1940年、本人は太平洋戦争の開戦が1年後になろうことも知らずに、鹿児島県の田舎に生をうけた。かすかに戦争の記憶もあるが、戦後の代用食の不味さがいまだに思い出される幼児期を経て、腕力に自信があってガキ大将と噂された小中学校から1959年の高校(受験勉強に明け暮れた?)卒業まで鹿児島で育ち、高校卒業と同時に杜の都仙台の国立
大学の工学部に入学のために郷里を後にした。
大学に入った途端に、
「自分は本気でこの大学に入りたかったのだろうか?」
「大学での4年間は、自分の一生で本当に必要な時間であろうか?」
などの雑念が頭の大部分を占拠するようになり、加えて当時発刊された「ノンフィクション全集」を読みふけっている内にボヘミヤン生活に憧れるようになり、入学1年後に親に相談することもせず独断で大学へ休学願いを提出して、何故か南米移住の準備に入る。その後紆余曲折があって、最終的には南米移住は実現せず大学に復学し、同大学の大学院(修士)を経て、1967年にようやく社会人になった。 |
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会社では、主に海外のプラント建設(設計・工事・プロジェクト・調達の各分野で)に関連した業務に従事し、苦手な英語に苦しめられながら仕事のためにインドを皮切りに東南アジア諸国、中近東諸国、ヨーロッパ諸国、オーストラリア他、合計で約30カ国(空港に立ち寄っただけの国を含めて)に出張し、工事部門の本部長時代には1年間の海外出張回数が10数回にもなるような激務(?)にも耐えて、自分自身で「気移りが激しい性格と思いながら良くぞ勤め上げた」と自らを誉めたい気持ちになりながらサラリーマン生活を全うした。
2000年春には、エンジニアリング会社の役員待遇から子会社の社長に転じ、その後,2006年7月末にその子会社の会長職を最後に、会社員生活は一応の終わり(顧問として週に1日程度の出勤は一時期の間は継続)を告げて、憧れの隠居生活が始まった。 |