(1) 1年遅れで小学校へ入学
1月24日生まれで、本来ならば終戦の翌年、即ち、1946年(昭和21年)に入学すべきところを、1年遅れの1947年に、先の項で校歌について書いた「柏原小学校」へ入学した。「食が細くて体格も多少劣るので可愛そうである」ということが理由であったようであるが、同じような早(1月〜3月) 生まれの子を持つ 父の友人同士で申し合わせた節もあって、自分に限らずこの年の新入生の総勢150名余のうちの10名前後が同じような道を選んでいた。 この1年遅れの入学が、その後の我が人生で幸運をもたらしたのか、その逆であったのか、何とも判定し難いが、少なくとも高校卒業までは、友人達からも最年長の兄貴分として扱われたことが多く、色んな場面で好都合なことに繋がったように思われる。
この1947年には、教育制度も大きく改まり、前年まではカタカナ教育から始まっていたのが、この年からひらがな教育から入ることになった。自分の名前だけは書けたが、現在の子供たちのように入学前に読み書きの勉強をしたということはなく、その分、単純な最初の読み書きの勉強も新鮮に感じられ、まずは無難な学校生活のスタートがきれた。
この小学校には、「須田先生 の銅像」があって、近隣ではそれなりに知られた学校であった。当時柏原小学校に勤務中であった須田先生は、太平洋戦争の少し前の昭和12年に、柏原の海岸で海水浴中に波にさらわれた生徒三人を助けるために沖に突き進んで、三人を助けあげた後で力尽きて自らは命を絶ったという。隠居の入学時にも、須田先生は教師の鑑と崇められており、この出来事をテーマにした短編映画が残されていた。
(2) 若い女教員に可愛がられた低学年期
斯様にして始まった小学校生活は、特に低学年期には、特記するような事もなく経過していった。皆が勉強をしなかった時代であり、また先生の評価も甘かったようで、殆どの科目で最高点の評価5をもらっていたが、特に目立った行動をとることもなく、むしろ「おとなしい子供」といった部類に入っていたように思う。ただ、足は速かった。1年遅れの入学のお陰で体力的に優位にあったためか、高等師範学校時代の短距離走の記録が一時期は鹿児島県記録であったという叔父の血が流れていたためか、学年では常に1位を確保していた。当時(小学3年生ごろまで)は、近隣の小学校との対抗試合も行われており、学校を代表して試合に臨んでも、他校の生徒に負けるということもなかった。
終戦後間もない時期の小学校では、殆どの健康な男性が戦争にかりだされいた戦時中に採用された若い女性の代用教員も 教鞭をとっていて、低学年を担任していた。我が柏原小学校でも、3人の二十歳前後の女性教師<江口先生、有園先生、児玉先生>が勤務していた。3人とも近所の知り合いのお姉さんといった人達で、○○先生と苗字で呼ぶのではなく、親しみを込めて○○子先生と呼ばれていたのを記憶している。この3人の先生達にはずい分と可愛がって頂いた。休みの日を利用して、近郷の町にある海水浴場や古い山陵などへ、仕事に追われている親に代わって、連れて行ってもらった。3人の先生が、数名の子供達を引き連れてという形態が多かった。3人の先生達のお遊びに同行したということなのか、我々子供達のために計画してくれたのかは定かでないが、いずれにしても、貴重な経験をさせてもらい、今でも楽しい思い出として残っている。このような生活は4年生が終わるころまで続いた。その後、彼女達が結婚して退職するという状況になって、何時しか遠のいていったように記憶している。
この時期の思い出の中で特記すべきは次の二つであろうか。
一つは、小学校の2年の秋であったように思う。運動会のあった日に泥棒に入られてめぼしいものが殆ど持ち去られたことである。当時は、泥棒など皆無と考えていた田舎では家に鍵をかける風習はなく、無用心の結果であった。我が家では、これを教訓に優秀なシェパード犬を飼うことになったが、この犬は「トラ」と名づけられて、成長した後には新聞紙上にも登場することとなる防犯犬としては名犬(?)であった。しかし、「トラ」は、強い、怖い、おまけに噛み付くという風評が広まって、新聞や郵便の配達が10数年間も祖母の家や隣家になるという事態になってしまったのは心外であったもの、約15年間生きて、老衰で息を引き取るまで我が家の誇りの一つであった。
二つ目は、父が天皇陛下への「献上米」を栽培する担当者(毎年、鹿児島県で一人が選定されていたようだ)に選ばれて、秋の収穫後に献上のために皇居に上がり天皇陛下にお言葉を頂いたことである。これには、祖母と叔父が同道し、陛下と一緒の写真にも写されている。このことは、子供にとってはさほど感動的なことではなかったが、父が東京土産に「バナナ」を買って来てくれて、初めて口にした時の「この世の物とは思われない美味しさ」にいたく感激したことのほうが強く心に残った。
(3) 娯楽は「紙芝居」、「NHKラジオ連続放送劇」、自然との戯れ(?)と多彩
この当時の娯楽は、昼間は「移動紙芝居」の鑑賞、夕方はNHKラジオの「連続放送劇」に聞き入るというのが主たるもので、映画は学校から1年に1,2回程度「教育映画」的なものの鑑賞が許可される程度であった。
「紙芝居」は、夏休みや冬休みなどの休み期間中限定であったが、大き目のサツマイモ一個を手にして村の集会所前に集まって移動紙芝居屋の来るのを待つという日々であった。1回約20分余の間に「二つの連続物」を楽しめて、「黄金バット」が当時の我々の人気の的であった。NHKラジオの連続放送劇は、「鐘の鳴る丘」<昭和22年7月放送開始>や「さくらんぼ大将」<昭和26年1月放送開始>はかすかな記憶しか残っておらず、本格的に熱中したのは昭和27年4月放送開始されたNHK新諸国物語 「白馬の騎士」、「笛吹童子」、「紅孔雀」のシリーズである。これらは、後に映画化もされて当時の子供たちの話題の中心であったように思う。ただ、シリーズの後半は年齢的にも興味が薄れてきたことも事実である。
小学校を卒業するまで、昼間に室内にいたという記憶は殆どなく、夜になり風呂に入るなるまでは裸足(学校へも6年間裸足で通った)で外を走り回っているという生活だったので、本当に多くの時間を費やしたのは、フナや手長えびなどの「魚釣り」、ヒヨドリやメジロなどの「小鳥採り」、松露という黒松の「きのこ狩り」、近くの海岸での「アサリ採り」などなど自然を相手とした遊びであった。大方は、食料獲得のためであったが、メジロはその美しい泣き声を楽しむために飼うことが目的であった。これらの自然の中での暮らし・遊びを順調にやるために、色々とやった工夫などは隠居のその後の生活で大いに役立ったように思う。魚釣りの釣り糸も普通の縫い糸に柿の澁を滲ませて強さをつけて使用したし、モチノキの樹皮から時間をかけて鳥もちを作ること、孟宗竹を使った鳥篭(
メジロを飼うためのもの)の製作、食用の小鳥を取るための罠の工夫、メジロの毎日の餌の準備、うなぎを取るための竹の筒(ツボ)の作成などなど、総てが手作りであった。いま思い起こしても、今の子供達では経験できない貴重な体験であり、隠居にっての宝物の一つと言っても過言ではない。65歳過ぎてから「田舎暮らし」の郷愁が強まっているのは、この幼少期の生活が大きく影響していることは間違いない。
(4) 上下関係の厳しい子供の世界、、ガキ大将にのし上った高学年期
信じがたい話だが、隠居が通った小学校の学区内では子供の世界では喧嘩の勝ち負けで言葉遣いも違うという環境にあった。鹿児島の方言であり大方の面々には理解しがたいので、具体的な呼び方は省略するが、喧嘩に勝てる相手には「お前」的な呼び方が、喧嘩に負ける相手に対しては「君」に相当する言葉が使われるので、どちらが上(喧嘩上で)であるかは二人の会話を聞けば明白となる。子供たちにとって、そのことは無視し得ない重要なことであった。
隠居は、上記した様に入学当初は大人しく振舞っていたし、あえて勝負を挑もうという動きもしなかったので、成り行きで中間位の位置にランクされていたようだ。あまりストレスの蓄積しない状況でスタートした小学校生活のなかで、状況を慎重に見極めながら徐々に自分のポジションを高めていく作戦にとりかかった。勝てそうな相手から順次に、具体的に一戦を交えることなく、何となく相手に納得させる形で順位を上げていって、5年生のころには自他共に認める「ガキ大将」の地位に上り詰めていた。これには、体力的な面も寄与したようにもうが、学力の面でも秀でて(?)きて、些か目立つ存在になってきたことが大きく影響したように思う。
(5) 水彩画に目覚めた環境
小学校の教師を勤めた母の一番下の弟が絵画の教育の面でそこそこの業績があったこと、母のすぐ下の弟の子供(隠居の従兄弟)が美大を出て絵描きを本業としていること、などの環境からも絵画に対する興味とセンスは幼いころからあったように思う。しかし、それ以上に絵画に対する興味を強め、技術的にも進歩できたのは、服部(?60年以上前の話で名前は不確かであるが、ここでは服部としておこう)先生の存在である。服部先生は、本業は養蜂家で、春の「レンゲソウ」や「菜種」の花が咲くころに蜂を連れて当地を訪れ、2,3ヶ月滞在するという生活を数年続けていた。養蜂家との兼業画家であったのか、単なる趣味で絵を描いていたのかは知る由もないが、素晴らしい画家であったことは間違いない。先生の指導を得て、兄と共に画板を並べて、同じ場所の風景画を数年描き続けたことが我々兄弟の技術のレベルアップに大きく貢献した。
小学校時代には、地元紙の「南日本新聞」、「西日本新聞」、「読売新聞九州版」などの主催する展覧会も多く、しばしば入選・表彰されるという栄誉も頂いた。しかし、中学校の1年生頃を最後にこのような栄誉の記憶はなく、高校時代にも「絵画部」に席を置いたりしたしたものの、これといった作品もないまま今に至っている。ただ、絵画に対する興味を失うことはなく、その後も種々のテキストや画材の購入などいつでも再開できる準備は怠らないできたが、筆を手にせず数十年が経ってしまった。兄(油絵)と弟(水彩画)は、ここ数年意欲的に絵画に取り組んでおり、それぞれ美術展で入賞したり、個展を開いたりという状況にある。自分に対しても誘いがかかるが、気持ちはあれどもゴルフにかまけて手がついていないという状況は変わらない。
(6) 出来なかった電動キリ
小学校の高学年になって初めての、しかも唯一の購読書は「少年の科学」という月刊誌であった。当時は小型の手作りのモーターで遊ぶことが子供達の中でも珍しくない状況であったが、電動キリを作るにはもっと性能の高いモーターが必要と考えて、この月刊誌の広告にあった小型モーターを購入して電動のキリを製作しようと試みたことがあった。メジロを飼うための鳥篭をつくる時に、硬い孟宗竹にキリで穴を開ける作業で手のひらに豆を作ることが多くて、その状況を回避したいがためにと発想した電動キリ製作である。当時はそのような小型の電動工具類はなく、万一あったとしても子供の自分には買える金もなかったろうと思う。親に無理を言って購入したモーターであったが、キリの部分との接続が、溶接機具もハンダ付けの工具も無くて当然であろうが、上手く出来なくて結果は失敗。成長したあとまでも長い間、その無念さが心に残ることとなった!
(7) 気になる転校生
小学校でも、出会いもあれば別れもあった。その中で、今も記憶に残る別れは次の四人である。
・KZ君
母親が亡くなってために、父親(当時の国鉄の「青函連絡船の船長」で、函館市に在住)の実家に可愛い姉、弟と共に3年間くらい預けられた期間に同じクラスで学び、5年生の途中で再婚した父親の元へ帰っていった。その後は文通(初めて文通を交わした友人)を続けて、昭和34年の春の大学の受験の時に同じ「仙台の大学」を受験することになり、仙台で再会したが、彼は不運にも仙台では失敗し、「静岡大学」へ入学することとなった。大学入学後も文通は続いていたが、どちらに起因したか不明なれど、何時しか消息が絶えてしまった。後年、同じ職場の静岡大学の同じ工学部出身の同年者に卒業生名簿を頼りにその消息を探ってもらったものの分からずに終わってしまった。また会える機会が訪れることを切望している。
・KR君
父親の戦死で、母親の実家へ家族で身を寄せていた時期にクラスを共にした。母親同士が幼馴染であったために家族付き合いをしていて、かなり親しく付き合った記憶がある。彼も、KZ君とほぼ同じ時期に鹿児島市へ転居して行った。高校時代に母と共にその転居先を訪ねたこともあり、当然文通もしていたが、何時しか途絶えてしまった。社会人(沖電気に勤務していた)になった後も、母が上京した折に東京で会う機会があったが、それが最後となった。
・MS子
小学校4年生までの校長先生の娘、父親の転勤で5年生になる時にその小学校を転出して行った。特に4年生の時の記憶が鮮明に残っている。成績を競っていて、お互いに通信簿を見せあっりした仲であり、初恋に近い感情(?)抱いた最初の相手であったかも知れない。高校卒業後に教職についているという情報が伝わってきていたが、今は神奈川県の湘南地区に居住している彼女と数年前に約50年振りに再会し、いまも交流は続いている。彼女は、奇遇にも、昭和15年1月24日という隠居と全く同じ誕生日であることを後日知ることとなった。
・HK子
小学校修了時点で、教職にあった父親の転勤に伴い鹿児島市へ転出していった。小学校卒業時の成績は女子のなかでトップで「町長賞」を受賞<男子へ幸運にも隠居が受賞>したと記憶している。その後、隠居が高校2年次に転向した高校で一緒となり、今は中学校と高校の両方の同窓会で毎年会う機会が持てている。
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