所収)<未見>を指すのかも知れない。

◇西沢村 1ヶ所
 →西沢村は沢の東に位置する。nisisawa1.jpg
   沢文化財所在地図(「栗源町文化財資料目録」所収)の中央やや下に「西沢」とあり、そこに「かくれ卵塔」とある。
   おそらく何等かの墓塔があり、これが西沢村の隠れ墓の可能性が高いと思われる。<未見>

◇岩部村 1ヶ所
 →具体的には分からないが、次のような資料がある。
  ○「栗源町文化財資料目録」に次のような記述があり、参考に付す。
   墓石(一覧表)の項:
   ◇日賢卵塔:元禄十年■月十二日、高さ150cm:苅毛実相寺 とある。
    ※元禄十年の年紀からも、この日賢は常葉檀林開基の慈善院日賢で身池対論の中山日賢(寂静院)ではない。
    ※実相寺にて、日賢卵塔は実見していない、撮影写真を確認するも、なし。
     但し、まったく判読できない墓石や石塔も多くあり、その中にあるのかも知れない。
  ○光善院日運聖人墓:宝永元申霜月九日、173×37cm:向墓地 とある。
   ※光善院日運は不受不施僧で、岩部大乗寺15世という。
   ※向墓地とは全く不明。
    但し、向墓地には
    早川庄左衛門墓石:慶安2年(1649)、143×49(墓石の一覧表の項)
    応永33年天8月 日の題目板碑(70×50)、
    慶長9年7月7日の御題目板碑(77×75)があるという。(下総板碑の一覧表の項)

◇金原村 2ヶ所
 2ヶ所のうち、1ヵ所は金原新田跡の墓塔を指すと推定される。
   →金原新田庵跡<●下総金原・金原新田中>
    金原新田庵跡位置図     金原新田庵跡見上:GoogleMapから転載、熊切家邸宅附近から見上げ
    金原新田庵跡墓塔・文字入れ
 残る1ヶ所は明確ではないが、六万部塚(寂静院日賢経塚)を念頭にぴているのかも知れない。
   →六万部塚(寂静院日賢経塚)

◇坂村  1ヶ所(ガケ乱搭と云われる)
 ガケラントウ墓地の現況は次の通りである。
  ※ガケラントウ墓地・推測するに崖卵塔の意であろう。
  ※数年前?(2023年より)に撤去、坂村の平台墓地に新しく一区画を設け、改葬される。
   故にガケラントウ墓地は更地となり、山林となりつつある。 
   平台墓地に移設されたガケラントウ墓塔の現況は
                 →坂ガケラントウ墓地に記載する通りである。

◇玉造村 3ヶ所
 A地区7基:
 日講・日賢・日誉・昌柏院・本妙院・境智院日圓・実成院日饒で、常葉檀林の関係者である。
    なお、ここでいうA地区とは「町史」の「玉造内野御塚」に相当する。
  ところで、以上の7基の現況は次のとおりである。
   結論的にいえば、玉造前野墓地の墓塔を調査すると、
   A地区=玉造内野御塚にあった墓塔の多くは玉造前野墓地に改葬されていると推定される。
    (玉A1)日講 →安国院だとすれば、玉造前野墓地中05・安国院日講墓塔があり、
              おそらくはA地区から改葬されたものと推定される。
    (玉A2)日賢 →「町史」2)慈善院日賢に相当する。
              だとすれば、玉造前野墓地に前11・慈善院日賢墓があり、A地区から改葬されたものと推定される。
    (玉A3)日誉 →「町史」4)安立正国院日誉碑に相当する。
              だとすれば、玉造前野墓地に後08・安立正国院日誉墓塔があり、A地区から改葬されたものと推定。
    (玉A4)昌柏院 →佐倉藩主松下乗久内室・昌柏院殿と推測するも、
              「玉造内野御塚」や「玉造前野墓地」中で昌柏院の墓塔は未確認であり、この墓塔の所在は不明である。
    (玉A5)本妙院 →現地A地区(内野御塚)に現在も所在する。
              玉造内野「本妙院殿」碑中の本妙院殿墓碑本妙院殿墓碑・側面に該当する。
    (玉A6)境智院日圓
              →玉造前野墓地に中09・境智院日圓墓塔があり、A地区から改葬されたものと推定される。
    (玉A7)実成院日饒
              →玉造前野墓地に前10・實成院日饒墓塔があり、A地区から改葬されたものと推定される。
    →このA地区は「町史」でいう「玉造内野御塚」に該当することは既に述べたが、
    次に、「町史」の「玉造内野御塚」の記述に視点を変えて、述べる。
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         ○玉造内野御塚(おつか)  「多古町史」上巻1044〜
         墓域中央には古墳状の高さ4mほどの塚があり、四基の石碑が建てられる。
         1)明静院日浣碑:玉造談林五世能化(蓮華寺廿世)、 日誉の建立
           銘は「南無妙法蓮華経明静院日浣聖人 延宝4丙辰年(1678)七月九日
               庚申天日饒敬改■逆立主 安立正国院日誉■■」
            →「宗門史」に記載なし。
            →玉造前野墓地に後09・明静院日浣墓塔があり、A地区=内野御塚から改葬されたものと推定される。
         2)慈善院日賢(常葉檀林開祖)
          銘は「南無妙法蓮華経 日賢聖人 慈善院 元禄10丁丑年(1697)八月十二日化」
            →「宗門史」の日賢<(玉A2)日賢>に該当する。(上記を参照)
         3)日蓮大士五百遠忌報恩塔
          銘は「南無妙法蓮華経奉漸読妙経一千部 日蓮大士五百遠忌御報恩■題 一千部
              蓮光院日能口題八百卅部、天明元辛丑歳(1791)十月十三日■■■(削られた跡あり)」
            →「宗門史」に記載なし
            →玉造前野墓地に中08・日蓮五百遠忌塔があり、A地区=内野御塚から改葬されたものと推定される。
         4)安立正国院日誉碑:常葉檀林(刈毛)9世、佐倉昌柏寺3世
          銘は「南無妙法蓮華経 安立正国院日誉聖人位 開示悟入 伝之智見大 享保6年辛丑年(1721)十月二日化」
            →「宗門史」の日誉<(玉A3)日誉>に該当する。(上記を参照)
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 B地区:基数は不明
  カメロ様と呼ばれているが、玉造談林開祖日遵の「諌迷論」の転化という。
   →カメロ様(墓塔)はかっては玉造京松塚墓地(「町史」)にあったと推定される。
   →カメロ様墓所古写真:カメロ様墓碑(「聖−写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史−」)
    これはカメロ様が「京松塚墓地」にあった頃の写真と推定される。
   →現在、カメロ様は玉造前野墓地に改葬されたと思われ、
    玉造前野墓地の後06・日遵三百五十遠忌塔が該当すると思われる。
    なお、前野墓地にはもう1基日遵の墓塔(前07・談所開基祖日遵)が存在するが、
     この墓塔はどこから「移築」されたかは不明である。
 C地区:前野墓地72基:
  共同墓地の中の小さな築土の上に数十基が並び、これは弾圧の時集積したと云われている。
   →玉造前野墓地中の前野墓地<東法難者墓所>及び前野墓地<中法難者墓所>の墓塔群が該当すると思われる。

◇玉造蓮華寺:5基:
  日浣・2世長栄院・要中院日道がある。
   →玉造談林(蓮華寺)中を参照。
   →日浣五輪塔(墓碑)日浣五輪塔地輪部檀林2世長真院日栄墓碑要中院日道墓塔

◇玉造小玉村 2ヶ所
  →2ヶ所とは不明であるが、1ヶ所は小玉の妙見台墓地であろう。ここには多くの法難者の墓塔が見られる。

◇多古広沼 1ヶ所
  →不明
  →「多古町史」に次の要旨の記述がある。
   飯倉台遠忌碑【日樹・日奥・日述】(小谷墓地・広沼墓地にあると思われるも「町史」の記述が曖昧な為、確証なし)
   字小谷2021番地の墓地内にある。宝暦二年(1752)の建立で、日樹・日奥の百五十遠忌、日述百遠忌碑である。
  →近年の開発で、広沼墓地一体は区画整理が成され、土地が造成され、墓地そのものが消滅したようで、
    その移転先もはっきりせず(聞取り・町への問い合せ)、飯倉台遠忌碑の所在場所も不明である。

◇島村 2ヶ所

◇島正覚寺 近傍の墓碑数基が集められている。
 島正覚寺にも多くの墓塔(現代のものを入れて25基)がある。
 内7基は旧・島妙光寺及び中山初期中山門流に関するものである。
 さらに日奥のもの2基、前六聖人のもの1基、その他不受不施僧に関するもの数基が見られるも、
 これらは不受不施派再興後の者の可能性が高いと思われる。
 加川氏は「近傍の墓碑数基が集められている。」というが、銘が読めないものが10基近くあり、
 これらが「近傍の墓碑数基」であるのかも知れない。
  →下総島正覚寺

◇東台村 3ヶ所(24基)

◇林村  1ヶ所

◇岩山村 1ヶ所
  ※岩山村とは、武射郡岩山村→千代田村→芝山町に遷移した村であろう。

さらに、加川治良「房総禁制宗門史」では次の「かくし墓」が挙げられている。

◇苅毛実相寺歴代碑
   →下総刈毛檀林中に記載あり。

◇北中村妙観寺(※妙顯寺とあるが誤) 1基
   →中村谷津妙観寺中に記載あり。

◇北中村谷津日充墓碑:日充没後その遺体を生家まで運んで埋葬したと云われ、その棺の一部で作られた位牌が現存する。
   →中村遠寿院日充聖人墓所

◇東台の「白升墓」
佐倉昌柏寺が弾圧された時、昌柏寺の墓碑を上総岩山村の近くの白升村に移し更に東台村に移すと伝える。

◇身延山歴代妙乗院日唱の墓碑
 ※東台の墓地に所在とあるが、現在は玉造小玉の墓地にある。
 東台に別の日唱の墓碑があるか、小玉と東台とを取り違えたかのどちらかであろう。
 →南玉造小玉、妙見台中に日唱の墓碑はある。
  ※ただし、日唱は不受不施として公儀に処断(入牢・牢死)されるも、身延山歴代であり、まず不受不施派僧侶ではないだろう。
   身延山内の権力闘争で対立した西谷檀林から所謂「嵌められた」側面が大きいと思われる。

◇染井日増断食跡:恵光院日増・本養(要)院日養
 →染井中にあり。

◇佐倉昌柏寺3基:日慈・日誉・日英の3基

以上の他多数の墓碑が建立されていたものと思われる。


旧八日市場市(現匝瑳市)の隠し墓
 飯塚、安久山・金原六万部塚(上に掲載)・金原新田(上に掲載)・吉田御塚隠し墓などが知られる。

     ■下総飯塚史跡略図■:寺院・寺院跡・飯塚庵・隠し墓・題目塔

◇下総飯塚字松葉後共同墓地
  →下総飯塚字松葉後共同墓地<●下総飯塚中>   緯度・経度:35.73346530069348, 140.55840588118016

◇下総飯塚御手洗隠し墓・廃御手洗長徳寺墓地
  →下総飯塚御手洗隠し墓<●下総飯塚中>      緯度・経度:35.7288481710778, 140.5585033017178

◇安久山隠し墓
  →安久山隠し墓<●下総安久山中>
     安久山隠し墓位置図    緯度・経度:35.74753712177687, 140.51914786869898

◇吉田御塚隠し墓
  →吉田御塚隠し墓<●下総吉田中>
     吉田蒲野御塚位置図    緯度・経度:35.72862366351227, 140.50302362929565

◇下総飯塚御手洗長徳寺跡墓地(飯塚御手洗隠し墓)
  →下総飯塚御手洗長徳寺跡隠し墓:縁正院日實墓塔<●下総飯塚中>



2024/01/21作成:2024/02/24更新:ホームページ日本の塔婆日蓮上人の正系