日本一周駆け巡りの旅の記録

 
パソコンの写真集から

大学へ進学した1959年(昭和34年)の夏休みに、鹿児島大学に入学していた幼馴染の孝一君と北海道旅行と洒落こんだ。

この旅は、少し(大いにか?)変わった旅程を辿ったユニークなものであった。仙台を出発して、北海道をほぼ一周したあと、青森から日本海側を南に下り大坂を経て九州に入り、九州を一周してから仙台に帰るという有効期限27日間(途中で交差する駅が出てくるので切符は3枚位に分割されていたように記憶している)の切符を買った他は、細かな日程や宿舎を決めずに出かけた「行き当たりの旅」であった。今で言う、「バックパッカー」の旅で、宿泊はテント、北大の学生寮、知人の逗留先などが殆どで旅館に泊ったのは夕張、岩三沢と遠軽での3泊だけという貧乏旅行である。

概要は「隠居の独り善がりの自分史」の中でも記載したが、我が人生でも最大の国内旅行であり、記録に留める価値があろうと思われるので、記憶を頼りに書き留めておくことにした。ただ、あまりにも古い昔の話であり、正しい日付<7月の半ばから下旬にかけて旅したことは間違いない>は判然としないので、○日目という表現で我慢することとした。



1日目〜3日目
・・友人と仙台駅で落ち合い、東北本線の普通列車で同駅を出発し、青森へ向かう。この車中で人生初めての煙草を口にして、その後もこの旅行中に繰り返し喫煙したことが、それから40年以上も続いたヘビースモーカーのきっかけとなってしまった。
青森から夜の青函連絡船で「函館」へ出て、また普通列車で長万部を経て「洞爺湖」へ到着、湖畔にキャンプ場がありそこの貸テントで2泊。


4日目〜5日目
・・洞爺湖畔を朝に出発、「有珠山」を歩いて越して「洞爺駅」(昔は虻田駅か?)へ出て列車に乗り、「追分」で乗り換えて、2007年早々に
「財政再建団体」になって連日新聞・テレビを賑わしている「夕張市」(当時は石炭産業が盛んな頃で町も隆盛を極めていた。ここを訪問したのは、将来は鉱山学科へ進もうかということも選択肢の一つにあったので、鉱山とはどんなところか見てみたいという思いからである)へ向かった。途中で苫小牧の友人(大学の同級生)宅に立ち寄るという選択肢もあったが、迷っているうちに通過してしまい一気に夕張へ到着してしまった。駅で旅館を教えてもらい宿泊。

・・翌日、炭鉱の事務所を訪問し、訪問の目的を話すと指導課長の長谷川一さんが快く応対してくれて、北炭の好意によって、昼食・案内役つきで炭鉱の模擬鉱へ潜ることが出来た。ガス検知システムが火力によるものから光学的なものに変わって炭鉱の安全性が数段上がったという説明も受けたが、小生の夕張訪問後にも三井三池炭鉱や夕張炭鉱でも大きなガス爆発事故が発生するという不幸な出来事はあった。午後には、「岩見沢」へ出て時間調整で映画をみて、ここでも駅前の安宿に宿泊。


6日目〜7日目
・・岩見沢を朝出発、「滝川」を経て、今は北海道観光の目玉の一つである「富良野」を通過して「帯広郊外の音更」(養蜂業の孝一君の叔父さんが花を求めて鹿児島からこの地に移動・逗留中であったので、ここで一宿の恩義をこうむることとなる)に移動。帯広は通過しただけで立ち寄らず、音更に直行した。音更には、農林省の「種畜牧場」があり、そこではかなりの数の羊が放牧されていたのも記憶している。

・・バスで、「士幌」、「足寄」、「阿寒湖」、「弟子屈」と移動して、ここでバスを乗り換えて「摩周湖」(幸運にもガスが晴れて、日本一の透明度を持つという摩周湖の美しい湖面を眺めることが出来た)の観光へ向かった。摩周湖への道中では「さるおがぜ」という珍しいコケを初めて目にした。この観光後に「屈斜路湖」の湖畔キャンプ場へ移動してここで1泊(貸テント)。


8日目〜9日目
・・また、バスで美幌峠を経て網走へ出て、「原生花園」や「トウフツ湖」を散策。このとき初めてどんよりとした青色の「オホーツク海」にお目にかかった。その後、網走の町には立ち寄ることなく、普通列車で札幌方面へ向かう。「遠軽」という町で終点となったので、駅前の安宿に宿泊。

・・翌日、遠軽駅から「上川駅」まで列車で移動し、そこからバスで「層雲峡」へ出た。層雲峡から急な坂道を大雪山系の「黒岳」まで一気に登り、予約もしていなかったが頂上の山小屋に幸運にも宿泊出来た。ここ黒岳山頂付近では、「お花畑」の素晴らしさと「鳴きリス」を初めて経験。


10日目〜11日目
・・翌日は、ガスが立ち込める中、「熊よけ」の鈴も笛も無いままに「旭川方面」(ユコマンベウ温泉?)に下りて、バス、鉄道を乗り継いで「札幌」まで。甲南高校の先輩が入寮していた北大の「学生寮」に泊めてもらう

・・昭和34年の春に東京で、日本で始めて開催された「ホリデイ・オン・アイスショー」がこの時期に札幌へ移動(日本の主要都市5,6箇所で開催された)していたので、これ幸いと翌日に見に行った。札幌に着くまで知らなかった。これが札幌の唯一の思い出。


12日目〜15日目
・・さて、ここから郷里の鹿児島への道程がすごいことになってしまった。
札幌を11日目の夜の8時前後の普通列車で出発。昼間の青函連絡船に乗って、青森に着いたのが昼過ぎてから。当時、日本海側を大坂まで走るその名も「日本海」という急行列車があったが、出発時間がうまくない。4時間も待つよりは、同じく日本海側を大坂まで行く「普通列車」があることが判明したので、疲れたら何所かで下りて宿泊すればよいという思いもあって、それに乗ってしまった。ところが、孝一君と意見が合わないままに列車内で12日目の夜を送り次の13日目の夜の8時前後(?)に大坂まで来てしまった。この長距離の普通列車のとなりの席に座ったお客さんは、青森の人、新潟の人、富山の人、石川の人などなど数知れず、あまり飽きることもなかったように記憶している。と言うより、神経が麻痺してたと言うのが実態かもしれない。

・・また、驚くなかれ、その大阪で休むということをしなかったのだ!ホームを変えれば30分前後で
鹿児島県の出水行きの普通列車があるではないか!。大坂には用事がないので、乗ってしまえということになった。ここまで来れば、あとは蛇足!13日目の夜も列車内で過ごして、とうとう終点の出水に次の14日目の夜10時過ぎに到着するまで、札幌を出てから3泊4日計74時間余の休みナシの長旅が続いたのだ。列車を下りても、体が揺れている感じは暫く続いた。誰も信じないような本当の話なのだ!当然のことであるが、長距離普通列車の乗客は頻繁に入れ替わり数え切れないほどの人々との接触があるのだということを実感した旅でもあった。

・・14日目の夜は出水の駅前の旅館で体を休めて、次の日に我が家へたどり着いた。しかし、隠居にとっては、ここで旅が終ったのではない。実家で残りの夏休みを過ごした後、また仙台までの旅が待っていたのだ。仙台に到着して、日本列島駆け巡りの旅は成就したのである。




旅を終えて
この旅を終えて思ったことは、「日本は何所へ行っても日本であり、大した変わりはない!」、「日本全国の殆どをみてしまった!」など、全く独り善がりのものであった。このことが、のちに南米移住ということを発想する一因になったことは否定できない。

当時の鹿児島・東京間の急行列車は、鹿児島本線経由で27時間、日豊本線経由で29時間、更に上野・仙台間の急行列車が約7時間という長旅で、しかも何時も席の確保に苦労するくらい混雑していたが、大学院へ入るまでの夏休み、冬休みおよび春休みの殆どの休みに欠かさず帰省していた。若さゆえに苦にもならない長旅であったと言うことか!


「ご隠居のざれ言」のトップへ戻る