隠居の徒然草
(1.仲間、友、交友関連)



ゴルフの仲間 「寛大な心とコミュニケーション」の話
80歳大空へ飽くなき挑戦! 73歳いまだ現役の話


ゴルフの仲間

 幼馴染、学友、職場の仲間等など、今でも交友のある知人・友人は数知れずいるが、ゴルフが縁で付合いが続いている仲間の数も多い。ただ、習志野CCのメンバーであった頃まではゴルフ仲間は職場の仲間である人々が殆どであった。状況が大きく変わったのは真名CCのメンバーになってからである。真名CCのメンバーになった当初は、このコースのメンバーには知人は居らず、プレイ仲間を得るために先ずとった手段が「千葉真名会」に入会することであった。この会に積極的に参加したお陰で、瞬く間に多くのプレイ仲間を得ることが出来た。

 その後、真名CCではその輪は大きく広がり、今では「球道会」、「真名ニ木会」、「真名マスター会」などに名を連ねることになり、真名での年間約100回のプレイ仲間は十分に確保されている。また、会社のOBで構成されている「新桜会」、昔の七帝大の柔道仲間が集まった「六和会」などゴルフのための「集まり」は数多い。


 各会の概要を整理しておこう。
1.球道会
長年HC1を維持してきた1928年生まれ(隠居と丁度1回り違い)の会長を中心に、平均年齢約69歳の約50人のメンバー(全員男性で60歳以上が中心。40歳代、50歳代も含まれる)で構成され、月に1回の日曜日の例会で技術の向上に努めている。

2.千葉真名会
真名のメンバーで千葉市方面に居住(厳格な条件ではない)している人達(メンバー数は変動しており現在は約60人位か)で構成。年に6回くらいの競技のほか、他の地区の真名会との対抗戦(合同真名会)を年に2回ほど実施している。会員の年齢構成は幅広く、かつ女性も多い。

3.真名ニ木会
毎月第2木曜日にプレイすることを目的に発足した。コースの賛助会員も参加可能で、平日プレイながら若手も少しいて会員数は約80人(女性2、3割)程度と思うが、例会には毎月50〜60人の参加して盛会である。「一木会」と称して、第1木曜日に3組位で練習ラウンドを実施するのも通例となっている。

4.真名マスター会
2007年4月に発足した新しい会で、会員は60歳以上が条件で80人余。毎月第3水曜日に競技会を開催する。隠居も、発起人で幹事として関与している。他の会のメンバーと重複する人達も多く、また夫婦で参加しているメンバーも多い。

5.新桜会
隠居が勤務したTECのゴルフ好きのOB一部が参画して発足したもので、年に4回(3ヶ月に1回)競技を行なう。メンバーは約25人、毎回4、5組でいろいろなコースを選んでプレイする。

6.六和会
昔、柔道の対抗戦で競った旧七帝の卒業生で、東京・千葉の近辺に居住する同年代のメンバー6人(既に現役を退いた九大、京大、東北大が主)が毎月平日に1回のゴルフを楽しんでいる会。年末には忘年会を兼ねて泊り込み(臨時参加者も歓迎)のゴルフとなる。

7.TEC千葉国会
TECの社員、OBで千葉国際CCのメンバーで構成する会。会員数は40名弱。隠居が1991年に千葉国際のメンバーになってから誘ってメンバーとなった人達が殆どである。コンペは中断しており、1,2組でのプレイが主。時に参加を呼びかけられるが、他の予約が早くてなかなか参加出来ない。何とかしなければ!

他に、定例的なコンペが各々年に2回ほど開催されるのが、「TEC KG会」(TECの関連会社の親睦会)、千葉銀行の「ひまわり会」、昔役員を務めた子会社の懇親コンペ、同じく現役時代に担当した部署のOBを含めた懇親コンペなど、ゴルフに関しては何ともお付合いが良いのである。

斯様な状況で、年間ゴルフ予定の大半は年初に決まってしまうの実態である。仕事を離れたゴルフ仲間は貴重な存在であり、自分のゴルフ他に影響を与えた個々人の話については別途記すことにしよう。
               
 <2007年5月2日 記>

「寛大な心と
コミュニケーション」の話

 1997年の春頃だったろうか、今は定かでない。当時、建設部門の部門長としての立場で、大型発電プロジェクトのインドネシアの建設現場を一ヶ月に一度位の頻度で訪問していた頃の話である。その日は、ゴルフに出かけたので、日曜日の朝だったと思うが、インドネシアの第二都市、スラバヤのホテルでNHKの国際放送番組に目をやっていた時のことである。

 「著名なイタリア人のオペラ歌手?」らしき初老の紳士(この分野に知識の少ない満氏は名前も失念した)が、日本公演の機会にNHKのスタジオに呼ばれ、インタビューを受けている場面が報じられていた。番組も終わりに近付き、話題が紳士の近況に及んだ時の話であった。

 「ある時まで、紆余曲折の波瀾に富んだ、また時には孤独な人生であったように思うが、齢を重ねたある時から、寛大な心を持って人に接することと、何があっても良く話し合い常に密なコミュニケーションを保つように心がけ、実践するようになってから、友達の輪が大きく広がった。今は、友達の輪の中にあって、自分が如何に助けられ励まされているか、計り知れない宝を得た気持ちである。自分の意に添わないからとか、こちらが求める技量・才能を持ち合わせていないからとか、生活信条が全く違うからという理由で、他人を批判したり排除したりするのではなく、その人をそのまま受け入れる広い心を持って、また何事もフランクに心を開いて、納得の行くまで話し合うことを心がけ、実践するようになってから、自分の人生は一変した。今はこの上もない幸せに浸っている。人生においては、“寛大な心を持ち続けることと、常にコミュニケーションを怠らないこと”が、最も大切な事ではないでしょうか 」という内容の話であったと記憶している。

 この話を聞いて、おおいに反省させられた。目から鱗が取れたと言えば大袈裟だが、心の中を多少の衝撃が走った感じがした。当時、仕事が順調に進まず、自分の前任者は苦しい立場に立たされていた最中で、自分もその打開策を話し合うために、現場を訪問した帰路であった。前日も、状況を正しく理解しないで苦情だけ繰り返す客先、責任転嫁に走り個人的な批判・中傷までやりだす商社に憤りを禁じ得ず、客先・商社と激しい遣り取りをしたばかりであった。齢50台の半ばを悠にすぎた二人が、翌日まで醒めない興奮の中にあったが、冷静に立ち戻って見れば、「相手の言い分に耳を十分傾けて、お互いに納得するまで話し合う」ことを努力しただろうか、思い込みで前進のない会話・対応を、何回も繰り返して来ただけのことではないか、と深く反省されられた。<余談ながら、その後、この反省を踏まえて当方の対応が変化して、客・商社との関係が大きく改善されたかは些か疑問> 

 自分にとっては、印象的な瞬間であったことは間違い無く、この後で部下の結婚式に招待された折、主賓の挨拶の中で、この話を二回も同じく引用している。「結婚生活のなかでも、“相手に対する労りの心と何時も会話の途切れない関係”が如何に大切かを教えてくれる話であった」という例えとして。また、「齢60を身近にして、反省を余儀なくされた愚かな男のボヤキ」の話として。  
          
<1999年2月19日>

 類似の話を、また目にした。

 「人の輪と和。人生でこれほど楽しく、必要なものはない。それを教えてくれたのは“**会”である」と言う書き出しで、藤田 譲氏(朝日生命保険社長)が、交遊録を綴っている(日経新聞)。

 20年ほど前に、14人のメンバーで始めた大変結束の固い会で、メンバー同士が知人・友人を紹介し合い、交流の輪を広げているという。お互いに切磋琢磨し、助け合っている様子が簡潔に綴られており、最後は、「心を動かし、それを行動へと駆り立てる人の和と、無限の力を生み出す人の輪を広げてくれたメンバーに感謝している」と締め括っている。
            
<1999年2月23日 記>

80歳大空へ飽くなき挑戦!

 1999年1月1日付け日経新聞の文化欄に、「80歳大空へ飽くなき挑戦(ダイビングに飛行に、100歳現役をめざす)」というタイトルで、早瀬 市郎氏の手記を紹介している。氏は、70歳で初めてスカイダイビングを経験し、今はパラグライダー、小型飛行機などのスカイスポーツに熱中しているという。

 “60歳で農協の組合長を退職した時には、血圧は170、糖尿病に腰痛やひざの痛みも抱えて「寝たきり老人」の可能性も示唆されたが、早朝ジョギングで体力を回復した。「世の中には退職し肩書きのない世界に入ると、駄目になる人間と光る人間がいる。私は後者になりたい」と一念発起した。現在の日課は、朝350分に起床し、腕立て伏せ200回、逆立ち1分以上、昼間はローラースケートで足腰をきたえる。頭の体操に、NHKのラジオ英会話を1時間聴き、新聞をじっくり読んで、読書も月に20冊はいろいろな本を読む。体と頭はともに鍛えないと衰える。自分で遣りたいことが有り過ぎるので、当分は子供たちと一緒に住もうとは思わない。私の人生観では、人は20歳までが幼稚園、60歳までが予備校、60歳過ぎてからが人生の本校だ。第三の人生を心ゆくまで楽しみたい”

 大方、このような内容で、スカイダイビングも100歳まで飛ぶ心意気だという。普段もパソコンで会報を纏めたり、各種の会合の世話役を務めたりで大忙しの毎日であるとのことだが、ゆっくりと長くをモットーにしているともいう。

 さて、あまりにも平均的な老人の生活スタイルから離れた話で、何処まで真似て出来るだろうか、自分は考えても実感が未だ湧かない。ただ、「退職して肩書きが無くなっても、ますます光る人間でいたい」ことだけは事実である。
          
<1999年1月 記>

73歳いまだ現役の話

 「日露戦争で、東郷平八郎が率いる少数の日本海軍が、ロシア海軍のバルチック大艦隊を日本海上で見事に撃沈し、戦争を勝利に導いた」という話は、歴史書を読むまでも無く、自分の世代では口伝えに語り継がれていて、知らない人はいない。

 この日本海軍の勝利は、バルチック艦隊の北上を最初に発見して、日本軍に通報した「沖縄の漁師」の功績によるところが大きいとのことである。この漁師は、太平洋戦争当時も95歳という高齢ながら、頗る元気で沖縄で暮していたという。

 太平洋戦争当時、日本海軍の若手将校であったI氏は、将校仲間とこの漁師を表敬訪問し、かっての漁師の大功績に最大の賛辞を表したあと、

「ところで、長寿の秘訣は?」問い掛けたという。

「そうさなー。酒も、煙草も、女も長くほどほどに楽しむことかな。酒も煙草もまだ現役じゃ。ただ、女は早めに止めるほうがええ」

「早めというと、お幾つ位がいいですか?」

「そうさなー、わしの場合はもう10年ほど前には止めたわ」

と、いう会話があったこのことである。

 この話を、至極真剣な顔でしてくれたI氏は、日本を代表する大手重電機メーカーの設計屋あがりで、73歳の現在も自営しているコンサルタント会社で、現役の技術コンサルタントとして、海外を頻繁に飛び回っており、この話もインドネシアの東ジャワの田舎町の宿舎で聞いたものである。

 I氏は、「漁師をいたく尊敬しており、漁師の話はこの上も無く納得出来る」という雰囲気を漂わせていたし、I氏が漁師の話をわが身に照らして、自らに納得している風を、すぐさま感じ取ることが出来た。

Iさん、漁師に習うとしたら、まだ2年は現役を保てますネ。楽しみですネ」

「いや、もうとっくに枯れ果ててしまいましたワ」

会話の間も、I氏の目が異様に輝いていたのを、鮮明に記憶している。

 この会話があった後、凡そ1年余が経過した頃、“バイアグラ”という性的不全者の治療薬がアメリカで発売され、治療薬としてより高齢者向けの勢力増強剤として爆発的な話題を呼んだ。日本でも、輸入許可が出る前から闇ルートで売買が始まるほどの人気を呼んで、慌てた政府が異例の速さで輸入許可を出したという代物である。(心臓病患者には間違うと死に至る副作用がある事例が多く、医者の処方箋付きで性的不全者と診断された患者のみという条件付き)

 輸入許可の時期と前後して、誰言うとも無く「I氏は、すでに“バイアグラ”を試用しているらしい」との風評が届いた。 
           <1999年5月 記>



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