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(1) TMECは何を目指したか?
隠居が社長に就任する1年前に設立されたTMECは、本体の「再建策の一環としての人員削減」(大手エンジニアリング専業3社とも同じような状況にあった)と「技術力の高い中高年層を逸散させないでプールしておく」ことによって、本体での活用を図ることとエンジニアリングの外販をも実施しようと言う狙いをもって設立されたものであった。しかし、設立から1年が経過した時点でも
、ほぼ100%の社員がTEC本体内部で社員と変わらないような業務に専念しており、外販を積極的に推進しようといういう動きは全く感じられない状況にあった。
隠居の社長としての最初の重要な仕事は、「TEC本体は本気で外販を目指す気があるのか?」、「本当にその気があるとするならば、次期社長含みで若手の有能な人材を投入して、そのことを内外に知らしめるべきではないか?」という二つの疑問点・要望について、TECの経営トップの本心を確認することであった。確認結果は、肯定的・前向きなものであり、早速その方針に向かって、経営計画書の作成、パンフレットの作成を含めた営業活動の開始・展開、将来を見据えた後継者の専任などの具体的な作業に入り、短期期間にある程度の目処をつけて具体的な受注も決定したころには、環境が変わりつつあった。
TECに限らず同業3社共に、人員削減が完了してからさほど時を経ないうちに仕事量が回復する方向に転じて、経験ある技術者を手放せない状況になってきた。この傾向はその後も更に進んで、幸運にも、今あるようなエンジニアリング業界の好況へと繋がって行った。したがって、TMECのエンジニアリングの外販など夢と化してしまったのだ。当然ながら、人材をプールして、その100%を本体へ派遣するような会社を存続させる必要性もなくなって、TMECは3年足らずの命を2002年3月末には閉じることとなる。
このような環境の中でも趣味のゴルフは相変わらずのペース(というよりも、前以上にという言葉が適当か?)で続いていて、2001年の5月(2位)月例競技から3ヶ月間好調が続いた結果、7月にはグロス77(ネット67)のスコアーで優勝、ついに61歳にしてシングル ハンディキャップを手にした。
(2) PIMの経営主体の変更
TMECの1年後を予測してPIMとの二股を命じられたとは思わないが、結果としては2002年4月からは2001年6月に就任していたPIMの社長に専念することとなった。ただ、当時は国内子会社の幾つかを統廃合しようと言う検討が進められていて、PIMもその候補の一つであった。しかしながら、小さな会社でもプロパーの社員が懸命に業務に邁進しており、統廃合による「混乱」と「現在の会社の力の無意味な喪失」を勘案すると統廃合も容易なことではない。何とか会社の存続をと考える中で、最終的には、TECと共にPIMの共同経営者であった非破壊検査株式会社(以下、NDICという)へ経営の主導権を移行する(TECの持ち株の殆どをNDICへ売却)ととなった。このことを両社が快く引き受けてくれて、2002年1月30日付けで株の譲渡調印を行いPIMの存続は決定された。NDICのグループの一員となってからは、毎月1回大阪のNDIC本社で開催される役員会(内容は月次収支検討会の色合いが強い)へ出席することになり、この役員会への自らの出席は2005年8月の出席を持って終わりとし現社長へ交代することを了承してもらうまで約3年余の期間にわたった。
(3) PIMのスリム化と経営の改善
子会社の業績内容は、その子会社自身の努力によるところが大きいのは当然であるが、親会社の業績・方針に大きく振り回されると言うことも否めない。PIMはTEC依存度が高く、TECの業績・方針の影響を色濃く受けてきていた。売上は人件費が主体で、しかも経営規模も小さいので、蓄えも殆どない状況であった。先ずは、収益性向上のために、(1)交際費、事務所スペースなどの無駄な部分の削減、(2)パンパワーの稼働率の大幅改善、(3)営業力強化とTEC以外の顧客開拓、を大きな柱とする「売上高よりも利益を重視する」社内改革を実行に移した。また、経営母体の変更に伴って自主退職した社員の補充は行なわず、外部のマンパワーの最大限の活用を図ることで、更なる稼働率の向上を目指した結果、収益性も大幅に改善され経営は安定して今日に至っている。
(4) 突然の心筋梗塞
PIMの経営母体がNDICに変わった時点で、同社から移籍してきた副社長が営業上で大きな力を発揮してくれて、TEC以外の新しい顧客も増えてきて、業務範囲も品質管理・検査に限定されず幅を広げる方向となり、何とか先行きの目処が着いてきたかと思った矢先に事件が起こった。2002年12月の大雪の降った翌日の夜、顧客と共にした酒席の後で突如として「心筋梗塞」を発症、救急車でNTT関東病院へ運び込まれるということになった。後になって気づいたことであるが、約5ヶ月前に前兆があったのを見逃してしまったこと、43年間、毎日100本のタバコを相変わらず吸い続けたことが大事に至った原因の一つであったようだ。
かなり以前にサウジアラビアへ出張中に体調を崩して一夜だけ入院した以外に、入院の経験がない隠居にとっては初めての本各入院で、しかもCCUへ直行のは驚きの経験となってしまった。このことがあって、タバコを止められたが、病院通いが避けられない体調となってしまったので、また会社も安定してきており、さらに良き後継者も育っているので、我がままを言わせて貰い、PIMの社長に就任して2年後の2003年の株主総会を契機に社長を退くことを了承してもらった。その後は、NDIC経営トップの要請と好意によって、PIMの会長(実態は週に3日間程度の出勤)として、2006年の株主総会までの3年間勤め上げることとなった。繰り返しになるが、このような我侭な勤務が出来たのは良き後継者に恵まれたこと、NDICの経営トップの理解があったことによるものであり、心から感謝したい。
(5) そして隠居生活(?)は始まった!
上記したように、既に2003年には半隠居生活は始まっていたと言うべきかもしれない。その上、2005年9月に、それまで自分が担っていた役割の殆どを社長にバトンタッチしてからは会社でやるべきことも殆どなくなってきつつあったので、2006年の株主総会が自分の引き時、そして憧れの「隠居生活」への突入時期と判断して辞任をお願いした。結果として、週に1日だけでもという要請を受けて現在に至っているが、実態は90%の隠居生活が始まったと言ってよかろう。「隠居」、それは何ともいい響きをもった言葉ではないか!前々から憧れを持って待っていた「隠居生活」が夢に描いていたように和やかにして楽しいものとなるであろうか? それを実現できるのは、誰の援助でもなく、自分自身の力でなくてはならないということは分かっているつもりだが!!
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