ご隠居の自分史
5.まじめに勉学に取り組んだ高校時代


高校時代毎日眺めた桜島
<桜島桟橋近辺から>

甲南高校の正面玄関
<50年前と今も変わらず>

桜島フェリー上から眺めた
鹿児島市


(1) 自然環境に恵まれた志布志 高校でのんびりした生活

東串良中学校から、大学進学希望者の大半が進学していて先輩も多く、かつ大隈半島では有数の進学校であった
「鹿児島県立志布志高校へ 約10名が進学した。この10名の中には、のちに離島医療で大きな功績を残し「Dr.コトー診療所」というTVドラマのモデルにもなったといわれる瀬戸上君(後で詳述)、苦学したのち今では貴重な「小児科医」になった川津君、東京での会社員を退いた後に郷里に帰り町の「収入役」に就任した児玉君、兄弟と同じくらいに親しくしていた松留君(大学1年の時に北海道旅行を共にした仲でもある)、小柄ながら相撲も強かった萩原君、隠居の妻となったR子などなどが含まれていた。

志布志は、平成の大合併で志布志市となったが、昭和34年当時は宮崎県に近接する豊かでもなく、大きくもない町に過ぎなかった。昔は琉球貿易などで栄えた町らしいが、昭和30年頃に若い女の子の人身売買で話題となるなど貧しい町となっていたのかも知れない。高校は、この町の海岸近くの自然豊かで広大な敷地の中にあった。実家からは約20km位離れており、通学は自転車で約15km走り、列車に乗り換えて約15kmという状況にあった。この高校は、
生徒数が1学年200名、全校で約600名という小規模の高校で、あくせくせず、のんびりした雰囲気が漂っていた。学年に無関係のクラス別対抗戦であったバレーボール大会(中学時のまま、瀬戸上君とセッターとアタッカーの役割を担い2位に入賞)などを通じて、1年生から3年生まで知り合えるという素晴らしい人間関係があった。 入学後は、早速、バレーボール部からの誘いがあったが、「柔道部」に入部し、1年間は週の半分くらいは練習に通ったように記憶しているが、熱中するというほどの入れ込みではなかった。


(2) 大秀才の山本先輩を知る

隠居のこの高校への入学時の試験結果は、9科目の平均点が90点を超えていたという信じられないものであったことを転校時に知り(転校のために入手し転校先へ提出した書類に中に含まれていた成績表を見せてもらった)、些か驚かされたが、このことは転校時に多いに役立った。入学後も、2番目か、3番目に喰らいついてはいたが、自分の自慢話が恥ずかしくなるような大秀才を知って驚嘆した。その人は、隣町の大崎町の中学校から来た山本毅さんという人で、当時2年生ながら鹿児島県全体の統一試験で常にトップで、学内の試験では平均点が98点前後という驚くべき成績を収めていた。
東大の理学部に進み、トップで東大を卒業後は米国留学を経て東大の教授に就任するという道を進まれた。隠居の生涯で、彼に勝る逸材に出会えたことはない。彼は柔道部に所属し、相撲も好きだったので、勝負する機会もあり、この戦いには勝てたことが暫しの優越感に浸れる瞬間であった。


(3) 学生寮に入居・久保亘先生(社会党副委員長、外務大臣)との出会い

志布志高校の広大な敷地の一部を新しい町立の中学校の用地として提供する代替として、町によって2学期になると高校の学生寮が建設された。寮は、各部屋共に二人部屋で女子生徒4名、男子生徒6名を収容し、他に舎監用の部屋が一室準備されている極めて小さなものであった。隠居も、幼友達の松留君と一緒に入居することにした。斯様に小さな寮での生活は全く家族的な生活であった。そして、この寮で思わぬ出会い(?)があった。後に、高教組の専従から県会議員、参議院議員へと進み、最終的には社会党の副委員長、外務大臣などを歴任してから政界を離れた久保亘先生である。先生は、広島高等師範卒業して、当時は志布志高校で社会科の教師をしており未だ独身の身であったその先生が舎監として寮で生活を共にすることになったのだ。隠居は1年目が修了した時点で鹿児島市の高校へ転校することになったが、先生も同じ時期に高教組の専従になるために鹿児島市へ移動することになった。先生にまつわる色々なエピソードは別途紹介しよう。


(4) 食べすぎで胃を傷め、風邪をこじらせて肺炎に!

志布志高校での1年間は、何かに熱中することもなく万事無難な生活であった。ただ、成長期でしかもスポーツに熱中して食欲も旺盛であった中学校時代に拡大していた胃袋は容易に縮小せず、
運動量の減った高校でも中学時代と同じような量の食事(今では想像を絶するようなことであるが、ご飯は茶碗5杯程度、味噌汁は3杯程度、おかずもそれに比例した量を毎食)をとっているうちに胃を傷めるということになってしまった。寮生活を始めたころにも、寮の食事を取った後で食パンの3斤(スライスしてない丸ごと1個)をおやつとして食べていた記憶がある。
当時の笑い話に、胃を傷めて医者に行ったら、先生に
「暫くパン食にしなさい」
と忠告されて、空かさず
「食前ですか? 食後ですか?」
と問いかけてしまったというのがあったが、自分にとっては笑えない実話に近いものであった。

また、夏休み直前に事業自得で風邪をこじらせて
肺炎になり、夏休みの大半をペニシリン注射を射ちながら寝て過ごさざるをえないという情けない羽目になった。何とか、宮崎県の「都井」から来ていた友人の家に泊りがけで遊びにい行く予定だけは実現できたが、何ともさえない夏休みとなってしまった。同じように、高校3年の時にも夏に風邪で熱がある状況で夜の海水浴に出かけて、危うく肺炎にかかりそうになったこともあり、自分の健康管理は全くいい加減で、上手くなかったようだ。
  
  

(5) 突然の転校話、選抜クラス

志布志高校の2年生になった途端に転校話が持ち上がった。同じ年齢の遠縁の女性(中学時代に1年終了後に転校したことを記した彼女)が
県立「鶴丸高校」(旧制の「一中」と「一女」が一緒になった新制高校)へ転校するので、お前も転校してどうかという彼女の祖父(父が尊敬する遠い親類の一人であり、彼が町長選に立った時の選挙参謀が父であった関係)の助言が発端である。父も前向きであり、担任の向山先生に相談したら、「将来の進学を考えるとそのほうが良かろう」というアドバイスを頂いて、急遽、鶴丸高校への転校を決断した。<巷の一部では、「悪戯が過ぎていたたまれず転校したのでは?」との噂もあったやに聞いたが、決してそのような事実はない>

志布志高校入学時の試験結果(同じ県立高校で試験は共通)、1年次の成績表、および志布志高校の推薦状を携えて鶴丸高校を訪問し、10名程度の転校希望者達と一緒に「筆記試験」に臨んだ。結果は、「筆記試験」の結果以前に、入学時の成績が大きく効を奏したようで、直ちに転校の許可は出た。しかし、入学手続きに入った時点で、思わぬ事態が判明した。学年別の理科の授業が違ったのである。一年次の理科は、志布志高校では生物、鶴丸高校では化学という違いがあったのである。また、もう一つの県立の普通高校である
「甲南高校」(旧制の「ニ中」と「ニ女」が一緒になった新制高校)は志布志高校と同じであるということも判明した。先々の進学等のことも勘案すると、転校先を甲南高校へ変更したほうが良かろうということになり、鶴丸高校の先生方や事務方の人達の好意で、急遽、甲南高校への変更手続きをして頂いた。

甲南高校でも、試験はあったが、鶴丸高校と同様に好意的に受け入れてくれて、無事に転校が実現した。甲南高校は、1学年10クラス、約500名という規模(日本の子供の出生率の低下に伴い生徒数は徐々に減少し、平成17年には1学年40人クラス・8組まで減少している)で、卒業生の殆どが大学に進学し、17年の実績では新旧合わせて500名以上(そのうち半数は国立大学)が進学するという大きな高校である。また、10クラスのうちで2クラスは選抜クラスとして成績の上位者を集めた「特別クラス」であったが、いきなりその一つのクラスに編入させてくれたのは、入学時の試験結果によるところが大きかったのは間違いない。ただ、当人は自ら向学心に燃えて転校したという認識もなく、勉学の意欲が高まってきたという状況にもなかった上に、周囲に知人も競争相手もおらずのんびり出来るかなという気分に浸っていたように思う。転校後の最初の中間試験の結果は、全校で30位くらいという甲南高校でのスタートであった。この結果を早々と郡山先生から聞きつけてきた大叔父の「これでは九州大学も難しいぞ。一桁には入らないと!」というと激励(?)を契機として、運動部にも入っていないので勉強する時間は十分にあるという状況になっていたこともあって、殆どの時間を受験勉強に当てるという生活が始まり、成績はすぐさま改善されていった。

3年になるときに、同じ志布志高校から竹永君が転校してきて、同じクラスで勉強することとなった。彼とは、高校時代もその後でも、いい事も悪い事も一緒にやった仲で、今も家族ぐるみで親しく付き合う終生の友である。


(5) 二人の恩師

転校して最初にお世話になった「下宿」は、祖母の義妹の姉の嫁ぎ先で、連れ合い(取りあえず、大叔父と呼ぶことにしておこう)は教職を退いた後で鹿児島市の教育長を務めた経歴があり、現職の教師たちとの交流もあった。この大叔父が、初登校する前に先生の自宅まで押しかけて引き合わせてくれたのが
日本史を教えていた郡山先生であった。この先生は、体格的には大柄で、気性は温厚な紳士然とした好男児で、学校での接点は1年間の日本史の授業時間だけあったが、授業を離れて教えを受けたこともあって長く記憶に残った恩師の一人である。奇遇にも、この先生の息子(長男)さんは大学が隠居と一緒で、彼の大の親友の一人が隠居の田舎の親しい後輩という関係もあって、今も親しい付き合いが続いている。この高校でもう一人の恩師として卒業後も接点があったのは、2年、3年と担任を勤められた春田先生である。この先生は小柄ながら男性ホルモンがみなぎった様相で、頭髪は殆ど抜け落ちていたが胸毛はワイシャツの襟からはみ出すという鹿児島男児を代表するような男性であった。甲南高校時代に最後に世話になった下宿を紹介してもらったり、自宅(その下宿のすぐ近くに居住されていた)に呼ばれてご馳走になったりと私的にもお世話になった。


(6) 進路決定は暗中模索、願書は3大学へ、受験は1大学だけ

3年になると、選抜クラスは二つから一つに集約されて
男性が43名、女性が7名のクラスとなり、隠居もこのクラスに入ることが出来て、担任は春田先生が続けられることとなった。3年生になると、周囲にも影響されて、気持ちは「受験モード」そのものとなった。加えて、遠縁の1歳年上の「純ちゃん」(翌年に徳島大学の医学部へ入学し、今では広島県で一番大きな整形外科の大病院の理事長におさまっている)が大学入試に失敗して予備校に通うことになったのを契機に隠居の下宿部屋へ転がり込んできて、隣の机で猛烈な勢いで勉強する光景を目の当たりにすることとなり、彼にも刺激されて否応もなく机に向かわざるを得ない環境が整った。

その効果があって、学力のレベルは九州大学クラスの大学への入学は問題なかろうという域に到達していたが、
「どの大学で、何を学んで、どんな仕事に就くべきか」全く考えが収斂しなかった。周囲には農家か、教師しかいないような環境で育ってきたこと、親は本人の自主性優先の姿勢で特別のアドバイスも無かったこと、さらに自分の不勉強もあって、将来の自分の職業を具体的にイメージするということは容易なことではなかった。その貧相なは発想の中で、絵を描くことが好きなこと、中学時代に家の模型作りに熱中したことなどから、「建築家」か、または趣味の庭弄りを活かすために「造園家」という選択肢も 浮かんできた。

斯様な状況下で、願書受付の締切りのギリギリのところで、「千葉大学の造園学科」というのも頭をかすめたが、結果的には、受験日程が調整可能な「東北大学の工学部」、「大阪府立大学の工学部金属学科」、「横浜国立大学の工学部建築学科」の3箇所に願書を送った。特に、この中では、鹿児島から出来るだけ遠方にあることにも魅力を覚えていた「東北大学」が第一志望で、幼馴染の瀬戸上君も誘っての受験となった。ただ、心から強く志望した大学が無かったというのはどういうことであったろうか、今でも不思議に思う。結果的には、幸いにも最初の受験であった「東北大学」の試験で手ごたえを感じたので他の2箇所は受験することなく、「東北大学」への入学を決定した。


(7) 下宿は3箇所、泥棒を捕まえた話


鹿児島市での下宿生活は3箇所で経験した。最初の下宿先は、祖母の縁戚の家で、上の(5)で記載した。ここで約10ヶ月くらい、親戚の兄さん(祖母の甥で隠居より3歳年上)と同室で暮したが、おばさんが病に倒れて、城山の麓にあったこの家から「甲突川」の向こう側に位置する姪(長崎の実家を離れて、鹿児島の「純心女子高校」(その後、一時期、新体操で有名となった)の1年生であった)のと二人暮らしの家に引っ越した。襖を隔てた隣室には、私立高校の新米教師となったばかりの男性が下宿生として入居してきて4人での暮らしが始まった。

この2番目の下宿も静かな住宅地の中で恵まれた自然環境であったが、隣室の一つには一つ年下の若い女の子が生活していてその息遣いが感じられる(隠居も多感な年頃で意識過剰で、そう認識してしまったこと)、もう一つの隣室の住人は教師とはいえ社会人で生活のリズムがかなり違うこと、 などなどから落ち着いて勉強する状況になれなかった。この状況を、訪ねてきた兄が何となく 感じ取ったようで、兄に転居を勧められ、6ヶ月くらいで市電の「郡元」の駅から1,2分のところに転居した。

この下宿は、
担任の春田先生が紹介してくれたもので、先生の自宅の彼の部屋とは間に田んぼ(今では信じがたいが、当時の郡元は駅前が田んぼで下宿も田に囲まれた一軒家といった風情)を挟んでお互いの部屋が良く見えるという位置関係にあった。家主さんは、東京大学の薬学部を卒業後税関勤務をされていたが終戦後の混乱期に鹿児島に帰り薬局を開業されていた。間もなく転居してきた「純ちゃん」と一緒の部屋で、卒業までここで過ごすことになった。

この下宿では面白い経験もした。隠居が泥棒を捕まえたのだ!それは、大家さん一家も、同居の純ちゃんも留守で、自分が一人留守番状況にあった小雨の降る日に起こった出来事であった。部屋で一人居眠りの最中に台所で何やら物音がするのには気づいていたが、「誰かが帰ってきたのだろう」ということで指して気にもせずにいたら、突然に「泥棒!」という女性の叫ぶ声。飛び起きてみると、下宿のおばさんと台所でご飯が漁っていた泥棒が鉢合わせした場面に出くわした。逃げる泥棒を2〜300メートル位一人で追いかけて捕捉し、警察が来るまで電柱に縛り付けて待った。この一件、「さすがは、相撲や柔道で鍛えた体力がものを言った!」、「あんなに台所で飯を食っていたのに気づかないなんて!」、「一人で素手で立ち向かうなんて、無謀だ!」など、いろんなコメントを頂くことになったが、暫くは近所で語り草になったことは間違いない。


(8) 息抜きは無許可の映画鑑賞、些かの不良行為(飲酒)など

高校時代の3年間は、品行方正で勉学一辺倒という訳でもない。親の監視下にない下宿生という気楽さもあって、後に役人になり民間への天下りも経験した竹永君らと適度に、授業をサボって学校が許可していない
映画をみにいったり、運動会の終った夜などは「甲突川」の川べりで焼酎を飲んだりと些かの不良行為もあったことは白状したい。その面では、悔いのない高校生活を送れたという実感はある。

また、2回の登山も息抜きの一環であったかもしれない。3年生の夏に、竹永君と嫌がる磯村君を誘って、無謀にも、頻繁に小噴火を繰り返しているために
「登山禁止」となっていた桜島に登ったのは如何なる心理状態に基づいていたのか、自分でも全く理解していない。頂上に到達した時にも、ごく小さな噴火があり、慌てて逃げ回ったが、怪我をすることも無く下山できたのは幸運というほかは言葉がない。それに比較して、もう一つの登山、冬の霧島の「高千穂峰」は寒さにも震えたが、頂上近辺の一面を覆っていた霧氷の美しさを初体験できた楽しいものであった。

志布志高校では、バレーボール部からの誘いもあり、甲南高校では相撲部の誘いがあったが、どちらも入部することなく、高校の3年間は志布志高校の柔道部だけで、他の運動部には所属することなく過ぎ去ってしまった。勉強に集中するためにというよりも、中学時代には立派に通用した力も高校では大したものではないということを自ら悟っていたからであろう。


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