ご隠居の自分史
(1)

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(1) 同学年は二つの小学校から集まった300名余

隠居が通った「東串良中学校」は、柏原小学校と ほぼ同規模の池之原小学校との二校が一緒になって運営され、1学年は1クラス51,2名の生徒数からなる6クラスで編成された300名余、全校生徒数が約900名弱(その後、少子化の影響で2000年当時には200名余程度まで減っているようである)という、当時の近隣の中学校としては中規模程度の学校であった。家から1.5Km程度の距離にあった小学校と違って、家からはおおよそ4Km位の遠距離通学(1年間は徒歩通学、2年間は自転車通学)となった。後になって知ったことであったが、入学前に実施された共通試験の成績を参考にしてクラス編成がなされて、隠居は、池之原小学校から来た女子生徒(たまたま隠居の遠縁に当る人、2年に進学時に教師であった父親の転勤でこの中学校から転出して行った)についで2位の成績で入学したようであった。

1年生のクラス担任は、当時、
中学校の卓球関係で名の知れた「はかま姿」の凛々しい中年の女性教師(木佐貫先生)であった。隠居は、小学校入学以来、5年生のときを除いて総て女性教師のクラスに在籍することとなった。これを伝え聞いた祖母の「義理の妹」(大叔父の戦死後に教師に復職していた)に、「これで○○チャン(当然、隠居の愛称)の悪戯癖は暫く続くことになるか!」と言われることとなったのを、今での記憶している。隠居の「悪戯癖、悪ガキ振り」は、男の先生に強く指導・押さえ込みをされなかったことに起因しているという意味合いのことであったようだ。これが、当を得た指摘であったかどうかは本人には当時も判別し難いことであった。

小学校のところで記したように喧嘩の上下関係で相手の呼び方が変わっていて気性も激しい気風にあった柏原小学校と、気性も幾分温和で相手の呼び方も喧嘩の上下関係に無関係であった池之原小学校と、かなり校風の違う二校が一つになったが、大した摩擦・いさかいもなく無難な中学校生活がスタートできた。小学校時代と違って、年齢的なことから精神面での成長もあって、生徒間の上下関係も暗黙のうちに認め合ったような雰囲気が出来上がっていった。


(2) 競争心を煽る教育方針
絵画は徐々に描くこともなくなる

学年全体の共通の中間試験、期末試験ともに、
その成績を1位から最下位までの全部の順位を校舎の廊下の壁に張り出すという、今の教育方式では考えられないようなことを実施して、お互いの競争心を煽って勉強させるということが行われていた。その後、上位50人位を掲示するという方向に変更されたが、成績の張り出しは3年間継続した。隠居は、1年遅れの入学という年齢的な優位性あってか、また殆どの生徒が特別に勉強するということもなかったこともあって、何時も1〜3位に位置するという幸運に恵まれていた。当時は、多くの生徒が試験結果に拘泥することもなく、当然ながら最下位の子も苛めに会うといこともなく、成績には無関係な仲間関係が保たれていたように記憶している。

水彩画は、
小学校に引き続いて1年生の当時は描く機会があったが、徐々に少なくなっていった。1年のときに鉄道の鉄橋を題材に描いて、「西日本新聞」(?)の展覧会で入賞したのを最後に、絵での入賞の記憶はない。先に紹介したように 兄(油絵)と弟(水彩画)は、仕事の第一線を引いた後に、意欲的に絵に取り組んでおり、個展を開いたり、各種の美術展に応募して入賞したりと活躍している。隠居は、テキストや画材の購入も準備万端なれども、ゴルフに時間をとられすぎてか?、なかなか本格的に手がついていない。


(3) 2年生でクラス再編成、恩師との出会い

2年生になるときに、1年時の成績をベースにクラスの再編成が実施され、ようやく学年主任の男性教師の担任のクラスに入ることになった。この担任教師(岡留先生)は、1年時にも学年主任の立場にあり、隠居と2,3名の友人が彫刻刀で学習机を傷つけた(悪戯描きした)時に、担任の女性教師に代わって我々を職員室に呼び出し厳しく叱責した先生であった。このことも影響して、この厳しい先生の下におかれたのかという思いが強かったが、
このクラス編成と担任教師は卒業まで続くことになり、長いお付き合いの始まりとなった。先生には教えられることが多く、卒業後も、先生が他界されるまで親しくお付き合いさせていただく関係となった。


(4) 何故か生徒会長へ、副会長は後に妻となる

3年生になると生徒会長の選挙が華々しく行われた。6クラスの各々から男子1名が会長選へ、女子1名が副会長選へ参戦するという形式で行われた。
講堂に900名弱の全校生徒を集めて「立会演説会」を行なったうえで選挙という些か大袈裟なものであった。選挙結果は、はからずも、1組代表として立候補した小生が圧勝、副会長には同じく1組代表として立った女性が選ばれることとなった。当時の生徒会長、副会長は運動会での賞品授与とか、その他各種の学内行事に関与することが多くて、席を並べて行動することが多々あったのだが、この女性が、のちに小生の妻となるとは当時は思いもしなかった。彼女との因縁はこの時に始まったということだ。


(5) バレーボール、相撲、バスケットボールで学校の代表へ

中学校へ入学した当初の身長は144cm程度であったが、
2年後の3年生になった初めのころには20cm以上も伸びて165cmとなり、当時のレベルでは平均を大きく上回るまで成長していた。そのために体力的にも優位で、バレーボール、相撲、バスケットボール、柔道などの運動部での活躍もそこそこに出来た。中でも、列記した前側の三つについては学校を代表する選手として対抗戦へも出場し、相撲ではそこそこの成績も残せた。また、バレーボールと相撲に対する興味は今でも持続している。

・ バレーボール
 3年になる直前にチーム編成して、放課後に毎日猛練習。
 チーム編成直後は郡内の他校との対抗戦でも大方敗戦していたが、
 郡大会(県大会予選)の直前には常勝の状況にまで成長していた。
 しかし、
速成チームの悲しさか、1学期に行なわれた郡大会の1回線では
 勝利した相手が敗者復活戦で勝ち上がってきて、再選では力及ばず、
 そのチームに優勝を浚われ
県大会への出場はならず

・ 相撲
 柏原伝統の大相撲開催や、この中学校の4年先輩で大相撲に入門し、
 「序3段」で廃業した人がいるなど相撲が盛んな地方であり、中学校でも人気の
 スポーツの一つであった。バレーボール敗退後、急遽、補強選手として
 チームに参加。夏休み中も学校に泊り込みの合宿をはって、上記の先輩 
 (大相撲経験者)の指導を受けて猛練習し、副将として各試合に臨んだ。。
 夏休み中の後半に行なわれた県大会では、準決勝戦で「優勝の甲東中学」に
 敗退したが、
3位決定戦は勝利して3位に入賞。
 大会が終った後も、幾人かの友人と放課後の2時間位は必ず相撲に興じてから
 帰路に着くという生活が中学校の卒業まで続くことになる。

・ バスケットボール
 相撲が終わったら、年末に予定のバスケットボールの郡大会に向けて、
 またもや補強選手としてチームに加わることになった。相変わらず練習に励んだが、
 何故か、この競技には十分に馴染めない部分があって、上手くもなれなかったように
 思う。試合も郡大会までで県大会への道は遠いものであった。
 

6) 孟宗竹で「家の模型造り」に励んだ夏休み、不眠症の原因

2年生の夏休み前だったと記憶しているが、弟を連れて訪れた鹿屋市のある店先で偶然に目にした「家の模型」が強く印象に残ったのがきっかけで、「家の模型」を孟宗竹で作ってみようという思いが強まった。竹細工は、「メジロを飼う為の鳥かご」造りで何回も経験(手には、ナイフによる幼いころからの傷の跡が今でも残る)しており、元来、工作が嫌いではないということもあって、その「思い」を止めることは出来ないほどに強まっていった。
2年生時の夏休みの全時間を費やして、しかも夜の寝る時間も惜しんで熱中することとなってしまった。床についても、あれこれ考えて寝付かれなくなり、終には「不眠症」(この症状は1年間以上に亘って続いた)となる原因まで作ってしまったが、作品の出来栄えは自分でも十分に満足するものであった。これを夏休み明けに学校に持ち込んだときの担任教師も驚きの言葉は今も鮮明に思い出される。
「全部、自分ひとりで作ったのか?」
「これに注いだと同じだけの情熱を勉強に向ければ大秀才になれるぞ!」
この作品は、教師の要請もあり、学校に寄付して学内に展示されることとなったものの、1年後の台風で校舎が被害を受けた折に破損し、廃棄されることになってしまった。


(7) 受験勉強は短期決戦


既に上記したように、「文武」のうちの「武」の方への熱中度が高く、3年生になっても種々のスポーツの部活動に明け暮れたことや、昼間に家に上がることはない生活が当たり前の環境にいたので、高校受験に向けての勉強は年末になってから始まった。試験結果は、学内では常に上位であったし、入学を予定していた高校の入試に失敗することなど想像も出来なかったので受験勉強ということに意識は向かなかった。何時まで経っても受験勉強する気配のない隠居の様子をみかねた担任教師が、自分に対してだけでなく父親に対しても、友人の勉強振りを引き合いに出して忠告したのが契機となった。受験前の1ヶ月間は意欲も高まり、家族が床についた後も「掘り炬燵」に入って夜半まで頑張った。その結果、高校にはかなり良い成績で入学できたようだ。


(8) その他思い出すこと盛会の同窓会

魚釣りや小鳥獲りなどの遊びは、小学校時代に比してかなり少なくなった。他に遊びが増えてきたということであろうと思うが、それが何であったかは鮮明には思い起こせない。学業面では、スポーツ以外でも学校を代表して参加した弁論大会(郡の大会)で最優秀賞を貰った記憶もあり、それなりの活躍をしていたようだ。ただ、小学校時代からの各賞の賞状などの保管状況は悪く、今ではほどんど行方不明である。生徒会長も勤めたが、学業を離れると、周囲に対して「まじめな生徒」という印象を与えられなかったようだ。父親のバイク(250ccクラス)を無免許で乗り回したり、また体力的にも優位にあったこともあり、
周囲からは「ガキ大将」のイメージは消えていなかったことは後になって知るところとなった。

中学校卒業後35年周年の時に、約120名(卒業時約300名)の参加者を得て記念の同窓会を開催して以来、その5年後、更に3年後、そして今では1年おきに開催される同窓会には約80名の参加があり、旧交を温めている。当時の卒業生の半数程度は、高校へ進学することもなく集団就職で関西地区へ出て行って、その地に定住し活躍しており、今はこれらの友人達が同窓会参加者の一大勢力となっているのが何とも頼もしい。


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