ご隠居の自分史
(6.就職、初の海外はインド、他業種経験を経て事務所建設へと)


BTBの正門から玄関までの間の
数千本のつつじの植え込みの
中にある遊歩道
*
BTBの正門から玄関までの歩道
<左はつつじの植え込み、
右は趣味のせせらぎ>


(1) 入社1年目に富山の現場へ

大学院終了間際に、建築学科の新設を予定していた東京理科大学から教職の話が舞い込んで来たが、すでに東洋エンジニアリング株式会社(以後、TECと略す)への入社が決まっていたことと、プラント建設に大きな興味を抱いていたことで、予定通りに1967年にTECへ入社した。会社は、創業から数年が経ち、ようやく成長路線に乗り勢いが出てきた頃で、活気に満ちていた。当時の本社は日本橋にあったが、そこは管理部門や営業部門などが置かれており、実務部隊は千葉市にあった「千葉事務所」に在籍することとなっていた。本社での新入社員教育が修了すると、この千葉事務所内の
設計4部という土木・建築の設計部門へ配属となった。設計部と言っても、工事管理も担当する土建本部的な役割の部署である。なお、同期入社の中には3人の既婚者がいて、千葉市の赤井にあった戸建ての社宅の隣同士に入居し、社会人としての生活のスタートをきることとなった。

最初の6ヶ月以内は、コンピューターのプログラミングの集中教育など合宿教育もあったが、担当部署の中で個人として担当した最初の仕事は「当時使っていた事務所の増築の構造計算を含めた確認申請」の作成と申請作業である。社員の増加で手狭になりつつあった事務所スペースの拡張は急務となっていたいえ、いきなり実力も見極めていない新入社員に任せるとは!、と些かの驚きもあったが、信頼に応えようという意欲のほうが勝っていたように思う。このことからも、
「若い人にも思い切って仕事を任せる勢いのある伸び盛りの会社」という印象が強めた。

その年の夏の終わりごろに増築の確認申請作業が終ると、増築工事の着工も見ることなく、富山市と神通川を挟んだ向かい側にある婦中町の
日産化学殿向けの「尿素肥料(当時、TECが最も得意としていた東洋高圧のプロセス)工場の新設工事」の現場へ実習を兼ねた出張の機会を貰った。新入社員の大半は、親会社である東洋高圧(現三井化学)の既存の大牟田工場での工場実習が主体であったが、ただ一人富山での実習となったものである。かって大学院の1年次に大阪の東洋高圧の工場建設で約1ヶ月間の工事現場実習は経験していたが、この富山の任務は工事の着工時期から完成・客への引渡し時期までに亘っており、工事とは何ぞや、化学工場とは何ぞや、を知る上で非常に有益なものであった。

また、この現場では貴重な経験もした。翌年の5月頃、工事が完成して試運転に入ると、
造粒塔という高さ約50メートルのコンクリート造の構造物が「ゆらゆら」と振動するという現象が発生したのだ。震度が専門であった隠居にとっては、この上ない興味のある事態を目の当りすることとなり、喜び勇んで(不謹慎な発想であるが、関係の方々には時効ということでお許し願いたい)事務所に帰り、コンピューターでその性状を解析することと振動防止対策の立案にとりかかった。入社早々に、しかも初めての現場で、薄々期待もしていた斯様なテーマに取り組めたことで、この会社を選択したことが間違いでなかったという思いを強くしたを記憶している。


(2) 妻の手術、そして出産

富山の現場出張時に帯同した妻は、最初の子供を早産後も高血圧は続いていたが、アパートの近くの病院に出張診療に来ていた「金沢大学医学部付属病院」の先生のご好意で、同病院に入院して精密検査をすることになった。この病院での長期間の入院・精密検査の結果、ようやく、その原因が副腎の肥大(細胞は健全なままでの肥大のために発見が難しかったということであった)によるものであることが判明して、長時間におよぶ手術でそれを除去した。その後、健康を取り戻した妻は
1979年12月には、予定より1ヶ月早めに長女を出産した。この娘は、体重2,000kgくらいの早産のために1ヶ月間「保育器」のお世話になることになるが、その後は何の後遺症も無く順調に育ち、両親を安堵させてくれた。

ただ、副腎の四分の三の除去が原因しているのかどうかは定かでないが、妻は長女を出産した直後から「リューマチ」の症状が出るようになり、
55歳で「劇症肝炎」でわずか2週間の入院で亡くなるまでの長い間、痛みに苦しめられることになった。妻は病弱とはいいながらも、娘がいつも母親の近くにいて甲斐甲斐しく世話をしてくれたことと、多くの良き友人達に囲まれていたことで、笑いが絶えない生活を続けられていたことは隠居にとっても有難いことであった。娘は、妻亡き後の今でも、結婚した連れ合い共々、我がまま気ままな隠居と同居して家事全般を引き受けてくれている。


(3) 初の海外出張はインド、そして中国へ

仕事上では、富山の次に、住友化学殿などが中心で設立された「日本アンモニア」殿向けの尿素プラントの土木・建築物の設計の担当をして、その後は海外案件の設計に携わることとなる。
この頃からTECの経営上の柱となったロシア(当時はソ連)向けの複数のアンモニア・プラント、エチレン・プラント、それに加えてTECの海外プロジェクトの発祥の国でありTECの急成長の礎であったインドのSPIC殿向けの尿素プラントなどを同時進行的に担当することとなる。ロシアのプロジェクトでは客先の技術者が来訪しての共同作業的な形態で設計が進められたが、インドの場合は客先から「EIL(Engineer’s India Limited)」という国営のエンジニアリング会社を設計の下請けとして起用することが義務付けられていたので、インドで設計が行なわれる契約であった。

ロシアの客先の来訪のスケジュールの合間をぬって、1972年の7月から10月にかけて約3ヵ月半位インドのニューデリーにあるEILの本社へ設計図のレビュー、承認作業のために出張することになり、これが隠居の海外出張の初体験となる。
到着したニューデリーは1ヶ月ほど前の6月半ばに日航機の墜落事故(日航は、自分が滞在中の9月にもボンベイで誤認着陸で事故を起こしたことを現地の新聞で知る)で多くの犠牲者を出したばかりで、着陸時にはそのことが頭を過ぎり些かの不安を抱いたことを記憶している。プラントの建設場所は、インドの最南端(三角形に尖ったその先端)の「ツチコリン」というところで、ニューデリーからマドラスを経てマジュライという町まで飛行機で飛び、そこから車で4時間余という遠い地にあった。そこへ向かう途中では、車中からインドの国鳥である野生の孔雀をみられるような原野を通過しながら到達する田舎町である。ここを一週間ほど訪問したほかは、ニューデリーのEILの本社ビルでの仕事であった。会社からの同伴者も無く、英語の会話力には不安を抱いた上での全く一人だけでの出張であったが、「あんずるよりも生むが易し」ということで、無事任務は果たせた。

この出張中の9月に、田中角栄首相による劇的な「日中国交回復」が行なわれた。この
国交回復の直後に、TECは日本企業としては最初の大型プラント商談を成功させて、北京郊外の石油コンビナート内にに建設される「エチレン・プラント」を受注することとなる。隠居も、この映えあるプロジェクトの担当者の一員となることになり、ロシアのプロジェクトから徐々に中国プロジェクトへとシフトしていくことになる。キックオフミーティングで出かけた最初の中国渡航の時(1973年のまだ寒い冬の時期と記憶している?)には、中国側の在日本大使館だ開設されていかかったので、香港に2泊してビザを取得して、列車で国境の駅まで行き、歩いて国境の橋を渡り中国に入るという貴重な経験もした。また、北京に到着までには、更に広州に1泊してトータルで3泊4日の長旅が必要だったのだ。

このエチレン・プラントに関連して、1年に2,3回のペースで、1回が1ヶ月から3ヶ月の期間で2年余に亘り、中国出張を繰り返す(延べ日数で1年弱の期間。そのうち半分は一人だけの出張)こととなった。このときの客先の技術者達とは、プラントの改造や能力増強などの仕事を通じて、後々までお付き合いすることとなる。当時は、
通信手段として、FAXも無ければ当然E−mailも無く、電話(回線が少なくてなかなか繋がらない)と写真電報のみが有効な手段であったので、客先は一度訪中すると連絡係として活用すべく容易には開放してくれず、出張期間が長引くことを強いられた。

この時期の中国は、
文化大革命の影響が色濃く残り、四人組が権力を握っていた頃で、外国人の行動は制限されて窮屈な生活が強いられたが、休日には客先(輸出入進行公司)の担当者が万里の長城や行楽地への案内や、映画や京劇の鑑賞に連れて行ってくれるなどの心遣いは行き届いていた。さらに、1973年の秋だったと記憶しているが、業務が完了せず「国慶節」の時期まで滞在を引き伸ばされた時に、「人民大会堂」での夕食会や「イワエン」(漢字は忘れた。中国の景勝の地である西湖を模して作られた大きな湖のある公園)でのお祝いの大集会などに招待され、挨拶に立った当時の副首相「ケ小平」(その後、彼は再失脚、復活を繰り返して頂点に上り詰めていく)を近くで拝顔できたのは印象深い出来事であった。

また、親善試合のために訪中したバレーボール、機械体操、バスケットボールなどの試合を、日本では全く経験していなかったが、観戦する機会も得られた。ホテルでは、業務で来訪されている日本の
友好商社(国交回復前から中国と取引が続いていた商社。当時は、まだ日本の大手商社は中国との取引の堵についていなかった)の専務と時期を同じく(約2ヶ月間)したことがあり、中国との商売や文化大革命前後の混乱期の話等についていろいろとご教授を賜ったこともあった。


(4) 共産党嫌いの韓国へ、続いてインドネシアへ

中国出張のためにビザを取得し出張準備を進めているときに、韓国の尿素プラントの建設現場(「ヨウス」という韓国最東部の街の郊外)から、
「客先が遠心分離機架台の振動を危惧しているので、急ぎ状況を調べて対策を立てて欲しい」という連絡が入る。事態の緊急性を勘案して、中国出張前に1週間以内で処理すべく韓国出張が決定。ただ、当時の韓国は「北の脅威」に敏感な頃で、政府高官がヨーロッパからの帰路にモスクワ空港経由の飛行機で帰っただけでも咎められると言われていた時期であり、「中国の入国ビザを取得している者が韓国へ入国するとは何事や」、ということで容易にビザが取れない。自ら、在日韓国大使館に出向いて、業務内容を説明してようやく入国が許可されたが、入国したら、公安当局に「パスポートは預かり」となり、客先の部長は監視役という処遇を受けた。当時は、韓国では共産党に対する警戒がかくのごとく強かったのだ。

予定の1週間で任務を終えて帰国し会社へ顔を出すと、即刻インドネシア出張が命じられた。当時三つの尿素プラントの建設が進行中であった
インドネシアのスマトラ島パレンバン(この街は、戦時中は日本軍が重要基地としていた場所で、インドネシアの国営石油公社「プルタミナ」の発祥の地といわれている)の「プスリ No.2」のプラントで試運転中に韓国と同じ「遠心分離機架台」の振動で、運転不可能の状況に陥っているという。韓国では10年ぶりの寒波ということでー20℃以上の寒さを経験したが、2日後にはインドネシアのスマトラ島で南国の、しかも夏季の+35℃という気候を味わうこととなる。

プラントを運転してもらい状況を確認すると、
プラントの運転要員も逃げ出したというだけのことはあって、振動は予想を大きく上回るもので、架台の梁は破壊実験じ供されているかのごとく無数(数千個以上という量?)のクラックが発生していた。早速、小生が到着する直前に機械の調整を終えてスイスへの帰国途中にバリ島に立ち寄っていたスイスのメーカーの技術者も現場へ呼び戻し、機器の再調整・架台の改造・補強案を作成して実施に移した。客先としては一刻も早く運転して賞品を確保したいという強い希望があり、昼夜を通しての作業となった。同じ現場でアンモニアプラントを担当していたケロッグ社(米国、契約上ではTECの直接の客先)から改造工事用の資材(鉄骨)の一時借用などにも助けられて10日間くらいで改造工事も完了しプラントの運転再開。その後、運転状況を見ながら他の不具合部分の改造のアドバイス、シンガポールに立ち寄ってケロッグへ返却する鉄骨を商社へ発注して帰国するまで3週間余を費やすことになった。


(5) 会社創業以来の東独向けの大プロジェクト

ロシアや中国のプロジェクトの業務量の減少につれて、新しく担当した任務は土木・建築物の設計システム(CAD)の開発チーム(社員8人専任)のリーダーである。その中で、主として鉄骨構造物の構造設計・製図の一貫システムの開発にを関与した。米国のMITで開発された設計技術者向けのICES(Integrated Civil Engineering System)という言語を用いて開発を進めたもので、外部のシステム開発会社の力も借りて、約2年半余の開発期間を要して完成した成果はすぐさま実際のジョブで活用され、また、後にIBMがイタリアのパドア(会場となったパドア大学の前身は「ガリレオ・ガリレイ」が卒業したことで知られたヨーロッパでも歴史のある物理学校であるという)という都市で主催した「世界ICES会議」で、このシステムについて発表する栄誉ある機会も与えられた。

このシステム開発に目処が着くのに合わせる様なタイミングで、1977年の暮れにTECは当時の契約金額で1,000億円を越す巨大プロジェクトについて東ドイツと契約した。管理職についたばかりの若輩であったが、土木・建築物(鉄骨15,000トン以上、コンクリート85,000立方メートル以上、建物55棟という膨大な物量。BBSを含まない設計図がA1サイズで6、800枚)の設計チームのリーダーとして、このプロジェクトに関わることになった。これからの3年余は、休日も返上(3年間好きなマージャンもせず)して、社員だけではなく多くの協力会社からの応援者の力を借りて、ノルマ達成に向けて取り組んだ、生涯で一番忙しいが充実した日々を送ることとなる。このプロジェクトでは直前に開発が完了したCADシステムを全面的に活用し、その有効性も確認でき、それを踏まえた結果を上記した イタリヤでの会議に発表できたことも有意義であった。ただ、これらのシステムは数年後には、優れた外販のCADシステムが開発されてきて、それにつれて使われなくなって行ったことは残念ではあったが、それが自社開発の限界だったのかもとも思う。


(6) 父の死、会社の不振と新規事業

この東独向けの巨大プロジェクトが収支上も成功裏に完了し、鹿児島県の仙台市に建設された液化ガスのプラントに関わっていた1983年に
父が73歳の若さ(?)で他界。たまたま業務で大分・鹿児島に出張した機会を利用して入院中の父を前夜に見舞って、翌日の早朝に実家を出たら途中(錦江湾を渡る船上)で電話で呼び戻されることになった。朝、看護婦が見回った時には既に冷たくなっていたという。喘息と喫煙(ベースモーカーであった)のために肺の機能低下が激しかったが、最終的には心不全で73年の生涯を終えることことなった。実家を遠く離れて生活している隠居が、父の最期の面会者となったことに不思議な因縁を感じずにはおれない。

その後、工事部という組織がなくなって設計と工事の一体化(ただし、ジョブ単位で部長職の1名が工事担当部長として任命される)が計られて、土木・建築の分野も土建設計工事本部となり、その内の
土建設計工事二部の副部長として初めてライン職に就任した。その立場で、部内業務の統括に加えてイラクのデソルター・プラント、バングラディッシュ(チッタゴン)の肥料プラント(このジョブにはプロポーザル時から深く関与し、工事業者の契約にも関係して現地にも数回赴いた)の工事担当部長も勤めることとなる。しかし、この頃から会社は徐々に受注不振と経営悪化に向かうことになった。

状況打開の一旦として、新規分野を考えろという上司(経営トップ)の指示で「地域開発」の部署を立ち上げ、担当することになった。この地域開発部は、所属する上部の本部が2回変わったが、部としては
大阪の桜島埠頭に建設された輸入セメントの貯蔵サイロの一括受注、米国のラスベガスで計画されたリニアーモーターカーの建設プロジェクトのソフト業務の受注などがめぼしいもので、そこそこの収益もあったが、特段の成果を出す前に会社事情も変わってきて3年の経たぬうちに解体されることになる。新事務所の建設計画が会社として大きな事業の一つとして浮かび上がってきたのだ。


(7) 新事務所建設

今は本社ビルとなった新事務所の建設は、1987年〜1988年に経営会議で何回かの討議を経て決議された。TECはこの広大な土地を取得してから長い間活用しないままに放置していたが、購入時の条件等を勘案するとさらなる放置は難しいという状況にあったこともあり、この時期に決断された。実行に当っては、予算及び品質管理の重要性にかんがみ、社員が専任すべしという方針も打ち出されて、1988年には臨時組織(名称上は臨時は使われなかったが)として
「新事務所建設本部」が設置されて、そのリーダー(最初は副本部長、後に本部長)として計画・設計・工事の全体を通して専従することになった。

当時話題になりつつあった
「インテリジェントビル」を目指して、先陣ビル(東芝本社ビルや電源開発(現JPOWER)本社ビル他)の見学を数多く行い、かつ多くのことを教授いただきながらTECにとっての要求を満たした上で安い予算内で建設するという使命掲げたてスタートした。若い社員達が目を輝かせて取り組んだ新事務所は目標としたレベルを十分にクリアーして、1990年4月には予定通りに竣工し、5月の連休を利用しての事務所への移転が完了した。そして、社員が親しみやすいようにという狙いで、社員からから公募してビルの名称をBTB(Bay TEC Bulding)と命名した。このBTBは当時としては数少ないインテリジェント・ビルの一つで、NECの新本社ビル(建物の規模はBTBとは格段に違うが)と一緒にその年に通産省から栄誉ある表彰を受けるということとなった。

建設が始まった当時の茜浜は、京葉線も開通していなかったが新事務所の竣工時期に合わせるようにして東京駅まで開通して、交通の便も大幅に改善された。いまや、緑も多い静かな環境の中で自慢できるオフィスとなっていると自負したい。


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