隠居の徒然草
(2.シルバーライフ、気候、住処など)




いよいよ終の住処を探し始めるか! 終の住処移住計画
人生はこれからが勝負か! 有料老人ホーム体験入居の記
夢は半漁師 待ってました定年!
バリアフリー住宅 お楽しみ住宅
よくないことをする! 住処の決め手は!
故郷は住み良いか! 海外は住み良いか!

終の住処移住計画

 暇にまかせて、何時かは実行するであろう終の住処移住計画について下記のように簡単にまとめてみた。早速、娘にも見せてみたが意外と抵抗のない様子で、むしろ移住場所の件(例えば鹿児島など)以外については参道の方向である。この計画を実現出来るかどうかは資金計画(現住宅の売却)が思惑通りにいくかどうかにかかっているので、直ぐに計画を進めるか否かは別として、住宅売却の可能性について調査してみたい。



「終の住処移住計画」

                          H24年4月17日

1.移住計画の理由

1)要介護(特に、認知症)になった時に家族に負担をかけない。
2)要介護時の施設への順調な移動を可能とする(公的な施設は順番待ち)。
3)足の衰えに備えバリアフリー対応の住環境を考慮する<シニアマンションも可>
4)健常な時にも非常時の対応のサービスが整った環境(非常ボタンなど)を確保
5)贅沢な願望として部屋からの眺望(例として、桜島など)を楽しめる環境確保
6)可能な限り冬季により温暖な環境を考える。

2.移住時期の考察

移住時期目安

考察・備考

早めに移住

2013年内<73歳>

・終の住処の生活に早めに馴染む
・新環境で健常者生活(釣り他)を楽しむ
・ゴルフ友人を作る
・早いほうが家の売却には有利

庭の手入れ困難時に移住

2015年内<75歳>

・足の弱体化での高所作業が危険となる時
・水やり、草取りの困難さを感じる時
・ゴルフの回数も激減する時
・家の売却時期を要検討

ゴルフを止める時期に
移住

2017年内<77歳>

・上記の案2と同時期か、前後の可能性が大
・運動は散歩だけ
・上記2同様に家の売却時期を要検討

要介護になって移住

2019年度<79歳>

・選択肢はどうか別途検討が必要
・場所は千葉県内に限定
・18u~20u程度のワンルーム

注記:1)時期は家の売却が有利に進められる時期にも左右される。
   2)上記の目安は単なる推定で状況により大きく変化する。


3.前提条件等

1)現在の自宅を売却して、その売却費(3500万円以上で売れること
  希望)も含めて
全体の資金計画を立てる。
2)手持ち金および住宅売却費を含めた全資金の約半分は予備費(病気、予期
  せぬ出費等)
として何らかの方法(下記の例示)で残す。
  (A)予備費は全て現金で銀行預金
  (B)予備費の大半でで中古マンションを購入し、賃貸で貸す(借主は
     娘夫婦も含む)

  (C)予備費の1/3を現金で残し、残りを中古マンション購入に充てる
3)健常時は当然とし、要介護になっても施設の月額利用費を含む生活費全体が
  公的年金の
範囲内(82歳まではほぼ現状、以後は厚生年金のみ)である
  ことを前提とする。

4)部屋の広さは50u前後の1LDKを検討対象とする。


4.優良高齢者専用賃貸型施設の比較

施設名

料金

考察・備考

サザンブルー
鹿児島
姶良市)

居室:50.13 u

一時 2150  ~2470\

月額 119700\(63000込)

介護費+52500\172200\

・経営は南国殖産
・室から桜島が見え
・釣り、ゴルフ環境
・病院との連携有
・兄弟、友人等多し
・千葉から遠い

アビタシオン千葉

居室:47.7 u

一時 2720 ~ 3040\

月額 140000\(食63000)

介護費 +31500\(171000\)

・経営母体は新陽
・現住所から近距離
・景観は今一つ

プラデシア千葉
みなと

居室:54.55 u

一時 1947 ~2652\

月額 216000\(食63000

介護費 +33000\249000\

・経営はオリックス
・介護時も居住可
・入居後の負担が大

グランガーデン
鹿児島

:居室≒50. u

一時 3000 ~ 3350\

月額 149100\(食63000

介護費 入居時一括525\

・経営母体は九電
・高校時の下宿近
・市電前
駅前
・桜島の見える部屋
・入居時の負担が大

注記:1)プラデシアは入居後の月額負担が大きく、全てを年金内で収めることが
     厳しい

    2)グランガーデンは入居時負担が大きく、全資金の半分以上となり無理が
     ある



いよいよ終の住処を探し
始めるか!
 多くの年配者たちが良く口にする「1年過ぎるのが非常に早い」という例えのごとく、今日は早くも2011年の大晦日である。一人で食べる夕食を直前にした今から数時間の後には今年も終わりで、そして後1カ月もしないうちに72歳となる。

 さて、最近は、娘夫婦の仕事の関係もあって、一人で夕食を取ることが多い。約15年前に妻を亡くしてから、独り身の気楽さを優先して再婚など考えることもなく現在に至っているので、娘夫婦と同居しているとはいえ、一人で夕食を取ることは何な不思議なことではない。だが、
大晦日も一人飯となると些か考えてしまう。このままの生活をこの場所で繰り返していいのだろうかと。

 今の住まいは、ゴルフ中心の生活にとっては都合が良い。メンバーコースの2か所にも約15分と25分で到着できるし、ゴルフの練習場にも近い。さらに、両メンバーコースには多くの友人が出来ていて、クラブ内クラブと称すべきゴルフ仲間の会にも四つのクラブに属していて毎月5,6回以上のプレイを楽しんでいる。ここ十年以上に亘って繰り返してきた生活パターンからすれば此処は最良に近い住処といえよう。

 だが、冬になると心筋梗塞の後遺症らしき症状で些か苦しまされており、ゴルフも何時までできるやらという思いに駆られるようになった。願わくは、80歳まではやって多くのゴルファーの願望であるエージシュートも成したいという思いも強いが、最近の体調から推察すれば75,6歳で限界かという情けない状況も念頭においておくべきであろう。


 来年は、ゴルフもやめて終日家にいるような生活になった場合も考慮した終の住処をどうするかを真剣に考える1年となるそうである。

                
 <2011年12月31日 記>

人生はこれからが勝負か!  考えてみれば、我が人生も平均的に見れば残り10年、大きな幸運に恵まれれば残り10数年、運悪ければ数年以内、というところまで到達してしまったと言うべきであろう。特に、残り数年の人生ということになれば、今出来ることをしっかりとやっておくことが重要であり、それをやれる体力を維持しておくことが最も重要である。健康維持に関して無為無策の現状を繰り返しておると大きな後悔に繋がるであろうと意識するようになってきた。

 この数カ月は、何もしないでいれば体力は確実に衰えることを思い知らされ、今冬はここ10年近くの通例となっていた年末年始の海外旅行も健康不安から断念する羽目となった。その反省から、「最悪でも現状維持、出来れば数年前の体力まで回復させる」ことを決意して、今年はようやくルームランナーを使って約30分の歩きはやるようになり、それが多少は体力の回復に資しているように感じるようになったので、この運動を継続、強化してみたい。


 「平均で残り10年、運悪ければ数年以内」、を頭に置きながら、当面の具体的な目標は、これから5年間は乗用カートを使わずにゴルフをやることであると定義しておこう!

有料老人ホーム体験入居
の記

画像








ホームから望む桜島
 仕事を退いた後の隠居生活を何処、如何様なスタイルでおくるかはかなり以前からの大きな関心事であり、ここでもアレコレ纏りのない思いを書き綴っているが、最近になって、妻に先立たれた独り身の場合にはかなりの制約があることを強く感じるようになった。独り身の田舎暮らしや海外暮らしは、先ず無理と理解すべきのようだ。

 子供にも負担をかけずに老後を安心しておくるための「独り身の老人の終の棲家」としては、「有料老人ホーム」が有力な手段の一つであることも間違いなく、時々インターネットなどで情報を得ていたのだが、鹿児島に九州電力グループが「グランガーデン」という有料老人ホームを2006年末にオープンしたことを知って、大きな関心を抱いていた。この施設のご好意で、2007年11月に、このホームの体験入居の機会を得たので勇んで出かけてきた。

 このホームの魅力は、
・経営母体が九州電力グループということで、経営上の安心感があること
・自分が高校時代に住み馴染み深い鹿児島市内の「郡元」という市電の駅前に立地
・鹿児島の象徴的景観の桜島が一望できること<左の写真参照>
・健常者の居住部分の面積が広いこと

 逆に、難点は、
・一人入居でも4000万円前後の初期費用が必要になるなど高額であること

 まだ迷いの多い中での一夜だけの体験入居であったが、グランガーデンは素晴らしい施設である。桜島を一望(写真は施設の16階から撮影したもの)できる場所に立地しており、入居一時金がかなり高額なこともあって、居室も共用部分も快適で、内容も充実している。それに、上記したように経営母体が九州電力グループであることも入居者に安心感を与えているようである。今時点(?)では、サービスも行き届いていて、その質も高いと言えよう。

ただ、直接会話した入居者の年齢層をみても自分が入居するにはまだ10年早いというのが最終的な感想であった。これで、しばらくはホームのことは頭から離れて、ゴルフを中心とした生活を続けることになろう。

           
 <2008年01月 記>
夢は半漁師  会社の仕事を退いてからも人生を全うするまではかなり長い間生き長らなければならない。その間をどう生きるかは、50歳半ばから気になるものである。その時々で、考えも変わってきているようであるが、自分にとって何時も変わらない夢の一つは「半漁師」的な生活であるようだ。趣味の釣りを止めてゴルフに転向してから、既に27年間近くも釣りはやっていない。だが、釣りが嫌いになった訳ではない。ゴルフに多くの時間を割くあまり釣りに興じる時間が持てなかったと言うことにほかならない。釣り願望は頭から消えたことはなかったと思うし、脱サラで漁師を目指した人達についてのテレビ放映は興味を持ってみた経験が多い。特に、現役引退後の生活を思い巡らす時には一番に頭に浮かぶのが釣りである。これは、海の近くで生まれ育ったと言う生い立ちに起因しているということではないだろう。釣りは、趣味でもあり、生活の糧を得る手段でもあるという思いも少なからずあるようだ。
  
 宮沢賢治の「雨にも負けず」にあるような立派な生き方は思いもよらず、先ずは自分自身の欲望に引きずられるような生き方にしか思いが至らない。頭に浮かぶことを簡潔に表現すれば次のようなことであろう。

 先ずは冬でも暖かな地方が条件。その住処から遠くないところに小船(最低50馬力程度のエンジン付き)を係留し、風のない穏やかな日には沖に出て釣り糸をたれる。獲物は、季節によるが、真タイ、黒タイ、カンパチ、イナダ、アジ、カサゴ、イカなど。「刺身」と「味噌煮」又は「焼き魚」に料理して、時には干物に加工して食卓に乗せるが、自分の食い分以上の獲物は知人・友人へ配分し喜んでもらう。

 さて、これは実現できる夢であろうか。会社から完全に退けていなかった今までは無理な話であったが、いまや、自分が強い意思をもって決断すれば不可能ではない。ただ、種々情報は収集しているが未だ決断は出来ていない。また、問題がないわけではなく、次の2点が大きな問題となろう。
・心臓の持病も勘案して体力的に何時まで船に乗れるか
・何所がその場所として相応しいか<鹿児島が第一候補>
 一人でこのような生活に入ることには、娘をはじめとして周囲が不安がるであろうが、始めれば釣り仲間はすぐにでも出来るであろうし、その点では不安は少ない。暫くは、また悩む(?)ことになるのだろう!
                 
 <2007年5月2日 記> 

待ってました定年!

 週間文春であったか、週間新潮であったか、今は定かでないが「待ってました定年」という表題で、定年後を、人によっては定年を早めてまで、自分の生活設計に基づいて、活き活きと暮らしている人達の生き様を紹介した連載ものがあった。その幾つかを、大いに興味を持って読んだ記憶があるが、内容は、残念ながら失念してしまった。当時、なんとしても、このシリーズを集めておきたいと思いながらも、手元に一つも残っていない。近いうちに、出版元に依頼して入手を試みたいという思いは強い。

 自分の会社の退職者でつくっている親睦団体が、会報を発行していて、その都度、手元にも配布されて来る。記事の内容は、「老妻を伴った海外旅行記」、「地域社会でのボランチィヤ活動記」、「会員交友禄」、「趣味に生きる」、「会社経営陣にもの申す」というのが大方であるが、この種の会報につきのものの会員の訃報も毎回記事の一部となっている。何時も、それなりの興味を持って読んでいるが、いずれも一回きりの読みきり的なもので、執筆者の生き様のごく一部を覗き見したに過ぎず、継続的な日々の生活実態、生活感というものを窺い知ることは出来ないという不満は残る。

 それにしても、断片的には、生き様の一部を垣間見ることが出来て、面白い。

会社を離れて久しくなっても、今でも会社を見て生きている人

会社で十分に発揮出来なかったリーダーシップを地域活動で見出している人

生まれ故郷に帰って、新しい生活に挑戦している人

ライフ ワークとして、今までの蓄積を纏め上げようと頑張っている人

趣味の世界で、新しい友を得て、自らを活性化している人

会社人間、無趣味で定年を迎え、新しい生活に容易に馴染めない人

当社を退職後も、他に職場を求めて仕事に精出している人

等々、実に様々な人生があるが、概して大きな転身、挑戦をしている人は無いようだ。                       

 会社の先輩諸氏の近況には強い親近感を持つが、一方ではもっと遠い世界を垣間見てみたいという強い欲求もあり、なかなか照準が定まらない。欲張りなことだ!        
         <1999年2月10日 記>


バリアフリー住宅

 昨年(98年)、NHKの朝の連続ドラマ「天 うらら」は、まだ皆の記憶に新しい。

 ドラマの中のうら若い女性主人公は、初め大工を目指し一人前になるが、足が衰えて車椅子生活になった年老いた祖母の為に自宅を改造した時に、従来の日本住宅の伝統・様式を打ち破っても老人に優しい住宅に拘り、一方、日本古来の伝統を重んじる棟梁と衝突する。この老人にも優しい住宅の重要性に目覚めた彼女は、大工を辞めて設計の道へ進み、自分の目指す住宅を設計し、建築して行く、という粗筋であった。

 このドラマが、きっかけとなってブームを呼んだ訳ではないが、いまバリアフリー住宅に新風を吹き込んでいる女性建築家が、多く活躍中とのことである。逆に、これらの建築家の存在が、あのドラマを生んだというのが、現実であろう。多くの女性建築家の活躍ぶり、考え方が日経新聞に紹介されている。

 傾向として、まだ元気な人でも抵抗無く住める家、機能だけでなく住み心地を重視し、体の状況や生活スタイルの変化に応じて臨機応変に改修できる工夫をこらした家をテーマにしている。

 参考にすべき事を拾い上げると、

体の機能をなるべく低下させない家。初めから体が全く動かない状態にあわせるのは逆効果。例えば、バリアフリー住宅では寝室の隣にトイレがあるのが普通だが、運動のため多少は離す。ただ夜中の利用を考慮して、寝室からトイレまでの間だけ床暖房をいれる。

今のバリアフリー住宅は、北欧の建物を手本にして、日本の住文化とは異質。やたらに明るくて平らな空間は、かえって落ち着かない。

生活に合わせて段階的に変えられる家が理想。

 自分が、老後住宅を考える時、バリアフリーも重要な要素であると認識している。ただそれ以上に、重要度を高くしている要素が多く、バリアフリーはさして重きを置いていなかったように思われる。これを契機にもっと目を向けることにしたい。
       
 <1999年2月23日 記>

お楽しみ住宅


 インドネシアに長期滞在することになる前には、暇さえあれば自分の老後住宅のプラン作りに熱中していた。はっきりと転居先が決まっている訳ではないし、転居自体が決まっている訳もないので、架空の転居先を想定して、やたらとプラン作りに勤しんだ。おおよそ100にも及ぶプランを描いたと思う。加えて、当然のこととして、目前に建築が決まっているわけでもないので、何時まで経っても最終案となることもなく、延々と計画は続いた。100にも及ぶプランの総てが大きく違っているということはない。大部分が少しの違いがあるだけで、類似のパターンが多く、大分類すると5−6種類のプランに過ぎない。未だ手に入れていない土地形状の制約がないだけに、発想は収斂せず最終案はついに纏まらないままで現在に至っている。インドネシアに赴任する際にも、それまでに作成した案と作図用の用紙や小道具を持ち込んだが、この1年はついに手にすることもなく過ぎてしまった。

 プラン作成の条件は、かなり夢多く欲深いものであり、しかも優先度は順不同であるが下記とした。

温泉が引き込めて、専用の半露天風呂を持てること

趣味の庭いじり、花作りが十分に楽しめる環境と広さを持った立地であること

温泉利用と太陽光をふんだんに取り込んで寒さが気にならないプランであること

自身は妻に先立たれ一人暮しであるが、娘夫婦と同居が可能なこと

体力の衰えを考慮した老後対応であること

晴耕雨読、屋内での生活(趣味対応)の時間が多くなることを考慮すること

当然ローコストであっても、快適で飽きないデザインであること

これらの条件を総て満たす住宅も絵にするだけなら、いくらでも案が産まれる。特に立地に関しては、かなりの自由度を持たせたので、夢は無限に広がることになってしまう。

 自分は、大学で建築学を専攻した技術者である。建築といっても、意匠設計を専門とした訳ではなく、構造設計特に耐震設計が専門で、その意味では住宅設計の専門家ではないが、住宅設計にもそれなりの力はある。それ以上に、あれこれ考えてそれを絵にすることが趣味であると見たほうがよかろう。また凝り性で、仕事も趣味も始めると徹底してはまり込んでしまうという性癖がある。釣り、盆栽いじり、ゴルフほかどれを取っても熱中してしまった。家のプラン作りも趣味の一端であるような気がする。

 いままで3回新しい住宅に住んだが、2回目は完全に自分の設計で、自分の生活スタイルに合致した快適な住いであった。いまは建売住宅で自分の意に十分に添わないという意識が抜けず、それが最後?の住宅設計へ走っている大きな原因かも知れない。

 さりながら、今は時間もないし、急いで設計しなければならない必然性もない。当面はお楽しみ住宅の計画は、お預けということだ。
        
<1999年2月23日 記>

よくないことをする!

 都立松沢病院精神科の 高橋 和巳先生が、日経新聞に書かれた記事が興味をひいた。 

 「9年間不眠症に悩まされ続けた女性管理職が、その病気を治すきっかけとなったのは、「もうやめた」と自分に向かって言えたからだった。何をやめたかというと、仕事を頑張ることである。心の病気はまじめに治そうと思えば思うほど、治らなくなることがある。まじめさは若い時には社会に適応し、自分の能力を伸ばすために必要である。しかし、体力の落ちてくる中年になると、いつまでも続けるわけにはいかない。「もうやめた」とフッと力を抜いた人生の軌道修正も必要になってくる。病気を治すには体に良いことをする、例えば薬を飲んだり、節制をしたりということだけを考えがちであるが、時には毒みたいなものを飲んだり、悪いことをして、病気が治ることもある」

という話である。

 まだ熟読していないが「40歳を過ぎたらすきなことをやれ!」、「小さなことにくよくよするな!」も根底にあるのは共通のテーマのようだ
                <1999年2月 記>
  


住処の決め手は!

 老後(シルバーライフ)を何処で暮すかは、大きな関心事である。

 一日の大部分の時間を会社で費やし、家に居るのは夜間だけという生活を送っている間は、住環境、とくに何処に住処を構えるかはさほど大きな関心事ではないし、また選択肢もさほど無い。毎日の通勤の利便性、日曜日のゴルフ場通い(人によっては、釣り?買い物?散策?観劇?などなど)の利便性と懐具合で必然的に決まってしまう。中でも、多くの人が会社への通勤を第一の選択要因としているだろう。

 30年余の会社員生活の中で4回住処を変えたが、何れも会社への通勤時間が1時間以内の範囲で、同じ市内を横に移動したにすぎない。その都度、住環境の快適さ・利便性を求めてのことであるが、大きく場所を移動した訳ではない。ここで言う「住処」は、どのような立地のどんな土地に、またどんな家を建てて住むかと言う狭い範囲のことではなく、むしろ北海道か、関東か、九州かあるいは思いきって海外か、また視点を変えて田舎暮しか、都会暮しかと言う広い範囲の「住む場所」の意味合いが強い。そういう意味では、現役会社員の間は選択の余地は全くない。生活の糧を得る会社の所在地近傍が住処にならざるを得ない。

 いざ現役引退、退職でシルバーライフへ突入となると、住処の選択に大きな可能性が出てくる。今の会社を引退した後も、新たな職場を得て仕事に情熱を注ぐことを第一の人生目標とする場合は、新しい職場がその人の住処を決めてしまうことになるが、「先ず住処ありて、職場を求む」の姿勢であれば、自由度は変わらない。

 自分が、自らのシルバーライフをあれこれ思い巡らす時、最大の関心事は「住処」である。今の住処に不都合を感じている訳ではないが、「今以上に趣味を十分に生かして、しかも経済的にも苦痛を伴わず、快適な暮しが出来る環境」という夢みたいな願望が、かなり以前から頭を離れない。

 一般的に、と言ってもシルバーライフ突入者にとって、「住処」選択の条件は、自身の独断的な見解のきらいもあるが大方次のようなことであろう。

懐具合(初期投資、長期的な生活費、生活期間と投資効率、
生活費補充)  -懐

肉親との繋がり、係り方(親・子供の居住地、
究極の生活スタイル)  -肉親

温暖な気候、好みの景観(生まれ故郷、山地か海辺か、
四季の変化)  -気候等

趣味の容易な達成の可能性(趣味と実益、趣味の優先度、
仲間作り)   -趣味

友人・サークル活動(幼馴染、学友、近所付き合い、
遊び仲間)   -友

温泉、医療機関など健康管理面の利便・優位性(
何時まで元気?)   -健康

文化・教養行事との触合い(各種学校・サークル、
美術館、劇場他)   −文化

交通の利便性(車、電車、高速道路、飛行場等)           -交通

 人によっては、まだ多くの、あるいは違った条件があろうが、自分は上記の条件もかなり絞り込まなければ、頭の整理がつかない。ただ、上列4項目は避けられない検討課題、言い替えれば必須条件と受け取っている。前にも触れたように、簡潔に表現すれば、「今以上に趣味を十分に生かして、しかも経済的にも苦痛を伴わず、快適な暮しが出来る環境」という全く身勝手な欲深い願望であるが、多くの障害を克服して、果たしてどこまで充足出来るか、今すぐの結論が迫られている状況でもないので、気長に挑戦することにしよう。
            19992月12日 記>

故郷は住み良いか!

 男優位の世界が長く続いている日本でも、「今の若い世代は女の方がしっかりしている、女が強い。国際的なスポーツの世界でもしかり!」と言われ出して久しい。この事実は、今も昔も、老いも若きも関係無く、ある一面では変わらないと考えている。「住処」の決定時には、この現象はさらに歴然としているとみてよかろう。

 自分は、男性の知人・友人の多くが、一度ならず「定年後は故郷で暮したい」と口にしている場面に出くわせているが、実際は、其の殆どが実行されていない事実を知っている。言訳の殆どが、決り文句の如く「女房がその気になってくれなくて!」というものである。また、女房殿の反対理由も、決まって「旦那が会社に縛られて近くに目をやる余裕もない生活を繰り返しているうちに、女房殿は近隣に交友の輪をしっかり作り上げていること」、「子供達と近い場所で暮したいこと」、「故郷に帰るならあなた一人で行って」というものである。非常に説得力のある理由であり、この現象だけで女達の強さを推し量る訳にはいくまいし、「黙って俺に着いて来い」式の決定方法は、いまや通じ難いと見るべきであろう。ただ、「住処」選定するにあたてえは、女房殿の意見が支配的である事実は間違いない。

 自分は、役3年前に「相談すべき、または了解を得るべき」妻を病気で亡くしており、今では自分一人で何でも決められる状況にあるが、妻の存命中には、知人・友人の例と全く同じ反応をされていた記憶が生々しい。

 ところで、男達の多くが憧れる故郷は本当に住み心地が良いのだろうか。大多数の人の場合、今までの人生の約3分の1、今住みついている地域の生活経験の約2分の1程度の期間しか住んでいない故郷が、何故それほどまでに、男達を引き付けるのだろうか。古い童謡で「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川、夢はいまも巡りて、忘れ難き故郷」と歌われ、または「古里は遠くにありて思うもの、そして悲しく詠うもの、・・・・」など、故郷をテーマにした歌謡、詩は枚挙にいとまがない。望郷とも言う、故郷が人々の心の中で何時までも行き続けていることは疑う余地もないが、退職後の「住処」として最適かどうかは、全く別物ではなかろうかとも思う!。
       
<1999年2月13日 記>

海外は住み良いか!
<オーストラリアのこと>

 「大村 しげ」さんという京都在住の随筆家、料理研究家(80歳)が、療養先のインドネシアのバリ島で亡くなった(993月18日)という新聞記事が目にとまった。京都生まれで京都育ちの著名な人で、テレビの料理番組にも出演していたらしい。主な著書は「京暮らし」「京のおばんざい」「ハートランドバリ島村ぐらし」などがあるという。

 この高齢で、異国の地で、誰と、どのような生活を営んでいたのだろうか?と大きな興味を抱いている。何れの著書も読んだことがなく、全く知る由もないが、バリ島の田舎で暮していたのは推測できる。いろいろ空想を巡らしても、回答は得られない。早く著書を探して読んでみることにしよう。

 自分の勤務先と同業の会社を定年で退社したあと、日本の住宅を処分して夫婦でオーストラリアのパースという都市に住宅を買い求めて、永住の覚悟で移住した人の話を共通の友人から聞いたのは3年ほど前である。この人は、仕事柄、海外生活が長く、老後の快適な生活の場として、パースを選んだと言う。共通の友人も時折、この地を訪ねていると言うことであった。

 パースは、自分も仕事で3回ほど訪問した経験がある。気候がよく、物価も日本と比較して安い(特にゴルフは安く出来る)のも魅力であるが、何よりも自然の美しさが抜群の都市であるというのが最大の魅力である。スワン・リバーという川が湖のように大きく広がった河口近くの、WATER FRONTに展開される「絵葉書にしたい景色」という表現がピッタリの景勝の地である。ホテルの窓越しに終日眺めていても、飽きることのない景色が展開されている、と表現したい都市である。加えて、住宅地のなかにゴルフ場(プレイしている人影はなく、カンガルーがコース内で遊んでいた)もあり、近くにはマリーナも数多くあって、趣味が合致すれば遊びには事欠かないという状況が備わっている。老後の生活の場として、強い誘惑を駆られる地であることは間違いない。ただ、仕事での短時間(3回とも3日間程度)の訪問で感じたのは、あまりにも静か(静的で刺激が全くない)で退屈この上ないと印象ではあった。

 最近、共通の友人の話によれば、パースに移住した彼が家の買い手を探しているという。その人に会ったこともなく、どのような境遇の変化、あるいは心境の変化があったか知る由もないが、パース生活に終止符を打とうとしていることは事実のようだ。

 オーストラリアには、「リタイアメント・ビザ」という制度があって、現役を退いて悠々自適の生活を目的に、オーストラリアへある期間だけ移り住むことを希望している人達向けに、ある程度の金額の金をデポジットすれば5年間のビザを発給するというシステムがある。この制度を利用して、オーストラリアの各地で生活している日本人が凡そ500人余りもいるという。多くの場合が、夫婦で、健康で体が動かせるある期間だけを目的に生活しており、健康上の不安が出て医療機関に頼るようになれば、日本へ帰ることを考えているようだ。この場合は、大方、ハッピー・ライフをおくれた、ということになっているようだ。「ゴルフも釣りも、この5年で一生分楽しんだ」という満足感に浸っている老夫婦の記事を読んだこともある。一方、永住を決め込んで日本の家屋敷も処分して移住したなかには、必ずしも思った通りに事が運ばなかった、という例も多いと言う。健康で体も思うように動かせるうちは、何の不便・不安もないが、健康が不安な状態に陥ると途端に、生活も不安に襲われるということであるらしい。その時帰るべき日本での生活の場所がしっかりと確保されていないと、窮地に陥るということである。永住覚悟の移住は、容易でなく薦められないというのが、多くのアドバイザーの見解である。

 オーストラリアは、自分の老後生活の場として、かなり以前から第一の候補地であった。気候が温暖であること、東南アジア各国と比較して治安がよいこと、物価も日本やハワイより安そうなこと、趣味のゴルフと海釣りが容易に楽しめそうなことが理由であるが、自ら十分に確かめた訳ではなかった。東海岸のケアンズを想定して、漠然と思い込んでいたというだけである。その後、仕事の関係で、南西地区のパースを3回ほど訪問する機会があってから、この思いは徐々に消えつつあった。申し分のない条件を備えているが、その退屈さがどうしようもなく我慢出来ないと感じたからである。これで、オーストラリアの総てが同じであろうと決め付けた訳ではないが、思いは何故か弱まってしまった。

 199811月にゴールドコーストに、 1999年4月にケアンズに滞在して、またオーストラリアの魅力に捕り付かれてしまったようだ。主として、ホテルとゴルフ場しか知らない旅であったが、温暖な気候、素晴らしい数々のゴルフ・コース、友好的な人々、適度な刺激等など、パースでの思いを一変させるものがあった。ゴールドコーストでは、ゴルフ場ほかリゾート開発に日本の投資も多く、日本人の観光客も多いためか、日本に関心がたかく親日的で、日本を旅したり日本に長期に滞在した経験をもった若者も多い。行く先々(と言っても、ゴルフ場周辺が多い)で多くの人達と会話を楽しんだが、パースで感じた退屈さは微塵もなかった。

 バブル経済崩壊後は、安い賃貸マンションも多く、物価も日本より安いことは確かである。海岸の散策も楽しみの一つであり、ゴルフや釣りで時間を潰す以外にも、退屈することはないようである。
          <1999年5月 記>

定年後の備えて準備した本
定年後(「もうひとつの人生」への案内)
40歳を過ぎたら、好きなことをやれ!
小さいことにくよくよするな!(しょせん、すべては小さなこと)
老人力




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