ご隠居の自分史
(1)


ルーピン畑の向こうに
権現山、国見山を望む

神武天皇のご誕生の碑

春の田に咲き誇る
レンゲソウ

             
(1) 鹿児島の片田舎で誕生
 
戸籍上の誕生日と多少は違うような話を耳にしたような記憶もあるが、本当のことは 当人は知る由もない。戸籍上では、太平洋線開戦の兆しが近づいていた1940年、南国鹿児島でも寒さが一番感じられる頃の1月24日に、
鹿児島県の大隈半島の片田舎(肝属郡東串良町)で、農家の次男坊として生を受けたということになっている。その後、3年後の戦時中に妹が、5年後の終戦直後に弟が誕生し、1936年生まれの兄を含めて4人兄弟として育つこととなる。

生家は、祖母と我が家族が同居しており、日南海岸国定公園の一部で、その南端に位置している。約800m幅の松林を通り抜けると志布志湾の海岸線の砂浜<注*>へと続く、静かな農村の一角にあった。 しかし、そこでの生活の実感は全くなく、生後1,2年にして、戦時中ながら、そこから500〜600m位離れた場所に父が独立して、新築した家に移り住んで、物心ついてからは そこで暮らし、成長することになった。そこは、今では兄が引き継いでおり、父母なき後も我が実家として現存している。この移転先、所謂実家は、隣家とは200mくらいの距離をおいた一軒家で、しかも南側が大きく開放された畑地帯で、その遠方には「権現山」と「国見山」が借景として望める素晴らしい場所で、加えて、静かな朝夕には波打ちの音が松林越しに聞こえてくるという、「大草原の小さな家」(?)にでも例えたくなるような自然に囲まれた中にあった。

注*
松林を抜けて広がるこの海岸線には、当時は海岸線に沿って約20kmくらいの長さ(幅150メール位)でルーピン(別名ルピナス)畑が広がっており、4月には美しい黄色の花を咲かせていた。このあたりは、今は大きく変容している。海岸線の南端部には大きな人工島に石油の国家備蓄の基地が出来ており、ルーピン畑は観光用として2km程度が植栽されているに過ぎない。
また、松林も大きく変容してしまった。当時は、松の落ち葉を掻き集めて薪の火つけようなどに使っていたので、「落ち葉掻き」の効果で松の根回りは雑草もなく白砂が広がっていて松林そのものが一大公園のような美しい様相を呈していた。さらに、その白砂の中では「松露」という美味の黒松のきのこ(直径1cm位の白くて丸い形状)が育っており、春から初夏にかけて収穫していた。その松林も、今は小潅木が生い茂って、昔の美しさは見る影もないのは寂しい限りである。


(2) 誕生の地は「神武天皇」と同じ

ところで、地域的には、多くの人々には信じがたいような、というか史実とはまったく違うかもしれないような伝説の場所にあった。家から1Kmも離れない所に
「神武天皇生誕の地」という石碑がある。神武天皇はここで生まれ、近傍の柏原の港から船出(松原に小さな神社が建立されており「み船出の地」の石碑もある)して奈良の地へ向かい、そこで都を(船出の地である柏原に因んで「柏原宮」と名づけたと言う)を開いたという伝説があり、父母の小学校時代には、教材として使われた歴史の教科書にもそのことが記されていたという。

我が母校である柏原小学校の「校歌」は、

  
神武の帝(みかど)み船出の
  縁(ゆかり)も深き有明(志布志湾の別名)や
  塩と沸き立つ感激に
  共に尽くさん国のため
  −−−−−
  名も柏原(かしわばら)


という、その伝説を盛り込んだものであり、戦後も10年余歌い続けられていた。

この伝説の地であったと言うことが、隠居の成長期の人格形成などに何らかの影響を与えたかと言うと、全くそのような事実はないと言うのが事実である。校歌を口にしながらも、歌詞の内容にさほどの感動もなく、影響もされずに成長することとなった。
 

(3) 幽かな戦争の記憶

偵察機に続いてB29型空爆機の到来が予想されると、けたたましい空襲警報が鳴り響き、防空壕へ避難を強いられるという生活が、何とも苦痛であったことは鮮明に記憶している。父は、足の怪我が原因で召集令状を免れていたが、男手の少ない戦時下では、非常時には警防活動の先頭に立たねばならない立場であり、空襲警報と同時に家を後にするのが通例であった。母は、生後間もない妹を背負って、近くの年寄りの様子見に出かけたりして、家を離れることが多かったように思う。兄は、我々の生家である祖母の住処で生活しており、我が家の防空壕には自分一人が取り残されるとうことが多かった。このような事情で、一人防空壕に取り残されるという状況となるために、防空壕への避難が苦痛となったのであろう。

特に、夜、既に寝入っている時刻に空襲があれば、眠い目をこすりながら防空壕への移動しなければならないのが苦痛このうえもなく、
 「空襲で死んでもいいから、このまま寝かしといてくれ」
と、4歳前後の幼児には有るまじき言葉を発し、
 「この子は、何ていうことを!」
と、母が嘆いていたのを自分でも少し記憶している。

爆撃によって身近な家や住民に大きな被害が発生したということもなかったために、戦争の恐ろしさというものを強く意識したことはなかった。空襲によって、何時もの生活のリズムが崩されることが、堪らなく我慢のならないことであった。防空壕生活も然りであるが、川で魚とりなどで遊んでいる最中に、それを中断して避難しなければならないことが、我慢ならないことであった。その戦争が、日本にとって有利に展開しているのか、負け戦なのか、幼児にとって興味の対象ではなく、自分のその時の生活に直接及ぼす影響だけが、大きな関心事であったように思う。

戦争の末期には、母を含む婦人会の人達が上陸してくる米兵を想定しての「竹やり訓練」に励んでいるのを冷やかして周囲の笑いを誘っていたのを記憶している。また、小型の偵察機の飛来に続いて、B29型空爆機の編隊が飛来することが頻繁になってきたことも記憶しているものの、終戦がどのようにしてやって来たのか全く記憶にない。何時しか、近くの民家に集団で寝泊りしていた日本兵の姿が消えて、米国の進駐軍兵士の乗ったのジープが路上を走るようになって、徐々に終戦を実感するようになっていった。

 「ヘイ!、シガレット!」
近づいてくるジープに向かって、手を上げながら叫ぶと、ジープ上からチョコレートを投げてくれるという年長の悪餓鬼の教えに従ってチョコレートをせしめたこともあったが、田舎ゆえに進駐軍兵士と出くわすようなこともまれで、何時しか静かな生活に落ち着いていたように思う。食料も十分ではなくとも、不足というほどのこともなく、それが当たり前みたいにして育ってきたので、戦後の苦労ということを、特別に意識することもなく、成長することとなったのは幸せという他はない。


(4) 「兄弟げんかは弟が過ぎる!」か?

ここで、家族のことに触れておこう。

父は、男だけ3人の兄弟の2番目であったが、兄が教職について家を出ており、弟は福岡県警(戦後公職追放中に37歳の若さでで死去)に勤務していたために、若い男衆(今は禁句となったが当時は下男と呼ばれていた)を使いながら、祖母を助けて家業を継いで農業を営んでいた。大地主ではないが、小地主ではあったので戦後に「農地解放」では多くの田畑を失うこととなったようだ。父は、なかなかの努力家、勤勉家で早稲田の専門部を通信教育で修了しており、若くして数々の賞を受けていた。今も引き継がれている温室栽培の「キュウリ」、「トマト」などの園芸品の名産地として郷里を育て上げるなどの大きな功績(このことは、老後に、「東串良園芸史」に自ら纏めて自費出版した。この本は国会図書館にも収められているのだということが父の自慢でもあった)もあったようだ。ただ、幾つか手がけた個人的な事業ではお人好しが災いして、従業員に使い込みをされたりしたこともあり、成功したとは言いがたい状況にあった。結果として、先祖から受け継いだ田畑や山林も増やすこともなく、むしろ減らしてきて、しっかり者の祖母を嘆かせた。逆に、人望はあり、町会議員、町会議長を経て、昭和34年に49歳の若さで「町長戦」に初挑戦し、現職と前職(当時は現職の県会議員)との三つ巴戦を制して「町長」に当選、最終的に3期勤めることとなった。子供に対しては、親の要求を押し付けることなく、その自主性を尊重して、のびのびと育ててくれたことに対しては多いに感謝している。後に、喫煙量も多かったためか喘息を悪化させて、心臓にも影響が出て、些か若い73歳で他界。何故か、父の最期の面会者は自分であった。仕事のついでもあって鹿児島へ出かけた隠居が、友人であった二階堂代議士の選挙応援で疲れが出て入院中であった父を、前夜に見舞った日の翌朝に医者が気づいた時には冷たくなっていたという。何とも言えない因縁を感じるのみ!
母については、追々語ることにしよう。

祖母も隠居の人生に影響を与えた一人であり、簡単に記しておこう。
祖母は、小地主ながら教職についていた
祖父を肺炎で亡くして(風邪を引いているのに海に釣りに出かけて悪化させ、30歳代半ばで死去したという)、 25歳の若さで後家となりながら、3人の男の子を女手一人(幾人かの使用人はいたようである)で育て上げた気丈な人であった。先祖から受け継いだ田畑を全然減らすことなく、守り通してきたという。5人姉弟の長女として、小学校にも通っていない時代に育っているが、几帳面で、働き者で、かつ聡明で感嘆に値する記憶力の持ち主でもあった。その一つのエピソードとして、隠居の妹が小学生のころに、2桁、3桁の数字を即座に暗算する祖母の様子を見て、「九九も知らない祖母がどうやって計算するのか?」と驚きを隠さなかったのを鮮明に記憶している。交通手段の乏しかったこの時代の片田舎で、時折、馬車を仕立てて、4km位離れた祖母の実家へ出かけたり、隣町の山間部にあった鉱泉に湯治に出かけたり、というのが幼いころの祖母との思い出である。隠居も、祖母に対しての尊敬の念が強く、具体的には指摘しがたいが精神的な面で教えられることが多かったように思う。94歳で亡くなるその日まで記憶もしっかりしていて、眠るようにして静かに人生を全うしたという。

昭和11年12月生まれの兄とは齢の差も大きくなく、遊びも一緒が多かったが、よく兄弟喧嘩もした。喧嘩の度に、母からは「兄弟げんかは弟が過ぎるためだ!」と叱られるのがいつもであった。一方、妹(昭和18年生まれ)や弟(昭和20年生まれ)を苛めて泣かすようなことがあれば、「こんな小さな子供を苛めるなんて!」と叱られるのも何時ものことであった。その度に
「次男坊は損な立場だ!」と思ったものである。

隠居の人格形成にも何らかの影響を及ぼしたであろう兄弟についても少し触れておこう。
兄は、高校卒業後は農林省の静岡県にあった農業試験場で「みかん栽培」について学んでから帰郷し家業を継いだが、隠居の人生でいろんな場面で力になってくれた。兄は家業を継いだことには何の不満も無かったが、
「父に強要されたことはないが、気がついたら他に選択肢が無いように上手く導かれていた」というのが兄の口癖であった。父の選挙を手伝ううちに、自らもその方向に進むことになり、町議会議長、町長もまでも父を見習った。今は、小さな会社を経営しながら、趣味の油絵も意欲的に描いている。

妹は、高校卒業時に国立大学受験に失敗し、図書館の司書の道を選択し、結婚を契機に退職するまで、著名な児童文学者の「椋鳩十」(本名は久保田さん)氏が館長を勤めていた当時の「鹿児島県立図書館」に勤務。家族で駐在していた日本企業のブラジルの工場から帰国後に、とある私立大学の通信教育で勉強して、
本の執筆や編集関連の仕事を始めて活躍し、年老いた今でも細々と続けている努力家でもある。

弟は、隠居も1年間通った鹿児島県立」志布志高校から自衛隊の「航空操縦学生」に入隊して
パイロットとなり、佐官の地位で55歳で定年退職。小柄ながら全くの体育会系で、器械体操も得意としていたが走るのも早かったので、高校時代はサッカー部に所属していたようである。家族の誰に勧められた訳ではなく、自らの強い希望でこの道に進んだ。途中で、民間航空会社へ転職した友人達を介して転職の話もあったようであるが、税金でパイロットに育ててもらったのに裏切ることは出来ないという信念(本人の弁)で公務員をまっとうした。定年退職後は、鹿児島で会社員として勤務しながら水彩画を楽しんでおり、絵画展では兄よりも大きな賞を貰ったりしている。


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